豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

無上―これ以上なし―

2015-05-28 17:06:27 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

今日は午後4時ごろに起床しました。

全身がだるく、しばらくマヒ状態・・・・・・w

ゆっくりと動き出して「ありがとう」を連呼します。

続けていたら、そのうち1万回行きそうだなあ、笑

まあ、すでに感謝なんだけどね。

で、洗面を、倒れこみそうになりながら、やります。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



それから、いつもの座禅15分。

想像世界が、延々と回転し続けている。

また体感の世界も僅かに触れている。

そして、その両方の世界を包み込んでいる愛も、ある。

3つの世界が、ひとつに解けて、今、この、動きが巻き起こっている。

静かにそこを在らしめている力。

そこは、認識がなくても、効果を感じられるところ。

頭は結果を求めるが、座っている事は、そこでは理解しない。


で、座禅を終えて、コーヒーを淹れ、玄関脇での読書です。

煙草も吸う。

今日は曇り空、少し涼しく感じます。

静かだ。

正法眼蔵無上と書いてある。

この無上であるというのを理解するのが難しい。

まだ、先があると思ってしまうからだ。

生きている先、目的。

そこが、いま、この、ここである。

分別しているのも、ここだ。

未来は、目的にはなりえない。

ただ、生きている。

そのところが、ゴールなのだ。

もっと先を目指しているのも、いま、ここで、こうしている僕、私。


で、読書を終えてブログの更新ですね。

ランキング見たり、解析見たり、来ないコメントも一応チェックww

YouTubeで洋楽、聴いています。


さいきん、新しく、何かを理解できそうな感じがある。

つまり『教え』とか『目覚め』とか、理想、そういうものを捨てるのだ。

まだ握っている、これ。

なんらかの使命感であったり、自分でないもの。

与えられた情報、その内容物。

そんなものは本来、無かったものではないか?


ただ、ここで生きている。

そこには様々な動きがあるが、その、瞬間は、ただある。

握り締めている認識には、空も含まれるのだ。

リアルなる世界に触れている状態。

それは、既に、達成されている。

『無上』

これ以上ない!

そこの感覚が、なんとなく、わかりかけてきている。


まだまだ、迷いだすが、それも、また、あることの表現である。

これも、また過ぎ去る。

夢の世界!!

ただ爽快である事を願えばいい。

自然に、あるがままに。


刻々と触れている真理に、解説など不要なのだ。

いま、これがいけなかった?

どこが、外れたというのだろう。

完璧な働きをしていないものが、どこにあるだろう。

ただ、そこに、自由に、すべてあるではないか。


不快感、怒り、それらが、問題を作っている。

全部、放り出そう。

いいも、わるいも、ない。

そして、いいもわるいもない、も、ないのだ!!

ただ、これだけ。

ここに、あるという認識も残してはいけない。

思いを手放していく

2015-05-27 17:27:44 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは!

今日は16時50分ごろまで眠っていました。

おかげで時間が無い。

昼間に12時半ごろまで知らずに寝ていて、起きてきて、食事して、ラジオアップしてから、再び、寝ていた。

「ありがとう」と呟きながら、洗面です。

なんとなく気が急いている。


それから座禅を15分しますが、またまた時間が気にかかる。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



また妄想が凄まじい勢いで溢れている。

例えば、集中していると勘違いしても、頭の世界に埋没していて、自分が、空き缶を手に持っていることすら忘れている事もあるよな。

と、そこを見て、今を見ていないww


座禅を終えると、コーヒーを淹れて読書です。

ここでも、またまた、集中力に、かけるのであります。

仕事をきちんとしている事、家のことをしっかりしていることが、もう奉仕、布施になっているのだと書いてある。

お金を喜捨することではない。

それも、あるけれども、ほんとは、生きている、そこで、きちんと与えられた事をこなしていれば、非常に立派な人である。

僕も、そうならねばww

誰の本か忘れましたが『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルのものが、流行していましたが、あれも、そうではないかな。


で、読書を終えて、ブログの更新をしています。


智慧という言葉は、まあ「農家の智慧」とか「おばあちゃんの智慧」とか、いろいろ使われていますが、なんというか、難しい言葉ですよね。

これはコツとか、勘とかと近いのではないでしょうか。

まあ、長年やっていると、分かってくる、そういうもの。


正法眼蔵涅槃妙心の無上。

これは智慧の眼が開かれた時に、そこに映るものです。

全世界と空世界とは分かれることなく心に、涅槃に、在る。

しかし、それも分かれていない。

全部一緒に、同時に、ここにあるのである。

それに触れるのが、自我の騒々しい、思いが沈黙したときである。


意識の中に世界が移しこまれている。

これがリアルが、自己を消去している、禅定ですね。

眼の中に全体がある。

そして、その全体を感じているのが、涅槃に在る心。

沈黙のエネルギー。

愛。

まあ、どのようにも表現不可能な、静寂な、自己の本体である。


お釈迦様が華を捻る。

それは眼の蔵にある正法だが、そこは、完全に、繋がっている。

我も人も、ひとつの夢の世界に在るのだ。

実在は、その世界と人間と涅槃を自由自在に行き来している。

形を持たない。

その風のような性質の、わたし、なのである。


そこへ繋がるには、ただ、何かをするのをやめるだけである。

精神の迷いを、沈める。


それをするのは、積もり積もった否定的感情の浄化。

燃焼ではないだろうか。

長年の間に、非常に、傷ついた心の内容物が、阻害している。

あるがままにいることに非常に恐怖している。

それは、体の反応にまで現れているほど顕著である。

徐々に、それを癒していくのだ。

禅定しながら、溢れてくる思いを手放していく。

思惑を剥ぐ

2015-05-26 11:39:32 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

今日は10時半ごろに目覚めました。

「ちょっと障子してくれへん?」という会話が聞こえてくる。

母親が対応している。

父親の仕事、もう、今は、体が思うように動かないのでできない。

人間に与えられている可能性は限られている。

体を守るためには、出来ない無理をさせてはいけないのだ。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》

哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村



人によって様々に、状況が違うことを考慮しなければならない。

「ありがとう」を呟きながら、洗面へと向かいます。

ネガティブエモーション。

その表面的な抵抗は、過去の脅威から生まれている。

それを正しく見れば、そこにいるのは、愛情欲求に苦しめられた自己である。


洗面を終えると座禅を15分ですね。

毎日、毎日、していると状態の違いが分かってくる。

不動の心は「いいわるい」に左右されない。

その表面の激流を乗り越え、渡り終えて、完全なる沈黙に在る。

それは目には見えない、心の奥のハートにいる、真の「私の魂」なのだ。

存在している。

確かに、そこに、存在している。

しかし、それは、認識できるものではないのである。


座禅を終えて、コーヒーを淹れ、玄関脇で読書です。

人間の尺度では図ることのできない宗教の風光と書いてある。

競争社会で走り続ける事で、出来上がった国家と階級。

無益であると書いてある。

人より優れたるは、無益である。

いいものだけを採用しようとするから、混乱が生まれているのだ。

なんと単純な事だろう。

そんな、単純な事が、誰も、理解できない。

生まれた頃は、誰もが知っていたのだ。

失われたのは『教育』の責任である。

教育から仏教を排除したことが、今の社会問題の根本にある。

誰も信仰しなくなった真実、リアル。

リアルを無視して、思惑の世界だけで生きていくことができるだろうか。

真実を投げ出して、空想だけでは、思いだけでは、絶望が待つだけである。

そのような閉鎖的環境が、今の、人間関係のすべての問題だ。

開け放たれない。

そのようなことが、書いてあったと思う。


読書を終えるとブログの更新ですね。

って言っても、だいぶ、書いてしまったなあww

今日は時間があるので、いつもより、長く書こうと思います。


更新しようと思ったら付けたままのPC画面に昨日閲覧していた掲示板が出てきた。

生半可な気持ちでは、しないほうがマシと書いてある。

それは、人間の強烈にコビリツイタ思惑を超えるのは、非常な、凄惨な戦いになるからである。

以前から、書いているように、それは、絶望なのだ。

いいものを目指して奮闘してきたのが、我々である。

その「いいもの」が、実は、ただの反応、思い込みであると思い知らされる。

これが否定的感情の表出を抑える事なのだ。

実は、その否定的感情は、リアルには、存在していないものだ。

空想である。

しかし、その空想が、今は、超リアルに自己なのだ。

自己を乗っ取っている。

真の主人である『無限世界』を差し押さえて『思考』がやりたい放題しているのだ。

「あれがいい、あれはだめ」と言う。

分別の世界。


それを超えるというのは、本能的に生きるということである。

男は男として、女は女として、自覚しないと、こうはならない。

性というのは、根本存在のエネルギーなのだ。

そして、その開花した力が『勇気』と『愛』である。

その二つが融合して初めて、自己を正しく見る事ができ、その自己をあるがままに、受け入れる事ができる。

あるがままというのは、そのままのことだ。

そこに社会が、他者が、いろいろなことを植えつけたのだ。

しかし、それは所詮『記憶』の世界。

実際の、リアルな、感覚、味わい、存在、感情、生きているすべてに、それは確認できるものではない。

自己の「思い」の中、心の中に終われている。


その「思い」の暴れる表面の波の、はるか下に、広大な海がある。

そこは、存在の、真の、愛。

感情的な甘ったるい、愛情の事ではない。

生まれてから、死ぬまで、もしかしたら、生まれる以前から、この、全体を存在させている、エネルギーのことである。

誰もが、その、中で、生きている。

例外はひとつもない。

だから、全員が、最初から、悟っているのである。

それを見えなくしているのが「思惑」「計らい」「自己都合」「煩悩」である。




著作者:djandyw.com



このような心の敏感な部分、深い部分に触れるには、衝撃が必要だ。

そのショックを与える事の基本が、自覚なのである。


今のスピリチュアルで語られている事は「夢」でしかない。

悟りというものを「想像」して、そこへ至ろうとしている。

誰が、そこへ至るというのだろう。

このような問題を作り出したのは、語り手の側である。

生死の問題は、気楽なものではない。

なぜなら、最初は、思いを握り締めているのだから、最初から真実の『安心』を語っても、人は理解できないだろう。

それを確認した。


だからこそ、自己をありのままに見る事、否定的な感情の表出をしないことという、余計なしなくても、いいことを、提案した人がいるのだ。

それは絶望の味を、与えてくれる。

その「思惑」の死こそが、全体性の開花なのだ。

たしかに、これは、生半可な気持ちでは、できないだろう。

僕も覚悟しなければならない。

しかし、これ、は、自動的にやってくるのだ。

人生を生きるということは、もう、すでに生半可ではない。

それは『悟り』などとは関係なく、生きている人は、みんな、苦しんでいる。

一切行苦と釈迦は言ったのだ。

すべてが苦しみであり、諸行無常であるがゆえに、救いが、清浄が生まれる。

そう表現した。


問題は、自分以外に問題がないということを、どのように理解するか。

ではないだろうか。

大和田菜穂さんの言うように「それが自分に起こっているわけではない」のである。

しかし、逆説的に、そこに行くには徹底的に自分を正しく見ることが必要である。

この表現で「空想」に逃避することは、とても簡単である。

しかし、リアルは目の前の生、この、いまここにある、体感にしかないのだ。

その体感に、全身が投入されているとき、彼方の光、智慧の視点が触れる。


だから真理のメッセージに誤りはないのだが、人は、というか聞く側が、理解しない。

だから、あの語り方、スピリチュアルの主流の語り方は、新たなる夢、思惑を大量量産しているかもしれない。

真剣に話を聞く、話をするときでも、そうできないのが、人間なのである。

お互いに、真剣に話しているつもりで、実際は、思惑がある。

どうでもいい話をしているときに、心の真実が語られているが、それに気づけない。


クリシュナムルティの本を読んでいると、とてつもなく誠実に、真理、そのままを語っているのだが、それは伝わらなかった。

直接的な、表現は、真理であっても、受け取り手がない。

のかもしれない。

現代の精神世界のメッセージでも、だいたいが、本当のことを語っている。

嘘を言っている人は、ほとんどいない。

しかしグルジェフさんは、こう言っている。

真理は、そのままでは伝わらず、嘘という形でしか受け取られないのだ。

また釈迦は、その人に合わせて、何千もの語り口で話したというではないか。

ひとつの真理、しかし、入り口は無数。

絶望に至るというのも、本当は『人格』の崩壊であって、真の私は全く、絶望なんかしていないのであるww


私という一個の存在は、宇宙、なのだ。

体、感情、思い、純粋意識、衝動、これらは、内容物だ。

その内容物を変えることでない。

そのまま、自然に、リアルが最初からある!

超、単純にww

これを難しくしているのが「夢見る」ことである。

『希望』こそが、あらゆる、問題の、根本にあるのだ。

これが『欲望』である。

無欲が貪欲を制することとは、正義が悪を倒す事ではない!!!!

その反対だ。

いいもわるいもない。

判断している自己の、内面の執着を見るために進む勇気なのだ。


それが『覚悟』と大げさに語られる・・・・・・。


たぶん、小さな頃に、幼い頃に、あなたは愛された。

そして、それが、徐々に、条件付の愛に偏向されていった。

それは、自我が、判断しだしたからだ。

最初は、すべてが、愛だったのが、怒りは愛ではなくなった。

僕がとても怒っていても、息子は笑っている。

息子が怒るときは、泣き喚いて、全力で動く。

それで、そこには、完全な愛が、あるのである。

そのままで完璧なのだ。


条件をつけたのは「お前はよくがんばった」という賞嘆である。

賞嘆に拘って、それを求めている人。

「思惑」は愛情を求めて、その賞嘆を求めて、さ迷っている。

真のメッセンジャーは、残酷に「思惑」を剥ぎ取ってしまう。

沈黙の知覚

2015-05-25 06:01:44 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようございます。

本日は、なんと、4時10分ごろに目覚めてしまいました豊田です。

知らない間に寝ていた。

短時間睡眠でしたが、そのまま起きることにして「ありがとう」を連呼します。

洗面をのんびりと済ませて、座禅を50分する。

行ったり、来たりの繰り返し。

意識が、ここと、妄想と、無の世界を行き来している。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



本来の自己は、この通路を吹き抜ける風のようなものではないだろうか。

淡々と座って、座禅を終える。


いつものようにコーヒーを淹れ、玄関脇でタバコを吸いながらの読書です。

朝の清々しい空気感!

広大なこの世界で生きること全てが修業であると書いてある。

食事をすること、料理、洗濯、掃除、ゲームも、映画も、音楽鑑賞も、読書も、瞑想も、座禅も、釣りも、仕事も、飲みも、パチンコも、何もかも一切が、そのまま味わえば、修業なのだ。

味わうというのは、存在しているという事。

そこに、集中して、自己の「計算」が「思惑」が手放されていることだ。

貪らないと本には書いてある。


で、読書を終えて、ブログの更新ですね。

あ、バナナ食べたなあ、そういえば、座禅の後に食べた。


昨日は久しぶりに南くんとも会い、Yくんとも電話できました。

相変わらずww

Yくんは某喫茶店チェーンの店長さんになっていたのだった!

驚きです。

とても忙しくて、今は、ほとんど休養が取れていない様子。

それでも、様々な活動に参加しているようだ。

行動的だなあ。


僕は相変わらずの変化の少ない日常だけど、まあ、千鶴さんと悠聖が、いてくれるのと、両親が元気でいてくれているので、それは非常な満足がありますね。

体調崩しているのが、ちょっぴり不安でありますが……。


このように自然が展開して、人間の思念、行動があり、またその奥にある瞑想世界がある。

全部、同時にあって、切り離されないのだ。

それは、どちらか一方が、素晴らしく、他が駄目なわけではない。

全てが繋がっていて、ひとつの世界を、紡ぎだしている。

その有機生命体の数えきれない、膨大な、意識光の一つであることが、私たちなのだ。

神の、全体の、分光なのである。


網の目が、空間に張り巡らされて、その一つ一つが光を放っている。

まるで星空のように、暗闇に浮かぶ、光の模様。


自己は光と闇とを行き来して、その、映し出された夢の世界で戯れる。

心と体の世界と、魂の光と、そして暗黒の絶対空間。

これは、まるで宇宙の姿、そのものである。

上がそうであるように、下もそうであるとは神秘主義の至言だが、そのままなのだ。

星々が我々を見ているように、我々も、宇宙から、この世界の体感を、見ているのだ。


それらの自然の働きの中で「自己という想い」が手放されること。

それが苦の滅尽である。

そして、それは体の、心の、脱落、なのである。

知覚の、認識の、沈黙している姿。

そこには「いいわるい」の分別が、ない。