これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

令和維新のすゝめ (その12)

2020-11-28 20:14:22 | 改革
★★★★ 教育 ★★★★

【はじめに】
 私の持論ですが、「戦後・日本の経済が急成長した要因の一つは、個性の乏しい・従順な国民が多く、一致団結して物作りに励めたため」、逆に「バブル崩壊後に日本経済が低迷している要因の一つは、独創性に乏しい国民が多く、世界的に受け入れられる商品を作る事が出来ないため」だと思います。

(典型例 :アパレル産業) 「日本の糸偏産業はアメリカの圧力で衰退した」と私は認識しているのですが、今でも『糸』と『布』は世界的に競争力の有る製品を生産して、輸出しています。 日本では、顧客と接する営業マン/ウーマンは黒っぽい服を着用しています。 個性を主張する洋服が好まれない傾向が強いのです。その為に、世界的に受け入れられる斬新なデザインの洋服が国内で余り売れず、アパレル産業は成長出来ず、海外に打って出る事も出来ないのです。

 1980年頃の話しですが、私の勤めていた会社で、日本の大学を卒業したあとイギリスの研究所で活躍されていた女性を、当時の社長の肝いりでヘッドハンティングした事が有りました。彼女の服装は何時もド派手ででした。そして、性格と考え方が超個性的で、超酒豪でした。 あんな女性を後にも先にも見た事がありません。 日本人が個性が無く、従順なのは遺伝子のせいでは決して有りません。社会風潮と教育によるものです。 「出る釘は打たれる」社会からの脱却が必要です。

 各生徒の特性を生かして、個性豊かな人間を育てる教育に方向転換すべきです。勉強が苦にならない子供には、どんどん難しい勉強に取り組んでもらい、物作りが好きな子供はロボットでも家具でも陶器でも作る勉強をしたら良い、スポーツが得意なら・・・、歌が好きなら・・・、

【戦前と戦後の教育制度】
 明治元年は1868年で、終戦の年は1945年ですから、その間は77年間です。戦前は国が豊かに成るにつれ少しずつ、教育制度を充実させて来ました。1886年に義務教育の尋常小学校ができましたが、当時の就業年限は4年間でした。1907年から6年間になったのです。 (私の父は1901年生まれで、10歳頃に尋常小学校を中退したと言っていました。)

 戦前は種々の学校を作りました。尋常小学校以上のの学校は義務教育では無かったので、比較的裕福な家庭の子供達しか行けなかったと思われます。優秀な子供には、飛び級制度や7年制の旧制中学校を設けエリート教育をしたのです。

 戦後は、学校をシンプルな体系にしました。 「男女七歳にして席を同じゅうせず」という考え方を破棄して、男女が同じ学校で学べる様にしました。義務教育を9年間に延長しました。

 戦後75年経ち、日本は豊になり、世の中は大きく変化しました。 近年の教育の改革は内容よりも『金』絡みです。大学への補助金制度、高校の無償化などなど。 ゆとり教育、土曜日を休校にする・・・。 最優先で教育内容を見直す事が肝要だと思われませんか?

 小泉内閣の時(2003年)に国立大学法人法を制定して、国立大学を法人化しました。表向きは規制を緩和して、各国立大学に「自分達で運営しろ!」と命じたのです。 小泉氏の本音は、「これ以上、金は出せないよ、自分達で何とかしろ!」だったと思います。 学者先生達が、企業から金を集めたり、社会のニーズに合致する様に大学を改革出来るとは考えられません。

 戦前と戦後の代表的な学校を以下に整理して見ました。 紙面の都合で、専門学校等々は省略しています。 高等専門学校(高専)に相当する旧制専門学校が有りました。戦後、廃止されて近隣の大学の学部になりました。 現在の高専は1961年以降に、新たに設けられたものです。

年齢 : 現在            ;戦前
0歳 : 保育園
1歳 : 保育園
2歳 : 保育園
3歳 : 保育園/幼稚園
4歳 : 保育園/幼稚園
5歳 : 保育園/幼稚園
6歳 : 小学校           ;尋常小学校
7歳 : 小学校           ;尋常小学校
8歳 : 小学校           ;尋常小学校
9歳 : 小学校           ;尋常小学校
10歳 : 小学校            ;尋常小学校
11歳 : 小学校            ;尋常小学校
12歳 : 中学校           ;高等小学校/旧制中学校/高等女学校
13歳 : 中学校           ;高等小学校/旧制中学校/高等女学校
14歳 : 中学校           ;旧制中学校/高等女学校
15歳 : 高等学校/高専     ;旧制中学校/高等女学校
16歳 : 高等学校/高専     ;旧制中学校/高等女学校
17歳 : 高等学校/高専     ;旧制高等学校
18歳 : 大学/高専        ;旧制高等学校
19歳 : 大学/高専        ;旧制大学
20歳 : 大学             ;旧制大学
21歳 : 大学             ;旧制大学
22歳 : 大学院(修士) :旧制大学の大学院は何年と決まっていませんでした。
23歳 : 大学院(修士)
24歳 : 大学院(博士)
25歳 : 大学院(博士)
26歳 : 大学院(博士)

(余談 :高専) 高専から大学に転入したり、卒業して大学に進学する学生が多くなって来ています。 旧制専門学校から大学への転入は難しくしていました。(東京と京都帝国大学は認め無かった様です。) 現在も戦前も、専門の単位数は大学よりも多いいのです。 現在、転入希望者が多いいのは、高専卒だと出世街道に乗れない事が原因だと思われます。企業が仕事で評価せずに、高専卒を冷遇する事が根本原因です。 高専卒で大手超優良企業に入った方と話していたら、「高専卒は昇格にハンディが有る」と言われました。 私が入社した時お世話になった旧制専門学校卒の方は、数年後に重役になられ、最後は専務になられました。 私の会社では、高専卒の方の昇格は遅れていました。管理職になった方は少なかったです。

【高等学校と旧制中学校】
 私が学んだ高等学校は旧制中学校の施設を、ほぼそのまま使用していました。図書室では無くて、立派な図書館が有りました。 沢山・旧制中学校時代の図書が残っていました。 非常に黴臭かったので、数回しか旧制中学校時代の本は閲覧しませんでしたが、難しい本が並んでいました。

 旧制中学校と高等女学校の最終学年(5年生)は、現在の高校2年に相当します。戦前は16歳になる前から難しい本を読んでいたのでしょう! 「両校の学生は周辺では重んじられる存在で、卒業したら国家や地域に貢献すると自負を持って勉強していたのでは?」と想像します。

 母は1904年生まれで、一番上の姉は1930年生まれだったと思います。二人とも同じ高等女学校を卒業して、小学校の先生になりました。 昔は17歳で小学校の先生になれたのです!

 私が社会人になった1971年頃には、まだ・旧制中学校卒の方が活躍されていました。 戦争で沢山亡くなられていましたから少なかったですが、私は十人ほどの方のお世話になりました。皆さん、新制高校卒よりも凛としておられました。多分・戦争を経験された事も影響したと思われますが、知識/経験が豊富な様に見受けられました。

 「新制高校卒の方が1年間長く勉強しているのに、何故・旧制中学校卒の方が知識が豊富なんだろうか?」と不思議に思ったのですが、私の結論は「徴兵制が最大の原因だ!」です。

 現在は、徴兵制は無くなり、進学率がほぼ100%になっていますから、高校生はエリートでは無く、「心を引き締めて勉強する」環境でも有りません。 現在の高校生は、昔と比べると可愛そうな状況に置かれている様に思います。 卒業後の長い人生を楽しく/生き甲斐を持って生きられるような、高校教育に改革する必要が有ります。(勉強が嫌いな子供でも、何かを学べる様にすべきです。)

(余談 :狼の絶滅) ニホンオオカミは20世紀の初めに絶滅したと言われていますが、私の子供の頃は「狼を見た!」と言う大人がいました。(多分、噓です。) 狼は人間を襲う事も有った様ですが、猪や鹿が増えるのを抑えてくれていました。 私には、狼と徴兵制の効果は似ている様に思えます。男子は二十歳になると徴兵検査が有り、2年間の厳しい!厳しい!兵役に就かなければならなかったのです。軍隊の厳しい訓練に耐えられる様に、若者は日頃から身体と精神を鍛えておく必要が有った様に想像します。 何よりも、時間を大切に使ったのだと想像します。

【高等学校の改革】
 私の持論は、「高等学校を4年制にして、大学を3年制に戻す」です。 私達が大学の教養部で学んだ事を、高校で教えるのです。 例えば、法律です。社会人になったら誰でも法律に無関係ではおれません。 日本国憲法をジックリ教え、民法。刑法、商法、民事訴訟法及び刑事訴訟法の概要を教えるべきです。 各種産業法のタイトルだけでも学んだら、物作りの仕事に就いたら役立ちます。

 現在は公費でエリート教育をする事に反対する人達がいますが、戦前に種々の学校/コースが有り、飛び級制度が有ったり、エリートのための7年制の中学校も有りました。

 私の母校は中学校を併設しました。狙いは、大学入試対策の様です。 現在は大学の数が増えて、レベルはピンからキリまで有ります。適当に勉強していたら、どこかの大学には入れます。 入試の為の勉強よりも、『良く遊び、良く学べ』の方が重要だと思います。チャレンジ精神や創意/工夫をする事を教えるのが重要です。

 英・国・数・理・歴公が勉強の全てでは有りません。話し上手で/カラオケの旨い営業マンが大活躍した例を知っています。 5教科が駄目なら、何か得意なものを見に付けさせ、自信を持たせて学生が社会に出ていける様にすべきだと思います。

(余談 :笑い話) 超レベルの低い男子高生と女子高生が乗って来る電車で通勤していたことが有ります。大きな声で話すので、内容がハッキリ分かりました。期末試験の頃は寄席に行くより面白かったです。 一人が問題集を見ながら「江戸幕府を作ったのは誰でしょうか?、①明智光秀、②徳川家康、③豊臣秀吉」、友達が「明智光秀!」と答えるのです。 知識は無くても『あっけらかん』と話せるので、彼達と彼女達は社会に出て、活躍したと私は思います。

【大学の改革】
 戦前の大学は3年制でした。(イギリスは今でも3年制です。) 戦後は教養課程を学ばせる事にしたので、4年制になったのだと思われます。ストレートに進学した場合の、卒業時の年齢は、戦前も戦後も同じです。

 30年程前から、国立大学や有名私立大学の学卒や修士卒の、報告書が満足に書けない、基礎知識が不足している新入社員が増えてきました。私は幸いにも優秀な新入社員を回して頂いたので、問題の有る社員は一人しか経験していません。親しい管理職が、新入社員教育で毎年・毎年悪戦苦闘していました。彼が赤鉛筆で添削した報告書を出して、「これを見てくれ」と時々言いました。 表現だけで無く、『てにおは』も間違いだらけで、報告書は『真っ赤っ赤(まっかっか)』でした。

 現在の大学を『大学』と『大学院大学』に分離して、大学は学部だけにして、「学問の基礎を教える」事に徹すべきだと思います。現在の『教授、准教授、講師』などの称号を廃止して、『ティーチャー』の様な統一の称号に変えましょう! ティーチャー達には、その大学の学生達の学力を加味して、上手に教える工夫をして貰うのです。

 私が大学生だった時、字は下手くそで、声は小さく、少し東北弁が混じる教官がいました。必須科目でしたから、学生がなんとか理解しよう努力して授業に臨みました。文字通りの反面教師でした。

 文系の方の『卒論』に相当するのが、工学部では『卒業実験』でした。私はポンプの実験を選択して、ポンプの論文や本を読みました。当時、ポンプの分野の権威者と認められていた、京都大学のAT教授が活躍されていました。2000年代の初めに某中小企業に出向すると、大阪の私立大学の工学部出身の若い社員がいました。 ある時、彼とポンプの話をすると、「僕はポンプの授業は受けたけど、京大から来たトンデモナイ教授だったので、理解出来無かった」と言いました。その教授は、私が尊敬していたAT教授だったのです。AT教授は京大の時と同じ授業をしたのでは?と思いました。優れた研究者が必ずしも、優れたティーチャーでは有りません。学生のレベルに合う教え方をすべきです。

 大規模な予備校や塾では、人気の高い先生には高給を出す様です。大学のティーチャーは、(現在の論文の数では無く)上手に教える事で評価し、給与に差を設けたら良いと思います。

【医学部と医科大学の改革】
 戦前の医学部は4年制でしたが、戦後は6年制になりました。明治政府は医師を増やす事に力を入れたので、医科大学を全国に設けました。国立医科大学をベースにして国立大学が創設されました。

 教養課程を廃止したら、医学部を4年制に戻すのは十分可能だと思います。(歯学部は3年制でも良いかも知れません。) (単純に考えると、)卒業までに必要な学費を30%ほど削減出来る可能性が有ります。

 現在は医学部入試の偏差値は高いですが、その理由は医者になりたい高校生が多いいからで、医者になるために優秀な人間が要求されている分けでは有りません。 私の高校の同級生で7人が医者になりました。 一人はトップの成績でしたが、残りは私よりも高校の成績は悪かったと思います。 それでも、全員・国家試験に合格して医師を続けています。

 偏差値が高いのは、医者になりたい高校生が多いいからです。自由主義経済の一丁目一番地は「需要に委ねる」です。日本医師会の反対を無視して、医学部の定員を増やしたり、医科大学の新設を認めるべきです。 日本医師会が危惧している様に、医師の数が増加したら医師の平均所得は低下するでしょう。 少しは問題が発生するかも知れませんが、その方が自然です。

 日本の人口1,000人当たりの医者の数は『2.3人』で、先進国の中では、決して高い値では有りません。

 ある業種に従事する人達の平均所得を下げない為に、その業種に関連する大学の定員を増やさない政策は邪道です。医師だけで無く、加計問題で表面化した獣医もそうです。弁護士は大学の定員を増やしたり、国家試験向けの大学院を設けたりしましたが、国家試験の合格者数を制限しているために弁護士は相変わらず”狭き門”になっています。圧力団体の力を削ぐ事にマスコミは力を入れるべきです。(政治家は、圧力団体の票と金が欲しため、この種の改革は出来ません。)

 「防衛医科大学校の定員(現在は80名)を大幅に増やすか、新たに二、三校設けるべき」、「各都道府県に一か所以上、自衛隊病院を設け、一般患者を受け入れるべき」が私の持論です。 (現在は、中央病院・1カ所と地区病院・15カ所設けられています。)

 新型コロナの医療では、自衛隊病院の医師たちが活躍されました。将来・もっと毒性の強い感染症が発生する恐れが有りますから、厳しい訓練に耐えた自衛隊病院の医師を増やしておくべきです。 そして、日本は地震、火山噴火、台風などの災害の多いい国ですから、各都道府県に一か所以上、自衛隊病院を設け、いざという時に助けてもらいましょう!

【大学院の改革】
 大学院を大学から分離すべきです。そして、2種類の大学院大学にする案が良いと思います。 ①5年制の博士課程大学(研究者を養成する学校)。 ②2年制で、大学や高専のティーチャーを養成する学校。

 余裕の有る企業の協力を得て、大学院生に夏休み・1ケ月ほど企業実習を受けさせたら、学生の世界観が広がると思います。 (企業側にも種々のメリットが有ると私は思います。)

 ティーチャーを養成する大学院では、専攻する学問の知識を深めるだけでなく、学生のレベルを判断して旨く教える方法/技術を学んでもらうのです。 この大学院の卒業生は、民間企業から沢山求人が来ると私は予想します。


令和維新のすゝめ (その11)

2020-11-21 10:43:58 | 改革
★★★★ 教育 ★★★★

【はじめに】
 人間の能力をペーパーテストの得点で判定するのは一番簡単です。 然し、私は、「ペーパーテストで人間の能力を決めるのは間違いだ!」と考えています。人間の能力を測るのは非常に難しいです。人間には種々の能力が有ります。 A社では『能力a』が重要でも、B社では『能力b』の方が重要かもしれません。

 社会人になって重要なのは、創意/工夫の能力と臨機応変に対応出来る能力だと思います。私の持論は、「社会が要求する能力を向上する様に教育を改革すべきだ!」です。

 子供の『虐め』と大人の『パワハラ』が社会問題になっています。これらの問題を減らす方法/対策について、種々考えてきました。 自然に反する様な社会になっている事が、原因の様に私には思えるのです。

 今回は、教育についての私の持論を書きます。 繋がりの無い様な話を並べますが、結構・密接な関係が有ると私は思います。

【虐め問題】
 現在の教育の最大の問題の一つは、『虐め』に対する教育者の対応だと思います。虐めを隠蔽したり、責任を取らなかったり、・・・教育者として恥かしく無いのでしょうか?

 『虐め』は犯罪です。大昔から現在まで、子供から大人の社会にまで存在します。多分、どんな人類にも存在する犯罪だと思われます。「虐めを撲滅する」と考えるのが間違いの元」だと私は考えます。泥棒と同じで、減らす努力/工夫は大切ですが、無くす事は出来ません。

 無くせない事を、「無くせ!」と命じたら、先生達や教育委員会のお偉方は、知らぬ顔の半兵衛を決め込むか、皆で結託して隠蔽するか、・・・。 ばれたら!カメラの前で頭を下げれば済む話しです。 虐められている子供の気持ち慮ったり、虐められて自殺した子供の親の悲しみが分かる人間を教育委員、教育委員長や教育長に任命すべきです。

 もう一度書きますが、虐めは無くなりません。減らす努力を地道に続ける事が肝要です。虐められて苦しんでいる子供を、一人でも助けられたら『大手柄』です!

 虐めが増えて社会問題にまでなったのは、「学校教育に問題が有る」と考えるべきでは有りません。核家族化や、放課後に塾に通って受験勉強する事が原因だと私は思います。子供にとっての理想は『よく遊びよく学べ』です。 但し、スマホゲームをやるのは、『遊び』にカウントすべきでは有りません。

 「子供の健全な遊びとは?」を真剣に考えて、健全な遊びが出来る場所を作って子供達に提供すべきです。例えば、公園の近くに学童保育所を設けて、天気の良い日は公園で遊ばせ、雨の日は屋内で年の違う子供達で教え合って勉強する。 「種々の知恵玩具が市販されていますから、国費で学童保育所に沢山備え付ける」案はどうでしょうか?

(余談:パワハラ) 大人社会の虐めをパワーハラスメント(パワハラ)と呼ぶ様になりました。私は幸いにも田舎育ちだった為か、子供の頃は殆ど『虐めている現場』を見た事が有りません。1971年に入社して、パワハラの現場を沢山見ました。当時は「パワハラは犯罪だ!」と言う認識が無かった様に思います。

 平社員のパワハラは殆ど有りませんでしたが、課長以上になると日常的にパワハラを繰り返す人間が出て来ました。 重役待遇になったT氏は、反対の意見を言うと、「首だ!」と時々怒鳴るのです。社内規則では、上司が勝手に、部下を首にする事は禁止されていました。人事部が走り回って「首だ!」と言われた社員の出向先を探しました。(私は、T氏を出向させるべきだと思いました。) T氏には一切お咎めが有りませんでした。 パワハラは犯罪でも、処罰の対象でも無かったのです!

 私は中小企業・数社に出向しましたが、2社の社長はパワハラを生き甲斐の様にしていました。取引先の中小企業の社長にも同様の人間がいました。

 1980年頃に、私が勤務していた会社では「セクハラ防止運動」が始まりましたが、パワハラについては2005年に退職する時点でも問題視されていませんでした。

 「痴漢は犯罪です!」と書いたポスターを良く見かけます。若い女性が「お尻を触られる」のは気持ち悪いと思います。 然し、チョットしたミスで怒鳴りまくられて、次の日も怒鳴られて・・・結局、辞めた若者を十人以上見て来ました。私は『痴漢』よりも『パワハラ』の方が罪が重いと考えています。苦労して大学を卒業し、企業に入って悪辣な上司のパワハラで会社を辞めた若者を慮って下さい。

(余談:パワハラ防止法) 『労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」(労働施策総合推進法)』が2019年に一部改訂され、俗に『パワハラ防止法』と呼ばれる様になりました。今年から大企業には適用され、2022年4月から中小企業にも適用されます。

 今回の改定は、①パワハラとは何かを定義し、②企業は対策を取りなさい、③パワハラを無くしたら貴方の会社は活性化しますよ!・・・と言う様な内容です。対策を取らない企業に対する罰則規定は書かれていません。 パワハラを繰り返す社員を罰しなさいとも書いていません。こんな法律で、パワハラが少なくなると、皆さんは思われますか?

 ①中小企業では社長がパワハラをするケースを多々見ましたが、そんな企業がパワハラ対策を真面目にするとは考えられません。 ②大企業で重役がパワハラをするのを沢山見ました。③躁病の管理職は大抵パワハラをします。 パワハラを繰り返す重役は首にすべきとか、躁病の人間を管理職にしてはならないとか、規定しない限りパワハラを減らす事は出来ません。

【昔の幼児の遊び相手】
 昔の田舎では、三世代家族が多かったので、幼児の面倒は 爺婆(祖父祖母)の仕事でした。小学生が下校すると、集落の(他人の家の)幼児達を含めて一緒に遊びました。 お墓と氏神さんの草引き、田圃の畔の野焼きは集落の子供達でやりました。 小学校の高学年になると、結構責任が重かったのです。

 私の故郷には高等小学校は無かったので、戦前は尋常小学校を出たら、殆ど村を出たか、山林労務者になったのだと思います。(高等小学校は現在の中学校に相当しますが、義務教育化されていませんでした。) それで、中学生が幼児達と遊ぶ習慣が無かったのだと思います。 然し、夏・川で泳ぐ時は、中学生も幼児の面倒をみました。

  戦後・まだまだ田舎の女性達は和服が主流でした。 和服の洗濯は大変です。 一度・糸を外し→洗濯し→干し→縫って仕立てるのです。 竈でご飯を炊いた事が有りますか? 「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」と言う様に、薪(火力)の調節が必要です。 現在は、米を洗って、炊飯器のスイッチを入れたら御飯が炊けます! 他にも、田植え→草引き収穫→脱穀、畑の野菜の手入れ、牛にやる草を刈る・・・等々の仕事が有り、主婦達には幼児の世話をする時間が無かったのです。 1950年代の後半から家庭電気製品が普及する様になり、主婦の仕事が楽になって来ました。 然し、その頃から、私の故郷では男達が出稼ぎに出る様になって、主婦は益々忙しくなりました。

 都会の主婦たちは、家庭電化製品のお蔭で、幼児の相手をする十分な時間が持てる様になりました。昔は子供を数人育てましたが、家事が楽になると(皮肉な事に、)少子化が始まりました。 子供に手が掛からなくなった奥さんの一部は、韓流ドラマに嵌って韓国まで追っ掛けたり、愛人を作ったり、良からぬ事に時間を使う様になったのです。

 人類の長い歴史の中で庶民の奥さんが『専業主婦』でおれるのは、現在だけです。家事と言う仕事が殆ど無くなっていますから、「奥さんは家の外で仕事を見付けるべきだ!」と考えます。

(余談) 知り合いの家に50歳代の女性が月2回、料理を作りに通っています。彼女は真新しい、500万円以上する電気自動車(EV)に乗っています。パートの給料で買ったそうです。 韓流ドラマに嵌って、年に何回も韓国に出掛けていた様ですが、「コロナのせいで今年は行けない」と不満そうでした。 「ひいきの俳優を追っかける為に、途中で充電しないで東京まで走れる車に買い替えた」と言っていました。「旦那さんは文句を言いませんか?」と聞くと、「旅行費用は全て私の稼ぎだから、文句は言わせない!」と言いました。

(余談 :椿の葉巻タバコ) 紀州の山奥の私の故郷では、主婦の多くがタバコを吸っていました。椿の生の葉を筒状に巻いて、キセル用の刻みタバコを詰めるのです。日に一、二回、数人集まって『井戸端会議』ならぬ『椿の葉巻タバコ会議』をしていました。 それが、主婦達の楽しみだったと思います。

(余談 :集落の集会場) 私が小学校の高学年になった1966年頃に、村の補助金で集落の集会場が出来ました。プロパンガス・コンロの付いた台所とトイレが有りました。毎月一回、集落の主婦達が集まって、持ち寄った食材で昼食を作って、一日骨休みをしました。 (口を動かす筋肉は、休めるどころでは無く、酷使されましたが。) この頃から、故郷の女性達にも自由な時間が持てる様になったのです。

 日本に人間が住むようになって、庶民の女性達が天候に関係なく、皆で集まって一日楽しく過ごせる様になったのは、100年も経っていないのです。映画やドラマでは、江戸の長屋の奥さん達は何時も井戸端会議をしていますが、「実際の彼女達は結構毎日忙しかったのでは?」と思います。

 「今日は、うどんが出るから下校したら集会場においで!」と言ってくれる日は嬉しかったです。私の母は料理に砂糖を殆ど入れなかったので、集会場で食べる『素うどん』は格別に美味でした。

【小学校+幼稚園+保育園】
 幼児から小学生までは、同じ学年の子供達だけ集めて教育するのでは無くて、「週に何時間か、年齢の違う子供のクラスを作って、年長者が小さい子供に教える授業が必要だ!」と考えます。 その為には、保育園から小学校まで、一つの学校にすべきです。全国一斉は無理ですから、特区を設けて始めたら良いと思います。 過疎地なら直ぐにでも可能です。

 『情けは人の為ならず』と言いますが、人に教える事は自分の勉強を深める事にもなります。私の経験では、人に教える事は非常に難しいと思います。 『一を聞いて十を知る』ような子供は少ないですから、最初はどの子供も悪戦苦闘しながら教える事になると予想されます。 傍で見ている先生が、時々・教えている子供に、次の様なアドバイスをします。 (教える側の子供が、色々工夫しながら教えられる様に、先生は指導するのです。)

① 相手が理解出来る様に話す。(相手のレベルを加味して、説明する。)
② 相手が興味を持てる様に話す。(時々関連する興味深い話を挿入する。)
③ 怒らないで!褒めて教える。

 長男の娘(YR)は7歳で、次男の娘(SH)は4歳です。 毎年・正月、ゴールデンウイークとお盆に三泊四日ほど帰省します。私は二人で遊べる知恵玩具を毎回買って置いています。YRのするのをSHはジット見ていて、少しずつ出来る様になります。 YRはまだ7歳ですから、口でやり方を教えるのは難しいですが、努力しているのは分かります。「YRちゃんが出来るんだから、私もやれる!」とSHは思って頑張っている様に見えます。

 私は入社するまで、殆ど『虐め』の現場を見ませんでした。 子供の頃は、年長の子供に種々の遊びを教えて貰い、小学高学年になると私も教える様になりました。「そんな環境だと虐めは少ないのでは?」と思います。 近所の小さい子供達は、私が下校するのを待っていたのです。そんな子供を虐めるなんて出来ませんでした。

 現在の教育は、高校や大学受験のための暗記型勉強に力を入れている様に思えます。 皆さんの経験で、暗記型の勉強が社会に出て役に立ちましたか? 大学で勉強された事が、社会に出て直接・役立ちましたか? 私が入社した時の大学卒の同期は450名程いましたが、殆どの方は大学での勉強が直接役立つ部署には配属されませんでした。

 企業では、創意/工夫の能力が高く、臨機応変に対応出来る社員の評価が高いのです。ペーパーテストの点数が高くても、仕事が出来るとは限りません。修士/博士課程は別として、幼児教育から大学教育までは、『創意/工夫と臨機応変な対応』の力を養う事に力を入れるべきです。

 くどいようですが、教育の在り方を原点に帰って見直し/改革する必要が有ります。

令和維新のすゝめ (その10)

2020-11-14 11:13:37 | 改革
★★★★ 教育、学習、勉強 ★★★★

【はじめに】
 今回は、「教育、学習、勉強についての見直し/改革が必要だ!」と言う、私の持論の第一稿です。

 教育は人間を幸福にすることがポイントです。 勉強が嫌いな子供に「勉強しろ!」と言うのは止めましょう。 100人の社員がいたとします。 一人か二人が優秀な社員で、数人がまあまあ優秀で、あとは凡庸な社員の集団の方が人間的で、効率的に仕事が出来る様に思います。

 東大法学部卒の優秀な政治家が、「このハゲ!」と叫んで物議を醸しました。彼女は頭の良い子供が集まる私立の中学/高校から東大に進みました。 世の中には凡庸な人間が沢山いる事を、学校で学ばなかったのでしょう! 優秀な人間ばっかりでは、組織は低迷してしまいます。 「社会にとっては、凡庸な人間も重要な存在だ」と私は思います。 そんな前提で教育を改革すべきです。

【私の経験】
 私が今までどんなにして勉強したかは、①~④のブログに書きました。 興味の有る方は読んでみて下さい。 私は、「学校で学んだ事がベースで、社会人になってその延長線上の分野の勉強をした人間だ」と思っています。

 私は沢山の方と仕事を通して接し、その経験から、「学校で学んだ事が直接仕事に繋がらなくても、その人の人生や仕事に役立っている」と考える様になりました。 今回は、そんな考え方を教えてくれた人の例を書きます。 大学も含めた学校では、学問以外に①友人と遊ぶこと/人との接し方、②善人/悪人・色々な人間がいる事、③左派/右派・色々な考え方が有ること、④社会には嫌な事/矛盾する事が多々ある事、・・・等々を知らず知らずのうちに学んでいるのです。

① 私の中学卒業までの勉強 :2020年6月27日投稿
② 私の大学合格までと勉強 :2020年7月4日投稿
③ 私の貧乏学生時代 :2020年7月11日投稿
④ 社会人になってからの勉強 (その1~4):2020年7月18日~8月15日投稿

【文学部→建築学科修士課程に転入】
 2010年に某中小企業で数ヶ月間働きました。当時は就職難の時代で、修士1名、大卒3名が入社して、私が2週間ほど新入社員教育を担当しました。 修士は超有名な国立大学の文学部を卒業し、その大学の建築学部の修士課程に進学しました。 彼は博士課程に進みたいと言ったのですが、教授が「博士論文を指導するのは無理だ」と考えて、(知り合いの)機械のメンテナンスをする会社の社長に頼んで引き取って貰ったのです。

 彼は建築についても知識が乏しく、機械については全く何も知りませんでした。普通の専業主婦程度の知識しか有りませんでした。 私の講義は殆ど理解出来ていない様子で、トンチンカンな質問をしていました。

 大学の偉い!偉い!教授達が、「我が大学は優秀な学生ばかりだから、文学部卒業生でも、修士と博士課程で教えたら、立派な建築家になれる!」と考えたのでしょう。 彼自身も甘い考え方だったと思いましたが、偉い!教授達の方はバカだったのです。 彼の様な犠牲者が二度と出ない事を祈っています。

 彼は修士号を持っていると言っていました。「どんな基準で修士号を出しているのか?」不思議に思いました。 (一二を争う国立大学だったのです。)

【文学部卒→シーケンサー制御】
 2000年頃に、社員30名程のシーケンサー制御の設計/派遣会社の社長と親しくなりました。 事務所を訪問すると、社長が「うちの会社には若い優秀な社員が多いい! 数年前までは求人に苦労していたが、最近は必要な数の社員は簡単に確保出来る」と得意げに言うのです。

 社長の遠いい親戚の息子が、私立大学の文学部を卒業したのですが、適当な就職先が見つからなかったので、両親に泣き付かれて引き取ったそうです。予想に反して、彼は短時間にシーケンサー制御言語をマスターして、プログラムの腕を上げたのです。

 制御プログラーマには論理一貫性が要求されます。 プログラムのバグ(bug :プログラムの誤り)を最小限にする必要が有るのです。 社長は、「文学部卒の若者は論理一貫しているから、制御プログラーマに向いている」と考えて、私立大学の文学部に求人を出したら、予想以上に応募者が有ったそうです。

 機械の制御プログラーマは、現地に行って、プログラムの微調整をするケースが多いいです。 顧客担当者とのコミュニケーション能力も重要です。「この点でも、文学部卒は適しているのでは?」と私は思いました。

【理学部卒→機械開発/設計部署に配属】
 旧帝大の理学部・修士卒の男性社員が、私の開発チームに配属されました。図面を描くこと、機械部品の名称等々の基礎から教える必要がありました。 幸いにも、彼は報告書の作成と実験は、ほぼ合格点を付けても良いレベルで、気立ての良い・皆に好かれる若者でした。 「彼を機械の開発/設計部署でやって行ける様にする義務が、私には有る」と思ったので、毎日・毎日、彼の教育に時間を割きました。 (一年間ほど最終退場者になってしまいました。)

 3年間ほど彼と机を並べましたが、その後・彼は相当苦労したと想像します。 私の会社の人事部は無茶苦茶でした。『適材適所』と言う言葉を無視した、配属や転属が結構沢山有りました。 日本には『人事心理学』を研究されている先生方がおられる様ですが、私は『人事学』が必要だと思います。

 ①適材適所の方法、②人事評価の方法、③採用してはいけない人の見抜き方、④セクハラやパワハラを繰り返す社員への対応方法、・・・こんな問題を研究するのが、私の持論の『人事学』です。

【文系卒→機械加工会社の社長】
 大手重電(ME社)の協力会社に出向していた時に、精度の高い機械加工業者を探す事になりました。ME社に相談すると、鳥取県の社員数名の小さな会社(K社)を紹介してくれました。

 訪問すると、田圃と果樹園の中に真新しい工場が一つだけ建っていました。工作機械は全て数年以内に購入したと思われる、最新鋭の物でした。 社長は50歳ほどの方で、従業員は少なかったですが、皆さん忙しそうに働いていました。

 一人息子が、「大学を出たら跡を継ぐ」と言ったので、卒業前に会社を移転して、新しい工作機械を買い揃えたのです。 東京の私立大学の文系を卒業された息子さんが、約束通りに帰って来て、職人になりました。 私が最初に訪問した時、息子さんは二十歳代後半で、その工場ではダントツに若い工員でした。

 それまでに、私は工作機械(旋盤、フライス盤、ボール盤・・・マシニングセンター等々)について一通り勉強していました。 社長が工作機械を案内してくれました。ボール盤には手作りと思われるドリルの監視カメラが付いていました。ジット見ていると、社長が「ドリルが折れたら警報が出ます。息子が作った!」と誇らしげに言われました。他にも同様の工夫が何カ所かに施されたいて、全て文系卒の息子さんが作ったそうです。

 K社はME社の孫請け会社でした。、ME社の下請け(子請け)会社が反対したので仕事を受けて貰えませんでした。 それから数年後に、私はME社とは取引の無い別の会社に出向しました。その会社に、K社にピッタリの仕事が有ったので、K社に行って見ました。

 先代社長は既に亡くなっていて、三十歳そこそこの息子さんが立派な社長になっていました。工場を増設して工作機械も増やし、従業員は十名ほどいました。 この時も、ME社の下請け会社の反対で、話を進める事が出来ませんでした。

【工学部卒→大手商社→機械メーカーの社長】
 社員が300名程(中規模)の機械メーカーの社長が若くして急死されました。 子息は有名な私立大学の工学部を卒業されて、大手商社の東京本社に勤務していました。重役達が毎週の様に上越新幹線で上京して、「社長になって下さい」と子息を説得しました。根負けして、彼は社長に就任しました。 その直ぐ後に、「アドバイスしてやって欲しい」と頼まれたので、二、三回会いに行きました。

 考え方のシッカリした、25~6歳ほどの好青年でした。先代はガソリンスタンドや賃貸マンションや色々手広く手掛けていましたが、彼は本業以外の事業は全て整理しました。殆どアドバイスが必要無いと、私は判断しました。

 それから15年ほどした・ある日、テレビをつけると立派になられた彼が映っていたのです。NHKだったと記憶するのですが、優良企業として彼の会社を紹介する番組でした。

 「大学を卒業して直ぐに父親の会社に入っていたら、これほど成功しなかったのでは!?」と思いました。「商社での社会勉強で、視野が広がったのだ」と勝手に思った次第です。

【文系卒→プレス加工会社の営業】
 1980年頃の話しですが、東京六大学野球のピッチャーだった若者が、就職先が無くて、伯父さんが経営する小さなプレス加工会社に雇って貰いました。職工にするには歳を取り過ぎているので、営業を任せる事になりました。 (彼は、文科系の学科卒だった様でした。)

 彼が営業を始める様になって注文が増えて、それまでの工場の倍ほどの用地を買って第二工場を建てました。 更に、本社工場の機械も全て新しくしました。 ドンドン注文が増えて、第三工場を建てました。 私が最初に訪問したのは1990年でしたが、既に優良企業になっていました。

 彼が高卒で伯父さんの会社に入っていたら、職工になっていたと思います。大学で学んだ事は、仕事には直接関係が無い様に思えますが、東京の4年間で得た世の中に関する知識と経験(社会勉強)は、彼の営業の仕事に大いに役立ったと思いました。

 この会社が成長したのは、プレス加工の仕事が増え始めた時期に第二、第三工場を建て、最新の機械を導入した事と、この業界の常識に反して営業担当者を置いた事など、沢山有りました。正に『流れに掉さして』急成長したのです。

 営業をされた方には分かって貰えると思いますが、袖の下を要求したり、傲慢な態度を取る、嫌な顧客が結構います。 彼は大学まで野球をやった分けですが、厳しい練習と・嫌な先輩に耐えて頑張ったと思われます。 その会社で営業は彼だけでしたから、相談相手もいませんでした。 彼が成功したのは、野球の経験も大きな要因だった様に思いました。

【ティーチング・ロボットの開発】
 1970年頃のスエーデンの話しです。シャベルを作る小さな町工場が有りました。 息子さんが大学で機械制御を学んで卒業し、父親の会社で働き始めました。シャベルの最終工程は、人手による塗装です。 彼は仕事の合間に、塗装ロボットの研究をして、開発に成功しました。 当時、産業用のロボットは殆ど販売されていませんでした。

 私より十歳程年上の社員(NO氏)が、ドイツのデュセルドルフ国際展示会に出張しました。そこに前述のロボットが展示されていました。NO氏は甚く感心して、社長に「技術提携したい!」と申し入れました。既に、日本の数社を含め多くの会社から話が有り、各社に年間売り上げ予想台数を出させたら数百台とか千台と回答したそうです。NO氏は「二、三十台」と回答したそうです。 

 「息子が趣味で作ったロボットを、毎年数百台も売れる分けが無い」と社長は考えられていたのです。 「貴社と契約する」と言ってくれたそうです。帰国後、NO氏が私に色々話してくれました。

 技術提携を結ぶ為にはライセンスフィー(契約金)の額?とロイヤリティを何%にするか?会社上層部の許可を取り付ける必要があります。NO氏は説得のために走り回っていました。 「スエーデンのショベル・メーカーと技術提携するらしい」と聞いたので、NO氏に「シャベルを作る町工場だったのでは?」と私は尋ねました。 「シャベル・メーカーだったら許可が貰えないよ!」と言われました。 『ャ』と『ョ』だけの違いですから、ばれても「言い間違いでした」と誤魔化せます。

 私は現場に行った帰りに、ロボットの実験を時々見学させて貰いました。つい時間を忘れてしまう、面白い実験でした。時々でしたが、データーを記録している磁気テープが切断して、交換するのが大変でした。

 私は重役の一人から、「半導体の技術的な進歩と価格変動を調査して、時々報告書を提出」する様に命じられていました。 あっという間に半導体メモリーが安くなったので、ロボットの担当者に「磁気テープを半導体メモリーに変える」提案をしましたが、彼は勉強しようとはしませんでした。

 スエーデンのシャベルの会社は、その後・新しいロボットを開発しなかった様です。 「息子さんには才能が有る様に思えたし、毎年入って来るロイヤリティを開発に回せばロボット・メーカーになれたのでは?」と残念に思いました。

 当時のロボットは空気シリンダーか油圧シリンダーで動かしていました。その為に機械メーカーが開発/製造していました。 日本電産(株)が素晴らしいモーターを販売する様になって、ロボットはあっという間にギヤードモーター駆動が主流になりました。 日本電産(株)は急成長して、今では小形精密モーターの分野で世界一の会社になっています。

(余談 :ティーチング・ロボット) 人間の身体にセンサーを付けて、動きをデーター化して記録します。その記録データーでロボットを動かすのがティーチング・ロボットです。 当時は半導体のメモリーが高価だったので、エンドレスの磁気テープに記録データーのコピーを入れていました。 磁気テープを高速で走らせるので、切断トラブルが頻繁に発生しました。テープの交換作業は大変でした。

(余談 :シャベルとスコップ) 関東では大きいのを『スコップ』、小さいのを『シャベル』、と言いますが、関西は逆です。 JISでは、上に足を掛けて押し込めるのを『シャベル』、上が丸くて足が掛けられないのを『スコップ』と呼びます。 スコップの語源ははオランダ語の”Schop”で、江戸時代に日本に入って来たようです。

(余談 :語学の才能) NO氏は工学部卒でしたが、英語とドイツ語が堪能でした。私の席の近くで、英語とドイツ語でショッチュウ電話していました。重役の誰かが海外出張する時は、通訳としてお供していました。フランス語とスペイン語もマスターして、中国語も喋れる様になりました。 最後にお会いした時、「君は技術屋として素晴らしい仕事をやった、羨ましいよ! 僕は技術屋らしい仕事は何も出来なかった」と言われました。

令和維新のすゝめ (その9)

2020-11-07 11:55:41 | 社会問題
★★★★ 技術革新と物作り ★★★★
【はじめに】
 今回は、第一次産業の改革について書きます。日本では農林水産省が管轄している「漁業」、「林業」と「(畜産業を含む)農業」を第一次産業と呼びますが、世界では一般に「鉱業」も含まれます。

 日本の第一次産業の共通の課題は、高齢化と後継者不足です。 一方、近年・世界的に異常気象が続いているので、食糧の適正な輸入依存率を検討/議論して、農業政策を見直す必要が有ると思います。

【私の故郷の第一次産業】
 私の故郷は和歌山県の竜神村です。殆どが険しい山で、川沿いに棚田と段々畑が少しだけ有ります。戦前は田畑と山林の多くは、少数の地主達が所有して、多くの村民は小作と山林の賃仕事で生活していた様です。昔は木材や木炭が高かったので、山林関係の仕事の収入で村民は生きていけたのです。

 戦後、農地解放で小作人は僅かの田畑を手に入れましたが、各家で必要な米麦などを賄えませんでした。 山林の開放は行われ無かったので、山林地主は健在でした。その後、木材価格が暴落して、2軒残っていた山林王は没落した様です。

 昔は、村外に住む山林の所有者は”山番(山守)”を雇って管理して貰っていました。 国から山林に補助金が出て、林道が整備される様になった頃から(皮肉にも)木材価格が下落し始めたので、山番に依頼する人は殆どいなくなってしまいました。 森林組合が山番の仕事をする様になりました。 高齢化が進んだので、森林組合は都会からも若者を雇っています。

 2010年ころから高齢化のために、放置された梅畑や田畑が増えて来ています。 一部には太陽光発電パネルが設置されています。

(余談 :坑道) 第二次世界大戦中には鉱物資源不足が深刻だったので、私の故郷でも細々と採掘した様です。 所々に坑道が残っていて、蝙蝠を見に二、三回行ったことが有ります。

【農業】
 昔は・農業に関する記事には『専業農家』と『兼業農家』と言う言葉が登場しましたが、(1947年~49年生まれの)団塊の世代が70歳を超えてリタイアしたので、兼業農家とは言えなくなっています。会社を辞めて、農地は近所の農民に委託する人が増えている様です。 平野部の農地の集約を進める絶好のチャンスだと思います。

 日本政府は、コソコソと農業の効率化を進めています。国民の同意を取り付けて、大っぴらに、大胆に進めるべきだと考えます。山村の農業/平野部の農業、野菜農家、果樹農家・・・細かく分けて効率化を追求すべきです。 1ha(≒1町歩)以下の野菜農家ですが、「年間売り上げが3,000万円ほど有る」、「これ以上農地を広げるのは無理だ」と言われた方がいました。

 米農家の効率化とは農地の集約を意味します。「後継者のいる専業農家を支援して、20ha~30haを所有して貰う」のが私の考えです。農協は組合員が減少するので、多分・反対するでしょう! 金持ちを→より金持ちにする政策ですから、国民の同意を得るには政治的エネルギーが必要です。 日本の農家の1戸当たりの耕作面積は2ha程ですが、アメリカは170ha、オーストラリアは3,000ha程も有ります。

 中小企業が代替わりで相続する場合は、事業が継続出来る様に相続税の軽減が行われています。 私は、「農業を原則として法人化(株式化)する様に指導して、一子相続を認め、相続税を軽減すべきだ」と思います。 『たわけ者』=田畑は分割しては駄目です! 

(余談 :美味しい葡萄) 我が家はお中元を止めて、9月に岡山県の葡萄農家から葡萄を送っています。JAを通さないないで、夫婦で頑張っている農家です。今年の葡萄の出来は少し悪かった様ですが、この農家のは例年と全く同じで、美味しかったです。

【畜産業】
 私は20軒ほどの集落で育ちました。田畑の総面積は5ha弱ほどだったと思います。8軒ほどで農耕用の牛を飼っていました。稲藁、麦藁と草を食べさせていました。 棚田で広い田圃でも1反(300坪)程しか無かったので、子牛を買って2年ほど使ったら、平野部の農家に売って、又・子牛を買うのです。 大きくなった牛は肉になりました。 当時・全国では農耕用の牛を沢山飼育していたと思われます。

 日本は雨が沢山降るので、草は嫌になる程生えます。牛、馬、山羊、羊は全国何処ででも飼えます。豚と鶏には穀物が必要なので、飼料は輸入しなければなりません。 日本では大規模な畜産は無理ですから、安いい肉を国産化するのは無理です。黒毛和牛の様な高級肉の生産に特化すべきです。 牛乳は長持しないので、船での輸送が難しい為に国産しているのか?

 猟師に補助金を出して、野生の猪、鹿、熊などの肉を流通させるシステムを作る事を、国に検討して欲しいです。 一石二鳥の案だと思われませんか?

(余談 :軍鶏<シャモ>) 私が高校生活を送った和歌山県の田辺市には鬪鷄神社が有ります。 軍鶏(シャモ)を戦わせる闘鶏(とうけい)とは無関係です。シャモが日本に入って来たのは江戸時代ですが、鬪鷄神社は日本書紀が完成する720年より前に創建されています。(鬪鷄神社は武蔵坊弁慶ゆかりの神社と言われています。弁慶の父は田辺別当=神官のボスでしたが、弁慶は悪僧だったと言われています。矛盾しませんか?)

 2000年頃、大阪府郊外の鍍金(メッキ)業者に大きな部品を持ち込んだり、受け取りのためにトラックで何回もいきました。約束時間を守るために何時も、早めに出発して有る工場の横で時間調整をしました。その工場には広い空き地が有って、周囲に長屋の様な金網小屋がヘンスの様に並んでいました。 中は幅2m程に区切られていて、シャモが一羽ずつ飼育されていました。 多分・社長がシャモの保存会の方だと話していたのですが、餌を遣っていた社員に聞くと、「社長がシャモ肉が好きなので飼育している、美味しいらしいが私は食べた事が無い」と言っていました。

 シャモは天然記念物に指定されていますが、飼育して肉を売ってもOKです。 amazonは「6,000円/kg」以上の高値で販売しています。シャモ肉が本当に美味なら、全国的に普及させて、過疎地の産業に育てる案は如何でしょうか? (但し、シャモも鳥インフルエンザに罹る様です。)

【漁業】
 私は山村で育ったので漁業の知識は乏しいのですが、魚は大好きです。特に秋刀魚と缶詰のイカが好きですが、近年・高くなってきています。 国産のイカの缶詰は高くて、売っている店が少ないです。 大和堆では沢山イカが採れる様なのに、何故・国産は高いのでしょうか?

 日本の排他的経済水域は広大です。中国や北朝鮮の不法漁業を厳格に取り締まれば、日本に必要な量は確保出来る様に思われます。 中国は近年、大形漁船で南米諸国の排他的経済水域にも出没する様になっています。海上保安庁を拡充しても、中国に対抗するのは限界が有ります。 被害を受けている国と協力して、中国漁船を取り締まる必要が有ります。

 日本の漁業の問題は、漁民の高齢化、後継者不足です。 漁業権を大幅に見直して、漁業の株式会社化を推進したら問題の解決になるのでは?

★★ ご参考 :漁業権 ★★
 日本には『漁業法』が有り、漁業権が認められています。次男が小学生だった頃、近所の方が夏休みに子供を数人連れて海にキャンプに行きました。海胆(うに)が沢山採れて剥いて食べたそうです。怖そうな小父さんが来て、「勝手に採ってはいけない!」と怒られたそうです。かなり怖かった様でしたが、それ以来・次男は海胆好きになって居酒屋に行くと必ず食べます。

 川にも漁業権が有ります。我が家も日高川の漁業権を持っていました。小さな紙切れでしたが、一応・私が相続ました。更新手続きが必要だった様に思うので、もう失効しているでしょう? 日高川の漁業権は、明治の有る時期に、川沿いに有った家に与えられたそうです。その後に出来た家(例えば、分家)には与えられず、そして・漁業権の売買は禁止されていた様です。

 大昔から漁業権の制度が有りますが、現在の制度は戦後に農地解放と同時期に同じ考え方で改定されました。戦後75年も経ちますから、漁業を取り巻く状況が大幅に変化しています。 漁民の高齢化と減少、漁法の進歩、冷凍保存装置の普及・・・の変化。 漁業権を見直し→漁業を株式化して→効率化する。

★★ ご参考 :領海・排他的経済水域(EEZ) ★★
① 領海 :(大雑把に言えば)陸地から22.2km沖までが領海です。 更に、22.2km沖までを接続領域と呼びます。 日本には沢山・離島が有りますが、島の周囲も22.2km沖までが領海です。

② 排他的経済水域(EEZ) :陸地から370km沖までを排他的経済水域と呼びます。その外が公海です。

【林業】
 日本国内を旅行すると緑豊かな山々の景色を楽しめます。 然し、日本人にとって山林は空気の様な存在で、殆どの人は山林についての知識も興味も無い様に思います。

① 日本の国土の70%は森林です。 その内、40%程が人工林で、残りが天然林です。
② 森林の30%は国有林です。

 木材と山林の価格は暴落したままです。「安価な輸入木材が増加したためだ!」と言う方がおられましたが、私は「需要と供給の関係を無視した、歴代政府の林業政策が原因だ!」と言いたいです。

 人工林が増えて、手入れをしないで放置すると、川に土が溜まる様になります。 海に流れる栄養分が少なくなり、魚が取れなくなり、養殖にも影響が出ます。 現在の人工林を維持しても需要は期待出来ませんから、天然林に戻す施策が必要です。

 野生動物の数を調節していた日本狼を絶滅させてしまったので、猪や鹿が増え過ぎて農作物の被害が多くなっています。木材価格の暴落で、山村で生活出来なくなり→過疎化した事も原因です。 「都会育ちの役人が林業政策を立案するのは無理だ!」と私は思います。

●● 私と山林
 軍人だった父は、戦後・山奥の故郷に帰り、私は・そこで生まれ/育ちました。帰省後に父は木材と山林の売買を始めました。戦争で沢山の家屋が失われていたので、木材の価格は高く、父の商売は順調でした。 私は小学生になるズット前から、母に弁当を作ってもらって、毎日の様に父が雇ったトラックに乗って方々の山に行きました。十人ほどの人夫(にんぷ)に指示する父の傍で、一人で遊びました。 (当時の山村では、雨と大雪の日は休みで、日曜日も働きました。)

 時々、これから伐採する山や入札される山にも連れて行って貰いました。「南向きの山は木の成長は早いが良い木は取れない」、「こういう所に檜を植えては駄目だ」、「木の先端が鋭い形状だったら、まだまだ成長する。丸くなったら背丈は伸びない」・・・色々教えて貰いました。

 父は、「植林面積を増やして、下刈り、間伐、枝打ちをして良質の木を育てるのが国にとって重要だ!」と考えていたと思われます。 私はこの考え方には賛成出来ません。

●● 森林組合
 森林組合は100年以上前から有ります。私の子供の頃は、山を所有する旦那衆の結構自由な”非営利団体”だった様に思います。 段々と国が山林に補助金を出す様になって、森林組合経由だと簡単に申請手続きが出来るので、既得権団体の様になり、従業員が増加しています。 山村の企業の様な存在になっています。

 私が二、三歳の頃に私名義で父が買ってくれた小さな山を今でも所有しているので、私は竜神村森林組合の会員です。 山林の経営には専門知識が必要なので「森林組合は必要だ!」と思っているのですが、「永続可能な国の山林政策の立案/推進を阻害する存在になる」と考えています。森林組合の目先の利益を追求する考え方に立つと、天然林を伐採して植林面積を増やす方が好ましいのです。

 杉や檜の需要が回復するとは思えません。 需要を無視して杉や檜の植林を増やしたら、価格は益々低下してしまいます。そんな事を続けていたら、森林組合が破産するのは目に見えています。

●● 山林の価格
 私の所有する(6,000坪ほどの)山林を1970年頃に「2,000万円で買いたい」と言う人がいました。ちょうど・その時、西武池袋線の練馬駅から徒歩七、八分の所に有った(300坪ほどの)畑を、地主さんから姉の家に「急に金が入用になったので2,000万円で買ってもらえないか?」と言って来ました。 この畑の適正価格は5,000万円ほどだったと思います。 父に「山を売って、練馬の土地を買いたい!」と電話したのですが、首を縦に振りませんでした。

 あれから50年経ちます。 間伐や枝打ちを繰り返したので、杉や檜は大きく・立派に育っていますが、500万円でも売れないと思います。 練馬の畑の方は住宅街になって、現在は”400万円/坪”ほどするそうです。 山の裾に国道が通っているので、私の山は価値が有る方なんです。

 1971年に給料を貰う様になって、人を雇って間伐と枝打ちしました。その後、山の手入れに国から補助金が出る様になりました。 山の管理に私が使った金は(補助金を含めて)400万円以上になっています。

 故郷の竜神村は雨が沢山降るなどで、杉や檜の生育には適しています。それでも、植林に向かない山も有ります。現在・手入れをされていない植林地は、伐採して天然林に戻すべきです。 杉材や檜材の長期需要予想をして、需要を超える分も伐採して天然林に戻すべきです。 現在の木材価格と山林価格では、山村に人が住めません。

●● 有用木材
 昔は木造住宅が主流で沢山の木材(杉、檜、松、翌檜など)が必要でしたが、高層住宅が増えて木材の需要が急激に減少しました。 然し、政治家や役人は今でも、建築用の木材に固守している様に見えます。 日本に限れば木材の需要は減少して、種々の木材が使用される時代になって来ていると思います。

 私は木材加工工場を数か所見学しましたが、木材に樹脂を含浸させたり、板を加熱して曲げたり、合板の表面に突板を貼ったり、集成材の製造、・・・木材の加工技術が進んで、天然材よりも優れた板や柱が出来る様になっています。京都迎賓館の廊下の床材は、欅の突板を貼った物ですが、ハイヒールを履いた女性が歩いても傷が付かない工夫が施されているそうです。

 私は、「山林政策を立案する上で、現在のニーズ、木材の加工技術を調査して、将来予想も加味する必要が有る」、「現在の森林組合を生かすための補助金政策は駄目だ!」と言いたいのです。

(余談 :私の机) 1971年に入社した頃、企業の机は金属製でしたが、1995年頃には広い木製の机が主流になっていました。1985年に家を建てた時に、私はマホガニー製の163cm✕80cmの机を買って、今でも使っています。35年経ちますが、びくともしていません。 近年・家具と言うと、テーブル、机、椅子、ソファー、本箱、ベッドくらいになってしまいました。 上等な素材で作った家具は、二、三世代で使えますから、家具屋の経営は益々難しくなると思います。

(余談 :モンキーポット) 私は二人の息子に「拘りを持ったら、人生がより愉快に過ごせる」と言って来ました。次男がマンションを買う時に、嫁さんと二人で注文家具店を廻って、テーブルを物色していました。ある日、二人が急に来て「今から、テーブルを注文に行くから付いて来て欲しい!」と言うのです。並べた板材の中から客が好きなのを選んで、好みのデザインのテーブルを作ってくれる店でした。

 ザット見て・価格も手ごろで紋様も素敵な板が有りましたが、口には出しませんでした。息子が、「これを買いたいと思っている」と言ったのが、私が良いと考えていた板だったので、「良いね!」とだけ言いました。日立のコマーシャルソングの『この木何の木」のモンキーポットでした。テーブルにも座卓にも出来る設計にして、大事に!大事に!使っている様です。

【鉱業】
 現在、日本の陸の鉱物資源は掘り尽くされていますが、領海や排他的経済水域には夢の様な多量の鉱物資源が眠っていると言われています。 詳細が分かって来たら、中国が手を出して来る可能性が高いと思われます。 採取技術の開発と並行して、中国対策を検討する必要が有ります。

 技術開発が進んで、海底の鉱物資源が経済的に採取出来る様になったら、日本は資源大国になります。宇宙飛行士に掛ける金を、こちらの開発に廻して欲しいです。