初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
本日は4時15分ごろに起床しました。
まだ、みんな寝ている。
洗面をのんびりとしてから座禅40分です。
悠聖がアラームの音で目を覚まして眠そうにこちらを見るので「まだ寝てていいよ」と声をかけておく。
身体の姿勢のまずさは、毎日座っていても、すぐには良くならない。
日常でも意識しないと難しいだろうと感じる。
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座禅を終えると、読書です。
コーヒーを入れて玄関わきでタバコも吸う。
しかし寒いので中に入ったり、出たりを繰り返す。
お腹が空いたので『固焼きポテト』を食べてしまった。
新しい宇宙像は実験的神秘主義の章。
高次の思考形態と夢を形成している意識体が同じではないかと想像が浮かぶ。
高次の思考形態は常に創造しているが、定時の側が、それを見ることを阻害しているのだろう。
千鶴さんが読んでいる間に起きてきて、ロジック? みたいな本で遊ぶ。
色々会話をする。
彼女はトークが凄まじく面白くて、僕とは正反対なのだ。
そこが、めっちゃ楽だなあと出会ったころ思っていたのだが、今、読書中に語られると面倒だ、笑
「閃いた! 生き仏にするなり」とか言って、僕が1畳くらいの小屋の中で座ると言うアイデアを笑いながら語る。
そして表には賽銭入れてみたいに赤字で書いておき、賽銭を入れると『反乱軍のテーマ』が流れて、下から歌いながら出てくるのだそうだww
無理に決まってるやろ!!!!wwww
で、読書を終えると着替えて食事です。
ご飯、納豆、卵、シーチキン、みそ汁、梅干し。
食べ終えてから、会社の人の送別会の会場を調べて、煙草を吸い、ブログの更新へ来たのでした。
さてさて僕の大好物である、心と宗教のテーマです。
どうもですね、この神秘的な状態に対して誰もが超大げさな表現をしますね。
例えば、こんな感じです。
神秘の状態から普通の意識状態に戻った時、まるで、この世界は死んでいると感じた等々。
もしくは上なる世界と下なる世界は相似している。
などという表現がされるのですが、そんな大げさなうえに、曖昧な表現では、誰も理解できない。
この上なる世界というのは意識のことです。
そして、下なる世界は現象界の対象のことです。
また神秘状態というのは、この下なる世界(現象界)と上なる世界(意識)が分離しなくなったことなのです。
これを僕は、リアルが躍り込んでくると表現します。
この外側にあると思っていた世界が、自我の消滅と共に、自分の中に飛び込んでくるのです!
それは非常に生き生きとした状態で、感情は恍惚感に包まれています。
そこから元の状態に戻ると、普段の思考、見解(観念)を通して物事を見るので、死んだように感じるのですね。
何しろ、大げさなのですwwww
なぜ、大げさになるかというと、その人が、正確に、自分の身に起こったことを知らずに、認識の対象の変化だけを見ているからなのです。
自己意識が無くなっている。
そのことに本人は全く気が付かずに、神秘状態だけを描写するわけです。
もう一つの、蓮の花を見たなどはナンセンスです。
それは、まあ麻薬の力を借りたか、眠りの意識の中で、幻影を見ていただけです。
この2つの状態を混同するのは、どのようにして上なる世界と下なる世界が相似しているのか、自己の本体である空性を理解しないからです。
空性というのはからっぽ、何もないと、有る、在るが、同時に機能している、この自己の生まれる前の本来の姿ですね。
それは理解を超えています。
理解する以前の、体感として知ることしかできないのです。
流れの中で、流れを見るような感じですね。
って、また複雑にしてしまった。
とにかく、できることは『自分自身でいることに寛ぐこと』に尽きます。
そしてお釈迦様も言われるように『迷い、怒り、欲望』をそれとみて離れるということですね。
それは、自分自身でいるところに寛いだ時に、生まれてくる安らぎが、それを阻害する、迷い、怒り、欲望に気付くことで為されるのです。
つまり、この2つがセットでないと絶対に無理です。
最初のことが重要なのです。
自己が見失われていない状態で、怒りをそれとみて解消する。
その時は、怒りが全くないのではなく、怒りが怒りとして感じられるそこに、100%いることで、怒りが一瞬で終わって流れていく。
そのようにして怒りが制せられるのです。
怒らないようにしようとかではなく、怒ったら、それが流れていく。
迷ったら、それも流れていく。
欲も望みも、そのままに流れていく。
増幅させる活動をしていないわけです。
腹が減ったら飯を食うと誰かが言ったらしいですけど、それだけのことですね。
それをとって掴まえておくことをしていない。
まあ今日は、この辺りで!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
本日は4時15分ごろに起床しました。
まだ、みんな寝ている。
洗面をのんびりとしてから座禅40分です。
悠聖がアラームの音で目を覚まして眠そうにこちらを見るので「まだ寝てていいよ」と声をかけておく。
身体の姿勢のまずさは、毎日座っていても、すぐには良くならない。
日常でも意識しないと難しいだろうと感じる。
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座禅を終えると、読書です。
コーヒーを入れて玄関わきでタバコも吸う。
しかし寒いので中に入ったり、出たりを繰り返す。
お腹が空いたので『固焼きポテト』を食べてしまった。
新しい宇宙像は実験的神秘主義の章。
高次の思考形態と夢を形成している意識体が同じではないかと想像が浮かぶ。
高次の思考形態は常に創造しているが、定時の側が、それを見ることを阻害しているのだろう。
千鶴さんが読んでいる間に起きてきて、ロジック? みたいな本で遊ぶ。
色々会話をする。
彼女はトークが凄まじく面白くて、僕とは正反対なのだ。
そこが、めっちゃ楽だなあと出会ったころ思っていたのだが、今、読書中に語られると面倒だ、笑
「閃いた! 生き仏にするなり」とか言って、僕が1畳くらいの小屋の中で座ると言うアイデアを笑いながら語る。
そして表には賽銭入れてみたいに赤字で書いておき、賽銭を入れると『反乱軍のテーマ』が流れて、下から歌いながら出てくるのだそうだww
無理に決まってるやろ!!!!wwww
で、読書を終えると着替えて食事です。
ご飯、納豆、卵、シーチキン、みそ汁、梅干し。
食べ終えてから、会社の人の送別会の会場を調べて、煙草を吸い、ブログの更新へ来たのでした。
さてさて僕の大好物である、心と宗教のテーマです。
どうもですね、この神秘的な状態に対して誰もが超大げさな表現をしますね。
例えば、こんな感じです。
神秘の状態から普通の意識状態に戻った時、まるで、この世界は死んでいると感じた等々。
もしくは上なる世界と下なる世界は相似している。
などという表現がされるのですが、そんな大げさなうえに、曖昧な表現では、誰も理解できない。
この上なる世界というのは意識のことです。
そして、下なる世界は現象界の対象のことです。
また神秘状態というのは、この下なる世界(現象界)と上なる世界(意識)が分離しなくなったことなのです。
これを僕は、リアルが躍り込んでくると表現します。
この外側にあると思っていた世界が、自我の消滅と共に、自分の中に飛び込んでくるのです!
それは非常に生き生きとした状態で、感情は恍惚感に包まれています。
そこから元の状態に戻ると、普段の思考、見解(観念)を通して物事を見るので、死んだように感じるのですね。
何しろ、大げさなのですwwww
なぜ、大げさになるかというと、その人が、正確に、自分の身に起こったことを知らずに、認識の対象の変化だけを見ているからなのです。
自己意識が無くなっている。
そのことに本人は全く気が付かずに、神秘状態だけを描写するわけです。
もう一つの、蓮の花を見たなどはナンセンスです。
それは、まあ麻薬の力を借りたか、眠りの意識の中で、幻影を見ていただけです。
この2つの状態を混同するのは、どのようにして上なる世界と下なる世界が相似しているのか、自己の本体である空性を理解しないからです。
空性というのはからっぽ、何もないと、有る、在るが、同時に機能している、この自己の生まれる前の本来の姿ですね。
それは理解を超えています。
理解する以前の、体感として知ることしかできないのです。
流れの中で、流れを見るような感じですね。
って、また複雑にしてしまった。
とにかく、できることは『自分自身でいることに寛ぐこと』に尽きます。
そしてお釈迦様も言われるように『迷い、怒り、欲望』をそれとみて離れるということですね。
それは、自分自身でいるところに寛いだ時に、生まれてくる安らぎが、それを阻害する、迷い、怒り、欲望に気付くことで為されるのです。
つまり、この2つがセットでないと絶対に無理です。
最初のことが重要なのです。
自己が見失われていない状態で、怒りをそれとみて解消する。
その時は、怒りが全くないのではなく、怒りが怒りとして感じられるそこに、100%いることで、怒りが一瞬で終わって流れていく。
そのようにして怒りが制せられるのです。
怒らないようにしようとかではなく、怒ったら、それが流れていく。
迷ったら、それも流れていく。
欲も望みも、そのままに流れていく。
増幅させる活動をしていないわけです。
腹が減ったら飯を食うと誰かが言ったらしいですけど、それだけのことですね。
それをとって掴まえておくことをしていない。
まあ今日は、この辺りで!