豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

人間が進化すればいいのだ!

2016-01-18 12:46:43 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

本日は8時ごろに起床したと思いますが、記憶が定かではありません。

炬燵で寝てしまったようで、体が痛い。

昨日は、とある『Bar』の主催する野球の練習に参加したので、その影響かもしれません。

久しぶりに楽しかった。

やっぱり趣味というのも自分で動いて見つけるものだなあと思います。

まあ僕は運動神経に乏しいので、スポーツは厳しいが、笑



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いつもの通り、洗面をして座禅を40分です。

千鶴さんと悠聖は僕よりも早く起きていた。

座禅は相変わらずの姿勢のユラユラが解消されませんね。

でも、心が静まるのは、スイッチが入ると結構、できてきます。

静けさの中に溶ける感じ。

座禅中に悠聖が久しぶりに顔いじり攻撃をしていたw

千鶴さんは最後に見に来て「また動いてる」みたいに言っていました。

大丈夫、継続は力なりだからね。


で、座禅を終えると読書なのですが、千鶴さんの依頼やら悠聖の遊びで全然進まない。

毎日読書しているのだから分かっているはずなのだが、全然、無視して自分の用事を頼んでくる。

普通に読んだら30分で終わるのが4時間もかかっている。

しかも、その間に、読んだり、他ごとしたりだから、全然理解も進まない。

もう!

で、タブレット端末の写真をSDカードに移すのを手伝ったり、お茶漬けを悠聖と食べたり、ツムツムをいじる悠聖を監視したり、庭で転倒を繰り返す悠聖を意識しながら、読んだりと、大変です。

本は『新しい宇宙像』の新しい宇宙像の章。

ただでさえ意味が分かっていないのに、喧騒のせいで、余計に分からない。

読んだ意味があるのかすら不明だ、笑

とりあえず、アインシュタインの相対性理論の話があって、電子や量子なんかの実質が特定できないと言う話。

要するに過程の中で実質の効果は見られるが、それ、そのものとして定義できないってことなのかなあ、よく分からない。

あとは『引力』というものも仮定であり、それは、ある条件を計算するための手法であって、実質に引力があるわけではない。

ところが、これが現象界に、実際に作用していると一般には理解されるわけだ。

うーん。

たぶん間違っているに違いないwwww


で、やっと読書を終えて母親の家で自治会の会計の仕事の話をする。

弁当頼むところが閉店した様子で、次のお店を決めなければならないが、勝手にはできないので難しいことです。


そのあとでブログの更新を始めたのでした。

この間も千鶴さんと悠聖の、引っ切り無しの妨害に会い続けているのだww

まあ妨害というと失礼だが、要するに、常に、僕のいるところに悠聖がやってきて、パソコンをしていれば、抱っこしてポーズ。

抱っこすれば、パソコンのキーボードで遊ぶ、みたいなのの繰返し。

まあ当分は、こんな感じだろうなあ。


さて、心と宗教のテーマです。

僕がこれらのことに関心があるのは、苦しみを減らすことが、実質、可能であると思うからです。

で、一般的に、この宗教が否定されるのは、苦しみを増やすと思われているからですね。

例えば、人生を捨てて出家しなければならないとか、あるイデオロギー、主義に染まって、社会と対立するとかです。

これらは、自分自身を基幹とするということを無視しているからそうなるのです。

だれかの教えに服従して、自分の意志を放棄することと、自分を放棄して、自由であることは全然違います。

そして宗教の本質は、この世界の中で、柔らかな感情を生み出すことです。

愛とか慈悲などと呼ばれている『思いやり』のことですね。

その、思いやりが生まれるためには、自己が自己であることに完全であることが必要です。

そのための、ただのアドバイス、実践の方法が、宗教なのであり、言ったらこれは『心理学』みたいなものです。

確実な方法です。

だから、ある人とある人の間にある差異は、ただ自分の置かれた環境の違いであり、気づかれた内容、体験は同一です。

それを表す際には、自己の知識を通すので、千差万別になるだけなのです。


このショボい日記にも、検索で読みに来てくれる人もいますが、基本的に『幸せ』であることを人は求めているのですね。

幸せは、苦を減らすことで齎されます。

それは刺激を避けることと同じようなものなのです。

この避け方が、特殊であるのは、自分が、対象を見ていると言う、その根本的な態度を変えることで達成するからなのです。

考え方や、社会のルールを変更するのではなく、自分自身の生命への理解を体感的に変更することで、実質的な変化を齎すのです。


その方法は、自己を見ることです。

そして、自己を見ている状態で、自分自身を寛がせることです。

どこに寛ぐかというと、自分であることに寛ぐのです。

自分であることに寛ぐためには、不安を解消しなくてはいけませんね。

この不安は『自己責任』という言葉から出てきます。

しかし世界は縁起しているのであり、自己のコントロール下にはありません。

次々に現れては流れていくものを、常にあると勘違いしているのです。

身体も心も、どちらにしても、対象と自己の触れ合いの中にあり、この触れ合いが苦を生じさせるのです。

この『触れ合い』は分離から生まれています。

対象と自己が分離するから、触れ合うことができるわけですからね。

実質は、この対象と自己は分離していないのです。

自己は『対象の内』にあるのです。

言うたらリアル世界があるだけで、そのリアル世界の中に、自己の心もある、逆に言えば、リアル世界と心は全く同時に生じているのだ。

その全宇宙である我々一人ひとりが、どのような奇蹟があってか、ここで人間をしている。

しかし、この人間でありながらも、根本としての、空性の世界をもとから離れたことはありません。


こう考えると分かりやすいと思うのです。

人間の体も心も、自然に生まれてきたもので、自己の意志は最後にくっついたものです。

ところが現代の人は、人間中心に宇宙があると思っているのです。

自然界の生命の働きの中に人間がいるのであり、また人間の意識の働きの中に自然界がある。

これらは別れないが、どちらも自己ではないのだ。


だから、実は、私たちは、世界と言う夢を見ているのです。

この夢は、自分が作っているのではなく、大いなる『何か』であるのです。

それは、この自分からしたら、とてつもなく巨大かつ、とてつもなく微細な、そのエネルギーです。

創造の力です。

この生命の創造の力が、自分自身を作っていて、その自分自身の機能として意志が出てきたのです。

根本は、この認識不可能な未知の、力であり、それは、自己が解放された時に、呆然と感じられるものです。

これを感じたら、自分が生きていたのではないと分かるでしょう。

自分が生きていたのではなく、創造の過程があるだけなのです。


見たら、見たものだけしかない。

聞いたら、聞こえたものだけです。

考えたら、悲しんだら、それも、それだけであり、しかも、それもまた流れる。

この生命の川の流れは、自分が作っていません。

自己の行為というのは、川の流れの中で、変化していく風景のことを自分が勝手にそう思っているだけなのです。


これはしかし、自分の右手を意識的に動かせないとかそういうことではないですよ。

もっと根本的な話であり、普段の認識の仕方の変更のことを言っているのです。

それが、達成されたら、人間の社会は広がります。

もちろん、今までに築かれた素晴らしい文化、芸術の中で、真に幸福な、お互いの関係性を構築できるのです。


人間自体が進化することでしか、それは、不可能である。


って、また、オーバーな表現になってしまいました。

ここのところ興奮して書き殴っていますが、あくまでも、僕の受け止め方なので正しいかどうかは保証しかねますよ、笑

何しろ、仏教にしても、精神世界にしても、ド素人です。

ここで書いているのは、僕が人生体験や、読書や、座禅の中で、思ったことです。


と言う訳で、本日は、この辺りで!

今日から夜勤がんばってまいりまーす^^