豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

思惑を剥ぐ

2015-05-26 11:39:32 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

今日は10時半ごろに目覚めました。

「ちょっと障子してくれへん?」という会話が聞こえてくる。

母親が対応している。

父親の仕事、もう、今は、体が思うように動かないのでできない。

人間に与えられている可能性は限られている。

体を守るためには、出来ない無理をさせてはいけないのだ。



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人によって様々に、状況が違うことを考慮しなければならない。

「ありがとう」を呟きながら、洗面へと向かいます。

ネガティブエモーション。

その表面的な抵抗は、過去の脅威から生まれている。

それを正しく見れば、そこにいるのは、愛情欲求に苦しめられた自己である。


洗面を終えると座禅を15分ですね。

毎日、毎日、していると状態の違いが分かってくる。

不動の心は「いいわるい」に左右されない。

その表面の激流を乗り越え、渡り終えて、完全なる沈黙に在る。

それは目には見えない、心の奥のハートにいる、真の「私の魂」なのだ。

存在している。

確かに、そこに、存在している。

しかし、それは、認識できるものではないのである。


座禅を終えて、コーヒーを淹れ、玄関脇で読書です。

人間の尺度では図ることのできない宗教の風光と書いてある。

競争社会で走り続ける事で、出来上がった国家と階級。

無益であると書いてある。

人より優れたるは、無益である。

いいものだけを採用しようとするから、混乱が生まれているのだ。

なんと単純な事だろう。

そんな、単純な事が、誰も、理解できない。

生まれた頃は、誰もが知っていたのだ。

失われたのは『教育』の責任である。

教育から仏教を排除したことが、今の社会問題の根本にある。

誰も信仰しなくなった真実、リアル。

リアルを無視して、思惑の世界だけで生きていくことができるだろうか。

真実を投げ出して、空想だけでは、思いだけでは、絶望が待つだけである。

そのような閉鎖的環境が、今の、人間関係のすべての問題だ。

開け放たれない。

そのようなことが、書いてあったと思う。


読書を終えるとブログの更新ですね。

って言っても、だいぶ、書いてしまったなあww

今日は時間があるので、いつもより、長く書こうと思います。


更新しようと思ったら付けたままのPC画面に昨日閲覧していた掲示板が出てきた。

生半可な気持ちでは、しないほうがマシと書いてある。

それは、人間の強烈にコビリツイタ思惑を超えるのは、非常な、凄惨な戦いになるからである。

以前から、書いているように、それは、絶望なのだ。

いいものを目指して奮闘してきたのが、我々である。

その「いいもの」が、実は、ただの反応、思い込みであると思い知らされる。

これが否定的感情の表出を抑える事なのだ。

実は、その否定的感情は、リアルには、存在していないものだ。

空想である。

しかし、その空想が、今は、超リアルに自己なのだ。

自己を乗っ取っている。

真の主人である『無限世界』を差し押さえて『思考』がやりたい放題しているのだ。

「あれがいい、あれはだめ」と言う。

分別の世界。


それを超えるというのは、本能的に生きるということである。

男は男として、女は女として、自覚しないと、こうはならない。

性というのは、根本存在のエネルギーなのだ。

そして、その開花した力が『勇気』と『愛』である。

その二つが融合して初めて、自己を正しく見る事ができ、その自己をあるがままに、受け入れる事ができる。

あるがままというのは、そのままのことだ。

そこに社会が、他者が、いろいろなことを植えつけたのだ。

しかし、それは所詮『記憶』の世界。

実際の、リアルな、感覚、味わい、存在、感情、生きているすべてに、それは確認できるものではない。

自己の「思い」の中、心の中に終われている。


その「思い」の暴れる表面の波の、はるか下に、広大な海がある。

そこは、存在の、真の、愛。

感情的な甘ったるい、愛情の事ではない。

生まれてから、死ぬまで、もしかしたら、生まれる以前から、この、全体を存在させている、エネルギーのことである。

誰もが、その、中で、生きている。

例外はひとつもない。

だから、全員が、最初から、悟っているのである。

それを見えなくしているのが「思惑」「計らい」「自己都合」「煩悩」である。




著作者:djandyw.com



このような心の敏感な部分、深い部分に触れるには、衝撃が必要だ。

そのショックを与える事の基本が、自覚なのである。


今のスピリチュアルで語られている事は「夢」でしかない。

悟りというものを「想像」して、そこへ至ろうとしている。

誰が、そこへ至るというのだろう。

このような問題を作り出したのは、語り手の側である。

生死の問題は、気楽なものではない。

なぜなら、最初は、思いを握り締めているのだから、最初から真実の『安心』を語っても、人は理解できないだろう。

それを確認した。


だからこそ、自己をありのままに見る事、否定的な感情の表出をしないことという、余計なしなくても、いいことを、提案した人がいるのだ。

それは絶望の味を、与えてくれる。

その「思惑」の死こそが、全体性の開花なのだ。

たしかに、これは、生半可な気持ちでは、できないだろう。

僕も覚悟しなければならない。

しかし、これ、は、自動的にやってくるのだ。

人生を生きるということは、もう、すでに生半可ではない。

それは『悟り』などとは関係なく、生きている人は、みんな、苦しんでいる。

一切行苦と釈迦は言ったのだ。

すべてが苦しみであり、諸行無常であるがゆえに、救いが、清浄が生まれる。

そう表現した。


問題は、自分以外に問題がないということを、どのように理解するか。

ではないだろうか。

大和田菜穂さんの言うように「それが自分に起こっているわけではない」のである。

しかし、逆説的に、そこに行くには徹底的に自分を正しく見ることが必要である。

この表現で「空想」に逃避することは、とても簡単である。

しかし、リアルは目の前の生、この、いまここにある、体感にしかないのだ。

その体感に、全身が投入されているとき、彼方の光、智慧の視点が触れる。


だから真理のメッセージに誤りはないのだが、人は、というか聞く側が、理解しない。

だから、あの語り方、スピリチュアルの主流の語り方は、新たなる夢、思惑を大量量産しているかもしれない。

真剣に話を聞く、話をするときでも、そうできないのが、人間なのである。

お互いに、真剣に話しているつもりで、実際は、思惑がある。

どうでもいい話をしているときに、心の真実が語られているが、それに気づけない。


クリシュナムルティの本を読んでいると、とてつもなく誠実に、真理、そのままを語っているのだが、それは伝わらなかった。

直接的な、表現は、真理であっても、受け取り手がない。

のかもしれない。

現代の精神世界のメッセージでも、だいたいが、本当のことを語っている。

嘘を言っている人は、ほとんどいない。

しかしグルジェフさんは、こう言っている。

真理は、そのままでは伝わらず、嘘という形でしか受け取られないのだ。

また釈迦は、その人に合わせて、何千もの語り口で話したというではないか。

ひとつの真理、しかし、入り口は無数。

絶望に至るというのも、本当は『人格』の崩壊であって、真の私は全く、絶望なんかしていないのであるww


私という一個の存在は、宇宙、なのだ。

体、感情、思い、純粋意識、衝動、これらは、内容物だ。

その内容物を変えることでない。

そのまま、自然に、リアルが最初からある!

超、単純にww

これを難しくしているのが「夢見る」ことである。

『希望』こそが、あらゆる、問題の、根本にあるのだ。

これが『欲望』である。

無欲が貪欲を制することとは、正義が悪を倒す事ではない!!!!

その反対だ。

いいもわるいもない。

判断している自己の、内面の執着を見るために進む勇気なのだ。


それが『覚悟』と大げさに語られる・・・・・・。


たぶん、小さな頃に、幼い頃に、あなたは愛された。

そして、それが、徐々に、条件付の愛に偏向されていった。

それは、自我が、判断しだしたからだ。

最初は、すべてが、愛だったのが、怒りは愛ではなくなった。

僕がとても怒っていても、息子は笑っている。

息子が怒るときは、泣き喚いて、全力で動く。

それで、そこには、完全な愛が、あるのである。

そのままで完璧なのだ。


条件をつけたのは「お前はよくがんばった」という賞嘆である。

賞嘆に拘って、それを求めている人。

「思惑」は愛情を求めて、その賞嘆を求めて、さ迷っている。

真のメッセンジャーは、残酷に「思惑」を剥ぎ取ってしまう。