初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は13時10分ごろに起きてきました。
千鶴さんが起こしてくれるが、今朝がたは8時半ごろまで起きていたので眠くて抵抗する。
すると悠聖がトコトコ歩いてきてユラユラと僕の体を揺らし一言。
「いつまでか、寝とったアカンに!」
爆笑!
これで一気に目が覚めました。
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このごろ、たまにハッキリしたことを言うようになってきた。
今日は千鶴さんを駅まで送るので時間がありません。
洗面はスルーしていきなり座禅40分します。
めずらしく悠聖はから絡みに来なかった。
両足を組むのがまだ慣れず、座禅を終えて足を解くのが苦痛である。
座禅を終えると読書です。
コーヒーと煙草のいつものパターン。
今日は快晴で、千鶴さんの機嫌もよく、悠聖の相手をしてくれる。
お蔭で、読書も進んだ。
悠聖は、滑り台で遊んだり、いつものように「アッ! アッ!」と叫んで上空を指さす。
新しい宇宙像は夢と催眠の話の続きです。
読み終えると、食事ですが、何もないのでラーメンを作る。
南くんから連絡があったので作りながら電話します。
電話を終えてから食べる。
それから煙草を満喫してきて、下腹体操ですね。
足を垂直に上げて、降ろしているだけだが、なんか背中が痛くなる。
テレビで替え歌選手権をやっていて、千鶴さんと見た。
で、着替えを済ませて、煙草を吸ってからブログ更新へ来たのでした。
さて心と宗教のテーマです。
昨日、書いた部分で予想されるツッコミ。
自分自身に帰るのに自分を忘れるとは、分けわからんぞ、テメエ!
と、そうなのですww
このところが核心なのですね。
自分の在り方が、実は、理解されていないのです。
実は、この自分というのは全体なのです。
しかも、その全体というのは、どういう仕組みなのかは分かりませんが、次々と縁に触れて出来事が起こってきます。
ところが、僕の指摘する、私を忘れるの私は、この出来事の中で、自分の体、もしくは感情、もしくは思考、もしくは空想が私だと決めて譲りません。
そうして自分が対象を見ていると思い込んでいるのです。
だから、その錯覚を訂正していくために、自分自身に寛いでおくことが必要なのです。
自分→対象と考えているが、この対象を見ている自己が普段、無意識下なのです。
だから、自分を見ないといけません。
すると、注意する力→自己と対象となります。
自己と対象は、意識の中で平等に現れては消えていて、自己のコントロール下にはありませんね。
生老病死すべてが、自然の働きです。
で、私とは、この自然の働きの中の一部分、つまり肉体だけだと普段思われているんです。
しかし、この意味では、全体が自己となります。
しかし、この自己は、全体、つまり、コントロール外の想像力なのです。
複雑ですかね?
私は在るという意味の私は、この全体を成立させている未知なる想像力を指しているのです。
そして、私がいないという時の私は、この全体と切り離された自己という区分がないという意味です。
ですから私に帰るというのは五感のままに、まかせっきりにしていることです。
その中に、抵抗を持たずに、流れている諸行無常ままに置いておくことなのです。
実際に、この自己以外に世界にはいません。
この自分自身が、すべてなのですが、それを小さな肉体だと信じ込んでいるのです。
耳が聴いたと言うから、耳が登場するのだが、その前に音が聞こえている。
もう耳と音と分けることもできない。
非二元ですね。
ここに辿り着くのは、執着を離れることですが、それが簡単にシンプルに達成できるのが禅なのです。
それは、自分自身のままに寛いでいることです。
あるがままに……
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は13時10分ごろに起きてきました。
千鶴さんが起こしてくれるが、今朝がたは8時半ごろまで起きていたので眠くて抵抗する。
すると悠聖がトコトコ歩いてきてユラユラと僕の体を揺らし一言。
「いつまでか、寝とったアカンに!」
爆笑!
これで一気に目が覚めました。
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今日は千鶴さんを駅まで送るので時間がありません。
洗面はスルーしていきなり座禅40分します。
めずらしく悠聖はから絡みに来なかった。
両足を組むのがまだ慣れず、座禅を終えて足を解くのが苦痛である。
座禅を終えると読書です。
コーヒーと煙草のいつものパターン。
今日は快晴で、千鶴さんの機嫌もよく、悠聖の相手をしてくれる。
お蔭で、読書も進んだ。
悠聖は、滑り台で遊んだり、いつものように「アッ! アッ!」と叫んで上空を指さす。
新しい宇宙像は夢と催眠の話の続きです。
読み終えると、食事ですが、何もないのでラーメンを作る。
南くんから連絡があったので作りながら電話します。
電話を終えてから食べる。
それから煙草を満喫してきて、下腹体操ですね。
足を垂直に上げて、降ろしているだけだが、なんか背中が痛くなる。
テレビで替え歌選手権をやっていて、千鶴さんと見た。
で、着替えを済ませて、煙草を吸ってからブログ更新へ来たのでした。
さて心と宗教のテーマです。
昨日、書いた部分で予想されるツッコミ。
自分自身に帰るのに自分を忘れるとは、分けわからんぞ、テメエ!
と、そうなのですww
このところが核心なのですね。
自分の在り方が、実は、理解されていないのです。
実は、この自分というのは全体なのです。
しかも、その全体というのは、どういう仕組みなのかは分かりませんが、次々と縁に触れて出来事が起こってきます。
ところが、僕の指摘する、私を忘れるの私は、この出来事の中で、自分の体、もしくは感情、もしくは思考、もしくは空想が私だと決めて譲りません。
そうして自分が対象を見ていると思い込んでいるのです。
だから、その錯覚を訂正していくために、自分自身に寛いでおくことが必要なのです。
自分→対象と考えているが、この対象を見ている自己が普段、無意識下なのです。
だから、自分を見ないといけません。
すると、注意する力→自己と対象となります。
自己と対象は、意識の中で平等に現れては消えていて、自己のコントロール下にはありませんね。
生老病死すべてが、自然の働きです。
で、私とは、この自然の働きの中の一部分、つまり肉体だけだと普段思われているんです。
しかし、この意味では、全体が自己となります。
しかし、この自己は、全体、つまり、コントロール外の想像力なのです。
複雑ですかね?
私は在るという意味の私は、この全体を成立させている未知なる想像力を指しているのです。
そして、私がいないという時の私は、この全体と切り離された自己という区分がないという意味です。
ですから私に帰るというのは五感のままに、まかせっきりにしていることです。
その中に、抵抗を持たずに、流れている諸行無常ままに置いておくことなのです。
実際に、この自己以外に世界にはいません。
この自分自身が、すべてなのですが、それを小さな肉体だと信じ込んでいるのです。
耳が聴いたと言うから、耳が登場するのだが、その前に音が聞こえている。
もう耳と音と分けることもできない。
非二元ですね。
ここに辿り着くのは、執着を離れることですが、それが簡単にシンプルに達成できるのが禅なのです。
それは、自分自身のままに寛いでいることです。
あるがままに……