初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
今日は13時10分に起床しました。
千鶴さんと悠聖に起こされる。
それから洗面をして座禅を40分します。
悠聖が顔を叩いたり、ツンツンしたり、口に指を入れたり、抱き着いて来る。
千鶴さんが連れていく。
座禅を終えると読書です。
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コーヒーと煙草も楽しみます。
悠聖の妨害、遊んで攻撃と、動き回り攻撃で切れてしまった。
そしたら千鶴さんはその倍の勢いでブチ切れ三昧……orz
焼きそばと残飯を食べる。
読書を終えてから、着替えを済ませる。
千鶴さんがストレスチェックというゲームをして79%だというので僕もやる。
なんと1パーセントww
現代のストレス社会で、これは、タフネスエンペラーみたいなコメントでしたwwwww
で、悠聖のオムツを替えてから、ブログの更新へ来ます。
相変わらず、悠聖、千鶴さん、母親、父親の会話は喧騒を振りまいている。
ドアをバンバンする悠聖に母親と千鶴さんが怒って、父親は笑っている。
さて宗教やスピリチュアルが敬遠されている理由は、もちろん新興宗教などの影響もありますが、それ以外にも重要な点があります。
興味を持って書籍なんかを読んでも、なんのことやらチンプンカンプンです。
とりあえず、この道は凄いことで、人間を高次の意識状態へ導く、云々wwwww
は?
まず、高次の意識状態とは、何なのかの説明が延々とあり、しかし、それに近づくには、長期の自己修練が必要ですとくる。
え?
そんなんいらんし、今のままで十分だしとなって終わりますwwww
そうでなくても、意識的に読んだとしても、そのエクササイズの意味が分からず、続かない。
呼吸と、血液のテンポと運動神経を統御するために集中力を鍛えると読んでも、それが事実実際、どのようなことなのか分からない。
胡散臭い。
で、それらを達成しているのは、どうも全世界で1パーセントにも満たないようじゃないか。
周りを見回しても宗教と言えば、危険という見方ばかりです。
誰も見向きもしません。
しかしですよ。
心の問題を取り扱った書籍なんかは爆発的に売れたりします。
例えばアドラーの心理学についての本などです。
つまり、本当は、苦の滅尽に興味があるのですが、宗教には、その力はなく、逆に、苦に導くとすら思われている。
だから、まず、この傾向を打破しなくてはいけないでしょう。
事実は、禅の在り方は、完全に苦を解消していきますし、その確実性は心理学の比ではありません。
それは任せっきりにすることなのです。
その任せっきりにしているというのは、首の後ろでピーンと自我が起こっても捕えない、ただ開いているのです。
開いているというのは、目の前のことに、オープンであることですね。
しかし、これは無理に、明るくするとかでもありません。
ただ、自分のままに、開放する。
自分が自分でいることに寛いでいるということが、任せっきりなのです。
リラックスして、ただ、起こるがままに受け身でいてみてください。
それが、禅です。
なんと、その単純なことが、主客一如であったり、心身一如であったり非二元、またそれ以外にも様々な言葉になっていく。
さっぱり分からんわい!
ただ、ここで開いているとか、あなたはわたしというのは離れていないことです。
離れていないというのは、頭の中で、自分を分離した存在として認識していないだけなのです。
それは、禅、つまり「いまここ」に何もしないでいることですね。
何もしないというのは、ただ、目の前のことに対応しているのであります。
だから、何もしないことではないが、自分の意識が、それに抵抗をしていないのです。
ってこれもまた、変な方向に複雑化させる。
もっと単純に言えば『不識』ですね。
つまり、あーだこーだと言わない『わしゃ知らん』ですww
そして、釈迦は『平静な心構えと清らかな思い』とそれを表現したのです。
それは想いや、心の内容のことではありません。
それらがスーッと静まっていることを言っているのです。
これらのことをすれば、世界は輝きます。
それを蓮華蔵世界と表現したのです。
まあ今日はこの辺りで!
バイバイ。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
今日は13時10分に起床しました。
千鶴さんと悠聖に起こされる。
それから洗面をして座禅を40分します。
悠聖が顔を叩いたり、ツンツンしたり、口に指を入れたり、抱き着いて来る。
千鶴さんが連れていく。
座禅を終えると読書です。
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悠聖の妨害、遊んで攻撃と、動き回り攻撃で切れてしまった。
そしたら千鶴さんはその倍の勢いでブチ切れ三昧……orz
焼きそばと残飯を食べる。
読書を終えてから、着替えを済ませる。
千鶴さんがストレスチェックというゲームをして79%だというので僕もやる。
なんと1パーセントww
現代のストレス社会で、これは、タフネスエンペラーみたいなコメントでしたwwwww
で、悠聖のオムツを替えてから、ブログの更新へ来ます。
相変わらず、悠聖、千鶴さん、母親、父親の会話は喧騒を振りまいている。
ドアをバンバンする悠聖に母親と千鶴さんが怒って、父親は笑っている。
さて宗教やスピリチュアルが敬遠されている理由は、もちろん新興宗教などの影響もありますが、それ以外にも重要な点があります。
興味を持って書籍なんかを読んでも、なんのことやらチンプンカンプンです。
とりあえず、この道は凄いことで、人間を高次の意識状態へ導く、云々wwwww
は?
まず、高次の意識状態とは、何なのかの説明が延々とあり、しかし、それに近づくには、長期の自己修練が必要ですとくる。
え?
そんなんいらんし、今のままで十分だしとなって終わりますwwww
そうでなくても、意識的に読んだとしても、そのエクササイズの意味が分からず、続かない。
呼吸と、血液のテンポと運動神経を統御するために集中力を鍛えると読んでも、それが事実実際、どのようなことなのか分からない。
胡散臭い。
で、それらを達成しているのは、どうも全世界で1パーセントにも満たないようじゃないか。
周りを見回しても宗教と言えば、危険という見方ばかりです。
誰も見向きもしません。
しかしですよ。
心の問題を取り扱った書籍なんかは爆発的に売れたりします。
例えばアドラーの心理学についての本などです。
つまり、本当は、苦の滅尽に興味があるのですが、宗教には、その力はなく、逆に、苦に導くとすら思われている。
だから、まず、この傾向を打破しなくてはいけないでしょう。
事実は、禅の在り方は、完全に苦を解消していきますし、その確実性は心理学の比ではありません。
それは任せっきりにすることなのです。
その任せっきりにしているというのは、首の後ろでピーンと自我が起こっても捕えない、ただ開いているのです。
開いているというのは、目の前のことに、オープンであることですね。
しかし、これは無理に、明るくするとかでもありません。
ただ、自分のままに、開放する。
自分が自分でいることに寛いでいるということが、任せっきりなのです。
リラックスして、ただ、起こるがままに受け身でいてみてください。
それが、禅です。
なんと、その単純なことが、主客一如であったり、心身一如であったり非二元、またそれ以外にも様々な言葉になっていく。
さっぱり分からんわい!
ただ、ここで開いているとか、あなたはわたしというのは離れていないことです。
離れていないというのは、頭の中で、自分を分離した存在として認識していないだけなのです。
それは、禅、つまり「いまここ」に何もしないでいることですね。
何もしないというのは、ただ、目の前のことに対応しているのであります。
だから、何もしないことではないが、自分の意識が、それに抵抗をしていないのです。
ってこれもまた、変な方向に複雑化させる。
もっと単純に言えば『不識』ですね。
つまり、あーだこーだと言わない『わしゃ知らん』ですww
そして、釈迦は『平静な心構えと清らかな思い』とそれを表現したのです。
それは想いや、心の内容のことではありません。
それらがスーッと静まっていることを言っているのです。
これらのことをすれば、世界は輝きます。
それを蓮華蔵世界と表現したのです。
まあ今日はこの辺りで!
バイバイ。