丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

引きこもりのお子さんを抱えるご家族のお話

2022-06-04 20:55:14 | 心の解放シリーズ
前回の記事で引きこもりについてのお話を書いたあと、YouTubeのおすすめに出てきた動画だ。
私がなにを書いているか、全部、監視、いや、把握して、興味に合う動画をアルゴリズムで出してくださるからな。。

でも、見させてもらうと、私自身、いろいろ感じることがあって、
なにより、登場する方が、ご自分が苦しいときに、取材に応じて苦しいところを見せてくれていることが、ありがたいと感じた。

それが多くの人に問題提起し、解決方法を考えるきっかけを与えてくれる。

【NNNドキュメント】54歳引きこもりの娘と無職の兄63歳 91歳父の死で変化は NNNセレクション
内容:
54歳引きこもりの女性と無職の兄63歳の面倒を、91歳のお父さんが見ているというご家庭だ。

そのお父さんが亡くなった。だぶん亡くなる前後の2年間くらいを取材した動画だと思われる。

お父さんが亡くなって、保険証の場所も分からない。

月18万円のお父さんの年金で一家3人暮らしていた。行政からの経済的支援は受けなかった。

お父さんはすごく働き者で、女性は一日中スマホをしている。

18歳の時パートに行ったんだけど、
「しゃべらないし、簡単なことしかできないから、2年くらいでやめさせられちゃった」

そこから引きこもり35年。


長男も怪我で仕事をやめたあと、引きこもりに。
一か月パチンコに4万、たばこに2万、カネを使われ・・・

お父さんは5年前、死のうと失踪した。でも死ねなかった。
「もう世の中に許してもらいたい。しょうがない子どもを作ってしまったことをですね」

二男の方は自立されていて、ときどき家族の様子を見に来る。
お父さんの相談にのったり、アドバイスも適切だ。
二男の方が来ると、家族もほっとする。
女性も外に出るように。

お父さんは突然亡くなってしまった。
長男は葬儀には出なかった。「働けんでごめんね」と言っている。

女性は、家を離れることになった。
パチンコをやめられない長男は、おいてかれる。

二男「兄の近くだと妹の生活保護費まで使われてしまう可能性があるのが一番の理由」

女性は、6畳一間の二男の方の住まいの近くで一人暮らしを始めた。
ペットのモルモットもいっしょだ。

お父さんは生前モルモットのエサも調達。
父「もう草いかんぞ」
娘「ないね、なかなか取る場所が」

女性は初めて友達ができた。
友達が作ってくれた焼きそばを食べて「これ、肉が入るともうちょっと・・・」
友達、苦笑。
女性「あ~ごめんなさい」

お友達は、二男の方が立ち上げた、引きこもりや不登校で悩む人の会のメンバー。

「モルモットのケージのそうじしていい?」

自分の関わりが少しでも助けになったら。

『やってね』ではなく『いっしょにやろうか』が女性にとってありがたい。

二男「よかったね。いろんな人と関われて。人がこわかったのがウソみたいだね」

1人暮らしを始めて2か月、また疎外感を抱き始めた。

長男の方は、部屋の掃除を済ませていた。
「はやく、じいさんのところに行きたいだけ。もう帰って」



まず、「働けないからダメだ」って思わなくていいってことだ。
これはみなさんに言いたい。

そういうふうに人の心はできていないんだ。

女性は動物が好きなんだね。
好きとか、かわいいとか、ちゃんとプラスの感情を感じている。
まずここが、すばらしいではないか。それすら感じられない状態だってあるからな。

とりあえず、女性は支援を受けながら、一人暮らしを始めた。
これもまた、すばらしいではないか。

必要な助けを周りの人に求めながら、
自分の今の生活がよりよくなればいいな~と思いながら、休み休み生活する。

これでいい。

働かなくちゃとか、あんまり一生懸命にやっちゃうと逆効果なんだ。
これをするから、その反動でまた憂鬱気分になるんだ。

やりたくないときは、立ち止まって休む、とするだけで、自分を愛することになるから心のエネルギーが充填されるんだ。
ここを無視してムリすると、人は、マイナス感情になってしまう。
うつ傾向があれば、うつっぽさが出てしまうんだ。ムリすると。
そうなると、ますます「動きたくない」ってなる。

だから休み休みやる。
ずっと動きたくないなら、「永遠に休んでいいや」ってする。
すると逆に永遠に動かないことは、ないんだ。

心のエネルギーが充填されると、少しずつ、うつっぽさ、憂鬱っぽさが少なくなって、意欲を感じる瞬間が増えてくるから。
すると、自分がこわくない、しんどくない範囲で、
ちょっと、あれがほしいなとか、食べたいなとか、なにか欲求を感じてくる。
それを自分で叶えられると、満足を感じる。達成感を感じてうれしい。気持ちがいい。
そうしていると、だんだん自信がついてくる。
これも、あせらないことだ。
いつかはそうなるんだ、くらいに思って、今休みたいなら休んでいたほうがいいんだ。

意欲が出てきたときに、好きなモルモットのお世話をする。

やっぱ、モルモットはかわいいなぁ、いとおしいなぁと感じる。

「そっか、もっとケージの中をこうしたら、これを入れてあげたら、モルモットは喜ぶかな?」と思いつく。

ちょっとペットショップに買い物に行こうかな、とちょっと意欲が出る。

で、やってみる。
必要なものが自分で調達できてうれしー!、モルモットも喜んでいる、やった!と満足と達成感を感じる。

こんなふうに、自分の今の生活のなかでのプラスをすこーしずつ増やしていくことなんだ。

すると、これが大きくなっていくと、「なにか、動物に関係した仕事で、できる仕事ないかな~?」と結びついていく。

こうなると、「仕事しなければ」、じゃなくて、「やりたい」か「やりたくないか」という意欲をベースに検討しているはずだ。

「働けないから自分はダメなんだ」っていう意識と全然ちがうの、わかるかな?

自分が「したい、だからする、できた、うれしい」っていうのをやっていくと意思がどんどん育っていくんだ。

だから、引きこもりの方も、うつっぽい方も、
こういう↑夢をかなえたスターも、
心の仕組みとしては、いっしょなんだ。

スターだから特別な人、自分は凡人だからムリだ、なんて思わなくていいし、
それは当たっていない。
時間をかけて、マイナス感情よりもプラスが増えてきて、
そのまま行ったなら、プラスが爆発して、自分だっていつのまにか夢を叶えているはずだ。
だから問題の解決、心の苦しさの解決と、夢の実現は、別々ではなく、同じことなんだ。
そういうわけだから、つねに希望しかない。
絶望したいときはしてもいいけれど、それは幻だ。

「働けないからダメなんだ」というのは、
そういう自分の喜びや欲求、才能、特技を無視して、
せっかくの自分のよさを抑えて、ただ社会に合わせるということだ。

そう言ってるとき、我慢して社会に適応しなければという気分だ。

こういう気分でいる限り、自分の創造性にたどりつけない。

だから、「働けないからダメなんだ」 って思うことを、やめていい。

これは、人間の創造力を無視した思考だ。
(人間から力を奪うために植え付けられたウソの価値観だ)

有害無益だから、やめていい。


創造力は、責任を果たす喜び、満足感を味わわせてあげないと伸びていかない。

子どものときはまだ無邪気で、のちに経験する「人がコワい」とか、うつっぽさもなかっただろうから、
そういうつらい経験をする前に、責任を果たす喜びを経験させてあげることが大事だと思うんだ。
でも、いくつになっても遅すぎることはないんだ。
つねにそこから、いつでもできることだ。
苦しい状態でいる時間が長いと、それを癒してプラスが増えるまで、時間がかかるというだけだ。
ゆっくり時間をかけたら、いいんだ。

そして、少し、欲求が出てきたら、
自分がしたいからする、と選択する。その責任は自分でとる。
やった結果も、自分が責任をとる。

もし、こわければ、ムリだなと感じるなら、選択しなけりゃいいってことなんだ。
こう考えると、安心だ。
「責任」と重く考えなくて済む。
こわいことは、まだムリなのかもしれないんだ。
自分でできそうかどうか感じてみて、どうするか決めさせるってことだ。
失敗してもいいけれど、すると自分が決めたなら、失敗を経験するのも自分やでと。

ここを親が肩代わりしちゃダメなんだ。
やってあげたい親としては我慢のところだ。
親がやってあげちゃえば簡単なんだけど。
子どもから責任を取る機会を奪うと、こどもを無力にしてしまうんだ。
自負心を傷つけてしまうんだ。

ということは、ふだんから、
親が自分を犠牲にしてまでやってあげすぎないほうがちょうどいいんだ。
子どもや家族に尽くさないほうが、こどもも家族も自立していくってことなんだ。
むしろ親が自分を楽にしたり、好きな事をしたほうが、子どもの自信と自立を育てることになるんだ。

例えば、子どもが勉強をしない。不良仲間と遊んでいる。とか、いろいろ心配になることがたくさんある。けど、ムリに言い聞かせてもムダだ。
「お母さんから見たら、おまえそのうち困ることになると思うけど、自分で決めなさい。その責任は自分がとるんだよ」
と言って、離れる。

それで親自身が自分の欲求や感情を大切に生きることだ。それをしなかったから、子どもが引きこもりになったり、問題を起こしたりするのだ

親がやってあげすぎちゃうことで、子どもが自分の責任を果たし自信をつける経験ができなくなる。

やってあげすぎているとき、親もしんどいわけだから、自分でやらせればいいんだ。

お父さんは生前モルモットのエサも調達。
「もう草いかんぞ」
「ないね、なかなか取る場所が」

きっとモルモットを飼うと決めたのは女性だと思うので、そのお世話も女性の責任だ。
だから、お父さんは、もっと早くに責任をお嬢さんに返してあげてよかったんだ。


・次にお父さんの視点から。

90のお父さんは、とにかくよく動く。
お掃除から家計簿を細かくつけることまで。

きっと昔から、こどものために、お世話がよかったんだと推察する。
マメで働き者で、こども思いのお父さん。

たぶん、子どもが「やりたい~」と選択したことを、
自分でやって責任を果たす(失敗も含めて)
っていう経験を邪魔しちゃう、やってあげちゃう場面がけっこうあったのではないだろうか?
モルモットのえさのエピソードとお父さんの働きから推察するに。
昔はお母さんもいたわけだから、夫婦でそのように子育てされていた可能性を思う。

おそらく、引きこもりになってしまうお子さんは、今後ますます増えるだろう。
管理されすぎた人間は意思を失っていく。
それは、野生動物と、動物園の檻の中の動物、くらいの差がある。
(中略)
管理されすぎも、意思がなくなるという点では同じことだ。
昔みたいに元気いっぱいの人がめっきり減ったのは、管理社会がすすんでいることも、大いに関係がある。
無気力な人が増えているのは当然だ。

このご兄弟の子どもの頃は、まだいまほど管理社会ではなかっただろうけど、
責任を果たす喜び、失敗も味わわせてあげられないと、誰でもこうなってしまうことを示唆していると思うのだ。

90のお父さんのこどものころは、まだ戦争していたよね。

私の父は戦後生まれだけど、
こどものころ、チョコレートが食べたくて、よく自転車でお店に買いにいってたんだって。で、帰り道、自転車をこぎながら、買ったチョコを全部食べちゃうんだって。
家に着く頃にはチョコはない。

たぶん、そんなふうにして夢中に食べるチョコは、相当にうまかたんだろうね、当時。

自力でチャリを漕いでわざわざ買いに行って、すぐさまもりもり食べちゃう。

これは、強烈に五感を喜んで味わっている。
そしてそれは、自分の力で獲得してやったぜという達成感と喜びがある。
オレが自力で勝ち取ったという喜び。

ささいなことだけど、こどもにとっては大きなことだ。
こういうのが自信や気力になっていく。

これが、現代の今の子どもには非常に少ないんだと思うの。

たぶん昔の人は生活全般がこんな感じだったのではないか?

全部がアナログだったから。

そして戦後、物がだんだん増えてきて、自分もがんばればゲットできるんだ、そういう希望と達成感と喜びをみんなが味わいながら成長したと想像する。
団塊の世代のみなさん、お元気な人が多いもんね。

で、その親たちも忙しかった。

家事もいまより大変だっただろう。家族全員のごはんをつくるだけでも大変だっただろう。畑をやってる家もたくさんあっただろう。
商売をやってる家もあっただろう。

すると、母ちゃんは家にいるけど忙しい。
子どものそばにはいるけど忙しくしてて、過干渉にはなりえない。

こどもはそこらへんで、勝手に子ども同士で遊んでいる。

遊びもメンコとか、いまより体を使う遊びが多かっただろう。五感や体や手先を使う遊びだ。

こうやって大人になった私の親世代は、たくましい。

自分の五感と達成感を感じて成長したから、自信がある。意思もある。エネルギッシュだ。

ただ、昔の親のしつけは、たぶん今よりずっと荒っぽかったと思う。
お父さんはいばっている人が多かった。お母さんもか。
すぐひっぱたく、とか。頭ごなしに叱るとか。
そういう育てられ方をした息子、娘もまた支配に生きている人が多いように思う。
でもたくましさと根性がある。

自分がたくましく根性があるものだから、いい親になろうとすればするほど、こどもにいろんなことをやってあげたいだろうと思う。
それが、こどもにとって、いいことだと思っているんだね。
それだと子どもの自負心を傷つけてしまうという弊害がわからない
ここがせつない。
こども本人も、周りも、社会も、まだそこまで分かっていない。
こういうのが当たり前に知られるようになればいいなと思ってるんだ。
少しずつ。親を責めるのではなくて。
これは仕方がないんだって。全然時代が違うんだって。

意識も、たくましく根性ある親と、自信が無い状態で苦しい子どもと、まったく正反対になっちゃってるんだって。

それで、今のこどもはというと、もうチョコレートは、たぶんつねに家にある。
自力でチャリンコをこいでまでゲットしなくとも、おかーちゃんが買ってくる。
手を伸ばせばいつでも食べられる。
味は昔よりもおいしくなっているけれど、私の父の子ども時代のような、自力でゲットしたありがたい味わい方ではないんだね。
あんなに五感を、喜んで感じながら、ハングリーには、味わってはいないだろう。
ゲームの片手間に手を伸ばして、なにげに食べるって感じかな?
これだとせっかくのおいしいお菓子もあまり味わっていないはずだ。

そして遊びはゲームだ。
五感や肉体は、あまり使わない。コントローラーを操作する指にまめができるくらいだ。
ただ、勝ち負け、クリアできたかどうか。
そういう喜びだ。

想像力も育たない。
なぜなら画面のなかのキャラクターが勝手に動いてくれるのが、動画やテレビやゲームだ。

昔は絵本しかなかったから、絵の中の動物は動かない。
このさき、このお馬さんはどっちに動くのかなぁと自分の頭で想像して楽しんでいたはずだ。昔のこどもは。おのずと主体的に遊ぶようになる。遊びを創造するようになる。

それに対して、自分から想像力を働かす必要がない動画やゲーム。テレビ。
これだと完全に、受け身だ。

意思や想像力、主体性が育たない。

代わりに勝ち負け意識が育っていく。
ゲームでクリアしたか、悪者を倒したかどうか。
悪者を殺しても血は流れない。

自分の想像力、五感、感情、意思、リアリティが乏しいのに、
勝ち負け意識ばかりが育つとは、
自分が感じられず、他者ばかりが気になるという状態だ。
これは、他人がこわくなるに決まっている。

心の法則として、
自分を感じる分量が少ないと、他人を気にする分量が多くなるんだ。

だから、こわいの。

でも自分の感情をつねに感じていると、

カンタンなんだ。
自分のハートを感じていると、他者の気持ちも感じられるんだ。
だから仕事でもお客さんの気持ちや要望、同僚や上司の思いや意図なども適切に感じられる
。いろいろと解決策も浮かぶだろう。
自分を感じていれば、集中してるから頭の回転も自然によくなるし。

しかし他者の目を中心に生きていると、相手を気にして顔色をうかがっているわりに、相手を適切に感じられないんだ。的外れなんだ。当たってないんだ。
そしてエネルギーも外に漏れちゃってる感じ。もがいているわりに解決策も浮かばないだろう。
だから他人の評価をすごく気にしてるわりに、仕事できないってなっちゃうの。

仕事できないから怒られちゃうでしょ?上司から。そうすると自信なくすでしょ。
自分が信じられなくなるし、失敗したらどうしようと恐れの気持ちがますます強くなる。

女性は18歳のとき初めて仕事をしたとき、このループにはまってしまって、人がコワくなってしまったのかもなと思った。

恵まれすぎていると、自分の責任を果たす達成感を感じにくい。
自信が育たない。
お金持ちでエリートの家の子が崩れていってしまうのは、こういうのがある。
お手伝いさんや親がすべてをやってあげてしまうから。

だから、現代はお金持ちでなくとも便利になりすぎてしまったから、
意図して、そういう機会をつくってあげたり、
こどもがやりたいと意思を示した時は超貴重な機会だから、
親がやたらと触らないで見守ってあげる、最後まで責任を果たさせてあげるってことが必要かなと思う。


でも、90歳のお父さんには、なにが起きているのか、どうしてこうなってしまったのか、なにがなんだか、わからない。
当然だと思う。

自分のこどものころとの違いがわからない。
なんで、こどもが苦しんでいるのか、わからない。
苦しむこどもがかわいそうで、自分にも責任があるから、せめてできることを、最後までと、なおさらやってあげる。

こどもも年月が経てばたつほど苦しくなって、動けないとなるから、
もうやってあげざるをえない。

自分は年老いていく。

罪悪感に苦しむ。

短い動画のなかに、お父さんと3人のお子さん、お友達とたくさんの人が登場するけれど、それぞれの視点から見える景色、取り組むべきことが全然ちがうんだ。

いい悪いじゃなくて、そんな現象がおきていることを、さりげなく教えてあげたくても、
責められたと受け取ってしまって、逆ギレする人もいる。

私自身の経験では、
さりげなく救いの手を差し伸べても、自分の問題と向き合いたくない方は、救いの手も振り払う。
そして誰かのせいにしつづける。

たぶん罪悪感に苦しんでいるから、責められたと過剰反応してしまう。
感情で感じられないから、言ってることの意味がわからない。
すると解決策を提案してあげたくても「聞きたくない」となる。

子どもの問題であっても、自分のこれまでの行動パターンと向き合うことになるから、そうするのがコワい人や準備ができていない方は非常に抵抗を感じ、ちょっとムリなんだ。

高齢であるならばなおさら、難しいだろうなと思う。

もしかしたら今回の人生では、せいいっぱいこの状態を経験して終えたいのかもわからないんだ。

どうしても我々はまだ自分を犠牲にしてでも人のために一生懸命やるのがいいことなんだっていう思い込みがある。
そして、人の自信ができあがる仕組みや、責任と心の関係を知らない。

それなら、周りはそっと様子見しながら見守るのが適切だろうと思うんだ。

長年苦しみ抜いた親子にとって、今までのパターンを変えるのは、簡単なことではない。
3人のバランスもある。

危険な、苦しい状態になっていないかだけ見てあげて、なんとか生活できているなら、それでいいよとしてあげる。

だから二男の方のサポートも適切だなと思った。


・次は二男の方の視点から。

二男の方は自立されていて、引きこもりや不登校の方の会を作っているということだ。

きっと長年ご自分の家族を見てきて、こういった方たちをどうサポートするのが適切か、研究され、取り組んでおられたのかなと想像する。

だからきっと、お父さんがお元気で生きているうちは、
お父さんの責任を邪魔しないように、見守ってあげていたんだな。
問題が起きていないか、暮らしていけているかだけ、注意してあげている。

長男と妹さんはお父さんに依存しているし、とっても好きでもあるし、
お父さんにも子を生み育てた責任がある。
それを最後までなるべくそのまま果たさせてあげたんだね。

長男の方がパチンコにお父さんの年金を使ってしまう問題があって、
私は少しパチンコを減らせないか、話合ってもいいかなとも思ったけど、
長男の方がそれに耐えられないなら、暴れてしまったり、心が不安定になったりすることも考えられるから、
「あいつがパチンコにカネを使ってしまう」とお父さんがこぼしたときに、
「あまり締め付けてもいかんからね」と状態を知っている二男の方は言ったのだな。

年金で3人生活という状況で、カネを使われるのも苦しいし、パチンコで心のバランスを保っている長男の方も苦しいし、その長男の方も働けんでごめんって罪悪感を感じている。
みんなが苦しい中でのバランスなんだよな。

そこを正論で急激に解決しようとしてもムリだから、相手がまだ無理なら見守る。
危険な状態になってきたら、そのときは介入する、次なる策を考えるってことなんだな。


・次に働けなくなってしまった長男の方の視点だ。

同じ親に育てられて兄弟であっても、心の状態はいろいろだ。

わりと一番上の子は、最初の子だから、大事に育てられる。
それは、過干渉になりがちともいえる。
そして長男はプレッシャーや、期待に応えなきゃとか、
期待に応えられなかったときの罪悪感とか、そういうのが大きいことが多い。

するとどうしても心が縛られがちだ。

悲劇のヒロインタイプの支配というのがある。
「助けてくれ」とはっきり言わないで、かわいそうな、つらそうなそぶりな態度で相手の同情を喚起するという支配だ。
そうやって相手を支配するというのを、やってしまうことがある。
女性に多いだろうか。涙や愚痴や態度を使った支配。
母親が息子に対してしているのをよく見る。
こんなふうに子どもを味方につけて夫と争う、とか舅姑と争う、という妻をよく見かける。
長男の人などこうされて育っている方が多いので、必要以上に親孝行しなければならないと思い込んでいる方もいる。その期待に応えられないと罪悪感を感じる。
これは不当な罪悪感だ。

まずはそれを自覚することだ。たいていそれは母親と父親の問題だ。
息子は関係ない。だから離れた方がいいんだ。関係ない息子がかわいそうだと入っていくと、父と母はいつまでも向き合えないんだ。
そして長男自身が結婚して、親の期待に応えたいのに妻がそれを拒むと、また家庭がカオスになる。こうして代々親と同じような家庭を築くことになる。

こういうケースも、ある。

一番下の子(ここでは女性)は、一番小さくてみんなに大事にかわいがられるから、
そういう意味で甘えんぼであったり、また過干渉にもなりやすい。

それに比べると、真ん中の二男の方は過干渉から逃れ、心の自由があったのかもしれない。
自由であると、責任を果たす喜び、達成感を味わうチャンスが自然にできる。
こうして、自信を育て、自立されたのかもしれないなと思った。

長男の方は、あまり多くを語っていない。

末っ子の女性は、人がコワいというけれど、自分の気持ちなど、けっこういろいろ話してくれる。
そして動物が好きとか、プラスの感情も見られる。


どうしても、女性と比べると男性のほうが、感情を感じにくい、感じること自体苦手であったりする。
怖いことをコワいとも言えなかったり、表現することも抑えて、本当に苦しいとき、おしだまってしまう方が多い。

だから、マイナスの感情も見て、感じてあげることが、楽になる方法であるから、
そんな感情を見ないで抑えてしまうと、そこから抜けづらく、苦しいだろうなと想像する。

女性が少しプラスに行き始めたのは、そんな苦しい感情も素直に表現できるからかなと思う。

長男の方は、
「はやく、じいさんのところに行きたいだけ。もう帰って」
と最後言っている。

今は一人でいたいんだね。

お父さんが亡くなって、責任が、それぞれのこどもたちに返された形だ。

今までは、お父さんの年金でパチンコしていたけれど、これからは自分の生活保護費から出すことになり、管理するのは自分だ。
それをしないと破滅するのも自分だ。助けてくれるお父さんは、もういない。

そうやって自分の管理をしながら自分の感情に向き合っていく時間が必要なのかもしれない。

そうやって自分の管理をしていくうちに、いつか自立の自信や達成感、喜びを感じる時が来るかもしれない。

いつか心のエネルギーが満タンになって、人がコワく感じなくなる時が来るかもしれない。

そんなときに、だまってよりそってくれる人がいるといいね。

ご兄弟もいるし、
同じ思い、つらさを経験した仲間を二男の方がたくさんつくって待っていてくれている。

ゆっくり時間をかけよう。

心が怪我している状態だ。

お体を怪我して、仕事をやめたとおっしゃっていた。
でもきっと心もムリしていて怪我をしているような状態なのに、長年我慢していたのだと推察する。
女性は人がコワいと素直に引きこもれたけれど、
長男の方はそういう感情を抑えて、いっぱい傷ついているのに我慢し続けてきた可能性があるなと思った。
それが体の怪我という形で現れた可能性がある。

自分が本当はどうしたいと思っているか、こっちが叶う。
これを自分の「本当の目的」と呼ぼう。
頭では、「こうするべき、これが正しい」と思っていても、
本心では感情のレベルでやりたくなければ、「やりたくない」が叶っていく。
やらなくていい状況を自分自身がつくる。

この場合「やりたくない」ってのが自分の本心、「本当の目的」なわけだ。
本当は働きたくないけど、仕事行かなきゃとか。そういうの。
こういった、心とアタマの差が大きくなっていくと、マイナスの事態を起こして、問題を起こしてやらなくていい状況をつくるんだ。
例えばトラブルを起こしたり、病気になったり、、、


自分を愛する、ゆっくりしながら、自分と向き合うってことが必要で、無意識に、怪我という形で、そうする機会をつくったようにも見える。
仕事より、
こどものときにつけられなかった自分が決めた責任を果たす自信を、少しずつ付けていくってことを、
自分の生活を管理しながらしたかったのかもしれない。

頭では働けなくてごめんね、自分はダメだと苦しんでいるけれど、こんなふうに深層の願いは叶うんだ。

それは皮肉にも、お父さんがいると、依存してしまうから、できなかった。

だから、今、自分の無意識の願いを、これからかなえていく。
そういう旅が始まったのかもしれない。


年は関係ないんだ。
いくつになっても遅いなんてことはないんだ。
生まれたときからプラスからはじめて、若くして夢を叶えて、
みんなも、「こんなふうにできるよ」と見せるお役目もある。

長年マイナスをじっくり経験して納得してから、自分を愛することを始める人もいる。わたしのように。

マイナスだけを堪能して終えたい人もいる。

本当に自由で、みんな無意識にやりたいことを、すでにしているし、叶えている。

そういうふうにできているとすると、年齢や社会の価値観なんて、全然意味が無いし、
そういうものは、心のつくり出す現象には太刀打ちできないんだ。
時代が変わると支配者の都合で簡単に変わるし。
あまり気にしなくていいんだ。


・最後に女性に新しくできたお友達の視点から。

女性は素直だから、お友達がつくってくれた焼きそばにダメだしをしてしまうw

女性は初めて友達ができた。
友達が作ってくれた焼きそばを食べて「これ、肉が入るともうちょっと・・・」
友達、苦笑。
女性「あ~ごめんなさい」

悪気はない。お肉が好きで食べたかった。それを言葉にした。

これもたまたまではなく、女性の意識を象徴していると思ったんだ。

責任の観点から状況を整理すると、
自分が準備すべき食事を友達が作ってくれたわけだ。
テーマはなにか?
誰が決めて誰が責任をとることなのか?
自分に影響があるのか?ないのか?

テーマは、食事
それは本来自分が準備することで、各自が自分で用意して食べる、でもいいわけだ。
でも、話合って、今回はお友達が作るよということになった。

だからこの場合、女性の責任を、友達が引き受けてくれたということだ。
だからやってくれてありがとう、なわけだ。

(料理も生活費を稼ぐのも、やってくれて当たり前ではなくて、一個一個ありがとうなんだ。
当たり前と思っていると、交換条件のように、俺が稼いでるんだから、料理は作ってくれて当たり前となってお互いに縛りあう関係になる。
この件はだれがやる?と一個ずつ話合って、お互いに同意していれば、
例えば料理も生活費も掃除もやるよと相手がOKしてれば、それでもいいわけだ。
これだと自由な関係だ。
責任を丁寧に話合って決めるほど、自由に解放されることにつながり、もめることも減っていく)

責任を一任されたのに文句を言われると、友達はマイナス感情になる可能性がある。

私自身は、人に料理を作ってあげる立場のときは、相手がなにか味について言ってきても、言うことをきかなければならない、という聞き方をしないんだ。
それだと頭に来るから。単なる意見って聞き方だ。

あ、そう?

って感じだ。
なぜなら、私に一任されているから、料理の味も何を作るのかも、私が決めることとなっているからだ。全部任されているので、その意見を却下してもいいわけだ。

だから、私の気分でお望みをかなえてあげてもいいかなってときは、
次回に望みを叶えてあげることもあるし、無視することもあるし、
味なら自分で調整してって言うこともあるし、
次から自分でやってくれる?って話にすることもある。

このくらい責任の感覚を高めて、言うことを聞きすぎない方が、
女性の責任の感覚を育てることもできるし、お友達も心が楽なはずだ。


そしてモルモットのケージの掃除も、本来は女性の責任で女性がやることだ。

『やってね』ではなく『いっしょにやろうか』が女性にとってありがたい。

ということなんだけど、もう一歩進んで、
女性から、「そうじしたいんだけど手伝ってくれる?」って、助けが必要なとき、依頼できたなら、もっと自立の感覚が高まっていいなと思う。

それには友達から、「ケージのそうじがしたいなら手伝うから、そのときは遠慮なく言ってね」と声をかけておく。


女性が掃除したいと思う前に、友達が汚いからと提案して、友達主体でやってしまうと、
女性の意思を育てるのを邪魔してしまい、またもや、自負心を傷つけてしまう可能性もある。

やってあげすぎは、相手をだめにする。それはお父さんとの関係がそうであった。

やってあげすぎは、相手に無力であれと言っているのと同じなんだ。
こうして、自負心を傷つけてしまうんだ。

自分から依頼できたなら、自負心は傷つかないんだ。
むしろ、自分からお願いして問題解決できた!という自信になっていく。

お父さん亡き今、
お父さんと似た人と、同じような関係性を築いてしまう可能性があるんだ。

ここがちょっと注意だなと思った。

今はまだ誰かの助けが必要ならば、依頼するってことを練習してみるのがよいかなと思った。

依頼されてから、お友達や周りが動いてあげるというのが一番適切かなと思った。


また、お友達が、女性の責任の範囲にまで入りすぎて、やってあげすぎて、
女性が構わずダメ出しするということを何度もやっていれば、
二人の関係もぎくしゃくしていくだろう。

自分の責任の範囲、相手の範囲って感覚が、まだ育っていないんだ。

もしかしたら、そのために過去、職場で人とうまくいかなかった可能性もあるんだ。

お友達も、人がコワくなってしまって外に出られなかったことがあったということなんだけど、
もしかしたら、女性と同じく、責任の範囲の感覚が育っておらず、
友達の場合は、相手に入りすぎちゃって、トラブルになって傷ついてしまう、ということが起きていた可能性もあるなと思った。

相手に責任に入りすぎちゃう人(お友達)と入られすぎちゃう人(女性)で、
それぞれそのパターンが自分になじんでいるから、お見合い成立となって仲良くなりやすいんだけど、
注意しないと依存関係になってしまう。


物理的に、支援をする行政の仕組みは、これから整っていくことだろう。
縦割り行政による取りこぼしもなくしていくと言っている。
デジタル化、マイナンバーとの紐づけもされていく。
こどもだけでなく、大人への支援もそうなっていくだろう。

でも、根本的に解決していくためには、
過干渉に気がついて、
自分の責任を果たす喜びを経験させてあげて、
本人の自信や意思を育てていくことなんだ。

まず、そういう心の仕組みがあるってことを、知るってことなんだ。

自分で試してみて、今の状態が楽になるかどうか、検証してみたりして。

それは行政にはできないことなんだ。

短い動画にいろんな方が登場して、
自分に近い立場の人に感情移入して、そんな視点で見ると、たくさんの発見がある動画だなぁと思いました。

やっぱり具定例を見ていかないと、わからないこと、見えないことがいっぱいあるんだ。

自分の苦しいときに取材させてくれて、こうして配信することをOKしてくれてありがとうございます。

それだけでも立派にあるがままで社会に貢献されていて、すばらしいし、ありがたいなぁと感じました。