SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

本日休演

2023-10-14 09:14:00 | 日記


芸術文化センターに
伺いましたら
こんなチラシがありました。






  ✨✨✨✨✨✨



≪本日休演≫
これはサティが
作曲した2幕のバレエの
タイトルです。

サティは公演日まで
新作の作品名を公表せず
当日、劇場の入口に
「本日休演」と大書した
紙を張り出しました。


開演時間が近づき
劇場にやってきた人々は
この張り紙をみて
憮然として
帰っていきます。

それをかげから観察して
笑うサティ。

このいたずらを最後に
サティはパリで
59歳の一生を
終えました。

  ✨✨✨✨✨


いたずら好きで
正規の教育とは無縁と
思われるサティですが
スコラ・カントルムで
学びなおします。

サティは世に先がけた
大変な能力の持ち主
だったようです。

サティ亡きあと
彼の部屋から
見つかった落書き。

飛行船
「快速号」




モンマルトルの
サティの家





ショコラ・ショ―と白ワイン

2023-10-14 05:17:00 | 日記



ドイツ系の
ピアニストが大音量で
演奏していた時代の
パリのサロンで
ショパンの演奏を
初めて耳にした
フランス人は
驚愕しました。
繊細でソフィスティケ―ト
された音楽
真珠を転がすような奏法で
優美で清澄な響きに
聴衆は夢見心地でした。

   ✨✨✨✨✨




幼い頃から
病弱だったショパンは
食事にあまり興味を
しめしませんでした。

大人になっても
鶏以外の肉料理は
全く口にしないので
サンドは毎日
魚料理や野菜料理を
作っていました。

コンソメ
ジョルジュ・サンド風



そんなショパンですが
大好物がありました。
ミルクと
濃いチョコレートで作る
ショコラ・ショ―で
菫の花の砂糖漬けを添えて
毎朝、飲みました。







そして
ショパンもサンドも
白ワインを好み
二人で楽しんでいた
ようです。

















伴侶に恵まれた人生

2023-10-12 15:29:33 | 日記

夕方に新しい洗濯機が到着
15分位であっと言う間に
設置完了しました。



   ✨✨✨✨✨


リュ―ベックの街と
聖マリアンネ教会。




クラシックの元祖
バッハの人生には
音楽家にありがちな
浮いた話が全く
ありませんでした。




バッハの最初の
結婚相手は
また従姉妹にあたる
1つ年上の
マリア・バラバラは
美貌のうえに
美しいソプラノで
出会いから
4年目に結婚しました。


宮廷楽長を務める
バッハの人望は厚く
明るく心やさしいマリアを
中心に笑い声の絶えない
幸せな家庭生活でした。

しかし
主君レオポルドのお供で
旅にでた留守中に
マリアは36歳の若さで
世を去ったのです。

マリアの死で
火が消えたように
なった家庭に
温かい愛情を注いで
くれたのは
アンナ・マグダレーナ
でした。
当時、彼女は20歳
バッハとは
16歳の年の差が
ありましたが、
前妻の思い出を
大切にしてくれるアンナと
1年半後に結婚します。
バッハの
女性を見る眼に
狂いがなく
29年間の苦楽を
ともに過ごすことに
なりました。





晩年、バッハが目を患い
アンナが楽譜を
筆写しますが
その筆跡は
バッハのものと
見分けがつかないほど
夫婦は深い絆で
結ばれていたのです。

1750年 65歳で
夫を敬愛し続けた
愛情深いアンナに
看取られて
バッハは生涯を
閉じました。










母の味

2023-10-11 09:55:00 | 日記

洗濯機の
大量水漏れで
タオルケット3枚
バスタオル7枚が
びしょ濡れ。

今朝はスマホで調べて
近くの
コインランドリーに
運び込みました。

新しく出来たお店で
初めての体験でしたが
見事にフワフワに
仕上がりました。

今日は夕方に
新しい洗濯機が
やってきます。


  ✨✨✨✨✨


ウィーンで、
14人兄弟の12番目に
うまれたシュ―ベルト。
音楽好きの父は学校を
経営し、校長を
務めていました。

母は元料理人で
家庭でもキチンとした
料理を作っていました。

美味しい料理を
毎日作ってくれた母は
彼が15歳の時に
世を去りました。

母の影響もあり
仲間を呼ぶ時には
必ず自分で
料理していたようです。
得意料理は
パブリカ風味の
グ―ラッシュで
仲間達はレシピを
知りたかったようです。




家庭的なデザ―ト
りんごのクレ―プ



シュ―ベルトの
音楽が美しく
天国的な情景に
導いてくれるのは
温かい母の手料理で
育ったからでしょうか。


ル―ドヴィッヒ2世

2023-10-10 09:27:00 | 日記

昨日はゆっくり起きて
1日休養のはずが
洗濯機から大量の水漏れ。
(T_T)

  ✨✨✨✨✨

18歳でバイエルン国王と
なったルートヴィヒ2世。
ワ―グナ―の大ファンに
なった国王は
シュタルンベルク湖畔の
素晴らしい別荘を与えます。

以後、
王の支援は19年間も続き
合計約8億9000万円を
ワ―グナ―のために
使いました。

ノイシュバンシュタイン城他
2つの城を建てて
バイロイト祝祭劇場にも
出費しています。

政治に関心がなく
ワ―グナ―にばかり
資金援助したことで
逮捕され
廃位になります。
主治医と
散歩に出かけた翌日
二人は水死体で
発見されました。

ル―ドヴィヒ2世と
親戚同士で親しかった
美貌のふたり。




エリザベート皇后




ノイシュヴァンシュタイン城はドイツの有数の
観光スポットとなり
バイロイト祝祭劇場での
バイロイト音楽祭は
世界各地から
ファンが集まり
チケットは入手困難で
になっています。






グルメ王

2023-10-09 11:32:00 | 日記

今日は素敵なトリオを
聴かせて頂けると
楽しみに
お待ちしていましたが
体調不良でダウン
してしまいました。

以前、休日に救急搬送
されたことがあるので
要注意なのです。

  
  ✨✨✨✨✨✨


37歳で早期リタイアし
巨万の富を得て
美食三昧の生活に入った
ロッシ―ニ。

彼がワ―グナ―に
語った言葉は
「私は生涯に
2度泣いたことが
あります。
1度目はパガニ―ニを
聴いたとき。
2度目はトリュフが
詰まった七面鳥を
舟から落として
しまった時です。」

このグルメ王は
世界各地から
取り寄せた美酒の酒蔵も
所有していました。

ロッシ―ニ・カクテル





イチゴとプロセッコで作る
爽やかなカクテルです。










大変身

2023-10-08 06:45:00 | 日記


≪悪魔的≫と怖れられた
超絶技巧のヴァィオリニストニコロ・パガニーニ。

18歳で
父のもとを飛び出し
セルフ・プロデュース?で
演奏会を開きます。

演奏会のマネージャーは
彼自身となり
コンサートの手配から
チケットのもぎりまで
全てひとりで行い
最後の客の
入場を見届けると
ホールの内側から施錠して
舞台に登場していました。

行く先々で大旋風を
巻き起こし
今でいう
スーパースター的な
存在でしたので
信じがたい額の
ギャラを手にしますが
大変な「ケチ」として
知られていたのです。


そのケチンボの彼が
ベルリオーズに
手紙を書いて
約2000万円の小切手を
同封したのです。(゚∀゚)


この支援を得て
ベルリオーズは
大編成で大曲の
「ロミオとジュリエット」を
完成させます。

パガニーニに
献呈されましたが
もともと病弱だった彼は
体調を悪化させ
出かけることが
叶いませんでした。

「ロミオとジュリット」
ベルリオーズ

(3‘06‘‘)




ラトゥールが描いた
「アニヴェルセル
(ベルリオーズへの賛辞)」



ベルリオーズ作品に
登場する人物が
描かれています。

ひばりの巣

2023-10-07 08:21:00 | 日記

秋の爽やかな季節に
ライプツィヒを訪れた
ことがあります。





バッハゆかりの地でもあり
メンデルスゾーンは
26歳でライプツィヒ・ゲヴァントハウス・オーケストラの指揮者としてデビュー
します。

その後、メンデルスゾーンは
ドイツで初めての
音楽学校を誕生させ
初代学長に就任しました。
ピアノはシューマンが
担当します。

彼らは街の中心にある
カフェ・バウムで
ビールを飲みながら
音楽談義に花を
咲かせていました。

カフェ・バウム


この時代、
ライプツィヒでは
ひばり料理が
名物でしたが
1876年にひばり禁猟令が
発布されて食べられなく
なってしまいます。

そこで考案されたのが
ひばりの巣のかたちをした
クッキー。
これがライプツィヒの
銘菓になりました。

ライプツィガー・レアヒェ











世事に疎かった音楽家

2023-10-06 11:04:00 | 日記


お客さまが
お見えになるので
ティータイムのための
ケーキを買いに
行きました。





   ✨✨✨✨✨


よく耳にする
このワルツは
グノー作曲の
オペラ≪ファウスト≫の
ワルツです。





フランスの
シャルル・グノーは
初期にはミサ曲など
宗教音楽ばかり作って
いました。

ある日、散歩の途中で
ナポレオン3世夫妻と
出会いますが
皇后は彼に
バレエの音楽を
かいてはどうかと
もちかけました。

1859年.
ゲーテの≪ファウスト≫を
オペラ化して
華やかで長大な
バレエ音楽を入れました。

初演はさほどでは
ありませんでしたが
グノーの流麗で
美しい音楽は
その後、
急速に評判を呼び 
300万フランの収益を
出版社が手にします。

しかしグノーと
台本作家3人に
支払われた総額は
わずか1万フラン。
その中でも
一番貧乏くじを
ひいたのは
グノーでした。

   ✨✨✨✨✨

そんなグノーが学長を
務めていた聖歌隊に
のちに有名になる
ルノワールが
在籍していて
グノーはルノワールの
歌手としての才能を
高く評価していましたが
断られてしまいます。(*^^*)

















クロワッサン

2023-10-05 09:38:00 | 日記

今朝は曇りとなり
肌寒さを感じます。
お風邪など
召しませぬように。



   ✨✨✨✨


オスマン帝国(トルコ)が
繁栄を極めていた
1683年、ウィーンは
オスマン軍に包囲され
絶体絶命の危機を
迎えましたが
あるパン屋の
機転によって
難を逃れるのです。

このパン屋は
オスマン軍の国旗に
描かれている
三日月のマ―クの形をした
パンを売り出したところ
「オスマンなんか怖くない
食ってしまえ」と
町の大評判になり
キッフェルン(三日月)と
名付けられました。


1770年、フランスに嫁いだ
マリ―・アントワネットが
パン職人を連れて行った
ところから
パリでもキッフェルンが
人気となり
クロワッサンの
ルーツになりました。


   ✨✨✨✨✨


有名なモ―ツァルトの
「トルコ行進曲」は
トルコの大軍が
ウィ―を包囲した
100年後の
1783年に書かれたと
考えられています。

この時代も
オスマン帝国への
怖れと憧れから
トルコの文化や芸術は
ヨ―ロッパでブ―厶でした。

  ✨✨✨✨✨

トルコのピアニスト
ファジル・サイの
ジャズ風トルコ行進曲
(1‘59‘‘)







すっかり秋に。

2023-10-04 10:33:00 | 日記

気温が下がり
秋めいてきました。
今日も気持ちの良い
秋晴れの1日に
なりそうです。


  ✨✨✨✨✨✨

1914年、第1次世界大戦中
日本は4600人以上の
ドイツ兵俘虜を受け入れ、
324名が丸亀にある
本願寺別院に
収容されました。

当時の収容所の所長が
日本よりも文化の進んだ国
から学べるものを学ぼうと
色々な分野で彼らを
自由に活動させます。

ヴァィオリニストの
パウル・エンゲルは
すぐにアンサンブルを作り
3ヶ月後には演奏会を
開きます。
そして楽器の作り方から
演奏法を多くの日本人に
教えました。

又、生活に必要な
ケーキやパン
ソーセージ作りなどが
俘虜達によって指導
されました。

2年後に鳴門にできた
新しい収容所では
パン焼き小屋から
ケーキ屋、肉屋が作られ
レストランが開店します。

新しい収容所には
丸亀から来た
エンゲル楽団と
徳島から来た
ハンセンが率いる
徳島オーケストラが
ありました。

俘虜達への
温かいサポートに
感謝を込めて
エンゲルとハンセンは
オーケストラに合唱を加え
歴史に残る
べートーヴェンの
交響曲9番の
全楽章の演奏が行われ
日本初演となりました。

その年の12月に
ドイツは敗戦になり
俘虜達は
日本に留まるか
ドイツに帰るかの選択を
迫られますが
パン職人、
ハムやソーセージ
職人、ビール醸造技術者は
日本人で技術指導者として
働きはじめます。


子供の頃から
お馴染みの
フロインドリーブの
パンとクッキーです。





フロインドリーブは
敷島製粉所の
初代技師長で活躍後
日本人と結婚して
神戸でパン屋を
開店しました。



べートーヴェン
交響曲第9番
ベルリン・フィル
(3‘01‘‘)



枯葉

2023-10-03 09:00:00 | 日記

強い風が吹いた朝、
庭にでると枯葉?

暑い夏の影響で
紅葉せずに
枯葉となって
落ちたようです。

気温は21度。
急に涼しくなり
爽やかな朝でした。



  ✨✨✨✨✨

エディト・ピアフが歌う
≪枯葉≫です。




生涯独身だった
パリジャンの
プーランク。

エディト・ピアノを
敬愛していた彼は
「即興曲集」の最後に
≪エディット・ピアフを
たたえて≫を書きました。

この曲のテーマは
「枯葉」の冒頭と
同じ音で始まるのです。

エディット・ピアフは
(1916ー1963)
フランスで
今でも愛されといる
シャンソン歌手です。

プーランクとピアフに
接点はなかったのですが
共通の友人は
ジャン・コクトーで
それぞれとても
親しかったようです。

偶然にも3人は
1963年に
世を去りました。



ピアノ パスカル・ロジェ





コ―ヒ―の日

2023-10-02 10:32:00 | 日記



10月1日は
コ―ヒ―の日でした。




   ✨✨✨✨✨

バッハの
≪コ―ヒ―・カンタ―タ≫
はいかがでしょうか。

彼は
教会カンタ―タと呼ばれる
作品を200曲以上
書きましたが
それ以外に
貴族の誕生日や結婚祝いに
書いた世俗カンタ―タと
呼ばれるものが
20数曲あります。

その世俗カンタ―タの1つが
「コ―ヒ―カンタ―タ」
正式な曲名は
≪カンタ―タ第211番
おしゃべりはやめて
お静かに≫です。

これは
バッハの作品で唯一、
喜歌劇的な作品かも
しれません。
当時のライプツィヒで
流行したコ―ヒ―に
嵌った娘と
それをやめさせようとする
父親とのやり取りを
コミカルに描いています。

10曲から成る物語は
まるで小オペラのよう。

父親―おまえはいつに
なったらコ―ヒ―を
やめるんだ。

娘―毎日、3度コ―ヒ―を
飲まなかったら
私は干からびた
羊の焼き肉みたいに
なっちゃうわ。


このあとに娘は
「コ―ヒ―ってなんて
美味しいのでしょう」と
コ―ヒ―讃歌を歌います。

バッハの住んだ
ライプツィヒには
8軒のコ―ヒ―ハウスがあり
バッハ自身も
アンサンブルを率いて
しばしば出演していた
そうです。
初演の行われた
ツィマーマンの
コ―ヒ―ハウス




第4番アリア
ソプラノ スミ・ジョ―









秋を待ちて

2023-10-01 08:44:00 | 日記

早いもので暦は10月。
それにしてもこの暑さ
いつまで続くのでしょうか。

朝方、激しい雨の音に
すっかり
目が覚めましたが
涼しさに期待です。


   
  ✨✨✨✨✨


ラヴェルの最大の人気曲
「ボレロ」

ロシア人バレエ・ダンサーの
イダ・ルビンシュタインの
依頼で作曲されました。



イダ・ルビンシュタインは
裕福なユダヤ人一家のもと
ウクライナ ハルキウで
生まれました。


2歳のときに両親を亡くし
莫大な財産が彼女に
残されます。

彼女はマリンスキー劇場で
行われていた
バレエのレッスンを
受けますが
莫大な資金を用いて
自らがダンサーとして踊る
バレエ団
「マダム・イダ・ルビンシュタイン・バレエ」を
設立します。

1927年に
ルビンシュタインは
ラヴェルに
「スペイン的なバレエを
書いて欲しい」と依頼して
「ボレロ」が
作曲されました。

バレエの舞台は
スペイン・セビリアの酒場。
1人の踊り子が踊り出し
次第にまわりの客達も一緒に
全員で踊るストーリーです。

マイヤ・プリセツカヤ
モーリス・ベジャール



初演は観客のみならず
批評家からも
絶賛されました。

1939年に
第2次世界大戦が勃発すると
ユダヤ人である
イダ・ルビンシュタインに
危険が迫ります。
フランスを脱出し
ロンドンのリッツホテルの
スイートルー厶に
長く滞在しました。

しかしその間に
パリにあった
貴重なコレクションは
全て盗まれたり没収されて
消失しました。