・妻の『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは!
今日は午前9時50分ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんと悠聖、結佳がリビングにいる。
「ありがとう!」と元気よく。
やっぱり独りで呟くより、人がいると面白いなあ。
「みなさんありがとうございましたあ」とか、いろいろアレンジしてたら、冷たい眼で見られましたwww
ありがとうを連呼しながら洗面ですね。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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「髭の泡の残っとるしー」と結佳に言われた・・・・・・。
で、そのあとで座禅50分であります。
「にぃにぃ、櫛どこー?」と言ってくるから「その辺の棚とか探すか、千鶴さんに聞いて」と喋る。
まあ、50分あるしいいかあ。
体は動く、頭は動く、バランスは悪い。
イライラもする、落ち着きもする、無心にもなる。
様々な動きの中で不動の中心があるのだ。
それが虚の中心。
頭の上からフワフワと妄念は流れ去り、イライラは体の下へスーッと流れ行く。
あるのは手放し。
座禅を終えるとコーヒーを淹れる。
ついでに、テーブルの上にあったバナナを齧り、千鶴さんと会話。
玄関脇で煙草吸いながら読書ですね。
悠聖は滑り台。
楽しそう。
結佳と汎花も遊んでいる。
遊びの天才!
子供達!
顔面から地面に落ちた汎花が次の瞬間にニコッと笑っている!
親戚の叔父さんが来て、畑を耕運機で耕している。
「煙草の煙、こっちに来るやんか、怒り」と千鶴さんが苛立っている。
で、読書を終えてからブログの更新ですね。
久しぶりに『ルパン3世のテーマ』聞いております。
なんか次々に切り替えてくれるからユーチューブ便利だね。
音楽は、いいなあ。
気分転換には、最高であります。
さて、煙草吸って休憩してきたので、続きです。
まあ悟りの話も色々書きながら、自分でも研究しているわけですが、あれは、人に頼ると全部失敗しますね。
だれだれが言っている。
釈尊が、とか、あの野郎が、とかね、笑
自分が、理解する。
例えば、グルジェフさんは、自分の弟子は、全員、追い出したわけです。
まあ、中には、最後まで一緒だった人もいますが、基本、意地悪して、追い出しているんですね。
敵対関係になっています。
なぜか?
それは、自分のものを「何か」を掴んだからです。
そこから様々な、工夫をしていくわけですが、おもしろいのはウスペンスキーという人がいます。
彼は非常に天才で、まあ、数学者ですね。
哲学者。
まあ、今で言えばアインシュタインみないなタイプの人です。
知性で、何もかも追求していた。
そいで、最後には「ワーク」というシステムを説いていた彼は、自分の弟子に「あいつ等は全員、アホだ、何も理解しない」と言うのです。
「ワークなんか存在しない」とね。
そんな事、言ったら、今までの、あんたの力説は何だったのだ?
「構うもんか、あいつ等は、アホだ」
って感じですwwwww
で、最後は立ったまま逝った!
まるで、弁慶のようですねw
ロドニー・コリンって人がお弟子さんでいたようです。
「分かるかい? コリン。何かを手に入れようと思うのなら、本当の努力が必要だ。たとえ死ぬときでも!」というのが遺言です。
グルジェフさんは「私はあなたがたを混乱の中に、置き去りにして、去る!」というのが遺言だったようですね。
まあ、なんというのかね。
これらは、人に頼っているのではなく、自分で生きた人たちなのです。
ウスペンスキーも最初は、グルジェフのシステムがあると思い込んでいたのですが、本当は、全部、自分に帰るために、やっていた、一時的な方法だったのです。
相手が変われば全部変わる。
というわけで、万人向けの宗教なんか、ありえない。
自分の世界で、挑戦していることが宗教なのですね、もう。
例えば、女に夢中な、アイツがいたら、女が宗教ですわ(爆笑)
「宇宙を越える神秘、女だ」とバック・トゥ・ザ・フューチャーにあったでしょう。
で、何が言いたいかというとですね。
悟りというのは、自己で確信するものだということです。
あの人の言ったとおりだとか、本に書いてあるような体験をしたとか、全く関係ありません。
その人が悩んでいたら、その問題が残っていたら、意味ないのです。
小さな子供は悩んでいません。
だから、猫も、魚も、悩んでいません。
悩んでいない事が悟りなのであります。
だから、内容なんか、なんでもいいんですよ。
大空と一体に、なったーとかさ。
え?
自分が消えた?
その他にも宇宙からのエネルギーが落ちてきたとか、稲妻のような閃光に体が貫かれたとか、見える全てが私自身だったとか。
まあ、ありとあらゆることが、ここでは、説かれています。
それで、何が始まりますか?
アイツは駄目だと言い出すのでありますwwwwww
だって、これは、ぜんぶ意見ですからね。
あれが、正しい悟りとかいうのは、全部、頭から出てきている理論なのですよ。
そんなもん関係あるかい、アホども(爆笑)
例えば、ある人は、お気楽に行こうと言うし、違う人は、超努力だという。
どっちも関係ありません。
自分自身が、どうであるか、だけですね。
で、どちらをしてみても、自由なわけです。
これは、車をどれにするかと一緒です。
それが、高貴な、とてつもないものだと思うから、おかしくなるんだ。
わたしとあなた、の、消失が、悟りです。
だから、人に認められている必要は、全く、皆無!!!!
悩みがなくなったらOKなのです。
それが、一切衆生が仏であるということであります。
でも、あれですよ。
他にいろいろとやっていると、遅くなるのは確かですね。
一つに絞るのはいいとは、思います。
あの「悩まなければ、悟りなのです」
禅の問答、なんかでも、考えるのは許されないですよね?
即答です。
石に仏性はあるか?
有り!
石に仏性はあるか?
無
そのこころは?
一切は無にして仏性であるとか?
そんな感じです。
とにかく、生きてあるこの、姿は、神の作ったものなのです。
自分だけではなく、全世界が、そうでしょう。
この神というのは知りえないのです。
その展開してきた、結果である、目の前のリアルだけを知る。
そのリアルは虚空という人間の実体? というものから、出てくる。
出てくるというか、照らし出されているのだ。
じゃあ、どうやって知るのだ?
それは、絶望して、そこから、真剣に心が落ちる事なのです。
探し回ってる己、自身が、消え去る事なのです。
最初は、そこで、一旦、気がついて、そっから、再び、迷うんですが、今度は、迷いそのものが一時的なものだと気がつくのです。
全部、動いている。
留まるものはひとつもない。
でも、その根底にある虚空は、永遠に在る。
人間には感じられようが、そうでなかろうが、関係なく、いつでも、絶対に、無意識があるのだ。
無意識があるというのは、書き方として矛盾しますが、これがポイントなのです。
つまり無というのは、本当に、無なのです。
無我というのも、ほんとうに無、なのです。
これは、想定できないということです。
生きている、そのままに、流されていく。
そこで、跡を留めないことが、もう、すでに悟りなんですね。
自分が納得したら、他人なんか、ほっとけ!
知らぬが仏!
だいたい金とるやつは怪しいぜwwwww
まあ、必要経費ってもんもあるんだから臨機応変にだけどね。
法外な金とって、ビルとか立ってるようなん見たら、考えよう。
住職というのは、仏教の伝統を守る人のことであり、寺に住んでいる人のことでも、そこに出家した人のことでもないと書いてある。
で、何が言いたかったんだっけ?
とにかく、今、幸せであろうが、不幸であろうが、全体であろうが、個であろうが、不安であろうが、安心であろうが、そんなことは関係ないのです!
悟っても、不幸なのです(爆笑)
不幸はあるんです。
なんかさ、幸せは偉いとかない。
なんでも、すべて、そのまんまだけど、そこを残さないだけ。
すべては過ぎ去る。
「すべては過ぎ去る」ことも過ぎ去るw
それは言葉だからだ。
ね。
あー、おもしろwww
ぜんぶ、苦しい事も、楽しい事もプレゼントなんだよ。
贈り物。
偉くなったりすることは、関係ないの。
別に、あっても、いいけどね。
ただ、私が不動の無に気づけばいいだけなのです。
それは持ち運べないし、頭の中にもないのです。
無だからねwww
ほんとは実体ないから説明できないのです。
書く事は、ぜんぶ、嘘なのです。
だって、どれも、言葉だから、正確ではない。
あるがままでOkと考えるな、感じろですね。
こんにちは!
今日は午前9時50分ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんと悠聖、結佳がリビングにいる。
「ありがとう!」と元気よく。
やっぱり独りで呟くより、人がいると面白いなあ。
「みなさんありがとうございましたあ」とか、いろいろアレンジしてたら、冷たい眼で見られましたwww
ありがとうを連呼しながら洗面ですね。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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「髭の泡の残っとるしー」と結佳に言われた・・・・・・。
で、そのあとで座禅50分であります。
「にぃにぃ、櫛どこー?」と言ってくるから「その辺の棚とか探すか、千鶴さんに聞いて」と喋る。
まあ、50分あるしいいかあ。
体は動く、頭は動く、バランスは悪い。
イライラもする、落ち着きもする、無心にもなる。
様々な動きの中で不動の中心があるのだ。
それが虚の中心。
頭の上からフワフワと妄念は流れ去り、イライラは体の下へスーッと流れ行く。
あるのは手放し。
座禅を終えるとコーヒーを淹れる。
ついでに、テーブルの上にあったバナナを齧り、千鶴さんと会話。
玄関脇で煙草吸いながら読書ですね。
悠聖は滑り台。
楽しそう。
結佳と汎花も遊んでいる。
遊びの天才!
子供達!
顔面から地面に落ちた汎花が次の瞬間にニコッと笑っている!
親戚の叔父さんが来て、畑を耕運機で耕している。
「煙草の煙、こっちに来るやんか、怒り」と千鶴さんが苛立っている。
で、読書を終えてからブログの更新ですね。
久しぶりに『ルパン3世のテーマ』聞いております。
なんか次々に切り替えてくれるからユーチューブ便利だね。
音楽は、いいなあ。
気分転換には、最高であります。
さて、煙草吸って休憩してきたので、続きです。
まあ悟りの話も色々書きながら、自分でも研究しているわけですが、あれは、人に頼ると全部失敗しますね。
だれだれが言っている。
釈尊が、とか、あの野郎が、とかね、笑
自分が、理解する。
例えば、グルジェフさんは、自分の弟子は、全員、追い出したわけです。
まあ、中には、最後まで一緒だった人もいますが、基本、意地悪して、追い出しているんですね。
敵対関係になっています。
なぜか?
それは、自分のものを「何か」を掴んだからです。
そこから様々な、工夫をしていくわけですが、おもしろいのはウスペンスキーという人がいます。
彼は非常に天才で、まあ、数学者ですね。
哲学者。
まあ、今で言えばアインシュタインみないなタイプの人です。
知性で、何もかも追求していた。
そいで、最後には「ワーク」というシステムを説いていた彼は、自分の弟子に「あいつ等は全員、アホだ、何も理解しない」と言うのです。
「ワークなんか存在しない」とね。
そんな事、言ったら、今までの、あんたの力説は何だったのだ?
「構うもんか、あいつ等は、アホだ」
って感じですwwwww
で、最後は立ったまま逝った!
まるで、弁慶のようですねw
ロドニー・コリンって人がお弟子さんでいたようです。
「分かるかい? コリン。何かを手に入れようと思うのなら、本当の努力が必要だ。たとえ死ぬときでも!」というのが遺言です。
グルジェフさんは「私はあなたがたを混乱の中に、置き去りにして、去る!」というのが遺言だったようですね。
まあ、なんというのかね。
これらは、人に頼っているのではなく、自分で生きた人たちなのです。
ウスペンスキーも最初は、グルジェフのシステムがあると思い込んでいたのですが、本当は、全部、自分に帰るために、やっていた、一時的な方法だったのです。
相手が変われば全部変わる。
というわけで、万人向けの宗教なんか、ありえない。
自分の世界で、挑戦していることが宗教なのですね、もう。
例えば、女に夢中な、アイツがいたら、女が宗教ですわ(爆笑)
「宇宙を越える神秘、女だ」とバック・トゥ・ザ・フューチャーにあったでしょう。
で、何が言いたいかというとですね。
悟りというのは、自己で確信するものだということです。
あの人の言ったとおりだとか、本に書いてあるような体験をしたとか、全く関係ありません。
その人が悩んでいたら、その問題が残っていたら、意味ないのです。
小さな子供は悩んでいません。
だから、猫も、魚も、悩んでいません。
悩んでいない事が悟りなのであります。
だから、内容なんか、なんでもいいんですよ。
大空と一体に、なったーとかさ。
え?
自分が消えた?
その他にも宇宙からのエネルギーが落ちてきたとか、稲妻のような閃光に体が貫かれたとか、見える全てが私自身だったとか。
まあ、ありとあらゆることが、ここでは、説かれています。
それで、何が始まりますか?
アイツは駄目だと言い出すのでありますwwwwww
だって、これは、ぜんぶ意見ですからね。
あれが、正しい悟りとかいうのは、全部、頭から出てきている理論なのですよ。
そんなもん関係あるかい、アホども(爆笑)
例えば、ある人は、お気楽に行こうと言うし、違う人は、超努力だという。
どっちも関係ありません。
自分自身が、どうであるか、だけですね。
で、どちらをしてみても、自由なわけです。
これは、車をどれにするかと一緒です。
それが、高貴な、とてつもないものだと思うから、おかしくなるんだ。
わたしとあなた、の、消失が、悟りです。
だから、人に認められている必要は、全く、皆無!!!!
悩みがなくなったらOKなのです。
それが、一切衆生が仏であるということであります。
でも、あれですよ。
他にいろいろとやっていると、遅くなるのは確かですね。
一つに絞るのはいいとは、思います。
あの「悩まなければ、悟りなのです」
禅の問答、なんかでも、考えるのは許されないですよね?
即答です。
石に仏性はあるか?
有り!
石に仏性はあるか?
無
そのこころは?
一切は無にして仏性であるとか?
そんな感じです。
とにかく、生きてあるこの、姿は、神の作ったものなのです。
自分だけではなく、全世界が、そうでしょう。
この神というのは知りえないのです。
その展開してきた、結果である、目の前のリアルだけを知る。
そのリアルは虚空という人間の実体? というものから、出てくる。
出てくるというか、照らし出されているのだ。
じゃあ、どうやって知るのだ?
それは、絶望して、そこから、真剣に心が落ちる事なのです。
探し回ってる己、自身が、消え去る事なのです。
最初は、そこで、一旦、気がついて、そっから、再び、迷うんですが、今度は、迷いそのものが一時的なものだと気がつくのです。
全部、動いている。
留まるものはひとつもない。
でも、その根底にある虚空は、永遠に在る。
人間には感じられようが、そうでなかろうが、関係なく、いつでも、絶対に、無意識があるのだ。
無意識があるというのは、書き方として矛盾しますが、これがポイントなのです。
つまり無というのは、本当に、無なのです。
無我というのも、ほんとうに無、なのです。
これは、想定できないということです。
生きている、そのままに、流されていく。
そこで、跡を留めないことが、もう、すでに悟りなんですね。
自分が納得したら、他人なんか、ほっとけ!
知らぬが仏!
だいたい金とるやつは怪しいぜwwwww
まあ、必要経費ってもんもあるんだから臨機応変にだけどね。
法外な金とって、ビルとか立ってるようなん見たら、考えよう。
住職というのは、仏教の伝統を守る人のことであり、寺に住んでいる人のことでも、そこに出家した人のことでもないと書いてある。
で、何が言いたかったんだっけ?
とにかく、今、幸せであろうが、不幸であろうが、全体であろうが、個であろうが、不安であろうが、安心であろうが、そんなことは関係ないのです!
悟っても、不幸なのです(爆笑)
不幸はあるんです。
なんかさ、幸せは偉いとかない。
なんでも、すべて、そのまんまだけど、そこを残さないだけ。
すべては過ぎ去る。
「すべては過ぎ去る」ことも過ぎ去るw
それは言葉だからだ。
ね。
あー、おもしろwww
ぜんぶ、苦しい事も、楽しい事もプレゼントなんだよ。
贈り物。
偉くなったりすることは、関係ないの。
別に、あっても、いいけどね。
ただ、私が不動の無に気づけばいいだけなのです。
それは持ち運べないし、頭の中にもないのです。
無だからねwww
ほんとは実体ないから説明できないのです。
書く事は、ぜんぶ、嘘なのです。
だって、どれも、言葉だから、正確ではない。
あるがままでOkと考えるな、感じろですね。