これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

在宅医療 (その2)

2018-11-03 11:23:44 | 在宅医療
 今回は、私の両親の介護や知り合いの介護の話しです。痴ほう症の在宅医療については、後日別に書くつもりです。

【私の父のケース】
 私の父と母は年老いても元気に野良仕事をしていました。父は80才を過ぎても時々山の見回りもしていました。二人とも耳が遠くなって、大声で話す様になりました。

 実家の近所に嫁いだ姉から、父と母が近所の人達の悪口を言って困っていると電話がありました。 父と母に連絡せずに最終のバスで田舎に帰り、家の横の道で様子を伺うことにしました。二人は大きな声で「○○家は、昔は貧乏で・・・」と大きな声で喋っていました。

 当時、私は家を物色中でしたので、キッチンを二か所設けた当初の計画より広い家を建てて、父と母を引き取る事にしました。父は84才、母は81才でした。

 明石海峡大橋が建設中で、近くの高台から毎日進捗状況を見るのが二人の楽しみな様でした。 私には息子が二人いますが、当時下の子は2才で可愛い盛りでしたが、抱っこしようとしませんでした。 私は70を過ぎて、父と母には2才の孫を抱っこする力が残っていなかったのだと分かりました。 最近家内から聞いた話では、私が会社に行っている時は、父は孫を膝に抱いて遊んでいたそうです。

 同居を始めて3年後に、父は急に体力が無くなり、ベットから出られ無くなりました。 一か月程すると食べられなくなり点滴だけで生きる様になってしまいました。長期出張から帰って父の様子を見に行くと、話せなくなり、体温がかなり低下していました。 医者が数日前から学会にいって、点滴していなかったのです。

 救急車を呼んで入院させたのですが、ベットに横たわるとすぐに。紙と筆記用具が欲しい様な仕草をしたので、渡すと判読が難しい字で「そとにでたい、かえりたい」と書いていました。数時間後に眠る様にして亡くなりました。 最後の親孝行と思い、家で通夜をしました。

(余談) 父は軍人で、戦争で沢山部下を死なせたので、陛下が崩御されたら殉死するとずっと言っていました。 幸いな事に、昭和天皇より数か月先に亡くなりました。 87才でした。

【私の母のケース】
 父が亡くなったあと、母は元気でした。95才くらいまでは、庭の草引きをしてくれ、自分の必要な物は自分で買って来ていました。その後、数分歩くのが難しくなり、家内が買い物をしていました。更に体力が無くなり、家内の作った料理を食べる様になりました。

 100才になった頃、部屋からトイレに行くのに介添えが必要になりました。休日は私が肩を貸してトイレに連れて行きましたが、殆ど筋肉が無くなった手で私の身体を掴みました。力の調節が出来なくなっていましたので、母が掴んだ所は必ず”青あざ”になりました。(物凄く痛かったです!)

 1年ほど在宅医療をしていた時に、親戚の方の紹介で電車で2時間ほど掛かる病院に入院出来ました。母は家には帰れなくなる事を知っていたと思いますが、病院に入る事に反対しませんでした。

 毎週、見舞いに行きましたが、母は少しずつ衰えて寝る時間が長くなりました。最後に見舞いに行った日に、先生が「もう目覚める事は無いと思います」と言われ、一旦帰りました。次の日の未明に、苦しむ事無く逝ったそうです。103才でした。

(余談) 父と母の墓は、二人が毎日眺めていた明石海峡大橋の見える高台の民間の墓地に有ります。 近年急に、お盆や彼岸の頃でも、草の茂った墓が増えて来ています。「もう十年もすると、この墓地は維持出来なくなるのでは?」と心配しています。

【兄弟が多いいと何とかなるものですね!】
 男二人、女二人の兄弟で、母親が在宅医療を受けている50才代の男性社員がいました。彼以外の兄弟は母親の近くに住んでいる様でしたが、彼の家は高速を使っても2時間ほど掛かりました。

 交代で、毎日誰かが母親の家に行く事になっていた様です。彼は、毎週土曜日の午後に一人で車で出掛け、一泊して、日曜日に帰って来ていました。 私が彼と仕事をしたのは5年間程でしたが、その前からそんな生活をしていた様です。今でも続けているかも知れません。

 仕事の出来る優秀な社員で、会社では疲れた様子は全く見られませんでした。高速代とガソリン代だけでも大変な出費だったでしょう。何時も感心していました。

【末期のがん患者】
 近所に夫婦で末期のがんの母親を介護されている方がおられました。 急に様態が悪化して、救急車を呼びました。 病院に駆けつけると、医者が「病院は治療して助かる人の為にあります。この患者は二三時間で亡くななれますから、連れて帰って下さい」と言われたそうです。 医者が言われた通りに、帰宅後すぐに亡くなられました。
 医者の主張はもっともですが、私でも救急車を呼んだと思います。貴方はどうですか?

【賃貸に住んでいる身寄りのない人】
 70才過ぎの身寄りの無い女性が、エレベーターの無い小さな賃貸マンションの二階に一人で住んでいます。足が悪くなって、階段を後ろ向きにしか降りられません。それでも、最近まで働いていました。

 階段を上り下りする時、大きな声で「おーいちーにーさん」と掛け声を掛けるので、私達は彼女を「オイチニイさん」と呼んでいます。

 彼女の話しでは、「年金が少なく、働かないと生活保護を受ける必要があるので、足を直したい」と言って、毎日階段の上り下りの運動をいています。 時々夜中の1時や2時に大きな声で「おーいちーにーさん」と叫ぶので、住人は大変迷惑しています。

 もう1年以上こんな状態で、少しづつ足は悪くなっている様に見えます。先日は階段で立てなくなり、住人に助けてもらった様です。 彼女は毎日心細いと思いますが、大家は「30年以上住んでいるから、家賃が払えなくても追い出さない」と言っています。 彼女は唯我独尊の毒舌家で他人の話しを最後まで聞かないタイプです。私は先日、彼女を安心させようと思い、大家の意向を伝えようとしたのですが、散々な目にあいました。

 彼女は生活保護を受けるのと、入院するのは絶対嫌だと話していますが、そんな訳にはいかないでしょう! これからどうするのかな?

【身寄りのない人の病院】 入院患者のほとんどが、ホームレスや一人住いの生活保護者だった方の完全介護の病院を知っています。医者や看護師さんが少なく、建物が古くて、綺麗でない以外は普通の病院と変わりません。

 ベッドは背上げが出来る介護ベッドで、殆どの患者さんはテレビをレンタルされています。 私はタバコを嗜むのですが、なんと!病院なのに喫煙室が有るのです。換気には問題があり、喫煙室に入ると煙が充満していますが、たいてい数人が雑談しています。外見では病人と見えない方も時々見掛けます。

 普通の病院に行くと、見舞いに来られたと思われる方を見掛けますが、この病院では殆ど有りません。 近年、同じ病気で3か月以上入院させてもらうのは難しくなりましたが、この病院にはそんなルールは無い様です。

 生活保護費を受け取る日に、何回か行ったことが有るのですが、多分病院の費用を天引きして渡されるのでしょう。食費も、洗濯代も光熱費も要りませんから、テレビのレンタル料やタバコ代は貰えるのでしょう。

 この病院に行くと、「日本の社会福祉って凄い!」と感心します。国に余裕がある間は、社会の底辺で暮らしてきた方に、最後は”安穏”な生活を送って頂くのは良い事だと思います。

【エピローグ
 ある医者から聞いた話ですが、老齢の患者さんが「先日、少し気分が悪くなってホームのベンチで休んでいたら、スーッと意識が無くなって、気が付いたら病院のベットに寝ていました。助けてくれなければ良かったのに。だって、次に死ぬ時に苦しまないとは限らないでしょう!」と言われたそうです。

在宅医療 (その1)

2018-10-27 10:26:17 | 在宅医療
 私は同年代の人が介護を受ける様な年になりました。今のところは元気ですが、それでも色々考えてしまいます。私達の年代からは、「最後は在宅医療になる」と覚悟しておく必要が有ります。
 私の身近の介護や在宅医療の例を、2回に分けて書きます。3回目は、在宅医療専門医になった甥についての話しです。

【昔は在宅医療が当たり前でした】
 先日、友人が1965年頃に父親が脳溢血で亡くなった時の話しをし始めました。彼の実家は、人口数万人の町にありました。「あの頃は救急車は有ったのかな? 救急車を呼んだ記憶がない!」 お父さんは、倒れたその日に亡くなられたそうです。

 私の実家は、その市からバスで2時間ほどかかる、山奥の山村にありました。人口は8,500人ほどで、医者は数人いましたが、面積が広い村で、まだ自家用車が普及しておらず、医者が往診する習慣が有りませんでした。

 小学低学年の頃(1955年)まで、歩けない病人は雨戸を外して(戸板)、その上に病人を横たわらせて医者に運びました。 夜運ぶ時、私は提灯を持つ役を何回かした事があります。 1955年頃にやっと、二十軒ほどの集落で竹製の担架を購入しました。

 実家の隣に、慶応年間に生まれた父の伯母が住んでいましたが、1970年頃に寝たっきりになっていました。その家の嫁さんと、私の母が二人で介護して、2年程して亡くなりました。当時は、”在宅医療”と言う言葉さえ無かったと思います。

(余談) 戸籍の届は明治5年(1871年)頃に始まったそうです。 何歳で届けるかは自由だったようで、父の伯母は少なくとも6才だったはずですが、「慶応生まれだけど”0才”で届けた」と本人は言っていました。近所の老人達は、「そろそろ嫁に行く年だったそうだ!あの婆さんは魔物だ」と陰口を叩いていました。

【昔はたいてい年の順に亡くなりました】
 私は中学校を卒業するまで、田舎で育ちました。 その頃(1962年)、大抵の家に(別棟の)隠居部屋が有って、老人は寝込んでもその部屋で暮らしました。 まだ自給自足に近い暮らしをしていて、味噌、醬油、沢庵、豆腐、こんにゃく、きな粉、すり胡麻、草履、筵等々は自家製でした。 野良仕事が出来なくなっても、老人は貴重な労働力だったのです。

 小さな集落でしたが、毎年一人か二人、その家の年の順に亡くなりました。 誰かが亡くなると、近所の奥さん達が集まって通夜の料理を作り始めました。 通夜では酒は少ししか出ませんでしたが、大人達は久しぶりの会話を楽しんでいました。

 どんなに小さな家でも、葬儀は家で行われました。坊さんのお経が終わると、棺桶に縄紐を掛けて、二人で担いで墓に運びました。大きな穴に棺桶を入れて土を被せて、解散です。今の様に、喪主の挨拶も、葬儀の後の宴会も有りませんでした。 これで、一人の人生が終わったのです。 葬儀で泣いている人を、殆ど見たことが有りませんでした。

 川向の集落に、何か不義理をして”村八分”になっている家で、葬儀がありました。 私は、どんな葬儀になるのか興味があって参列しましたが、村の人が沢山集まり、坊さんも来て、普通の葬儀でした。

【現在の故郷は】
 時々故郷に帰っているのですが、人口は少しずつ減少し、老人だけの家が増えています。一人住いの家も結構有ります。一時期はどの家にも車が有りましたが、旦那さんが亡くなって廃車にした家も出てきています。

 医者は往診してくれる様ですが、老人が増え過ぎて十分な対応は難しいと思われます。 近年、村に一台救急車が配備されましたが、山奥の家からだと病院まで1時間以上掛かります。 田舎の在宅医療は大変です。

 棺桶を担げる人が殆どいなくなりましたが、隣村と共用の火葬場が出来て、棺桶は使われなくなりました。老人ばっかりになって、昔の様に賑やかに見送る事は出来なくなってしまいました。

【寝たきりの夫を抱えた奥さん】
 ここからは近年の在宅医療の話しです。 近所に家内の友達で、子供二人が結婚して家を出て、夫婦二人で暮らしている家がありました。2007年頃に、まだ60才になっていない御主人が脳梗塞になられ、片方の手だけは動くのですが、話す事も、口から食べる事も、身体を動かすも出来ない状態になってしまいました。

 目と耳の機能は失われていないため、テレビでヒイキ球団の野球観戦だけが楽しみで生きておられるようです。 昼間時々1時間ほど寝るので、奥さんはその間に急いで買い物をしなければなりません。

 数年ほどして、御主人が肺炎になられました。奥さんが私の家に来られて、「普通に治療をしたら助からないと思います!」と先生が小声で仰ったと話されました。私は「もう十分尽くされたのだから、先生の好意に甘えたら!」とアドバイスしました。

 結局、最善の治療をお願いした様です。 奥さんは旅行にも、孫の運動会にも、デパートにも、映画にも行けません。 最近は時々2時間ほどは外出できる様になり、その時は家内の車で少し遠いい店に買い物に行っています。それが奥さんの楽しみの様です!

 奥さんとたまにあったら、私はバカ話をして笑わせています。 時々、真剣な顔でふっと「いつまで続くのかな?」と仰るので、言葉に窮してしまいます。

【奥さんが若くして、くも膜下出血になった】
 親から莫大な遺産を貰った、40才くらいの公務員の方が近所におらました。奥さんが、くも膜下出血になられて、支えたらやっと散歩出来る様な状態になってしまいました。旦那さんは、直ぐに仕事を辞めて奥さんの介護を始めました。(1995年頃)

 時々、二人で散歩しているを見かけましたが、10年程して2回目のくも膜下出血があり、奥さんは寝たきりになられた様です。料理、洗濯、掃除は旦那さんがやられているそうです。

 旦那さんが在宅介護を始めて20年以上になります。2010年頃に20室以上の賃貸マンションを建てられ、広い駐車場や借家も多数所有されているので、収入は十分過ぎるほどあると推察します。然し、「旦那さんは楽しい人生では無かったのでは?」と私は思います。

【独身の男性】
 母親と二人で暮らしている60才過ぎの男性がいました。2年ほど前から母親が3か月入院しては退院し、2~3か月在宅医療を受けて、また3か月入院する様な生活をしていました。

 彼は中小企業の設計で、他の社員はCADを使っていましたが、彼だけは製図版を使っていました。プライドが高くて、設計部長のチェック・検印を拒否していました。

 ある時、”大ポカ”をして数百万円もする製品を作り直す事になりました。彼は社長に一切謝ろうとしないため、社長が”キレ”てしまい「首だ!」と言い、彼は「辞めます!」と啖呵を切りました。

 製造部長と私で、「謝ったら社長は許してくれる」と彼を説得したのですが、「貯金が数百万円あるから、これからは母親の看病に専念する」と言って辞めてしまいました。 その後、社長は時々「彼はどうしているか?」心配されていました。