これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

官僚について (その3)

2022-01-29 10:14:54 | 歴史
【はじめに】
 今回は、戦前と戦後の官僚制度/採用試験について書きます。

【戦前の官吏】
 明治初期には公務員試験は有りませんでした。内閣制度が始まったのは1885年(明治18)で、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任しました。それまでは、武士が官僚になっていましたが、優秀な人材を登用する必要が有ると考えて、87年から高等試験と普通試験を始めました。

 局長以上の『官』は、試験によらずに採用し、帝国大学卒業生は無試験で高級官僚に採用しました。(当時、帝国大学は東大だけでした。京大は97年の設立です。)その後、官吏の採用試験が始まりました。

 現在は『官僚』が一般的ですが、戦前は『官吏(かんり)』だった様です。官吏は下に示す①~④です。現在と違うのは大臣の多くが官吏だったことです。そして、陸軍大臣と海軍大臣は軍人か軍出身者だった様です。皇室は山林や株式などを所有する大富豪だったので経済的に独立していて、宮内官は官吏には含まれていませんでした。(皇室費を国家予算から出す事にすると、国会の議論/承認が必要になり、恐れ多いいと考えて、莫大な資産を(形式上)皇室の所有にしたのだと思われます。宮家の費用も皇室資産から出ていました。)

 奏任官の技術系の役人は『技師』、判任官の場合は『技手(ぎて)』と呼ばれていました。

・・・ 戦前の官吏 ・・・
① 親任官 :現在の大臣級
② 勅任官(ちょくにんかん) :高等官1等、2等、現在の次官や局長級
③ 奏任官(そうにんかん) :高等官3等、現在の課長級以下
④ 判任官(はんにんかん) :1等~4等
⑤ 雇員・傭人等

・・・ 戦前の官吏採用試験 ・・・
★ 1887年 :高等試験(奏任官の採用試験)と普通試験(判任官の採用試験)
★ 1893年 :文官高等試験
★ 1899年 :勅任官も高等文官試験の合格者が就任する事になりました。

(余談 :総理大臣の任命) 前述の様に1885年(明治18)に内閣制度が発足し、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に任命されました。 大臣達は天皇の臣下(天皇の補佐役)で、議会が選んだのでは無く、天皇が任命しました。天皇に任命責任が生じる場合が想定されるので、『元老』達が相談して総理大臣候補を一人に絞って天皇に推挙しました。天皇は推挙された人間を必ず総理大臣に任命しました。元老達が年老いて亡くなってしまったので、(天皇直属で官吏では無かった)内大臣と重臣達が内閣総理大臣を推薦する様になりました。

 この方式で選ばれた最後の総理大臣は、吉田茂です。吉田茂は土佐藩出身の政治家だった竹内綱の五男で、資産家の吉田家に幼い時に養子に入り、→→東大卒→→外交官で終戦を迎えました。終戦直後に貴族議員に任命され→→外務大臣→→総理大臣になりました。

 尚、新憲法下で選ばれた最初の総理大臣は、日本社会党の片山哲です。

【戦前の武官僚】
 戦前には陸軍省と海軍省が有りました。陸軍士官学校と海軍兵学校(修学期間3年ほど)が有り、その卒業生の一部が修学期間3年の陸軍大学校と海軍大学校で学びました。

 1872年(明治5年)に海軍病院学舎が設立され、→→82年に海軍医務局学舎/海軍医学校→→94年に海軍大学の中に軍医科→→97年に海軍軍医学校になりました。  1886年(明治19年)に陸軍軍医学校が設立されました。

(余談 :森鴎外) 森鴎外(林太郎)は東大の医学部を81年に卒業し、陸軍の軍医になりました。当時・まだ陸軍軍医学校は有りませんでした。鴎外は軍医としてドンドン出世して軍医の最高の地位『陸軍軍医総監(中将相当)』になりました。極めて多忙だったと想像しますが、時間を作って執筆活動を続けました。 文学だけでなく美術にも詳しく、(軍医退職後は)1917年に帝室博物館(現在の東京・京都・奈良の国立博物館)総長兼図書頭→→19年に帝国美術院(現在の日本芸術院)初代院長に就任しました。

(余談 :父) 1901年生まれの父は、貧しい家に養子に出され、尋常小学校を中退して商店に丁稚奉公に出ました。昔の丁稚は勉強する時間が与えられた様で、陸軍幼年学校に合格して→→陸軍士官学校に進みました。陸軍幼年学校は月謝が必要でした。養子先から出して貰っていないのは確かですが、金をドンナニして得たのか父は話しませんでした。英語の勉強もした様で、私が中学生だった時、中学校の英語の教科書が読めました。

・・・ 陸軍の学校 ・・・
★ 陸軍大学校 :陸上自衛隊教育訓練研究本部指揮幕僚課程に相当する。
★ 陸軍士官学校・本科 :現在の陸上自衛隊幹部候補生学校に相当する。
★ 陸軍士官学校・予科 :現在の防衛大学に相当する。
★ 陸軍幼年学校 :原則としては旧制中学校卒業生を採用しましたが、学歴が不問だったので、父は入学出来たのです。(月謝が必要)

・・・ 海軍の学校 ・・・
★ 海軍大学校 :海上自衛隊幹部学校に相当する。
★ 海軍兵学校 :旧制中学校の卒業生を採用した。
(注記) 他に、海軍機関学校と海軍経理学校が有りました。

【戦後の国家公務員試験】
 戦後の大臣や官僚は公僕(国民に奉仕する役人)です。 日本国憲法の規定によって、内閣総理大臣は両院の選挙で選ばれる事になりました。その最初の内閣総理大臣が片山哲です。現在は、総理大臣の下に大臣、副大臣、大臣政務官がいて、原則として国会議員の中から選ばれる事になっています。(これらの役職には現役の官僚はなれないと思います。)

 下に列記する様に、種々の国家公務員(官僚)採用試験が行われています。総合職試験に合格すると超!エリート官僚(キャリア官僚)になれます。2021年の合格者数は1,834人でした。 大卒の一般職試験の合格者数は7,553人(採用予定数は4,654人)でした。

 地方公共団体では、(民間企業と同じ様に)大卒程度と高卒程度を対象とした採用試験を行っています。最初から超!エリートとして採用される事は無いようです。 就職した時から超!エリート扱いするのは民主的とは言えませんから、私は、「総合職試験を廃止すべきだ!」と考えます。

❶内閣総理大臣→→❷大臣→→➌副大臣→→➍大臣政務官・・・原則として国会議員が就任

〇事務次官→→〇外局長官→→〇官房長→→〇局長→→〇部長→→〇次長→→〇課長→→〇課長補佐→→〇室長→→〇企画官、専門官→→〇係長・主査→→〇主任→→〇係員

・・・ 現在の国家公務員採用試験の歴史 ・・・
① 1947年 :国家公務員法
② 1949年 :第1回の国家公務員試験(受験資格が大卒程度のみ)
③ 1950年 :4級職採用試験;(受験資格が高卒程度。現在の国家公務員採用一般職試験の高卒
程度に相当)
④ 2001年 :国家公務員採用Ⅰ種試験(現在は国家公務員採用総合職試験に統合)、外務書記生試験(現在の外務省専門職員採用試験)が開始されました。

・・・ 現在の国家公務員採用試験 ・・・
★ 総合職試験(院卒者) :キャリア官僚
★ 総合職試験(大卒程度) :キャリア官僚
★ 一般職試験(大卒程度)
★ 一般職試験(高卒者)
★ 専門職試験(大卒程度) :国税専門官試験・労働基準監督官試験・財務専門官試験、航空管制官採用試験
★ 専門職試験(高卒者) :刑務官試験、省庁大学校、海上保安学校の採用試験
★ 経験者採用試験 :民間企業の途中入社採用試験の様な制度
● 外務省専門職員採用試験 :試験は外務省が行っている。

(注記 :省庁大学校) 省庁が沢山の大学校を運営しています。下記の①~⑦の大学校を卒業すると、大学卒と同じ『学士』になれます。 ①~④、⑧の大学校に入学すると月給とボーナスが支給されます。貧しい家の子供でも、頑張ったら大学校に進学出来ます。

① 防衛大学校(防衛省)  :有給、学費無料
② 防衛医科大学校(防衛省) :有給、学費無料
③ 海上保安大学校(国土交通省)  :有給、学費無料
④ 気象大学校(国土交通省)    :有給、学費無料
⑤ 水産大学校(水産庁)    :学費必要
⑥ 職業能力開発総合大学校 :学費必要
⑦ 国立看護大学校       :学費必要
⑧ 航空保安大学校(国土交通省) :2年制(短大相当)、有給、学費無料
⑨ 警察大学校(警察庁) :幹部警察官の研修所(新規採用は無し)
⑩ 税務大学校(国税庁) :高卒で税務職員採用試験に合格した人の研修、有給
⑪ 航空大学校(国土交通省) :パイロット養成、学費必要
⑫ 職業能力開発大学校(厚生労働省) :職業訓練施設
⑬ 職業能力開発短期大学校(厚生労働省) :職業訓練施設
⑭ 自治大学校(総務省) :地方公務員に対する研修所(新規採用は無し)
⑮ 消防大学校(総務省消防庁) :消防上級幹部等の研修所(新規採用は無し)
⑯ 国土交通大学校(国土交通省) :研修所(新規採用は無し)

【戦後の武官】
 戦前は徴兵制でしたが、現在は応募制です。厳しい訓練を行っているのに応募者がいる事に感心します。私の家の近くに、息子と同級の男の子がいました。彼は小さい時から自衛隊に入ると言っていました。高校を卒業して入隊したのですが、10日もしない内に帰って来ました。「朝起きるのが辛かった!」、「訓練に耐えられなかった!」と言っていました。

 中学卒でも入隊出来ます。陸上自衛隊高等工科学校(横須賀市)で募集しています。優秀な成績を収めると防衛大学に進めます。学費は無料で、月給とボーナスが支給されます。

 韓国は徴兵制で服務期間は陸・海・空・海兵隊で異なり、18か月~21か月です。戦後の兵器の進歩は目覚ましく、兵器の操作/整備に訓練と知識が必要です。自衛隊には種々の学校が有って、種々の訓練/勉強をしています。韓国の様に服務期間が短いと、実戦で役に立たないのでは?と思います。

 私は1985年頃に複数の護衛艦を見学した事が有ります。全て退役した旧型艦の話ですが、艦砲は甲板に設置されたドームに収納されており、イタリア製でした。 遠隔操作するので、ドーム内は無人でした。 砲弾は船内の弾薬庫から機械で持ち上げられ、自動で艦砲に挿入され、1分間に数十発連射出来るとの説明でした。接近して来たミサイルの方向にドームを急速で回転させる必要があり、ドーム内に人間がいると”目が回る”との事でした。 護衛艦にも沢山の種類があり、それぞれ種々の兵器を搭載しています。

 陸海空の自衛隊が所有する兵器の種類は数え切れないほど沢山有ります。その為に、防衛省には幹部候補生を教育する学校だけでなく、種々の技術を習得する為の学校が沢山有るのです。 ウイキペディア『自衛隊の学校等一覧』で検索して見て下さい。

(余談 :消防車の点検・整備) 機械設備の新設では最寄りの消防署に書類の提出が必要な場合が有ります。 メーカーが作成した書類を顧客が提出し/説明するのが原則ですが、メーカーに同行を要求する顧客も有り、私は数回消防署に行った事があります。説明に署長が同席されて、雑談を小一時間するのが常でした。どこでも、「消防車は何故?何時も車体がピカピカに磨かれているのか?」と質問されました。「いざという時に故障しない様に、毎日消防車を点検/整備している。車体を磨く事は消火活動とは関係無いが、点検した証明に毎日車体を磨いている」と誇らしげに言われました。自衛隊でも、同じ様に毎日!毎日!点検/整備しているのだと思われます。

・・・ 自衛隊の歴史 ・・・
★ 1950年 :警察予備隊
★ 1951年 :警察予備隊・総隊普通科学校が設立された。(陸上自衛隊幹部候補生学校の前身/戦前の陸軍士官学校に相当する。)
★ 1952年 :保安庁
★ 1952年 :防衛大学校の前身が設立された。
★ 1954年 :防衛庁
★ 1954年 :海上自衛隊幹部学校(旧海軍の海軍大学に相当する)
★ 1955年 :陸上自衛隊少年工科学校→→2010年に陸上自衛隊高等工科学校・・・中卒、有給
★ 1964年 :自衛隊体育学校
★ 1973年 :防衛医科大学・・・学費無料、有給
★ 2007年 :防衛省

【現在の官僚の人数】
 国家公務員と地方公務員の合計は”333万人”ほどで、約18%が国家公務員で、その内約46%が自衛官です。 先進国の中では国家公務員の数は少ない方です。女性の割合が少ない(約40%)のが問題だと思います。公務員の給与は、先進国の中では高い様です。

 マイナンバーと住民票、厚生福祉関係の書類、預金貯金通帳、不動産登記等々を連結して、国家と地方公共団体をデジタル化し、インターネットで手続き出来る様にしたら、公務員の数を大幅に削減できると私は考えます。 (更に、金持ちは相続税を誤魔化す工夫を種々やっていますが、誤魔化しが難しくなります。)

・・・ 2019年の公務員数 ・・・
★ 国家公務員 :合計≒58.5万人
   ❶一般職≒28.7万人、❷特別職≒3万人、➌防衛省≒26.8万人
★ 地方公務員 :合計≒274.4万人

【アメリカの官僚】
 アメリカでは1789年にワシントンが初代大統領に就任しました。 政権が交代すると官僚(上級と下級役人)が入れ代わりました。『僚(下級役人)』まで交代すると、行政が混乱します。 百年後(1883年)に公務員法(ペンドルトン法)が出来て、(官に相当する)上級管理職と郵政庁などを除く国家公務員は競争試験の成績で採用される様になりました。

 上級管理職は今でも政権が交代すると入れ代わります。 日本では上級役人(官)は難しい筆記試験の点数で採否を決めますが、アメリカでは上級管理職の競争試験制度は有りません。

 日本は『終身雇用制度』が慣例化されており、官僚も原則として終身雇用です。従って、日本の公務員試験は新卒を想定した物になっています。 逆に、欧米諸国では、空いたポストに経験豊富な人材を得る事に注力している様に見えます。これは、日本で言う「途中入社」です。 日本でも途中入社を認める大企業が少しずつ増えて来ているようですが、官僚についての「途中入社」はまだ狭き門です。

 韓国の財閥系の大企業では殆ど途中入社を認めていない様ですが、公務員の一部は民間企業で働いていた人を採用しています。 但し、元働いていた企業に情報を流すなどの不正が時々問題になっています。

 アメリカの政策には一貫性が無い様に見えますが、上級管理職が政権交代時に入れ代わる制度が原因の様に私には思えます。 安倍晋三氏はトランプ氏と親密な関係を築いたと自慢げでしたが、「何時梯子を外されるか?」私は心配していました。 立憲民主党は政権を取る前に、アメリカの政治について独自に情報を収集し/勉強しておく必要が有ります。でないと、2010年の鳩山・オバマ会談の様に顰蹙(ひんしゅく)を買う事になってしまいます。 何故なら、野党の政治家には外務省や内閣情報局が機密情報を流す分けが有りません。

・・・ アメリカの公務員の数 ・・・ 出典=ウイキペディア
 アメリカの人口は33,000万人、日本は12,600万人です。アメリカは、国家公務員も地方公務員も非常に多いい国だと言えます。

★ 国家公務員≒275万人 (上級管理職≒0.8万人、行政≒269万人、立法≒3万人) (日本≒31.6万人)
★ 軍関係≒140万人 (日本≒26.9万人)
★ 地方公務員≒1,600万人 (州政府≒434万人、群や市≒1,185万人) (日本≒274.4万人)

紙幣と貨幣の話し (その2)

2020-01-25 13:39:38 | 歴史
 今回はお札(紙幣)に関連する話を書きます。

【紙幣に興味を持ったのは】
 私が紙幣に興味を持ったのは、紙幣はその時代の最高の技術で印刷していると思ったからです。 収集を始めた後、段々高度な技術が取り入れられる様になりました。 偽造防止のために、教えて貰わないと分からない(小さな)仕掛けをしていたり、ドンドン興味が湧いてきました。

 母が引出し等に入れていた紙幣は、全て少額のものでしたから、紙質は悪く、ラフな印刷でした。 昔は少額紙幣は”ぞんざい”に扱ったのか?新しい紙幣に取替無かったのか? 母の紙幣は、ボロボロで一分欠損している物さえ有りました。

【紙幣の印刷は?】
 現在発行されている紙幣には『国立印刷局製造』と小さく印刷されていますが、1872年(明治5年)に発行された紙幣や、その後の少額紙幣などには製造局が印刷されていない物も有ります。

 どの色から順番に印刷していくかによって、見た目が違ってきます。インクだけでは無く、印刷手順等も極秘の様です。

(余談) 1984年から福沢諭吉の一万円札が発行されています。最初に発行された紙幣には『大蔵省印刷局製造』と入って、ホログラムが有りません。 偽札が出回りだしたので、2001年から発行された一万円札からホログラムが入り、『財務省印刷局製造」となりました。 2004年から裏面が『平等院の鳳凰像』に変わり、『国立印刷局製造』になりました。

【紙幣の用紙は?】
 紙幣の紙は、『みつまた(三椏)』などを原料に国立印刷局が製造する、一種の和紙です。 一万円札は、少し黄色で最も上等な紙を使用している様に見えます。

(余談) 一万円札を家で洗濯した事が有ります。 見た目でもハッキリ分かるほど縮んでいましたが、全く破れてはいませんでした。 学生時代にクリーニング店に取りに行くと、「ポケットに入っていた」と言って、一万円札を含む十枚ほどの札を出してきました。 貧乏学生ですから、そんな大金を日頃持ち歩いていませんでしたので、「私のではない」と言ったのですが、「受け取って貰わないと困る」と言う様なやり取りの末に、有難く頂いてしまいました。

(余談) ある方が、紙幣用紙を製造する工場で仕事をしていると、近くに(2cm×2cm程の)紙切れが落ちていたそうです。彼は、その紙片をポケットに入れて仕事を続けていると、周りに沢山の社員(?)が出てきて、窓から下を見ると溝川(ドブガワ)にも数人入って何かを探していました。 「紙片を探している」と言われ、「今更、出したら出入り禁止になる」と思ったので、そのまま帰ったそうです。 (”ある方”は既に亡くなられています。決して、私では有りません。)

【明治最初の紙幣】
 江戸時代は、各藩が”藩札”を発行していました。廃藩置県は1871年ですから、明治になっても藩は存在し、藩札は流通していました。(戊辰戦争で負けた藩で、取り潰された藩は無い様ですが、藩札はどんなになったのか?ご存知の方があおられたら教えて下さい。)

 明治元年(1868年)に、明治政府は銅版印刷の”太政官札”を5種類発行しました。(十両、五両、一両、一分、一朱) 1869年~70年に”民部省札”5種類発行しました。(二分、一分、二朱、一朱)

 1872年(明治4年)10月に、”円”の大蔵省兌換証券を最初に発行しました。3種類です。(10円、5円、1円) 三井組の名義で発行されたので、『三井札』と呼ばれています。 次の月に、北海道開拓資金を得るために、三井組の名義で開拓使兌換証券も発行しました。

(三井財閥) 三井家は1600年頃に武士を捨てて、伊勢・松坂で商売を始め、1673年に江戸に進出し、小間物屋→呉服商(後の三越)から両替商等々手を広げ、幕末には莫大な資産を持つ一族になっていました。明治維新の前年に、三井家、小野家と島田家の3豪商で反幕府側に一万両も用立てて、薩長を援助したのです。 明治政府は、最初から三井一族の協力無しでは成り立たない状態でした。(三井家の特徴は、財産を一族の共有にして、各家に給料(?)の様な形で金を渡したことです。愚鈍な当主が出ても、一存で、財産を失ってしまう恐れを無くしたのだと思います。)

【政府紙幣】
 1873年(明治5年)に、ドイツで印刷した不兌換紙幣を発行しました。9種類です。(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭) この紙幣は、1877年から日本で印刷しました。 縦長の紙幣で、『明治通宝』のハンコが押されています。

 1881年(明治14年)から新しい紙幣が発行されました。 この時から、紙の原料に『みつまた(三椏)』が使用される様になり、形は横長になりました。 10円、5円、1円、50銭、20銭の5種類です。 原版をイタリア人が製作したために、神功皇后が白人の様な顔になっています。

【国立銀行券】
 1872年に国立銀行条例が制定されて、各地に雨後の筍の様に、全国で153行、”国立銀行”が設立されました。国立銀行(ナンバー銀行)は民間銀行で、国が認めた銀行です。国営や国有銀行では有りません。 合併/倒産などで、ナンバー銀行は少なくなっていますが、今でも、第四銀行、七十七銀行など数社が健在です。

 1873年から、国立銀行券が5種類(二十円、十円、五円、二円、一円)が発行されました。 各国立銀行が政府の公債を買って、購入した公債に相当する金額の国立銀行券を発行しました。 紙幣は政府が印刷し、各国立銀行は紙幣に銀行名、頭取名等の印を押しました。 従って、厳密には『一円券』だけでも少なくとも153種類有ります。『大日本帝国流用紙幣』と、5年後に発行された物には『大日本帝国国立銀行』と印刷されています。

【西郷札と承恵社札】
 1977年(明治10年)の西南戦争の時に、薩摩軍が『西郷札』を発行し、鹿児島県庁が金融業を営んでいた承恵寺と撫育社に証券『承恵社札(しょうけいしゃさつ)』を発行させました。 両方で、薩摩軍は18万円ほどの軍資金を得た様です。

【日本銀行券】
 通貨を発行する日本銀行が設立されたのは1882年(明治15年)です。1885年に最初の紙幣を発行しました。当時・正式には金本位制でしたが『日本銀行兌換券』と印刷されています。(百円、十円、五円、一円の4種類です。) 偽札が出回ったそうです。

 1888年に偽造防止対策を加味した新しい『日本銀行兌換銀券』が発行されました。この時から、肖像画が入る様になりました。(百円、十円、五円、一円の4種類です。)

 1897年(明治30年)に金本位制に変わりました。”銀”の文字を入れない新しい紙幣『日本銀行兌換券』が発行されました。(百円、十円、五円の3種類です。) この時から、図案/原版を日本人が手掛ける様になりました。

(余談) 日本銀行が株式会社?なのをご存知ですか。資本金は、1億円しか有りません。(1株=100円、100万株) 但し、株券とは言わず”出資証券”と呼ぶそうです。日本政府が55%所有していますが、残りの45%はJASDAQ(ジャスダック)で売買出来る様です。(配当金は、出資金100円当たり、5円以下と定められている様です。利益は1兆円以上有りますが、僅かな配当金以外は、国庫に納められる事になります。)

【少額の政府紙幣】
 貨幣の内、紙の物を紙幣、金属の物を硬貨と言います。硬貨は明治時代から政府発行で、造幣局で製造されています。 紙幣の方は、1885年(明治18年)以来、原則として日本銀行が発行して来ました。 硬貨の製造が間に合わなかったので、1917年(大正6年)に政府が50、20、10銭の紙幣を発行しました。 戦前の政府発行紙幣には、『大日本国政府紙幣』、戦後のものには『日本政府紙幣』と印刷されています。

(余談) 昭和十年代には、①大正時代から発行されていた50銭銀貨、②1923年(大正12年)まで発行された50銭・政府紙幣、③1925年(昭和13年)の日銀・50銭札、④1929年の50銭・政府紙幣・・・4種類の50銭貨幣が流通していたと想像します。 混乱しそうに思われます! (1882年にも50銭・政府紙幣が発行されています。) 

(余談) 現在は、500~1円まで6種類の硬貨が発行されていますが、長い間・デザインを余り変えていません。 少額のため偽硬貨が作られる恐れが無く、自動販売機が普及したので誤動作を回避する為にデザインを変えていないのだと思われます。 造幣局は技術を磨いていて、その成果を記念硬貨で公表しています。 「耐久性が有るのか?」と私は疑問に思うのですが、カラフルな記念硬貨も有ります。

【外国の貨幣】
 私が現役の頃、海外出張をした社員が外国の紙幣や硬貨を持って来てくれました。 大抵は小額の貨幣でしたが、高額の物は当時のレートで買いました。 インドなどの紙幣はボロボロで、ホチキスの穴があいていて、紙幣を”ぞんざい”に扱っている証拠でした。 紙質も悪く、印刷技術もお粗末な物が多かったです。

 「1ドル紙幣はもういらない」と言っても、持って来てくれました。すべて”クシャクシャ/クタクタ”でした。アメリカは今でもチップ社会ですが、チップはポケットから”さっと”出すのがスマートで、財布から出すのは”カッコ悪い”のだそうです。 新しい1ドル紙幣の表面はインクの凹凸で枚数を数え難いので、クシャクシャにしないとチップを過剰に渡してしまう恐れがある様です。 (同じ理由で、私は”手の切れる様な千円札”が嫌いです。)

 近年、世界では高額紙幣は発行されない方向に進んでいます。日本でもキャッシュレス化が進んだら、一万円札は消えてしまうかも知れません。 世界の高額紙幣ランキングで、一万円札は10位以内に入ります。 (近年まで10,000シンガポールドル札≒82万円、が一位でしたが、現在は発行されていません。)

(余談) アメリカでは、かなり前から100ドル紙幣は一般には流通しなくなっています。かっては十万ドル紙幣が発行されていました。 ハウスキーパが、電話台の引出しに十万ドル紙幣が入っているのを見付け、玩具だと思っていたそうですが、「もしかしたら?」と魔が差して、スーパーで使って見たと言う記事を読んだことが有ります。皆さんのご想像の通り、警察に通報されて、その場で逮捕されたと書いていました。

【チェコスロバキアの話し】
 昔、有ったチェコスロバキアに出張した人の話しです。1972年に大掛かりな装置の試運転/運転指導の為に、数人で3ケ月ほど滞在した様でした。 その内の一人は私の尊敬する方でした。会社から出張手当とホテル代が支給されるのに、「ホテル代は顧客持ちで、顧客から高額の日当が貰えるので、沢山お金を持って帰る」と、嬉しそうに言って出掛けました。

 現地では、殆ど休日無しに働き、約束の通りに高額の日当を貰ったそうです。帰る時に空港で、チェコスロバキアのお金『コルナ』は国外持ち出し禁止だと言われたそうです。 どうした?と思います。 空港のカウンターの横に有った階段の上から”餅まき”の様に、皆で持っていた札を全てバラ撒いたそうです。 「沢山・人が集まって楽しかった」と負け惜しみを言っていました。

 彼は、私が紙幣を収集している事を知っていたので、「持って来てやる」と約束していたのですが、一枚も残さずにバラ撒いたのです。

紙幣と貨幣の話し (その1)

2020-01-18 12:34:03 | 歴史
 今回から、貨幣の収集が切っ掛けで知った、紙幣と貨幣の話を書きます。 3回ほど連載する予定です。

【母の不思議な習慣】
 私の母には変わったところが色々有りました。その一つが、全ての引出し、文箱、その他の収納箱に昔の貨幣や紙幣を入れる事です。(紙幣は全て少額で、使い古したボロボロの状態でした) 臍繰り(ヘソクリ)か?迷信の一種か?と思っていたのですが、小学生になった頃に、「引出しの貨幣や紙幣を貰ってもいいか?」と聞いたら、あっさりと許可してくれました。

 箪笥や長持にも入っていて、貨幣は千枚ほど、紙幣は少なかったですが数十枚は有りました。大正時代から戦中まで日本で発行された物でした。それ以来、貨幣を収集する様になりました。満州や朝鮮半島から引き揚げて来た家の子供達から、持ち帰った貨幣を物々交換して手に入れました。

 一文銭や四文銭は、我が家には一枚も有りませんでしたが、村のどの家にも沢山残っていたので、物々交換で沢山入手出来ました。(江戸時代の銭を、2メートル程の紐に通したのを見せて貰った事も有ります。)

【コイン収集のその後】
 古銭や古い紙幣の取引価格が記載された本を入手しましたが、価値の有るのは殆どまだ所有していませんでした。簡単な発行時の経緯なども書いていて、後で考えると良い勉強をしたと思います。

 小学館出版の小学◎年生と漫画の雑誌を購読していたのでが、懸賞に応募したら大きくて/豪華な玩具が当たりました。開封していた時、たまたま近所の一歳年上の男の子が通り掛かり、早速動かして見ました。(彼が家に帰るには、我が家の庭を必ず通る必要が有ったのです。)

 暫くすると、彼が、明治7年の50銭か?20銭硬貨か?を持って来て、「これと交換してくれ」と言うのです。前述の本で、その貨幣の価値を知っていました。玩具を持って彼の家に行って、彼の両親に「このコインは高価だけど、交換しても良いか?」と聞くと、逆に「お前の方こそ親の許しが必要では?」と言う様なやり取りがあり、何と!取引が成立したのです。それ以来、私の宝物になりました。

 1916年~38年に発行された”桐一銭銅貨”を数十枚収集していたのですが、東京で働いていた姉が、「自動切符販売機で、十円硬貨として使えるかも知れない」と言って、二、三枚持って行きました。次に帰って来た時に、数枚を残して、強引に全部持って行ってしまいました。(桐一銭銅貨と十円硬貨ではだいぶ違いますが、当時の自動切符販売機はいい加減な物だったのです。)

 私は、段々紙幣の方に興味が湧いて来て、コインの収集は殆どしなくなっていました。私には十歳も違わない甥がいるのですが、甥が中学生の頃コイン収集を始めたので、ほぼ全てプレゼントしました。最近、どうなったか聞いたところ、直ぐに興味が無くなって、今ではそれらのコインの行方は分からないそうです。

【貨幣と紙幣の本】
 私は町の高校に入ったので、貨幣と紙幣に関する本が買えました。これから書く記事は、その頃から貯えた知識がベースになっています。今でも、古い紙幣には興味が有りますが、明治初期の紙幣は高価なので収集は諦めました。

【徳川家康と小判】
 「お金の有難さ」を別の意味で理解して頂きたいと考えています。 イギリス人の女性・イザベル・バードが1894年(明治27年)から朝鮮半島に行った時の記録『朝鮮紀行』を読んで見て下さい。 当時、まだ朝鮮半島では貨幣経済は未発達で、高額貨幣は発行されていませんでした。 彼女が、半島を旅行しようとした時の問題の一つは、旅行費用の運搬でした。 「穴明き銭しか無く、銀行や両替商は、彼女の旅先には一軒も無かった」と書いています。 従って、彼女は穴開き銭を多量に運ぶ必要が有ったのです。

 1円が穴明き銭3,200枚に相当し、100円は320,000枚になりますから、「100円分の銭を運ぶのに、馬一頭か、男を6人雇う必要が有る」と書いています。 当時、既に日本では100円(≒100ドル)札が発行されていました。 (彼女は、結局・日本の銀貨を持ち歩いたと書いています。)

 豊臣秀吉が天正大判を1588年に発行しましたが、流通貨幣では有りませんでした。(大判に含まれる金の量と、その時の金の相場で、流通貨幣の”一文銭”と交換したのです。)

 日本で最初の高額の流通貨幣を発行したのは、徳川家康です。 関ヶ原の戦い(1600年)の翌年に、慶長小判が出ました。 日本の経済発展に、家康は多大な貢献をしたと私は思っています。 この事は、高校の歴史の教科書で取り上げるべきです。(小判の金の含有率を下げた事は書かれている様ですが。)

 ウイキペディアによると、慶長小判の1両で、米3~4石が買えたそうです。 当時は一人一年に1石も食べた様ですが、二、三両有れば大家族の1年分の米が買えました。 米1石=150kgですから、10kg=5,000円をベースにして計算すると、1石=75,000円になります。 (1両≒225,000~300,00円) 慶長小判は、13,000~14,700万両発行されたと言われています。 当時、流通経済がどれほど発展していたのか?想像する事が出来ます。

(私の勉強方法) 「江戸時代初期の江戸の人口は15万人ほど、幕末には武士、出稼ぎ、旅人などを含めると150万人ほどいた」と言う記事を読みました。 「江戸の周辺は関東ローム層で、田圃が少ないですから、米は殆ど採れません。1年間に米を15万人×1石(150kg)/1,000=22,500トンも運び込む必要があった」・・・「船で運ぶとしたら何隻必要か?」などと考えてしまいます。 学校で歴史は”暗記のするもの”としないで、私の様な教え方をしたら歴史好きが増える様に思います。

(余談 :悪貨は良貨を駆逐する) 江戸時代に小判は11種類発行されましたが、金の含有量は、段々少なくなりました。 最初の慶長小判は重さ17.73g(金は15.19g)、最後の万延小判は3.90g(金は2.24g)です。 1871年に発行された、明治・最初の旧1円金貨は1.67g(金は1.50g)です。

(余談 :小判を金色に見せる工夫) 小判は金と銀の合金で、慶長小判は20Kほどですが、万延小判14Kほどです。 小判を作る最後の工程(?)で、薬品を用いて表面の銀を除去していました。 表面は金の含有量が多くなり、金色に発色します。 表面が擦り減ると輝きは低下します。(小判の表面には凹凸が有りますが)凹の部分は金色を保ちます。

(注記) 造幣局は純金を『24K』と、金含有量が75%の物に『18K』と表示する様に決めています。 『K18』とか『18金』と表示した物もありますが、造幣局の規定値よりも金の含有率が低いものが有るので注意が必要です。

(余談) 母の実家も山奥に有りました。 その村の古い家を、1960年頃に建て替えることになり、私の親戚の方が古家を壊すのを手伝っていた時の話しです。 梁(はり)の上から小判が十数枚落ちて来たそうです。 私は、「こんな山奥にも小判が流通していたのだ!」と驚きました。

【明治の最初の貨幣と為替】
 1871年(明治4年)に新し通貨”円”が制定されました。1両=1円=米1ドルとしたのです。その年から貨幣を発行し始めました。20円、10円、5円、2円及び1円金貨と、1円、50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨の10種類です。 (この時に発行された5銭銀貨は直径16.15mm、質量は1.25gしかありません。)

 明治政府は最初、金本位制として『金貨は国内流通用』、当時の世界では貿易の決済は銀でしたから『銀貨は貿易用』と考えていた様です。然し、貿易赤字が続いたために多量の金貨が海外に流失してしまいました。 困った政府は、1878年(明治11年)に銀貨の国内流通を認めました。→実質的には金銀複本位制になりました。

 江戸時代の貨幣制度では、1両=4分=16朱=4,000文で、1文銭と4文銭が有りました。1871年には、5銭未満の貨幣は発行されませんでした。 1両=1円とすると、5銭=200文になりますから、5銭はかなり高額の貨幣です。 その為、2年間ほどは江戸時代の一文銭や4文銭を使ったのです。 1873年(明治6年)に2銭、1銭、半銭と1厘銅貨が発行されました。

注記:1) 新貨幣制度の単位は、 1円=100銭=1000厘(りん)です。 1厘=10毛(もう)ですが、毛単位の貨幣を私は見た事が無いので、発行されていないと思います。

注記:2) 1871年(明治4年)に発行された貨幣の内、20円、5円、2円金貨と、1円50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨は年号が『明治三年』になっています。

注記:3) 1871年に、1円は金貨(φ13.51mm、1.67g)と銀貨(φ38.58mm、26.96g)の2種類が発行されました。金貨:銀貨=1:2程の割合で発行されました。発行総数は550万枚程です(550万両に相当します。) 当時の1円は現在の1万円札よりもずっと高額でが、こんな小さな貨幣では紛失する恐れが有るので、(政府の方針に反して)「1円銀貨は国内でも流通していたのでは?」と私は考えています。(ちなみに、1円アルミ貨はφ20mm、1gです。)

【荒野の用心棒の時代】
 クリント・イーストウッドが主演したマカロニウエスタンは、明治維新より少し前(1865年)くらいの話しです。 当時の1ドルは、現在のアメリカの価値で25,000円~30,000円ほどの様です。 『許されざる者』で娼婦達が、ならず者・二人に掛けた懸賞金は1,000ドルでした。

 落語の『時そば』は、二八=16文(0.004両)です。 ”ちくわ”だけが入った”かけそば”を食べたのです。 蕎麦の価格をベースにして、江戸時代の一両を現在の価値に換算すると100,000~130,000円ほどになるそうです。 昔の通貨の価値を換算する時、何をベースにするか?によって値が大幅に違います。

【記念硬貨】
 1964年(昭和39年)の東京オリンピックから記念硬貨(100円と1,000円)が発行される様になり、近年は特に多いいです。 興味の有る方は、造幣局のホームページの『記念貨幣一覧』で検索して下さい。

 記念硬貨は、①金融機関で両替する、②造幣局からの発行予定案内に応募して当選した人に送る、2種類の方法で発行しています。 大体、高額の物は②の方法でしか入手出来ません。

 2019年までに発行された金貨の記念硬貨だけでも、10種類あります。 最初は、1986年と87年(昭和61年と62年)に天皇陛下御在位60年記念の十万円硬貨です。 バブル景気が始まる前でしたが、日本は豊になっていたのだと思います。2年間で1,100万枚(金額にすると1.1兆円)発行されました。

 2004年(平成16年)の国際博覧会記念の一万円硬貨から、刻印金額の10倍以上の金額で頒布される様になっています。 これらの硬貨を金融機関で両替しよとしたら、一万円にしかなりません。 最近の金の価格は1gが6,000円程ですから、金として売ったら15.6×6,000=93,600円になります。 記念硬貨は流通通貨では無くて、コイン商を儲けさせる『商品』なんです。

昭和61、62年 30mm、20g 純金 :天皇陛下御在位60年記念 :100,000円
平成2年  33mm、30g 純金 :天皇陛下御即位記念 :100,000円
平成5年  27mm、18g 純金 皇太子殿下御成婚記念 :50,000円
平成9年  27mm、18g 純金 長野オリンピック :50,000円
平成16年 26mm、15.6g 純金 :国際博覧会記念 :10,000円
平成21年 28mm、20g 純金 :天皇陛下御在位20年記念 :10,000円
平成27年 26mm、15.6g 純金 :東日本大震災復興事業記念 :10,000円
平成30年 26mm、15.6g 純金 :東京2020オリンピック競技大会記念 :10,000円
平成31年 28mm、20g 純金 :皇陛下御在位30年記念 :10,000円
平成31年 26mm、15.6g 純金 :ラグビーワールドカップ日本大会 :10,000円

(注 :自動販売機) 日本銀行は、「自動販売機で使用出来ない記念硬貨が有るので、その場合は金融機関で両替して下さい」と言っています。

(余談) 親戚に記念硬貨の収集をしている方がおられるのですが、彼は今でも超多忙なので、家内と私が手分けして金融機関での両替や造幣局への応募をしたりしています。去年、発行された『天皇陛下御在位30年記念』の500円硬貨は500万枚も発行されたのに、金融機関を走り回りましたが、超人気で30枚ほどしか入手出来ませんでした。 明仁上皇(平成天皇)の人徳で、記念硬貨が飛ぶように捌けたのだと思います。 近年、発行された東京オリンピックの100円・記念硬貨は余り人気が無かったのか、金融機関に沢山残っていたので、360枚入手出来ました。 36,000円分で1.7kgも有り、とても財布には入りませんでした。

(余談) これは、1988年頃の話しです。 仕事が出来て、無理な依頼をしても必ず期日までにやってくれる社員がいました。 彼は何時も財布に十万円の記念硬貨を入れていて、時々見せてくれました。彼の欠点は『大酒飲み』で、ある夜・姫路で飲んで清算しようとしたら現金が足りなかったのだそうです。十万円硬貨で払おうとしたら、受け取って貰えず、十万円硬貨は質にも取ってくれ無かったので、時計を置いてきたと言っていました。

日本国憲法 (その3)

2019-05-11 15:45:49 | 歴史
 今回は、憲法第9条についてです。「日本の憲法は平和憲法だ!」と言う人がいますが、私は「能天気憲法だ!」と思っています。そんな結論になる理由を書きます。第9条については、色々言いたい事が有りますので、二回に分けて書きます。

 『憲法第9条を改正して、自衛隊を軍隊だと正式に認めたら日本は他国を侵略する』と主張される方がおられますが、第二次世界大戦で痛い目に合い、更に民主主義思想が定着していますから、『絶対にそんな事にはならない』と私は(日本国民を)信じています。

第二章 戦争の放棄
〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

【貴方がマッカーサーだったら!】
 (私は、”後付けの議論”は好きでは有りませんが、)貴方がアメリカ人でGHQのトップだったとしたら、どんな憲法第9条を日本に提案したか考えて見て下さい!

 1945年の終戦時点では、世界の共産主義者達は武力革命で共産主義国を増やしていく方針でした。従って、どこの国でも内乱が発生する可能性が有りました。(日本共産党は、1922年に設立され、終戦直後に合法化された時点では、武力革命派もいましたが、平和革命派が主流でした。1951年に武力革命派が主流になって、農村でゲリラ戦を起こし→都市部に拡大するという武力革命を唱える様になりました。1952年の衆議院選挙で惨敗(議席が0)して、(国民の支持が得られないと判断したためか?)1955年にこの方針(農村ゲリラ戦)は破棄しましたが、未だに武力革命を否定するとは言っていません。)

(補足) ”レッドパージ”とは何か?分かりますか。1950年に、マッカーサーが共産主義者の公務員や会社員、10,000人以上を解雇させ、共産党員を逮捕した事件の事です。戦後、共産党は合法化されていましたが、冷戦の深刻化で取った(無茶苦茶な)処置だと思います。

 1955年に共産党が方針転換すると、共産党や社会党の武力革命を支持していた学生や勤労者達は党から出て、過激な”新左翼”と呼ばれる団体を多数結成しました。1970年の『よど号ハイジャック事件』は赤軍派が、1972年の『浅間山荘事件』は連合赤軍が起こしました。革マル派,中核派、革労協などは現在でも存在し、公安が監視しています。

 軍隊には内乱を防止/鎮圧する重要な役割が有ります。1945年の日本の人口は7,200万人ほどでした。こんな大所帯の国が軍隊を持たないで維持出来た例は、世界の歴史を勉強しても見当たりません。日本が、1950年の警察予備隊が設立されるまでの5年間、政情不安にならなかったのは連合軍が駐留していたお蔭だったと思います。

 1948年頃から、アメリカでは日本に軍隊を持たせるべきだと言う議論が始まりました。終戦時点では、帝国の軍隊を解散させる事が最重要課題でしたが、日本の治安維持費をアメリカが負担するのは不合理だと言う意見が出て来たのだと思います。

 以上の様な事を考えると、私がアメリカ人でGHQのトップだったら、軍隊を持たせないのでは無く→「他国の侵略を行わない」と憲法に明記させたでしょう。旧帝国軍は一旦解散させて、将校を全て追放し、1946年(遅くとも47年)にはGHQの主導で治安維持を主目的にした新たな軍事組織(○○軍)を設立したでしょう。

 私の案は、日本を悲惨な状態にした可能性が有ります。1950年に勃発した朝鮮戦争に○○軍は参戦させられたと思われます。ベトナム戦争にも駆り出された可能性が有ります。当時の日本の経済力では、アメリカの要求を撥ねつける事は出来なかったと思われるからです。もしも参戦していたら、○○軍の兵士は沢山亡くなっていたでしょう。1960年の”安保闘争”は、もっと大規模になっており、沢山の学生や市民が亡くなっていたかも知れません。

【平和な世界から、年々遠ざかっています!】
 軍隊を持たなくてよい世界になれば素晴らしいですね!『人間は欲深い動物ですから、そんな世界が実現出来るのか?』、私が生きている間には無理です。子供、孫、曾孫、玄孫の時代にも無理だと思います。

 ほとんどの国は、豊かになるに連れ軍事費を増やし、兵器を増強しています。アメリカ、中国、ロシアは兵器の開発に余念が有りません。工業国の多くは兵器を輸出したり、密輸したりして、貧しい国では兵器が溢れる様になって来て、内紛が絶えなくなって、益々貧しくなっています。こんな現状を見ても、近い将来に軍隊のいらない世界になると思われますか?

【大戦後の日独伊(枢軸国)の軍隊】
 第二次世界大戦を戦ったイタリアは、ムッソリーニ率いるイタリア社会共和国(RSI)軍+義勇軍+王国軍でした。1943年7月に王国軍とファシスト党内の一派がクーデターでムッソリーニを軟禁し、連合国と停戦交渉を始めました。ドイツがムッソリーニを解放したので、イタリアは内戦状態になり、終戦を迎えました。そのために、サヴォイア王国軍は、戦後も存続が認められたのです。

(余談) 1946年、国民投票によって、サヴォイア王家は追放されて、イタリアは共和国になりました。(連合国が王家の追放を要求したわけではありません。)王国軍は共和国軍に再編され、NATOに参加しました。

 日本と東西ドイツの軍隊は、戦後解散させられました。1950年に北朝鮮軍が韓国に侵攻すると、日本に駐留していた米軍を朝鮮半島に投入しました。手薄になる日本の反乱防止/治安維持を目的に戦車まで持った武力組織(警察予備隊)を創設する様に、GHQは日本政府に要請したのです。(アメリカでは、1948年頃から日本の再軍備が議論されていました。)

★ イタリア :王国軍は、敗戦で制約を受けましたが、存続しました。
★ 日本とドイツ :敗戦後に軍隊は解散させられました。
★ 1950年6月 :朝鮮戦争勃発
★ 1950年8月 :警察予備隊(75,000名、装備はアメリカから支給?)
★ 1952年4月 :韓国が竹島を実効支配
★ 1952年10月 :警察予備隊→保安隊に改編
★ 1954年 :保安隊→自衛隊
★ 1955年 :西ドイツの再軍備
★ 1956年 :東ドイツの再軍備

【アメリカの誤算と戦後の状勢】
 第二次世界大戦が終結した時点で、アメリカはスターリンの覇権主義を甘く見ていたと思います。日本の北方領土を”どさくさ紛れ”に、略奪した時点で、スターリンの”ギラギラ”した覇権主義者に気付くべきだったのです。スターリンは1953年に亡くなり、1991年にソビエトは崩壊しました。然し、プーチン大統領の言動を見ていると、共産主義だったから、ロシアが覇権主義国家だったのでは無く、ロシア国民は未だに覇権主義を支持している様です。

(補足) 1945年時点では、アメリカには共産主義者が多数いて、組織も有りました。1948年に”赤狩り(Red Scare)”が始まり、1950年に共産党を非合法化したのです。

 中国は、(戦後すぐ)まだ軍事大国では無い時から周辺国に侵攻し、少し軍備が整って来たらソビエトと国境紛争を起こしました。ソビエトとの戦争はうまく行きませんでしたが、経済成長に伴い軍備を拡張して、近年は覇権主義を隠そうとはしなくなっています。

 日本共産党が夢見ている『軍隊を必要としない世界』や、田島陽子先生の『話し合えば分かりあえる世界』に近づいている様には思えません。兵器の開発は目覚ましく、各国の軍備費は毎年増加しています。段々と”理想の世界”からは遠ざかっている様に思います。

日本国憲法 (その1)

2019-04-27 12:13:14 | 歴史
 今回から、日本国憲法についての私の考えを書きます。第1回目は、戦後の混乱した時代に、どのようにして”平和憲法”が成立したのか?についてです。

【私と憲法】
 私は工学部出身です。日本国憲法の単位を取ると教師の資格が得られたので、友人・数人が日本国憲法を選択しました。彼らが憲法の話しをするので、私は、古本屋で六法全書の日本国憲法の所だけ立ち読みした記憶が有ります。

 日本は敗戦まで帝国主義一色だったと思っていましたが、「こんな内容の憲法を考え出せる人達が生き残っていたのだ」と非常に驚きました。父は士官学校出身の軍人で、我が家では”天皇”と呼ぶと、”陛下”と言い直せと言うほどの右寄りの人間でした。私の田舎では、1970年頃までは、どの家にも昭和天皇/皇后の写真を額に入れて飾っていました。まだ、明治憲法の下で生きていたのだと思います。

 恥ずかしながら、当時、私はGHQが作成した英文の憲法草案をベースにして、新憲法が制定された事を知らなかったのです。

(余談) GHQが1946年の2月に作成した、”憲法草案”は国会図書館がインターネット上に公表しています。『Constitution of Japan(テキスト) | 日本国憲法の誕生』で検索して下さい。

【憲法を読んで見ましょう!】
 憲法には難しい漢字や言葉は殆ど使用されていませんので、30分程で読めます、精読でも1時間有れば十分です。インターネットで『日本国憲法ー衆議院』で検索して下さい。是非とも、読んで頂きたいです。

(余談1) 憲法を読んだ方は直ぐ分かったと思いますが、公布日を明治天皇の誕生日『11月3日』(現在の”、文化の日”=昔の”天長節”=”明治節”)を選んだのです。半年後の施行日『5月3日』は”憲法記念日”となりました。

(余談2) どの国でも同じだと思いますが、国民とその国に滞在する人は、全ての法律を熟知していると言う前提になっています。(旅行者にも、その国の法律は適用されます。)貴方が逮捕されて、「そんな法律は知らなかった」と言っても通用しません。現在は、お金を出さなくても、所轄の省がインターネットに法律の全文を公開しています。

【戦後最初の衆議院選挙】
 私は、日本国憲法の制定過程を不思議に思っています。敗戦後も帝国憲法による衆議院と貴族院は存続していました。(1940年に政党が解散し、議員は翼賛会に合流して、いわゆる翼賛体制になっていました。)

 1945年末に、戦時中に帝国憲法下で選ばれた衆議院と勅選の貴族院が、帝国衆議院議員選挙法を改正したのです。この改正は大改革でした。①婦人参政権を認めました、②選挙権は25歳以上を→20歳以上に、被選挙権は30以上を→25歳以上に引き下げました、③大選挙区・制限連記制(れんきせい) を採用しました。(大選挙区制と制限連記制は、以前にも採用された事がありました。)

 戦争で男性は沢山亡くなっていましたから、有権者数は男性が44%、女性が56%でした。それまで選挙の経験の無い女性の方が多かったのです。そして、若者達は、急に選挙権が与えられて、戸惑ったと思われます。

 大選挙区制でしたから、定員が14人の選挙区も有りました。制限連記制で、有権者は3人に投票したのです。(つまり、一人3票投票しました。)

 戦後の混乱期ですから、全国的な政党を組織化する時間的/資金的な余裕が全く有りませんでした。その為に、地方政党が多数出来ました。

 1946年の衆議院選挙は、そんな異常な状況下で実施されたのです。

★ 1945年8月14日 :敗戦(ポツダム宣言の受諾)
★ 1945年12月 :衆議院議員選挙法改正
★ 1945年12月18日 :衆議院解散(幣原内閣)
★ 1946年2月 :GHQの憲法草案
★ 1946年4月10日 :第22回衆議院議員総選挙(帝国議会)
★ 1946年5月22日 :第一次吉田茂内閣・・・旧憲法下
★ 1946年11月3日 :日本国憲法を公布 
★ 1947年4月25日 :第23回衆議院議員総選挙(社会党・片山内閣誕生)
★ 1947年5月  :日本国憲法の施行

【衆議院選挙の結果】
 1946年の衆議院選挙の有権者は、60%以上が初めて投票する人達だったのです。当選した議員の多くも、数か月前まで自分が代議士になるとは思っていなかったでしょう。

 選挙の2ケ月前に、GHQから英文の憲法草案が幣原内閣に提示されていましたが、新憲法について選挙で論じられた様子はありません。候補者の多数は、GHQの憲法草案を知らなかったと思われます。国の有り方を変える、重要な憲法の制定に関わるとは全く予想していなかったでしょう。

 466議席を争う選挙で、第1党は日本自由党(党首:鳩山一郎)=141議席、日本自由党(町田忠治)=94、日本社会党(片山哲)=93、日本協同党(山本実彦)=14、日本共産党(徳田球一 )=5、諸派=38、無所属=81、と言う結果でした。

 選挙後に第1党の党首だった鳩山一郎が総理大臣になるべく画策しましたが、公職追放になってしまいました。それで、浮上したのが吉田茂です。まだ、旧憲法下でしたから、元老達が総理大臣候補を一人に絞って天皇に推挙し、天皇は必ず認める事になっていました。現在では死語になっていますが、天皇が総理大臣を任命する事を『大命降下』と言います。

 吉田茂は、1945年12月に勅選された貴族院議員で、第22回衆議院議員総選挙で選出されたのではありません。吉田茂は、一貫して欧米との戦争に反対し、戦争中は平和工作をしていたので、GHQの支持を得て、総理大臣になったと私は見ています。第23回衆議院議員選挙で、高知県から立候補して、衆議院議員になりました。

 吉田茂は、幼くして莫大な養父の遺産を受け継ぎ、外交官になりました。中国→ロンドン→アメリカ→・・・→イタリア大使→イギリス大使→現在の内閣官房長官に相当する役職にも就きました。その経歴から考えて、戦後処理/GHQとの難しい交渉が必要な総理大臣に適任/最適な人物だったと思います。

(余談) 戦後の政治家で、吉田茂に代われる人が他にいたでしょうか?私は思い付きません。若い政治家や、政治家を志す人は、大学で勉強するだけで無く、世の中/世界を勉強して吉田茂に負けない様に頑張って頂きたい!

(余談) 片山哲は、私の高校の大先輩です。高校生の時に来校され、講演を期待を持って聞きましたが、感銘受ける様な話は有りませんでした。残念ながら、何も覚えていません。(1947年に実施された第23回総選挙で社会党が第1党になり、1年弱の短命でしたが、片山哲内閣が誕生しました。)

【なぜ国会が日本国憲法を成立させたのか?】
 吉田茂が組閣後、わずか五カ月強の期間の審議(?)で、新しい憲法を衆議院と貴族院で議決し、昭和天皇が1946年11月3日に公布したのです。

 私は、帝国憲法を読んだことが無いのですが、新憲法には(旧憲法には無かった)民主的な改革が多数盛り込まれている様です。GHQが強烈な圧力を掛けたとは言え、大半の議員達は古い考え方だったと想像しますが、民主的な国家になる事を要求した新憲法を承認したのです。不思議に思いませんか?

 吉田茂は天皇崇拝者だった様です。議員の多くも、同じ様な考え方だった様に私は思います。彼らにとっては、天皇制の存続が最優先課題だったのでしょう。 『今は、ガタガタ言わずに天皇制の存続を認めたGHQ案を呑んでおこう!軍隊の放棄などの問題は、将来憲法を改正すれば良い。』と考え、議決したと私は見ています。

(余談) GHQが憲法草案を纏める時、当然、天皇の戦争責任が議論されたと想像します。もしも、GHQが天皇をA級戦犯としていたら、多分私の父はマッカーサーの暗殺を企てたと思います。父は、戦争で多くの部下を亡くしていたので、天皇が崩御されたら(乃木将軍の様に)自決すると死の直前まで言い続けていました。幸いにも、昭和天皇の崩御の数か月前に逝きました。