初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日も13時10分ごろに起床しました。
千鶴さんと悠聖が起こしてくる。
外で親戚の伯父さん、伯母さんの声がする。
悠聖連れて挨拶に行っておいでと、千鶴さんに頼む。
洗面を済ませて座禅を40分します。
相変わらず、悠聖の攻撃が続きますが、今日は、組んだ足の上に乗って飛ぶので、足が崩れた。
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それを直すために動いてしまう。
更に、顔叩き、口に指を入れる、抱き着くのはいいのですが、なんと、目潰しの技を覚えたようなのですww
これには、流石に交わさざるを得ません。
あんまりにもシツコイので投げ飛ばしたら、千鶴さんが後で切れていた、笑
座禅を終えると読書。
新しい宇宙像のヨガの章を読み終えました。
この間も、悠聖の遊んで攻撃は続きます。
ホントは一緒に遊んであげた方がいいのに、自分の時間を優先してしまっている……。
煙草とコーヒー、ジュースも飲む。
読書を終えてから、千鶴さんと、牛バラ肉の炒め物とアサリの酒蒸しを作って食べる。
ご飯、納豆、卵、海苔、みそ汁等々と一緒にいただきます。
悠聖はアサリが大好きみたいで、くれくれ攻撃ww
食後は、着替えを済ませて、急遽土曜日が出勤になったので予定の調整です。
土曜日は、千鶴さんが、同窓会に行くので、駅まで送るのと、日曜日は自治会の会計の引継ぎもあるし、月曜日は、これまた自治会のお神酒があるという、バタバタ加減。
正月も、ほとんど一人の時間はなかったし、今年は忙しくなるかもしれない。
さて、心と宗教のテーマへ移ります。
所謂、一般の普通の人たちが、宗教を敬遠するのは、洗脳という言葉に象徴されるような、自己の自由を失った機械のように従順な人間であり、凝り固まった考えで人を縛り付ける要素が感じられるからではないでしょうか?
他にも様々な要因がありますが、一体、何がしたいのか分からないというのも大きいのではないでしょうか?
お金儲けがしたいのだとか、単に優越感に浸りたいのだと、普通に思われています。
また仏教に対しては、檀家制度でお葬式、法事をすることで、お金儲けをする、ただの仕事の一分野という認識です。
このように宗教が社会から敬遠されているのは、最近のことでしょう。
たぶん、戦後に成ってからではないでしょうか。
もちろん明治以降は神道が国家の中心になったこともあって、それらの影響で仏教は、また違った対応をしていたのかもしれません。
戦後は、経済至上主義、エコノミックアニマルの中で、どのような対応ができているのか。
一部の人たちは、まあ、そういう環境に生まれても、色々な道を歩む中で最終的に仏教に辿り着くかもしれません。
が、本当に必要なのは、この教えに興味も関心もない人たちに、どのように価値を見出させるかではないでしょうか。
で、この洗脳とか、お金儲けとか、優越感に浸りたいだけというのは、もちろん、そういった集団もあるのかもしれませんが、本来の仏教や、その他宗教とは関係がありません。
宗教は、釈迦も主張する通り『自分自身である』道なのです。
サイの角のように、ただひとり歩めと有名な経文にあるとおりです。
他人は関係せずに、ただ、己一人の、本来の道へ回帰していくことなのです。
それは現代社会の、共同で何らかの価値を追い求める姿勢とは、違います。
で、この共同で追い求めている価値が、今ほど、分けの分からない時代があるでしょうか?
生活の道を追い求めるのは当然として、その先に、何を見ているのか。
正確に見えているのは、権益の奪い合いだけです、笑
で、宗教の素晴らしさは、この社会の中で自由を獲得できることなのです。
心の中にある苦が無くなる。
なぜならば、目の前にあること、こそが、自分だからなのです。
この宗教の道を説くのにあれこれ理論や、修行法を説いても、普通一般の人は興味を持ちませんね。
そうではなくて超シンプルな道があるのです。
それが禅です。
ただ、この、目の前にあることだけがある。
それを実感するには、任せっきりにして、自我の介入をしないことなのです。
が、それは、ただ、流していくことなのです。
流していくというか、流れている日常に、そのままいることなのです。
事実の世界は、すべて諸行無常で、ひとつも跡が無い。
そして、それは想いも、感情も、動作も同じです。
そこへ私という思いが介入したことで苦しみが生まれているだけなのです。
どうですか?
いかなる宗教団体にも属せず、誰も頼りにしなくても、自分自身で歩める道なのです。
誰にも相談せずに、自分だけで、確証できる道です。
僕って悟りましたかね? とか聞く必要はないのですwwww
ましてや、印可とかもいらないのです。
ただ自分自身でいることに寛いでいることが、切れ目のない大自然、阿弥陀如来の姿を顕現させます。
実は、あなたは阿弥陀如来の一部でもあるのです。
人間の細胞が、人間の一部であるようにして、大自然は死滅することが無い。
その死滅することが無い大自然を、存在させている空性。
そのお互いの関係性が縁です。
縁起です。
それらは、お互いに切り離されることなく、全体としてある!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
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本日も13時10分ごろに起床しました。
千鶴さんと悠聖が起こしてくる。
外で親戚の伯父さん、伯母さんの声がする。
悠聖連れて挨拶に行っておいでと、千鶴さんに頼む。
洗面を済ませて座禅を40分します。
相変わらず、悠聖の攻撃が続きますが、今日は、組んだ足の上に乗って飛ぶので、足が崩れた。
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更に、顔叩き、口に指を入れる、抱き着くのはいいのですが、なんと、目潰しの技を覚えたようなのですww
これには、流石に交わさざるを得ません。
あんまりにもシツコイので投げ飛ばしたら、千鶴さんが後で切れていた、笑
座禅を終えると読書。
新しい宇宙像のヨガの章を読み終えました。
この間も、悠聖の遊んで攻撃は続きます。
ホントは一緒に遊んであげた方がいいのに、自分の時間を優先してしまっている……。
煙草とコーヒー、ジュースも飲む。
読書を終えてから、千鶴さんと、牛バラ肉の炒め物とアサリの酒蒸しを作って食べる。
ご飯、納豆、卵、海苔、みそ汁等々と一緒にいただきます。
悠聖はアサリが大好きみたいで、くれくれ攻撃ww
食後は、着替えを済ませて、急遽土曜日が出勤になったので予定の調整です。
土曜日は、千鶴さんが、同窓会に行くので、駅まで送るのと、日曜日は自治会の会計の引継ぎもあるし、月曜日は、これまた自治会のお神酒があるという、バタバタ加減。
正月も、ほとんど一人の時間はなかったし、今年は忙しくなるかもしれない。
さて、心と宗教のテーマへ移ります。
所謂、一般の普通の人たちが、宗教を敬遠するのは、洗脳という言葉に象徴されるような、自己の自由を失った機械のように従順な人間であり、凝り固まった考えで人を縛り付ける要素が感じられるからではないでしょうか?
他にも様々な要因がありますが、一体、何がしたいのか分からないというのも大きいのではないでしょうか?
お金儲けがしたいのだとか、単に優越感に浸りたいのだと、普通に思われています。
また仏教に対しては、檀家制度でお葬式、法事をすることで、お金儲けをする、ただの仕事の一分野という認識です。
このように宗教が社会から敬遠されているのは、最近のことでしょう。
たぶん、戦後に成ってからではないでしょうか。
もちろん明治以降は神道が国家の中心になったこともあって、それらの影響で仏教は、また違った対応をしていたのかもしれません。
戦後は、経済至上主義、エコノミックアニマルの中で、どのような対応ができているのか。
一部の人たちは、まあ、そういう環境に生まれても、色々な道を歩む中で最終的に仏教に辿り着くかもしれません。
が、本当に必要なのは、この教えに興味も関心もない人たちに、どのように価値を見出させるかではないでしょうか。
で、この洗脳とか、お金儲けとか、優越感に浸りたいだけというのは、もちろん、そういった集団もあるのかもしれませんが、本来の仏教や、その他宗教とは関係がありません。
宗教は、釈迦も主張する通り『自分自身である』道なのです。
サイの角のように、ただひとり歩めと有名な経文にあるとおりです。
他人は関係せずに、ただ、己一人の、本来の道へ回帰していくことなのです。
それは現代社会の、共同で何らかの価値を追い求める姿勢とは、違います。
で、この共同で追い求めている価値が、今ほど、分けの分からない時代があるでしょうか?
生活の道を追い求めるのは当然として、その先に、何を見ているのか。
正確に見えているのは、権益の奪い合いだけです、笑
で、宗教の素晴らしさは、この社会の中で自由を獲得できることなのです。
心の中にある苦が無くなる。
なぜならば、目の前にあること、こそが、自分だからなのです。
この宗教の道を説くのにあれこれ理論や、修行法を説いても、普通一般の人は興味を持ちませんね。
そうではなくて超シンプルな道があるのです。
それが禅です。
ただ、この、目の前にあることだけがある。
それを実感するには、任せっきりにして、自我の介入をしないことなのです。
が、それは、ただ、流していくことなのです。
流していくというか、流れている日常に、そのままいることなのです。
事実の世界は、すべて諸行無常で、ひとつも跡が無い。
そして、それは想いも、感情も、動作も同じです。
そこへ私という思いが介入したことで苦しみが生まれているだけなのです。
どうですか?
いかなる宗教団体にも属せず、誰も頼りにしなくても、自分自身で歩める道なのです。
誰にも相談せずに、自分だけで、確証できる道です。
僕って悟りましたかね? とか聞く必要はないのですwwww
ましてや、印可とかもいらないのです。
ただ自分自身でいることに寛いでいることが、切れ目のない大自然、阿弥陀如来の姿を顕現させます。
実は、あなたは阿弥陀如来の一部でもあるのです。
人間の細胞が、人間の一部であるようにして、大自然は死滅することが無い。
その死滅することが無い大自然を、存在させている空性。
そのお互いの関係性が縁です。
縁起です。
それらは、お互いに切り離されることなく、全体としてある!