豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自己の理解に重きを置く

2016-01-08 16:32:02 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

本日も13時10分ごろに起床しました。

千鶴さんと悠聖が起こしてくる。

いつもの如く、戯れてから洗面を済ませます。

座禅40分は淡々と座る。

千鶴さんが機嫌が悪く悠聖に怒鳴り散らしていた。

悠聖はたまに邪魔しにきて、足の上に乗ったり、顔を叩く、いつものパターン。



《いつも応援クリック、ありがとうございます!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



座禅を終えると読書です。

新しい宇宙像の『夢と催眠』の話。

読んでいる間も、悠聖の相手をするので集中できないのもいつものことです。

煙草、コーヒーを楽しむ。

読書を終えると寄せ鍋ですね。

千鶴さんの作る鍋料理は、なかなか美味しいです。

みんなでワイワイ食べ終わってから、着替えをする。

悠聖は眠っていった。

下腹体操をするのを忘れていたので、ここでする。

そのあとでブログの更新へ来たのでした。


さて、心と宗教のテーマへ移ります。

昨日書いたように、この宗教というのは自分自身に出会う道です。

普段は無意識にしている、この己が、どのようにして在るのかを正確に知ることです。

そして、それを知ることが家族関係、社会関係、自然との関係、土地との関係、すべてに改善を齎します。

内面の変化のことですね。

外面的には、もちろん、今までのように、社会生活をしますが、その内面が平静になる。

平静にあることで、ある程度の余裕ができ、その余裕が、争いを無くすのです。

つまり、心のスペースに空きができるわけですね。


で、実際に、そのことを進めていく上で色々な課題がありますが、もちろん基本は自分自身を見るということです。

どのような宗教でも基本は、自覚です。

この自覚の方法が、様々にあるのですが、それは思考、感情、動作の、どれを起点とするかによって分かれています。

どこを鍛えるかですね。


様々な方法があるわけですが、どのような書籍を見てみても、分かったようで、分からない。

或いは、読んでいる内は、分かったつもりになるが、実生活で、何の役にも立たないこともあります。

スピリチュアルのセミナー等に僕は批判的ですが、それは、その空間内では確かに利益があり、その体験は本物なのですが、それが、その場の力で成し遂げられており、自分自身の力ではないからなのです。

そうなってしまうと、その場を作らないといけなくなります。

それで、その空間に依存した人たちの輪が出来上がり、更に、教えている側も、その依存者に依存する傾向が出てきます。

そうなってくるとカルト宗教の出来上がりですね。

これは、何かというと、その場と社会が切り離されてしまう事なのです。

つまり真理を、この場合、感情を通じた恍惚感の場合が多いのですが、他者や環境に依存した形で提供するのです。

これは僕が徹底して駄目だと思っていることで、ハッキリとは書いていませんが、今まで何度も暗に示していると思います。


そうではなくて社会の中で、つまり日常の中で、この自己に帰る道が実現しているのが宗教なのです。

それは他者や環境に依存した要素はゼロです。

徹底的に、自分自身の理解の中での出来事で、禅寺に行かないと達成されないことではありません。

この、ことが、理解できない人たちは、所謂、共同幻想の中で、社会と対立する。


ですので、この道を進めるためには、自分自身の理解を頼りにしないといけません。

つまり信じる必要はないということです。

誰かが言っているから、そのまま、鵜呑みにしてしまうと自分のものではない。


具体的に、この自分を見るということをするのは、超基礎として、自分の動作に意識を向ける事なのです。

普段、無意識に動作しています。

しかし、これでも煩雑な場合は、自分自身に寛ぐことですね。

この寛ぐというのは、何があっても、それを固定的なものと見做さないことで達成されます。

すべてが流れていくのです。


これらのことを、する人がいなくなることですね。

つまり、私が登場した時点で、何もかもが、不可能になります。

寛ぐには、私が忘れられている必要がありますが、それは、自分自身ではなく、自我『私のもの』という思いだけなのです。


今日は、この辺りで!