・妻の『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
今日は8時半ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんの夢の話を聞く。
100人くらいの人が出てきたらしい。
しばらく話して「ありがとう」を言いながら洗面へ行く。
昨日、見たインターネット情報では「ありがとう」を1万回言うといいことがあり、5万回言うと奇跡が起こるらしいですw
まあ、感謝だから、もう、すでに奇跡が起こってるんだけどね、苦笑
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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それから座禅50分。
千鶴さんから「背中が曲がっているなり!」とか「何か、ゆらゆら揺れているなり、笑」とか指摘されました。
まあ、相変わらずのヘッポコ座禅、でも、効果あり。
それは、その、何かが目覚めるのです。
エネルギー的な「何か」です。
その「何か」は姿勢、動作、感覚、感情、思考、精神のすべてを在らしめながら、透明に、浸透しているのでありますね。
その力は、無敵ですwww
座禅を終えるとコーヒーを淹れて読書です。
玄関脇で、煙草吸いながら、至福のタイム。
形みたいなものはないんだと書いてあります。
女に抱きつかれた坊主が「興味ない」と言うのを聞いた、その娘の婆さんが、怒って建物ごと焼き払ってしまった。
この嘘吐きw
女に興味なくてもいいのだが、嘘、だといかんです。
本当は興味あるのに、ない、というのはナチュラルではありません。
その逆もまたありますね。
不邪淫というのはノーマルでないセックスは駄目ということですよ。
ノーマルではないとは、愛情のない不倫だとか、また、変わった趣味とか、そういうものですな。
愛情と暴力があって、暴力が基調になりがちですね男性は。
まあ、いいやw
えーっと、読書を終えると、ブログ更新です。
千鶴さんに味噌汁作ってと頼んでいたので報告に来てくれた。
それはいいのだけど「宇宙戦艦ヤマト」を熱唱しながらブログ更新している僕の頭を枕で殴る・・・・・・。
僕「なにすんの!」
千鶴さん「こうしやんと治らんかなと」
って、オイwww
まあ、あとで食べると言って、更新を続けています。
今は『銀河鉄道999』を聞いている。
いいですなあ、この曲。
さて、何かありますかね。
えーっと、結局、何も想定されたものはないのです。
この間も精神世界のブログを見ていたら「からっぽ」を想定してくださいなんて、書かれていましたが、そんなことじゃない。
想定されたイメージされた空は、思念の創作なのです。
実際は空とは、無のことです。
その虚無の空っぽの心(意識)に全体というか、自己の世界が映っている。
この空っぽは感情的なもので、想定はできないのです。
体験はできるが、それも、感覚的なものです。
例えば、有名な方法で、頭がないと感じるとかもありますね。
これも、頭の中で想像するものではない。
ここのところの勘違いは根深いものがあります。
僕も同じところにいたから、よく分かるのですよ。
その時は、想定された世界に、逃避した自我が、現実世界を遠ざけています。
そうなると虚無といっても、小さな実感のない穴倉みたいなところへ行く。
まあ、絶望して逃避すると、そうなります。
そこも、間違えてはいないのですが、その想定された「空」がリアルの世界と融合しないといけないのです。
想定ごと消え去ってしまいます。
つまり私という認識、空っぽという認識は、その時は、もうない。
そこが、リアルである、未知の奇跡、世界。
毎日の日常なのです。
それは、いいことばかりでも、わるいことばかりでもない。
結構、単純な事ですね。
で、まあ、そのまんまを、そのまんま流しているわけですが、そこに、どうすればいけるのかと言われれば、もう、そこにいますと言うしかない。
どうして、このような質問がでるかというと、素晴らしいものだと思っているからです。
まあ実際、素晴らしいのですが、それは、ただ、あるがままでOKと分かる事が、肩の荷を降ろさせる事が素晴らしいのです。
幸運が舞い降りてくるとか、何か超人的な体験があるとかは関係ない。
関係ないからと言ってないわけではありませんよ。
そういう体験は、確かにあります。
でも、そこで言われている事と仏教での「悟り」は別なのです。
真我体験も、別、ですね。
また全体とひとつ、ワンネスの世界も関係ありません。
それは、素晴らしいものですが、そういったことが、最初から、あるがままに、流れるがままに自己のコントロール外で起こっているのです。
やる前に有る。
だから、その目の前のリアルに帰ったら終わりなのです。
そこが神の世界、生命の世界。
そこが、どうして伝わらないのか。
欲望が原因です。
欲望とは「こうであってほしい」「わたしのもの」ですね。
その2つの力が、真理を、そのまま見る事を、感じることを妨げるのです。
ここで考え、そのものに対応しようとしても難しい。
ですから体の感覚に帰るのが、一番、早道なのであります。
体は、いつも「いまここ」です。
その昔、僕に教えてくださった高名な先生が「体は私ではないが、体があって私が生きている」と言いました。
その通りだ!
この感覚に帰ることで、つまり、生命―生きている事―と繋がるので、それは対象ではあるが、そこと融合しているのが、真の私なのである。
分離されない。
あ、ここで、分離で思い出したのですが、もう一つの、勘違い。
観照者が自己であるとか観照行為が自己であるというのが、あります。
これは、僕が一番、嵌ったやつですね。
この観照者から自己が落ちなくてはならないのです。
そして、観照だけが、残ります。
その観照意識は、心から、真我から生まれているのです。
そして、それが照らし出したリアルが、観照意識が落ちた時に、真我に踊りこんでくる。
融合する。
その時に私が真に消えるのです。
観照しているものは、そのとき、いないです。
想定されるものは、存在していない。
ですから、自分が、悟りましたと言うより、最初から悟っている。
それを妨害している自己意識、自我意識、「私という思い」があるだけなのです。
ね。
空っぽを想定したりしているのは、まあ、卵の殻を認識しているだけです。
それを悟り、とか、真の意識だとか言うのはアホらしい(爆笑)
だって、そこは、誰でも、そこに、苦しめられている監視者の正体、自我の正体なんですよ。
その空っぽとか、真の意識を想定しているイメージしている機能が、自我の正体です。
だから、そこから私を消し、胸がハートが開き、現実が踊り込めば、この監視者はお手上げして、敗北して、完全に自由な真我が生きているのです。
もう、超、新鮮にwww
これだけ毎日、分かりやすく、書いているつもりなのですが、どこにも反応が見られませんねー、笑
どのページを拝見しても「特別な悟り」「特別な体験」「特別な私」ばっかり。
そんなものは最初から、誰もが、特別なのだ。
ユニークなんだ。
天上天下唯我独尊なのだ。
なにせ、ひとりのひとは宇宙なんだよ?
でも、その特別な自己が、他の人に、惑わされてしまう。
誰かになる必要も、認められる必要もないのだ。
自分自身が納得して、心底、悩みが消えたら、それが悟りなのです。
そのための内容はいろいろあって、どれでもいい。
結局、何が言いたいのか。
特別な、神聖な自分であるように努力する事でないということです。
あるがまま、つまり、このままの自分を受け入れることですね。
いいこともわるいこともない。
ただ最初から、自然に、花開いている、全体としての自己。
この中に「思いとしての私」が張り付いている。
私が、私に怒っている。
そのところを、怒りが私に起こっているのではなく、ただ、無心に現れている現象だと捉えているということです。
しかし、これが、認識されたら、もう、囚われているだけです。
跡を残さない。
その場、その場で、全部、移り変わっているでしょう。
諸行無常であるがゆえに清浄の行が成るのだと釈迦が言っています。
このことです。
ただ過ぎ去る自然が、自己を消去している。
融合している。
それは体が、リラックスして、ハートが開かれている事なのです。
未知のリアルな現実が、私を生きていること。
虚無の中心から溢れる生命が、魂を震わせている奇跡なのです。
人生は神様からの贈り物。
ピータースの至高の言葉です。
贈り物の、プレゼントの中身は未知なのです。
だから精神世界に騙されないでください。
あるがままの、あなたは、セミナーや囲まれた空間だけで実現するわけではありません。
日常の、平凡さの中に、奇跡があるのです。
特別な事の中には、ないのです。
今日の家族との、また友人との、仕事仲間との触れ合い。
心の触れ合いの中に、ナチュラルに、最初からあるのです。
修行しなくてOKです。
なにものかに成るために、誰かの言葉を持ち運ぶ必要は皆無です!!!!
あなたは最初から神の分光なのです。
おはようございます。
今日は8時半ごろに目覚めました豊田です。
千鶴さんの夢の話を聞く。
100人くらいの人が出てきたらしい。
しばらく話して「ありがとう」を言いながら洗面へ行く。
昨日、見たインターネット情報では「ありがとう」を1万回言うといいことがあり、5万回言うと奇跡が起こるらしいですw
まあ、感謝だから、もう、すでに奇跡が起こってるんだけどね、苦笑
《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
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それから座禅50分。
千鶴さんから「背中が曲がっているなり!」とか「何か、ゆらゆら揺れているなり、笑」とか指摘されました。
まあ、相変わらずのヘッポコ座禅、でも、効果あり。
それは、その、何かが目覚めるのです。
エネルギー的な「何か」です。
その「何か」は姿勢、動作、感覚、感情、思考、精神のすべてを在らしめながら、透明に、浸透しているのでありますね。
その力は、無敵ですwww
座禅を終えるとコーヒーを淹れて読書です。
玄関脇で、煙草吸いながら、至福のタイム。
形みたいなものはないんだと書いてあります。
女に抱きつかれた坊主が「興味ない」と言うのを聞いた、その娘の婆さんが、怒って建物ごと焼き払ってしまった。
この嘘吐きw
女に興味なくてもいいのだが、嘘、だといかんです。
本当は興味あるのに、ない、というのはナチュラルではありません。
その逆もまたありますね。
不邪淫というのはノーマルでないセックスは駄目ということですよ。
ノーマルではないとは、愛情のない不倫だとか、また、変わった趣味とか、そういうものですな。
愛情と暴力があって、暴力が基調になりがちですね男性は。
まあ、いいやw
えーっと、読書を終えると、ブログ更新です。
千鶴さんに味噌汁作ってと頼んでいたので報告に来てくれた。
それはいいのだけど「宇宙戦艦ヤマト」を熱唱しながらブログ更新している僕の頭を枕で殴る・・・・・・。
僕「なにすんの!」
千鶴さん「こうしやんと治らんかなと」
って、オイwww
まあ、あとで食べると言って、更新を続けています。
今は『銀河鉄道999』を聞いている。
いいですなあ、この曲。
さて、何かありますかね。
えーっと、結局、何も想定されたものはないのです。
この間も精神世界のブログを見ていたら「からっぽ」を想定してくださいなんて、書かれていましたが、そんなことじゃない。
想定されたイメージされた空は、思念の創作なのです。
実際は空とは、無のことです。
その虚無の空っぽの心(意識)に全体というか、自己の世界が映っている。
この空っぽは感情的なもので、想定はできないのです。
体験はできるが、それも、感覚的なものです。
例えば、有名な方法で、頭がないと感じるとかもありますね。
これも、頭の中で想像するものではない。
ここのところの勘違いは根深いものがあります。
僕も同じところにいたから、よく分かるのですよ。
その時は、想定された世界に、逃避した自我が、現実世界を遠ざけています。
そうなると虚無といっても、小さな実感のない穴倉みたいなところへ行く。
まあ、絶望して逃避すると、そうなります。
そこも、間違えてはいないのですが、その想定された「空」がリアルの世界と融合しないといけないのです。
想定ごと消え去ってしまいます。
つまり私という認識、空っぽという認識は、その時は、もうない。
そこが、リアルである、未知の奇跡、世界。
毎日の日常なのです。
それは、いいことばかりでも、わるいことばかりでもない。
結構、単純な事ですね。
で、まあ、そのまんまを、そのまんま流しているわけですが、そこに、どうすればいけるのかと言われれば、もう、そこにいますと言うしかない。
どうして、このような質問がでるかというと、素晴らしいものだと思っているからです。
まあ実際、素晴らしいのですが、それは、ただ、あるがままでOKと分かる事が、肩の荷を降ろさせる事が素晴らしいのです。
幸運が舞い降りてくるとか、何か超人的な体験があるとかは関係ない。
関係ないからと言ってないわけではありませんよ。
そういう体験は、確かにあります。
でも、そこで言われている事と仏教での「悟り」は別なのです。
真我体験も、別、ですね。
また全体とひとつ、ワンネスの世界も関係ありません。
それは、素晴らしいものですが、そういったことが、最初から、あるがままに、流れるがままに自己のコントロール外で起こっているのです。
やる前に有る。
だから、その目の前のリアルに帰ったら終わりなのです。
そこが神の世界、生命の世界。
そこが、どうして伝わらないのか。
欲望が原因です。
欲望とは「こうであってほしい」「わたしのもの」ですね。
その2つの力が、真理を、そのまま見る事を、感じることを妨げるのです。
ここで考え、そのものに対応しようとしても難しい。
ですから体の感覚に帰るのが、一番、早道なのであります。
体は、いつも「いまここ」です。
その昔、僕に教えてくださった高名な先生が「体は私ではないが、体があって私が生きている」と言いました。
その通りだ!
この感覚に帰ることで、つまり、生命―生きている事―と繋がるので、それは対象ではあるが、そこと融合しているのが、真の私なのである。
分離されない。
あ、ここで、分離で思い出したのですが、もう一つの、勘違い。
観照者が自己であるとか観照行為が自己であるというのが、あります。
これは、僕が一番、嵌ったやつですね。
この観照者から自己が落ちなくてはならないのです。
そして、観照だけが、残ります。
その観照意識は、心から、真我から生まれているのです。
そして、それが照らし出したリアルが、観照意識が落ちた時に、真我に踊りこんでくる。
融合する。
その時に私が真に消えるのです。
観照しているものは、そのとき、いないです。
想定されるものは、存在していない。
ですから、自分が、悟りましたと言うより、最初から悟っている。
それを妨害している自己意識、自我意識、「私という思い」があるだけなのです。
ね。
空っぽを想定したりしているのは、まあ、卵の殻を認識しているだけです。
それを悟り、とか、真の意識だとか言うのはアホらしい(爆笑)
だって、そこは、誰でも、そこに、苦しめられている監視者の正体、自我の正体なんですよ。
その空っぽとか、真の意識を想定しているイメージしている機能が、自我の正体です。
だから、そこから私を消し、胸がハートが開き、現実が踊り込めば、この監視者はお手上げして、敗北して、完全に自由な真我が生きているのです。
もう、超、新鮮にwww
これだけ毎日、分かりやすく、書いているつもりなのですが、どこにも反応が見られませんねー、笑
どのページを拝見しても「特別な悟り」「特別な体験」「特別な私」ばっかり。
そんなものは最初から、誰もが、特別なのだ。
ユニークなんだ。
天上天下唯我独尊なのだ。
なにせ、ひとりのひとは宇宙なんだよ?
でも、その特別な自己が、他の人に、惑わされてしまう。
誰かになる必要も、認められる必要もないのだ。
自分自身が納得して、心底、悩みが消えたら、それが悟りなのです。
そのための内容はいろいろあって、どれでもいい。
結局、何が言いたいのか。
特別な、神聖な自分であるように努力する事でないということです。
あるがまま、つまり、このままの自分を受け入れることですね。
いいこともわるいこともない。
ただ最初から、自然に、花開いている、全体としての自己。
この中に「思いとしての私」が張り付いている。
私が、私に怒っている。
そのところを、怒りが私に起こっているのではなく、ただ、無心に現れている現象だと捉えているということです。
しかし、これが、認識されたら、もう、囚われているだけです。
跡を残さない。
その場、その場で、全部、移り変わっているでしょう。
諸行無常であるがゆえに清浄の行が成るのだと釈迦が言っています。
このことです。
ただ過ぎ去る自然が、自己を消去している。
融合している。
それは体が、リラックスして、ハートが開かれている事なのです。
未知のリアルな現実が、私を生きていること。
虚無の中心から溢れる生命が、魂を震わせている奇跡なのです。
人生は神様からの贈り物。
ピータースの至高の言葉です。
贈り物の、プレゼントの中身は未知なのです。
だから精神世界に騙されないでください。
あるがままの、あなたは、セミナーや囲まれた空間だけで実現するわけではありません。
日常の、平凡さの中に、奇跡があるのです。
特別な事の中には、ないのです。
今日の家族との、また友人との、仕事仲間との触れ合い。
心の触れ合いの中に、ナチュラルに、最初からあるのです。
修行しなくてOKです。
なにものかに成るために、誰かの言葉を持ち運ぶ必要は皆無です!!!!
あなたは最初から神の分光なのです。