初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日も13時10分ごろに起床しました。
千鶴さんと悠聖が起こしてくる。
いつもの如く、戯れてから洗面を済ませます。
座禅40分は淡々と座る。
千鶴さんが機嫌が悪く悠聖に怒鳴り散らしていた。
悠聖はたまに邪魔しにきて、足の上に乗ったり、顔を叩く、いつものパターン。
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座禅を終えると読書です。
新しい宇宙像の『夢と催眠』の話。
読んでいる間も、悠聖の相手をするので集中できないのもいつものことです。
煙草、コーヒーを楽しむ。
読書を終えると寄せ鍋ですね。
千鶴さんの作る鍋料理は、なかなか美味しいです。
みんなでワイワイ食べ終わってから、着替えをする。
悠聖は眠っていった。
下腹体操をするのを忘れていたので、ここでする。
そのあとでブログの更新へ来たのでした。
さて、心と宗教のテーマへ移ります。
昨日書いたように、この宗教というのは自分自身に出会う道です。
普段は無意識にしている、この己が、どのようにして在るのかを正確に知ることです。
そして、それを知ることが家族関係、社会関係、自然との関係、土地との関係、すべてに改善を齎します。
内面の変化のことですね。
外面的には、もちろん、今までのように、社会生活をしますが、その内面が平静になる。
平静にあることで、ある程度の余裕ができ、その余裕が、争いを無くすのです。
つまり、心のスペースに空きができるわけですね。
で、実際に、そのことを進めていく上で色々な課題がありますが、もちろん基本は自分自身を見るということです。
どのような宗教でも基本は、自覚です。
この自覚の方法が、様々にあるのですが、それは思考、感情、動作の、どれを起点とするかによって分かれています。
どこを鍛えるかですね。
様々な方法があるわけですが、どのような書籍を見てみても、分かったようで、分からない。
或いは、読んでいる内は、分かったつもりになるが、実生活で、何の役にも立たないこともあります。
スピリチュアルのセミナー等に僕は批判的ですが、それは、その空間内では確かに利益があり、その体験は本物なのですが、それが、その場の力で成し遂げられており、自分自身の力ではないからなのです。
そうなってしまうと、その場を作らないといけなくなります。
それで、その空間に依存した人たちの輪が出来上がり、更に、教えている側も、その依存者に依存する傾向が出てきます。
そうなってくるとカルト宗教の出来上がりですね。
これは、何かというと、その場と社会が切り離されてしまう事なのです。
つまり真理を、この場合、感情を通じた恍惚感の場合が多いのですが、他者や環境に依存した形で提供するのです。
これは僕が徹底して駄目だと思っていることで、ハッキリとは書いていませんが、今まで何度も暗に示していると思います。
そうではなくて社会の中で、つまり日常の中で、この自己に帰る道が実現しているのが宗教なのです。
それは他者や環境に依存した要素はゼロです。
徹底的に、自分自身の理解の中での出来事で、禅寺に行かないと達成されないことではありません。
この、ことが、理解できない人たちは、所謂、共同幻想の中で、社会と対立する。
ですので、この道を進めるためには、自分自身の理解を頼りにしないといけません。
つまり信じる必要はないということです。
誰かが言っているから、そのまま、鵜呑みにしてしまうと自分のものではない。
具体的に、この自分を見るということをするのは、超基礎として、自分の動作に意識を向ける事なのです。
普段、無意識に動作しています。
しかし、これでも煩雑な場合は、自分自身に寛ぐことですね。
この寛ぐというのは、何があっても、それを固定的なものと見做さないことで達成されます。
すべてが流れていくのです。
これらのことを、する人がいなくなることですね。
つまり、私が登場した時点で、何もかもが、不可能になります。
寛ぐには、私が忘れられている必要がありますが、それは、自分自身ではなく、自我『私のもの』という思いだけなのです。
今日は、この辺りで!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日も13時10分ごろに起床しました。
千鶴さんと悠聖が起こしてくる。
いつもの如く、戯れてから洗面を済ませます。
座禅40分は淡々と座る。
千鶴さんが機嫌が悪く悠聖に怒鳴り散らしていた。
悠聖はたまに邪魔しにきて、足の上に乗ったり、顔を叩く、いつものパターン。
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新しい宇宙像の『夢と催眠』の話。
読んでいる間も、悠聖の相手をするので集中できないのもいつものことです。
煙草、コーヒーを楽しむ。
読書を終えると寄せ鍋ですね。
千鶴さんの作る鍋料理は、なかなか美味しいです。
みんなでワイワイ食べ終わってから、着替えをする。
悠聖は眠っていった。
下腹体操をするのを忘れていたので、ここでする。
そのあとでブログの更新へ来たのでした。
さて、心と宗教のテーマへ移ります。
昨日書いたように、この宗教というのは自分自身に出会う道です。
普段は無意識にしている、この己が、どのようにして在るのかを正確に知ることです。
そして、それを知ることが家族関係、社会関係、自然との関係、土地との関係、すべてに改善を齎します。
内面の変化のことですね。
外面的には、もちろん、今までのように、社会生活をしますが、その内面が平静になる。
平静にあることで、ある程度の余裕ができ、その余裕が、争いを無くすのです。
つまり、心のスペースに空きができるわけですね。
で、実際に、そのことを進めていく上で色々な課題がありますが、もちろん基本は自分自身を見るということです。
どのような宗教でも基本は、自覚です。
この自覚の方法が、様々にあるのですが、それは思考、感情、動作の、どれを起点とするかによって分かれています。
どこを鍛えるかですね。
様々な方法があるわけですが、どのような書籍を見てみても、分かったようで、分からない。
或いは、読んでいる内は、分かったつもりになるが、実生活で、何の役にも立たないこともあります。
スピリチュアルのセミナー等に僕は批判的ですが、それは、その空間内では確かに利益があり、その体験は本物なのですが、それが、その場の力で成し遂げられており、自分自身の力ではないからなのです。
そうなってしまうと、その場を作らないといけなくなります。
それで、その空間に依存した人たちの輪が出来上がり、更に、教えている側も、その依存者に依存する傾向が出てきます。
そうなってくるとカルト宗教の出来上がりですね。
これは、何かというと、その場と社会が切り離されてしまう事なのです。
つまり真理を、この場合、感情を通じた恍惚感の場合が多いのですが、他者や環境に依存した形で提供するのです。
これは僕が徹底して駄目だと思っていることで、ハッキリとは書いていませんが、今まで何度も暗に示していると思います。
そうではなくて社会の中で、つまり日常の中で、この自己に帰る道が実現しているのが宗教なのです。
それは他者や環境に依存した要素はゼロです。
徹底的に、自分自身の理解の中での出来事で、禅寺に行かないと達成されないことではありません。
この、ことが、理解できない人たちは、所謂、共同幻想の中で、社会と対立する。
ですので、この道を進めるためには、自分自身の理解を頼りにしないといけません。
つまり信じる必要はないということです。
誰かが言っているから、そのまま、鵜呑みにしてしまうと自分のものではない。
具体的に、この自分を見るということをするのは、超基礎として、自分の動作に意識を向ける事なのです。
普段、無意識に動作しています。
しかし、これでも煩雑な場合は、自分自身に寛ぐことですね。
この寛ぐというのは、何があっても、それを固定的なものと見做さないことで達成されます。
すべてが流れていくのです。
これらのことを、する人がいなくなることですね。
つまり、私が登場した時点で、何もかもが、不可能になります。
寛ぐには、私が忘れられている必要がありますが、それは、自分自身ではなく、自我『私のもの』という思いだけなのです。
今日は、この辺りで!