初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
今日は10時半ごろに目覚めました。
「ちょっと障子してくれへん?」という会話が聞こえてくる。
母親が対応している。
父親の仕事、もう、今は、体が思うように動かないのでできない。
人間に与えられている可能性は限られている。
体を守るためには、出来ない無理をさせてはいけないのだ。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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人によって様々に、状況が違うことを考慮しなければならない。
「ありがとう」を呟きながら、洗面へと向かいます。
ネガティブエモーション。
その表面的な抵抗は、過去の脅威から生まれている。
それを正しく見れば、そこにいるのは、愛情欲求に苦しめられた自己である。
洗面を終えると座禅を15分ですね。
毎日、毎日、していると状態の違いが分かってくる。
不動の心は「いいわるい」に左右されない。
その表面の激流を乗り越え、渡り終えて、完全なる沈黙に在る。
それは目には見えない、心の奥のハートにいる、真の「私の魂」なのだ。
存在している。
確かに、そこに、存在している。
しかし、それは、認識できるものではないのである。
座禅を終えて、コーヒーを淹れ、玄関脇で読書です。
人間の尺度では図ることのできない宗教の風光と書いてある。
競争社会で走り続ける事で、出来上がった国家と階級。
無益であると書いてある。
人より優れたるは、無益である。
いいものだけを採用しようとするから、混乱が生まれているのだ。
なんと単純な事だろう。
そんな、単純な事が、誰も、理解できない。
生まれた頃は、誰もが知っていたのだ。
失われたのは『教育』の責任である。
教育から仏教を排除したことが、今の社会問題の根本にある。
誰も信仰しなくなった真実、リアル。
リアルを無視して、思惑の世界だけで生きていくことができるだろうか。
真実を投げ出して、空想だけでは、思いだけでは、絶望が待つだけである。
そのような閉鎖的環境が、今の、人間関係のすべての問題だ。
開け放たれない。
そのようなことが、書いてあったと思う。
読書を終えるとブログの更新ですね。
って言っても、だいぶ、書いてしまったなあww
今日は時間があるので、いつもより、長く書こうと思います。
更新しようと思ったら付けたままのPC画面に昨日閲覧していた掲示板が出てきた。
生半可な気持ちでは、しないほうがマシと書いてある。
それは、人間の強烈にコビリツイタ思惑を超えるのは、非常な、凄惨な戦いになるからである。
以前から、書いているように、それは、絶望なのだ。
いいものを目指して奮闘してきたのが、我々である。
その「いいもの」が、実は、ただの反応、思い込みであると思い知らされる。
これが否定的感情の表出を抑える事なのだ。
実は、その否定的感情は、リアルには、存在していないものだ。
空想である。
しかし、その空想が、今は、超リアルに自己なのだ。
自己を乗っ取っている。
真の主人である『無限世界』を差し押さえて『思考』がやりたい放題しているのだ。
「あれがいい、あれはだめ」と言う。
分別の世界。
それを超えるというのは、本能的に生きるということである。
男は男として、女は女として、自覚しないと、こうはならない。
性というのは、根本存在のエネルギーなのだ。
そして、その開花した力が『勇気』と『愛』である。
その二つが融合して初めて、自己を正しく見る事ができ、その自己をあるがままに、受け入れる事ができる。
あるがままというのは、そのままのことだ。
そこに社会が、他者が、いろいろなことを植えつけたのだ。
しかし、それは所詮『記憶』の世界。
実際の、リアルな、感覚、味わい、存在、感情、生きているすべてに、それは確認できるものではない。
自己の「思い」の中、心の中に終われている。
その「思い」の暴れる表面の波の、はるか下に、広大な海がある。
そこは、存在の、真の、愛。
感情的な甘ったるい、愛情の事ではない。
生まれてから、死ぬまで、もしかしたら、生まれる以前から、この、全体を存在させている、エネルギーのことである。
誰もが、その、中で、生きている。
例外はひとつもない。
だから、全員が、最初から、悟っているのである。
それを見えなくしているのが「思惑」「計らい」「自己都合」「煩悩」である。
著作者:djandyw.com
このような心の敏感な部分、深い部分に触れるには、衝撃が必要だ。
そのショックを与える事の基本が、自覚なのである。
今のスピリチュアルで語られている事は「夢」でしかない。
悟りというものを「想像」して、そこへ至ろうとしている。
誰が、そこへ至るというのだろう。
このような問題を作り出したのは、語り手の側である。
生死の問題は、気楽なものではない。
なぜなら、最初は、思いを握り締めているのだから、最初から真実の『安心』を語っても、人は理解できないだろう。
それを確認した。
だからこそ、自己をありのままに見る事、否定的な感情の表出をしないことという、余計なしなくても、いいことを、提案した人がいるのだ。
それは絶望の味を、与えてくれる。
その「思惑」の死こそが、全体性の開花なのだ。
たしかに、これは、生半可な気持ちでは、できないだろう。
僕も覚悟しなければならない。
しかし、これ、は、自動的にやってくるのだ。
人生を生きるということは、もう、すでに生半可ではない。
それは『悟り』などとは関係なく、生きている人は、みんな、苦しんでいる。
一切行苦と釈迦は言ったのだ。
すべてが苦しみであり、諸行無常であるがゆえに、救いが、清浄が生まれる。
そう表現した。
問題は、自分以外に問題がないということを、どのように理解するか。
ではないだろうか。
大和田菜穂さんの言うように「それが自分に起こっているわけではない」のである。
しかし、逆説的に、そこに行くには徹底的に自分を正しく見ることが必要である。
この表現で「空想」に逃避することは、とても簡単である。
しかし、リアルは目の前の生、この、いまここにある、体感にしかないのだ。
その体感に、全身が投入されているとき、彼方の光、智慧の視点が触れる。
だから真理のメッセージに誤りはないのだが、人は、というか聞く側が、理解しない。
だから、あの語り方、スピリチュアルの主流の語り方は、新たなる夢、思惑を大量量産しているかもしれない。
真剣に話を聞く、話をするときでも、そうできないのが、人間なのである。
お互いに、真剣に話しているつもりで、実際は、思惑がある。
どうでもいい話をしているときに、心の真実が語られているが、それに気づけない。
クリシュナムルティの本を読んでいると、とてつもなく誠実に、真理、そのままを語っているのだが、それは伝わらなかった。
直接的な、表現は、真理であっても、受け取り手がない。
のかもしれない。
現代の精神世界のメッセージでも、だいたいが、本当のことを語っている。
嘘を言っている人は、ほとんどいない。
しかしグルジェフさんは、こう言っている。
真理は、そのままでは伝わらず、嘘という形でしか受け取られないのだ。
また釈迦は、その人に合わせて、何千もの語り口で話したというではないか。
ひとつの真理、しかし、入り口は無数。
絶望に至るというのも、本当は『人格』の崩壊であって、真の私は全く、絶望なんかしていないのであるww
私という一個の存在は、宇宙、なのだ。
体、感情、思い、純粋意識、衝動、これらは、内容物だ。
その内容物を変えることでない。
そのまま、自然に、リアルが最初からある!
超、単純にww
これを難しくしているのが「夢見る」ことである。
『希望』こそが、あらゆる、問題の、根本にあるのだ。
これが『欲望』である。
無欲が貪欲を制することとは、正義が悪を倒す事ではない!!!!
その反対だ。
いいもわるいもない。
判断している自己の、内面の執着を見るために進む勇気なのだ。
それが『覚悟』と大げさに語られる・・・・・・。
たぶん、小さな頃に、幼い頃に、あなたは愛された。
そして、それが、徐々に、条件付の愛に偏向されていった。
それは、自我が、判断しだしたからだ。
最初は、すべてが、愛だったのが、怒りは愛ではなくなった。
僕がとても怒っていても、息子は笑っている。
息子が怒るときは、泣き喚いて、全力で動く。
それで、そこには、完全な愛が、あるのである。
そのままで完璧なのだ。
条件をつけたのは「お前はよくがんばった」という賞嘆である。
賞嘆に拘って、それを求めている人。
「思惑」は愛情を求めて、その賞嘆を求めて、さ迷っている。
真のメッセンジャーは、残酷に「思惑」を剥ぎ取ってしまう。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんにちは。
今日は10時半ごろに目覚めました。
「ちょっと障子してくれへん?」という会話が聞こえてくる。
母親が対応している。
父親の仕事、もう、今は、体が思うように動かないのでできない。
人間に与えられている可能性は限られている。
体を守るためには、出来ない無理をさせてはいけないのだ。
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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人によって様々に、状況が違うことを考慮しなければならない。
「ありがとう」を呟きながら、洗面へと向かいます。
ネガティブエモーション。
その表面的な抵抗は、過去の脅威から生まれている。
それを正しく見れば、そこにいるのは、愛情欲求に苦しめられた自己である。
洗面を終えると座禅を15分ですね。
毎日、毎日、していると状態の違いが分かってくる。
不動の心は「いいわるい」に左右されない。
その表面の激流を乗り越え、渡り終えて、完全なる沈黙に在る。
それは目には見えない、心の奥のハートにいる、真の「私の魂」なのだ。
存在している。
確かに、そこに、存在している。
しかし、それは、認識できるものではないのである。
座禅を終えて、コーヒーを淹れ、玄関脇で読書です。
人間の尺度では図ることのできない宗教の風光と書いてある。
競争社会で走り続ける事で、出来上がった国家と階級。
無益であると書いてある。
人より優れたるは、無益である。
いいものだけを採用しようとするから、混乱が生まれているのだ。
なんと単純な事だろう。
そんな、単純な事が、誰も、理解できない。
生まれた頃は、誰もが知っていたのだ。
失われたのは『教育』の責任である。
教育から仏教を排除したことが、今の社会問題の根本にある。
誰も信仰しなくなった真実、リアル。
リアルを無視して、思惑の世界だけで生きていくことができるだろうか。
真実を投げ出して、空想だけでは、思いだけでは、絶望が待つだけである。
そのような閉鎖的環境が、今の、人間関係のすべての問題だ。
開け放たれない。
そのようなことが、書いてあったと思う。
読書を終えるとブログの更新ですね。
って言っても、だいぶ、書いてしまったなあww
今日は時間があるので、いつもより、長く書こうと思います。
更新しようと思ったら付けたままのPC画面に昨日閲覧していた掲示板が出てきた。
生半可な気持ちでは、しないほうがマシと書いてある。
それは、人間の強烈にコビリツイタ思惑を超えるのは、非常な、凄惨な戦いになるからである。
以前から、書いているように、それは、絶望なのだ。
いいものを目指して奮闘してきたのが、我々である。
その「いいもの」が、実は、ただの反応、思い込みであると思い知らされる。
これが否定的感情の表出を抑える事なのだ。
実は、その否定的感情は、リアルには、存在していないものだ。
空想である。
しかし、その空想が、今は、超リアルに自己なのだ。
自己を乗っ取っている。
真の主人である『無限世界』を差し押さえて『思考』がやりたい放題しているのだ。
「あれがいい、あれはだめ」と言う。
分別の世界。
それを超えるというのは、本能的に生きるということである。
男は男として、女は女として、自覚しないと、こうはならない。
性というのは、根本存在のエネルギーなのだ。
そして、その開花した力が『勇気』と『愛』である。
その二つが融合して初めて、自己を正しく見る事ができ、その自己をあるがままに、受け入れる事ができる。
あるがままというのは、そのままのことだ。
そこに社会が、他者が、いろいろなことを植えつけたのだ。
しかし、それは所詮『記憶』の世界。
実際の、リアルな、感覚、味わい、存在、感情、生きているすべてに、それは確認できるものではない。
自己の「思い」の中、心の中に終われている。
その「思い」の暴れる表面の波の、はるか下に、広大な海がある。
そこは、存在の、真の、愛。
感情的な甘ったるい、愛情の事ではない。
生まれてから、死ぬまで、もしかしたら、生まれる以前から、この、全体を存在させている、エネルギーのことである。
誰もが、その、中で、生きている。
例外はひとつもない。
だから、全員が、最初から、悟っているのである。
それを見えなくしているのが「思惑」「計らい」「自己都合」「煩悩」である。
著作者:djandyw.com
このような心の敏感な部分、深い部分に触れるには、衝撃が必要だ。
そのショックを与える事の基本が、自覚なのである。
今のスピリチュアルで語られている事は「夢」でしかない。
悟りというものを「想像」して、そこへ至ろうとしている。
誰が、そこへ至るというのだろう。
このような問題を作り出したのは、語り手の側である。
生死の問題は、気楽なものではない。
なぜなら、最初は、思いを握り締めているのだから、最初から真実の『安心』を語っても、人は理解できないだろう。
それを確認した。
だからこそ、自己をありのままに見る事、否定的な感情の表出をしないことという、余計なしなくても、いいことを、提案した人がいるのだ。
それは絶望の味を、与えてくれる。
その「思惑」の死こそが、全体性の開花なのだ。
たしかに、これは、生半可な気持ちでは、できないだろう。
僕も覚悟しなければならない。
しかし、これ、は、自動的にやってくるのだ。
人生を生きるということは、もう、すでに生半可ではない。
それは『悟り』などとは関係なく、生きている人は、みんな、苦しんでいる。
一切行苦と釈迦は言ったのだ。
すべてが苦しみであり、諸行無常であるがゆえに、救いが、清浄が生まれる。
そう表現した。
問題は、自分以外に問題がないということを、どのように理解するか。
ではないだろうか。
大和田菜穂さんの言うように「それが自分に起こっているわけではない」のである。
しかし、逆説的に、そこに行くには徹底的に自分を正しく見ることが必要である。
この表現で「空想」に逃避することは、とても簡単である。
しかし、リアルは目の前の生、この、いまここにある、体感にしかないのだ。
その体感に、全身が投入されているとき、彼方の光、智慧の視点が触れる。
だから真理のメッセージに誤りはないのだが、人は、というか聞く側が、理解しない。
だから、あの語り方、スピリチュアルの主流の語り方は、新たなる夢、思惑を大量量産しているかもしれない。
真剣に話を聞く、話をするときでも、そうできないのが、人間なのである。
お互いに、真剣に話しているつもりで、実際は、思惑がある。
どうでもいい話をしているときに、心の真実が語られているが、それに気づけない。
クリシュナムルティの本を読んでいると、とてつもなく誠実に、真理、そのままを語っているのだが、それは伝わらなかった。
直接的な、表現は、真理であっても、受け取り手がない。
のかもしれない。
現代の精神世界のメッセージでも、だいたいが、本当のことを語っている。
嘘を言っている人は、ほとんどいない。
しかしグルジェフさんは、こう言っている。
真理は、そのままでは伝わらず、嘘という形でしか受け取られないのだ。
また釈迦は、その人に合わせて、何千もの語り口で話したというではないか。
ひとつの真理、しかし、入り口は無数。
絶望に至るというのも、本当は『人格』の崩壊であって、真の私は全く、絶望なんかしていないのであるww
私という一個の存在は、宇宙、なのだ。
体、感情、思い、純粋意識、衝動、これらは、内容物だ。
その内容物を変えることでない。
そのまま、自然に、リアルが最初からある!
超、単純にww
これを難しくしているのが「夢見る」ことである。
『希望』こそが、あらゆる、問題の、根本にあるのだ。
これが『欲望』である。
無欲が貪欲を制することとは、正義が悪を倒す事ではない!!!!
その反対だ。
いいもわるいもない。
判断している自己の、内面の執着を見るために進む勇気なのだ。
それが『覚悟』と大げさに語られる・・・・・・。
たぶん、小さな頃に、幼い頃に、あなたは愛された。
そして、それが、徐々に、条件付の愛に偏向されていった。
それは、自我が、判断しだしたからだ。
最初は、すべてが、愛だったのが、怒りは愛ではなくなった。
僕がとても怒っていても、息子は笑っている。
息子が怒るときは、泣き喚いて、全力で動く。
それで、そこには、完全な愛が、あるのである。
そのままで完璧なのだ。
条件をつけたのは「お前はよくがんばった」という賞嘆である。
賞嘆に拘って、それを求めている人。
「思惑」は愛情を求めて、その賞嘆を求めて、さ迷っている。
真のメッセンジャーは、残酷に「思惑」を剥ぎ取ってしまう。