初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は12時ごろに起床しました。
いきなり座禅40分します。
座禅の姿勢で両足を組むようになってから背中の角度が以前より伸びる。
伸びるというのか、恐らく、正しい位置にある。
普段が、凄まじく前傾姿勢になっているので、上半身の腹から肩までが開いて、違和感がある。
それで姿勢が安定しないので、動いてしまうようだ。
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これは、続けることで、改善されるだろう。
座禅を終えると、いつもは読書ですが、今日は千鶴さんを勢和多気へ迎えに行くので後回しにする。
母親の家で食事をしてから、向かいます。
ご飯と味噌汁。
勢和多気のサークルKによって煙草2箱と麦茶を買っていく。
到着したのが14時ごろだったかな。
すぐに荷物を積み込んで、仏壇だけ拝んで、帰ってきました。
悠聖が「ちづる、ばばあ」と最近よく言うので、お婆ちゃんに怒られていた、笑
それから、帰りに芸濃のセブンイレブンで、お金を降ろし、肉まんとフランクフルトを2つ買う。
事故があったみたいで、千鶴さんが「めっちゃ走ってったよ」と言う。
だいたい彼女の会話は主語が無いので聞き返さないといけない。
「何が?」
まあパトカーと救急車が走っていったのだった。
更に亀山に戻ってスギ薬局へ。
食材を買い込んでいきます。
悠聖は、スーパーではしゃぎ回ることはなくなってきた。
家へ戻ると洗面をして、着替えます。
18時から自治会の北組、お神酒があるので、準備に向かう。
千鶴さんと悠聖も行きます。
頼まれたエプロンとポットとお酒お菓子等々を持っていく。
公民館で、みんなで手分けしてお菓子分けたり、弁当を置いたりする。
弁当屋さん、僕の伯父さんと知り合いの様で、少し会話します。
で、千鶴さんと悠聖は、準備が整ったところで、家へ送っていく。
1件のお家が事情があって来れないので、弁当とビール、蜜柑、を持っていきました。
再び、公民館へ戻り、お神酒です。
18時少し前くらいに始まって、行事の報告と会計の引継ぎ、これからの要望などなどの話をする。
そのあとで食事ですね。
21時くらいに全て終わって、家へ戻りました。
それから千鶴さんに荷物を降ろしてもらい、僕は悠聖とバニラアイスを食べる。
悠聖の歯磨きをして、千鶴さんが寝かしつけをしてくれたので、僕は、やっと、ここで読書です。
新しい宇宙像は、実験的神秘主義の章。
読書を終えると、慌ててブログ更新へ来たのでした。
危なく、連続投稿記録が途切れるところだった、笑
さて、日記が長くなってしまいましたが、いちおう心と宗教のテーマです。
このような分野で、認識を変更することで、何かを達成しようとしますが、それは、あくまでも認識の世界ですね。
その認識が起こる前に、動きがもうあるのが真実です。
しかし、これは、体の動きが、思考よりも速いということではありません。
身体の動きが、思考よりも速いのは、何も科学に証明されなくても分かるでしょうw
運転を覚えるまでは、ゆっくりとしか動作できませんが、覚えたら何も考えなくても体が先に動いている。
だからといって、すべてが起こっている訳ではありません。
きちんと動作中枢が動作を管理しているのですが、それは、普段の意識からしたら無意識下に感じられているだけですね。
そうではなくて事実は、自分が認識する以前にもう完結していて、認識した時には遅いのです。
で、縁に触れると科学融合的にすべてが、次々と現れては消えていくわけです。
そこに特別性を持たせているのが、己の肉体です。
もちろん、この肉体が無ければ、自我もありませんので最大に重要であることは間違いありませんよ。
しかし、この肉体は、自分が管理しているわけではありません。
生まれる時も、老いていく時も、病の時も、死の時も、何としても、それは、自然の管理下です。
手を切って、治癒する活動は、これは、自らの意志ではありません。
そして、感情、思考も、これと同じで、私がコントロールしているわけではないのです。
じゃあ、凶悪な犯罪や戦争はどうなるのかと思います。
その悪は、なんと、この自然の力を阻害することで生まれているのです。
あるがままの自己に対して、不自然な『主義』が入り込んでいる。
それが『こうであってほしい』または『わたしのもの』という欲望です。
そして、その欲望が起点となって恐怖が生まれます。
恐怖は、相手から自分を守るために、相手の頭を叩き割る行為にまで発展することがある。
それが戦争なのです。
だから恐怖心が無くなれば、戦争は起きません。
自然現象というのは、あくまでも、この事実の世界のことであって自我の活動ではない。
この自我というのは、想いのことです。
『想い』とは、思考でも感情でも動作でもなく、白昼夢に耽るときにあるアレのことです。
それが無くても人間は生きていけます。
しかし、性のエネルギーが、うまく発散されていないと、この白昼夢に巻き込まれて、そこが自己の世界になる。
事実の世界を離れて、自己の空想世界で生きているのです。
だから何もかもが起きているが、自然なことと不自然なことがある。
その自然の側に生きる方向へ、みんなが傾いたら、恐怖心がかなり減退して、争いは減ります。
できることがないのではなく、為すことというのは、内面の変化のことなのです。
これは奇跡的な瞬間を目にするとか、そういうことではなく、目の前の事実を事実のままに生きることです。
見えるもの、聞こえるもの、それだけの世界。
考えるなら、考える、悲しむなら悲しむのだが、それを後追いする自己が消えているのです。
その首の後ろの方で、アレコレ見解を立てている、疑っているあなた!
あなたの、その、見解を立てている人が、それが自我の正体です。
一般的に、それが己だと思われていますが、それは、欲望と恐怖を起点としている自己防衛装置なのです。
それを破壊して、事実の世界に開いたら、かなり感情の不調和は減退します。
と、まあ、屁理屈が長くなりましたが、結局、することはひとつだけ。
この目の前の、事実の世界に、感じきっていることです。
開ききっていることですね。
それがあるだけなのです。
そして、その所へ十分に目覚めたなら空性である私、空である世界の意味も分かる。
空と色は全く切り離されないことも分かる。
苦の滅尽の仕組みも分かる。
ただ、ここで、開いていることなのだ。
なんども繰り返しますが、それは、自分自身でいることに完全に寛ぐことなのです。
それが禅です!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は12時ごろに起床しました。
いきなり座禅40分します。
座禅の姿勢で両足を組むようになってから背中の角度が以前より伸びる。
伸びるというのか、恐らく、正しい位置にある。
普段が、凄まじく前傾姿勢になっているので、上半身の腹から肩までが開いて、違和感がある。
それで姿勢が安定しないので、動いてしまうようだ。
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座禅を終えると、いつもは読書ですが、今日は千鶴さんを勢和多気へ迎えに行くので後回しにする。
母親の家で食事をしてから、向かいます。
ご飯と味噌汁。
勢和多気のサークルKによって煙草2箱と麦茶を買っていく。
到着したのが14時ごろだったかな。
すぐに荷物を積み込んで、仏壇だけ拝んで、帰ってきました。
悠聖が「ちづる、ばばあ」と最近よく言うので、お婆ちゃんに怒られていた、笑
それから、帰りに芸濃のセブンイレブンで、お金を降ろし、肉まんとフランクフルトを2つ買う。
事故があったみたいで、千鶴さんが「めっちゃ走ってったよ」と言う。
だいたい彼女の会話は主語が無いので聞き返さないといけない。
「何が?」
まあパトカーと救急車が走っていったのだった。
更に亀山に戻ってスギ薬局へ。
食材を買い込んでいきます。
悠聖は、スーパーではしゃぎ回ることはなくなってきた。
家へ戻ると洗面をして、着替えます。
18時から自治会の北組、お神酒があるので、準備に向かう。
千鶴さんと悠聖も行きます。
頼まれたエプロンとポットとお酒お菓子等々を持っていく。
公民館で、みんなで手分けしてお菓子分けたり、弁当を置いたりする。
弁当屋さん、僕の伯父さんと知り合いの様で、少し会話します。
で、千鶴さんと悠聖は、準備が整ったところで、家へ送っていく。
1件のお家が事情があって来れないので、弁当とビール、蜜柑、を持っていきました。
再び、公民館へ戻り、お神酒です。
18時少し前くらいに始まって、行事の報告と会計の引継ぎ、これからの要望などなどの話をする。
そのあとで食事ですね。
21時くらいに全て終わって、家へ戻りました。
それから千鶴さんに荷物を降ろしてもらい、僕は悠聖とバニラアイスを食べる。
悠聖の歯磨きをして、千鶴さんが寝かしつけをしてくれたので、僕は、やっと、ここで読書です。
新しい宇宙像は、実験的神秘主義の章。
読書を終えると、慌ててブログ更新へ来たのでした。
危なく、連続投稿記録が途切れるところだった、笑
さて、日記が長くなってしまいましたが、いちおう心と宗教のテーマです。
このような分野で、認識を変更することで、何かを達成しようとしますが、それは、あくまでも認識の世界ですね。
その認識が起こる前に、動きがもうあるのが真実です。
しかし、これは、体の動きが、思考よりも速いということではありません。
身体の動きが、思考よりも速いのは、何も科学に証明されなくても分かるでしょうw
運転を覚えるまでは、ゆっくりとしか動作できませんが、覚えたら何も考えなくても体が先に動いている。
だからといって、すべてが起こっている訳ではありません。
きちんと動作中枢が動作を管理しているのですが、それは、普段の意識からしたら無意識下に感じられているだけですね。
そうではなくて事実は、自分が認識する以前にもう完結していて、認識した時には遅いのです。
で、縁に触れると科学融合的にすべてが、次々と現れては消えていくわけです。
そこに特別性を持たせているのが、己の肉体です。
もちろん、この肉体が無ければ、自我もありませんので最大に重要であることは間違いありませんよ。
しかし、この肉体は、自分が管理しているわけではありません。
生まれる時も、老いていく時も、病の時も、死の時も、何としても、それは、自然の管理下です。
手を切って、治癒する活動は、これは、自らの意志ではありません。
そして、感情、思考も、これと同じで、私がコントロールしているわけではないのです。
じゃあ、凶悪な犯罪や戦争はどうなるのかと思います。
その悪は、なんと、この自然の力を阻害することで生まれているのです。
あるがままの自己に対して、不自然な『主義』が入り込んでいる。
それが『こうであってほしい』または『わたしのもの』という欲望です。
そして、その欲望が起点となって恐怖が生まれます。
恐怖は、相手から自分を守るために、相手の頭を叩き割る行為にまで発展することがある。
それが戦争なのです。
だから恐怖心が無くなれば、戦争は起きません。
自然現象というのは、あくまでも、この事実の世界のことであって自我の活動ではない。
この自我というのは、想いのことです。
『想い』とは、思考でも感情でも動作でもなく、白昼夢に耽るときにあるアレのことです。
それが無くても人間は生きていけます。
しかし、性のエネルギーが、うまく発散されていないと、この白昼夢に巻き込まれて、そこが自己の世界になる。
事実の世界を離れて、自己の空想世界で生きているのです。
だから何もかもが起きているが、自然なことと不自然なことがある。
その自然の側に生きる方向へ、みんなが傾いたら、恐怖心がかなり減退して、争いは減ります。
できることがないのではなく、為すことというのは、内面の変化のことなのです。
これは奇跡的な瞬間を目にするとか、そういうことではなく、目の前の事実を事実のままに生きることです。
見えるもの、聞こえるもの、それだけの世界。
考えるなら、考える、悲しむなら悲しむのだが、それを後追いする自己が消えているのです。
その首の後ろの方で、アレコレ見解を立てている、疑っているあなた!
あなたの、その、見解を立てている人が、それが自我の正体です。
一般的に、それが己だと思われていますが、それは、欲望と恐怖を起点としている自己防衛装置なのです。
それを破壊して、事実の世界に開いたら、かなり感情の不調和は減退します。
と、まあ、屁理屈が長くなりましたが、結局、することはひとつだけ。
この目の前の、事実の世界に、感じきっていることです。
開ききっていることですね。
それがあるだけなのです。
そして、その所へ十分に目覚めたなら空性である私、空である世界の意味も分かる。
空と色は全く切り離されないことも分かる。
苦の滅尽の仕組みも分かる。
ただ、ここで、開いていることなのだ。
なんども繰り返しますが、それは、自分自身でいることに完全に寛ぐことなのです。
それが禅です!