これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

朝鮮半島の歴史 (その6)

2018-09-29 01:01:52 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、北朝鮮の三代目・金正恩の時代についてです。

【金正恩の時代】  2011年~
 金正日は長男・正男を後継者にしようと考えていた時期もあった様ですが、三男・正恩を後継者に指名して、(正恩を神格化する事無く、)2011年に亡くなりました。 政権基盤を固めるために、金正恩は自分で粛清の指示を出す必要があったと思われます。

 金正恩になってからは、韓国に対するテロ活動は行っていませんが、核開発と長距離弾道ミサイルの開発には本格的に取り組んできました。
 核とミサイルについては種々・報道されますが、私は経済に注目してきました。

金正恩が引き継いだ北朝鮮の経済】
 北朝鮮の経済構造は非常に複雑で、全容は把握出来ません。 ①社会主義経済と②金王朝の宮廷経済の『二重経済構造』で説明する方がおられますが、私はそんなに単純では無いと考えています。

 中国は北朝鮮に改革開放政策を推奨しましたが、拒否した様です。 ”闇市(市場経済)”は、改革開放政策のうち”国内体制の改革”すなわち市場経済化の役割を果たしていると考えられます。 正恩時代になって、市場経済化を容認したことで、北朝鮮は少しずつ豊かになっていると思われます。 経済封鎖が解除されたら、GDPは毎年確実に増加していくと、私は見ています。 

【闇市→公設市場の誕生】 1996年頃~
 1996年頃に配給制度が廃止され、戦後の日本の様に庶民が生活物資を得るための”闇市”が各地に出来ました。金正日は、当初は色々な規制を行い、2009年には『貨幣改革(デノミ)』によって個人の蓄財を没収しました。 庶民は逞しく規制を乗り越え、蓄財する人も増えてきました。 北朝鮮では成金の事を『トンジュ(金主)』と呼びます。

 結局、国は闇市から、”的屋”の様に”所場代(税)”を取る、常設の『公設市場』を設けました。近年はどんどん増設して、2017年には500か所ほどになっているようです。 トンジュも増えて、公認で(販売業だけで無く)種々の事業を行う様になっています。

  (現在は数千万円程度のようですが、)将来・数億円とか数十億円の資産を持つトンジュが誕生する事を、正恩は許容するでしょうか?

 国の種々の機関が運営するデパート、スーパー、公営商店等が今でも存在しますが、一部の富裕層が顧客です。

【農業】
 絶対権力者の金日成は、農業に関する知識が殆ど無かったために、苗を過密に植えさせたり、農地には適さない土地を開墾させたり、”誤った農業方法”を奨励(命令)しました。 そのために、収穫量が減少して食糧難になりました。

 農業は、現在ほとんど民間共同経営の農場に変わり、金日成の”誤った農業方法”から、理にかなった農法に戻っています。機械化が進んでいないために農繁期には兵隊が駆り出され、軍は穀物を得ています。

 農場から支給される食糧だけでは食べていけないために、農民は個人耕作地で栽培した作物を自由市場で販売して、やっと生きています。

 畜産は設備投資が必要なために共同経営ではなく、今でも軍隊などの機関が直接経営している様です。

【漁業】 
 北朝鮮では漁業権を国の機関が所有していて、黄海と日本海側の漁業権を中国の組織に販売したと言われています。 80億円ほどが毎年”金王朝資金”になっているようです。 補足しますと、北朝鮮は自分たちの排他的経済水域では魚を取れなくなっているのです。(北朝鮮は公表していないために、詳細は不明です。)

 漁民は軍などから委託された形で、小さな木造の漁船で排他的経済水域の外まで出て操業しています。 北朝鮮には職業選択の自由は有りませんから、 如何に危険でも乗船を拒否したら家族と一緒に強制収容所に送られるので、出漁しているのです。

 デイリーNKが2018年6月に、『繊維強化プラスチック製の漁船を多量に手配した』と報じていました。 死体の漂着は減るかも知れませんが、大和堆での違法操業は今後も続くでしょう。

【工業】
 1990年代から国営工場の多くは、電力や資材の供給が停止して、休業状態になっています。従業員に給料を支払う事が出来なくなりました。 従業員は工場にお金を払って休暇を取ったり、早退して他で働くようになりました。 (これを、『8.3ジル』と呼びます。)

 トンジュ達が種々の事業を行う様になって、従業員が(8.3ジルを利用して)トンジュ達に雇われる様になりました。

 2000年頃から、工場がトンジュの職場に従業員を派遣したり、工場の一部をトンジュに貸したりしているようです。

【為替レート】
 北朝鮮の通貨単位は”ウォン〝です。北朝鮮の為替レートには『公式レート』と『市場レート』の二種類が存在します。 例えば、私が米ドル・1ドルを交換すると100ウォン貰えます(=公式レート)。北朝鮮人が1ドルを交換すると(80倍の)8,000ウォン程の札束が貰えます(=市場レート)。

 現在は、人民元、米ドル、ユーロ、日本円が通用する様になっている様です。 2017年末の米の価格は1kg=6,000ウォン弱でした。タクシー運転手が外人を乗せて一日に50ドル稼ぎ、25日働いて、稼ぎの10%を給料として貰ったら、なんと167kgも米が買える事になります。

【アメリカとの国交が樹立されたら!】
 北朝鮮は、今まで中国の援助を受けて来ましたが、産業を興して経済を発展させられるだけの資金は得られていません。”生かさず殺さず”の支援だったのです。

 私が推測する金正恩の考え :①現在の様な貧しい国では無く、豊かな国を自由気ままに統治したい、 ②武力で韓国を併合する気はない。(自由を味わってしまった韓国を併合したら、厄介だ!)

 金正恩の立場に立って私なりに考えてみました。『自力で経済を発展させのは不可能だから、外国から投資を呼び込む必要がある。そのためには、アメリカと平和協定を結び、国交を樹立しなければならない。アメリカを交渉のテーブルにつかせるためには、父・金正日が始めた、核開発とミサイル開発を進めるのが効果があるだろう。』 『核と長距離弾道ミサイルを放棄したら、アメリカと国交が樹立出来るだろう。』 

 マスコミ報道の影響で、私は『トランプ大統領は、”馬鹿”で金正恩の瀬戸際外交に切れてしまって、戦争を始めるのでは?』と心配していました。トランプ大統領は、金正恩の本音(国交樹立⇒経済発展)が分かり、金正恩の希望の線で交渉を纏めると私は期待しています。

【世襲制度が続く限り恐怖政治は行われる!】
 金正恩はアメリカに「体制を保証しろ」と要求している様です。「私を暗殺するな」と要求しているのでは無く、「世襲制度と粛清に口を出すな! 強制収容所を問題にするな!」と言っているのだと私は理解しています。

 将来、北朝鮮が豊かな国に成ったとしたら、隣に同族の韓国がありますから、国民は自由を要求し始める可能性があります。 『”金王朝”を維持する為には、国が豊かになっても連座制による恐怖政治は不可欠だ』と正恩は考えていると思われます。

【悲惨な強制収容所を忘れないでください!】
 北朝鮮には、ナチスの強制収容所に匹敵する様な施設が多数あり、毎日100人ほどの罪の無い人が、悲惨な最後を迎えています! 最近の韓国とアメリカの対北朝鮮交渉では、この問題は無視されています。

 李氏朝鮮では1894年まで、”連座制”による恐怖政治が行われてきました。北朝鮮では連座制が復活して、親族や友人が犯罪を犯したり、反体制人物と疑われると収容所に入れられるのです。勿論、北朝鮮は公表していないので、収容されている人数は不明ですが、私は人口の1%程度=20万人程度だと推測しています。第二次世界大戦後の70年間に、200万人程が収容所で亡くなられたと思われます。

 強制収容所の”言語に絶する”悲惨な状況は、脱北者の著書やインターネットで読む事が出来ます。 余りにも惨い内容なので、デリケートな方は読まれない方が良いでしょう!

★★予告★★ 
 次回は、大戦後の李承晩時代の韓国の悲惨な歴史です。

朝鮮半島の歴史 (その5)

2018-09-22 11:28:49 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、北朝鮮の二代目・金正日の時代についてです。

【金正日の時代】  1994年~2011年
 金日成は、長男・金正日に権力を継承させるために、金正日の生誕地や、誕生日までも偽って神格化しました。死ぬ前から、『金正日は素晴らしい才能を有する唯一の後継者で有る』と宣伝しました。 1994年に金日成が亡くなり、正日の時代が始またのです。

 既にソビエトは崩壊し(1991年)、ソビエトからの援助は完全にストップし経済発展を続けられなくなっていました。 1995年には大水害が発生し、飢餓で多くの人が亡くなりました。1996年には食糧配給が出来なくなりました。 1997年には”先軍政治”と言うスローガンを掲げました。 一方、韓国の経済は発展しており、韓国軍は近代的な兵器を整備して、国力と軍事力とも年々差が広がっていきました。

 金正日は、死ぬまで「国をどう運営したら良いのか?」迷いに迷ったのだと思われます。(全く一貫性の無い、支離滅裂な政治を行いました。)

【先軍政治についての私の見方】  1997年~2016年
 共産国では”党”の下に”軍”が有るのが普通です。金正日が世界に例が無い先軍政治を採用した理由を、私なりに考えてみました。

 〝金王朝”を維持するためには、忠誠を誓う数パーセントの国民(共産党員、軍人、警察官、官僚、平壌市民)が有れば十分です。残りの国民から収奪した食糧などを、忠誠組に与え、残りの国民には”連座制”による恐怖政治を行うわけです。

 食糧も外貨も不足して、忠誠組に与える物が少なくなると、忠誠組の数を減らすか、一部のグループへの物資の支給を減らす必要があります。 金正日は、(軍への配給を増やすのでは無く、)軍に国家の中心であると言う”名誉”と、漁業や商売を行う”特権”を与え、軍の忠誠を維持すると言う”ウルトラC”の政策を採用したのだと私は思います。

 食糧の確保がさらに難しくなってきたために、2011年に平壌市の範囲を50%に縮小し、配給を受けていた平壌市民を50万人ほど減らしました。

【韓国からのオファー】
 1998年に、北朝鮮出身の現代グループの創業者・鄭周永が”金剛山観光事業”を始めました。

 2000年には、金大中大統領が(現代グループが用意した裏金の)”4億ドル”もの土産を持って訪朝しました。 そして、現代グループ会長 の鄭周永が”開城工業団地”と言う美味しい話を持ち込みました。 2003年に着工し、翌年に操業を始めました。

 開城工業団地は、現在の10倍ほどの規模で、2010年までに従業員数を50万人にすると言う夢の様な計画でした。 (経済封鎖が行われる前に、)外貨獲得のために海外に派遣していた労働者は約10万人程度ですから、北朝鮮にとっては極めて重要なプロジェクトだったはずです。

 鄭周永と五男・鄭夢憲が、人生を掛けて始めた”開城工業団地”の事業が軌道に乗ってきたにも関わらず、二回の核実験を強行し、2010年には延坪島砲撃事件も起こしました。 結局、従業員数が5.4万人程度になったところで開発はストップし、2016年には閉鎖されました。

 金正日が韓国や世界の世論に反する行動を取らずに、開城工業団地などの事業を進めていたら、経済が発展するだけで無く、金正恩が熱望している”休戦協定”はずっと前に締結されていたと私は考えています。

★★現代グループのその後★★  北朝鮮での事業が最初は旨く行かなかったために、現代グループでは兄弟紛争が起こり、現代自動車、現代重工、その他、に3分割されました。鄭夢憲は”その他”を引き継ぎましたが、”4億ドルの裏金”の捜査が始まり、2003年に自殺しました。

【金正日と核開発】
 金日成が1980年代に核開発に着手したと言われていますが、(金正日の時代になって、)2006年に第1回目の核実験を行いました。 この年には、ミサイル実験も実施しました。

 2009年にも第2回目の核実験とミサイル実験を行ったのです。 特に、人工衛星用のロケットと称して長距離弾道ミサイルの最初の実験を行いました。

 金正日は韓国との事業を進めながら、小泉内閣と接触している間にも、何食わぬ顔で核開発と弾道ミサイルの開発を進めていたのです。

【日本と金正日、そして拉致問題】
 2002年、日本から金を得る為に小泉首相を平壌に招待し、拉致を謝罪し、5名の被害者の一時帰国を承認しました。 日本は、約束を違えて5名の北朝鮮への帰国を拒否しました。 日本が約束違反したにもかかわらず、2004年に再度、小泉首相を平壌に招待し、拉致被害者の家族を帰国させました。

 拉致の証拠を北朝鮮が自ら証明したために、日本の世論輪が沸騰する事になりました。マスコミ各社が報道する様になったために、拉致家族の運動は益々活発に行われる様になりました。 (残念ながら、運動の支援者が増えるほど、パランドクスに陥ると、私は考えています。)

 自国民が多数拉致されたら、アメリカなら軍事力で解決しようとするかもしれませんが、日本は”外交”でしか解決出来ません。 日本の言い分が100%正しい時でも、”落としどころ”を見つける必要があります。 拉致被害者家族を支援する人が多くなればなるほど、問題解決の時間を遅らせる事になります。  日本が許容出来る”落としどころ”と、北朝鮮が提示出来るカードとの差が益々広がるために!

★★予告★★
 次回は、金正恩の統治についてです。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その4)

2018-09-15 11:27:44 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。

【日本の撤退→→38度線】 1945年
 日本が敗戦したあと、朝鮮半島には北からソビエトが、南からアメリカを主体とした国連軍が入ってきて、北緯 38度線でそれぞれが分割統治する事になりました。1948年にアメリカとソビエトが撤退して、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。

 ソビエトは北朝鮮に多量の兵器を残しました。(戦車240輌、砲552門、迫撃砲1,728門、航空機211機) 北朝鮮の兵力は約20万で、さらにソビエトと中国から実践経験のある3万人が帰国しました。(出典:ウィキペディア)
 アメリカが韓国に残した兵器はわずかでした。(砲91門、迫撃砲960門、練習機22機) 韓国の兵力は約10万しか有りませんでした。(出典:ウィキペディア)

 1948年に韓国と北朝鮮が建国した時点では、軍事力と経済力は北朝鮮の方が圧倒的に優位だったのです。

【北朝鮮にはバラ色の選択肢も有りました!】
 北朝鮮は、日本が建設した工場群、インフラ整備などを無傷の状態で受け継ぎました。ソビエトは近代兵器を多量に残してくれた上に、経済援助も続けてくれました。北朝鮮は、何よりも、鉄鉱石、石炭、銅、金などの地下資源が豊富です。

 世界情勢 :一方、日本、東西ドイツ、フランス、イタリアなどの産業は第二次世界大戦で甚大な被害を受けており、韓国には殆ど工場は無かったのです。中国の産業はまだ発展していませんでした。(中国が改革開放政策を打ち出したのは1978年12月です。)

 私の見立て :朝鮮戦争を始めないで、日本が進めていた『産業を発展させる政策』を続けていたら、数年後にはソビエトの援助を受ける必要が無くなったと思われます。 北朝鮮は、文字通りの”地上の楽園”になっていたかも知れません。少なくとも、共産圏の有力な工業国にはなっていたはずです。 そして、ソビエトが崩壊した時に、東西ドイツの様に韓国と統合出来た可能性も有ったと思われます。

【北朝鮮・金日成の時代】  1948年~1994年
 スターリンのバックアップを得て、共産党内部では少数派だった金日成が北朝鮮を統治する事になりました。基盤が極めて零弱だったため、敵対する派閥や幹部を次々と粛清しました。 (戦争中、金日成は抗日パルチザン部隊の一指揮官でした。)

 金日成は建国して2年後(1950年)に朝鮮戦争を始めましたが、結局、朝鮮半島を統一すると言う野望は果たせませんでした。日本が残した虎の子の資産とソビエトから得た近代兵器の大半を失いました。(北朝鮮では、戦争を始めたのは韓国の方だと国民に説明しているそうです。)

 朝鮮戦争のあと、ソビエトと東欧諸国から支援を得て、北朝鮮の工業は復興しました。復興が進まない韓国と比較して北朝鮮は”地上の楽園”の様に思えたのでしょう。1959年から、日本から北朝鮮への帰還が始まり、1984年までに9万人以上が渡っていきました。

 北朝鮮による日本人の”拉致事件”は1970年代の後半から発生しました。”帰還事業”をしながら、何食わぬ顔で”拉致”と言う犯罪を続けていたのです。

 1991年にソビエトが崩壊し、ソビエトと東欧諸国から支援が受けられなくなり、中国からの援助だけに頼る様になってしまいました。それからは、工業の発展がストップしてしまう事になります。

 一方、農業政策の失敗によって、食糧が不足する様になって来ていました。 (近年は、外国からの食糧支援が不可欠な状態になっています。)

【朝鮮戦争で失ったもの】  1950年~1952年
 1950年6月25日、北朝鮮は10万の兵力で韓国に侵入て、想定を遥かに超えたスピードで北朝鮮軍は進軍し、韓国軍は連戦連敗で釜山近辺まで追い詰められました。

 崩壊寸前の韓国を救うために、国連軍が韓国に上陸して戦況は急変し、どんどん北朝鮮軍を北に押し戻しました。38度線を超え、中国との国境線に近づいたとき、中国の大軍が参戦しました。国連軍は38度線より南側まで押し戻され、押し返し、最後は膠着状態になりました。結局、1953年に中国+北朝鮮と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。(李承晩は休戦に反対して、協定には参加していません。)

 開戦から膠着状態になるまでの期間は約1年です。

 米軍は、第二次世界大戦で日本に投下した16万トンの3.7倍にもなる60万トンの爆弾を使用して、日本が併合時代に建設した工場、ビルなどの貴重な資産を徹底的に破壊してしまいました。

【朝鮮戦争の死者】 
朝鮮戦争の戦死者数は正確には把握されていないようです。 私の推計では、両軍合わせた軍人の死者は約100万人ほどです。 (ウィキペディアによると)南北合わせた民間人の死者は380万人以上もありました。 (第二次世界大戦で亡くなった日本の民間人は80万人です。)

 韓国軍と北朝鮮軍は、敵地で民間人を多量に虐殺しました。 戦闘が行われた期間は約1年ですから、毎日1万人の民間人が虐殺された事になります!

 私の推計では、この戦争で、朝鮮半島の人口の15%程の方が亡くなったと思います。 特に北朝鮮では四人に一人の方が亡くなりました。

 韓国軍は、民間人を虐殺する時、女性を凌辱したあとで殺すか、拉致して慰安婦にしました。 (朝鮮戦争中から、韓国軍は慰安所を運営していました。)

【日本と朝鮮戦争】
 日本は、この戦争期間中の3年間の特需で10億ドルを得たと言われています。その後も特需は続き、日本が得た総額は”46億ドル”にもなりました。1960代の後半からベトナム特需がはじまり、日本経済は完全に復興し、さらに戦前よりも発展し豊かになりました。

 アメリカ軍からの強い要請で、当時の総理・吉田茂は海上保安庁に、朝鮮半島周辺での機雷の掃海を行わせました。 (実質的な参戦です。) この時、1名戦死されていますが、靖国神社には合葬されていません。 PKOで派遣された自衛官が万一、戦死されても靖国神社に祀られないのでしょうか? 皆さんはどう思われますか? 私の叔父が一人、靖国神社に合葬されていますが、靖国神社の問題について、私はまだ考えが纏まっていません。


★★予告★★ 
 次回は、その後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その3)

2018-09-08 11:12:43 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、韓国併合時代について私の考えを纏めました。
 韓国の反日家達は、「李氏朝鮮時代は豊だったのに、日本が収奪・破壊してしまい、韓国になってから復興・発展させた」と主張しています。 朝鮮半島の発展に尽くした先人達のためにも、私達の子孫のためにも、併合時代に進めた産業改革、教育改革などなどの記録・資料を一か所に集めて大切に保管する必要があると考えます。

【併合前の清国の状況】
 日清戦争(1894~95年)に敗れて弱体である事を露呈してしまったので、清国はドイツ、ロシア、イギリス及びフランスの要求を呑まざるを得なくなり、1898~99年に、4列強に租借地を認めました。
 大韓帝国は清国より遥かに弱体でしたから、日本の保護無しでは、瞬く間に列強の餌食になったでしょう。この事実は、現在の朝鮮半島の人達は受け入れられないのです。

【韓国併合とその後】 1910年~45年
 1910年、日本は”無血”で大韓帝国を併合し、そのご35年間、朝鮮半島は”日本の一地方”扱いでした。 収奪的植民地では無かったのです。
 日本は官民をあげて貴重な資金を朝鮮半島に投資して、短期間に産業を興し、種々の改革を行い、発展させました。 やっと朝鮮半島は、”失われた500年”を脱して近代化の道を歩み始めたのです。

**余談** 最初に日本から派遣された役人は、”両班”の傍若無人な振る舞いと、無茶苦茶な国家体制に仰天したと想像します。「何から手を付けてよいのか?」相当迷ったことでしょう! 言葉が十分には通じ無かったと思われるのに、短時間に種々の改革が出来たと感心します。

 李氏朝鮮では、庶民は重税に苦しめられていましたが、併合後の10年間は無税にしました。 そして、矢継ぎ早にに多くの改革を行いました。 身分制度(両班、中人、常人、)の廃止、行政組織の改革、官僚制度の確立、法律の整備、裁判所、警察署などなど。

 港湾施設、鉄道、道路、上・下水道、電気、病院、学校、工場を次々と建設し、多くの銀行を設立し、近代化を進めたのです。 これらの事業によって、多くの朝鮮人が働く場所を得る事が出来ました。

 日本窒素肥料(現:チッソ)は、現在の北朝鮮に12箇所もの水力発電所(合計87万kW)を建設し、硫安などを製造する大化学工場を複数建設しました。従業員は4万5千人もいました。 ちなみに、黒四ダムの発電所(黒部川第四発電所)の能力は約33万kWです。
 三菱製鉄、日本製鐵による製鉄所も現在の北朝鮮に建設されました。

教育改革 :大韓帝国の時代には小学校は100校ほどでしたが、日本は4,000校以上も設けました。ハングルは1446年に李氏朝鮮が公布した表音文字ですが、李氏朝鮮の特権階級では漢字を使用し、庶民はほとんどハングルも読めなかったようです。日本が設立した小学校では、日本語とハングルを教えたのです。(ハングルを広めたのは日本だったのです。識字率が6%→22%に向上)

植林事業 :李朝朝鮮では、個人所有の山は無かったので、住民は勝手に山に入り木を伐採して建築資材や薪にしていました。そのため、(特に朝鮮半島の南側では)禿山が多かった様です。茂った森は貯水ダムの働きをします。 禿山だと、貴重な雨はそのまま流れてしまい、農業に利用出来ないだけでなく、河川を氾濫させます。総督府は、禿山の植林事業に努力して、累計10億本も植林しました。 (面積では、約3,600㎢)

土地調査事業 : 1910~18年にかけて、田畑の面積を測量し、所有者(納税者)を確定する事業を行いました。大韓帝国の台帳の耕作面積は240万町歩でしたが、総督府の実測では約80%も多い434万町歩も有りました。国有地、宮室地と所有者不明地(合計14.7万町歩)を総督府は接収し、民間に払い下げました。 現在の韓国では、この”接収”を反日運動で問題にしています。

農業改革  :頻繁に発生していた氾濫対策(水防工事)や農業用水のダムや用水路を建設し、農民用の融資を行う金融組合などの設立にも努力しました。併合の35年間で、水田の面積は二倍以上に増加し、米の収穫量は三倍以上に増加しました。
★★反日運動家は、「米の収穫量は増加したが、日本が収奪した」と主張しています。 実際は、三星商事(現:サムソングループ)などが、米を高く売れる日本に輸出したのであって、略奪したわけではありません。朝鮮半島の人達は、安い雑穀を多量に輸入して食べました。併合時代に、栄養状態が悪化したと言うのは”嘘”です。併合の35年間に、飢餓は無くなり、人口は80%以上増加し、平均寿命は24才から56才まで伸びました。

【併合時代の虐殺】
 1919年、日本が進めていた朝鮮半島の近代化政策の意義が理解出来ていなかったために、朝鮮独立運動”三・一事件”が起こりました。日本は武力で暴動を抑えたために、沢山犠牲者が出ました。 (死者の数は、日本共産党によると7,600人です。) 韓国では、事件が発生した3月1日を”三一節”として祝日にしています。

 1923年の関東大震災が発生した時、デマが流れたために、自警団、軍、警察によって(朝鮮人と誤解された中国人や日本人を含め)沢山の朝鮮人が虐殺されました。 (これは、日本国内で起こった悲劇です。)

【旧日本軍には朝鮮半島出身も沢山いました】
 靖国神社には朝鮮半島出身の軍属が21,000柱も合葬されています。第二次世界大戦中の朝鮮出身の軍属は22万人もいたのです。

 1938年から朝鮮で志願兵の募集を始めました。志願者の数は毎年、増加して1943年には30万人(合格者は6,300名)を超えました。1944年9月には徴兵制を導入しましたが、徴兵制で入隊した兵隊さん達は戦争には参加せずに終戦を迎えました。

【併合時代の資料館を提案します】 
  韓国も北朝鮮も”有る事、無い事言い触らす"国です。韓国は、どんどんエスカレートしてきて、英文で西欧諸国にまで吹聴しています。日本は、”無い事”はハッキリと”それは正しくない”と海外に示す必要があります。”金持ち喧嘩せず”のポーズは止めましょう!

 個人、団体及び企業に寄付を募って、政治的に中立な”併合時代の資料館”を設ける事を提案します。石原知事が尖閣諸島を都が購入する資金として”14億円”も集めました。もっと沢山の寄付が得られると思います。

 資料を発掘し、日本語、英語、韓国語/朝鮮語に翻訳して、展示するだけでなくインターネット上に公開しましょう! 朝鮮半島の人達にも開放しましょう!日本にとって都合の悪い事も展示すべきです。

 その資料館は斬新で明るい建物にして、韓国の物産展やグルメ展を在日韓国人にやってもらうのはどうでしょうか! 韓国の陶芸作家や画家の展示即売会なら私は行ってみたい。日朝で国交が樹立されたたら、”朝鮮産松茸の即売会”をやりましょう。

 真摯な活動を続けたら、(時間は掛かると思いますが、)いずれ慰安婦像が撤去されると思います。

★★予告★★
 次回は、第二次世界大戦後の北朝鮮の歴史です。 是非、読んで下さい!

朝鮮半島の歴史 (その2)

2018-09-01 11:04:20 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、大韓帝国の併合までの歴史をまとめました。

【三度の対馬侵攻】
 李氏朝鮮は、3回(1389年、1396年と1419年)、対馬に侵攻しました。李氏朝鮮には「勝利したと」の記録が残されているようですが、実際は失敗だったと思われます。(侵攻の目的は”倭寇”退治)
 特に第三回目(1419年)の侵攻には、17,000人以上の大軍を派遣しましたが、かなりの損害を受て撤退しました。 李氏朝鮮には、対馬・一島さえ侵略する力が無かったのです。

 対馬を支配していた宗貞盛が、1420年に属国になりたいと申し入れ、認められた様です。翌年(1421年)対馬側は、属国になった事を否定しました。 然し、李氏朝鮮は、その後も対馬は属国であると主張し続けました。 現在でも一部の人達は、”対馬は韓国の領土だ”と主張しています。 李承晩が、李承晩ラインに対馬を含める根拠にしたのではと思われます。

【文禄・慶長の役】 1592年~93年と97年~98年
 1592年に秀吉軍が攻め込んだ時、李氏朝鮮軍には鉄砲が無く、秀吉軍は連戦連勝でした。 明軍が支援に入って、やっと硬直状態になったのです。
 文禄・慶長の役は、明国の財政を悪化させ、約50年後の1644年に滅亡しました。清国になったわけです。

 李氏朝鮮は、この戦争を教訓にして富国強兵をはかった? とんでもない、この戦争で国力はさらに低下しましたが、その後300年以上も改革はほとんどせずに、貧しいままで二十世紀を迎えるのです。
 文禄・慶長の役で、日本にも多大の損失が有りましたが、然し朝鮮半島から捕虜を5~6万人も連れてきて、その中に陶工がいて、その後の文化・経済の発展に貢献しました。

警告) 現在でも”文禄・慶長の役”を問題にする反日運動家がいる様です。 将来より大きな運動になるかも知れません。 「”元寇”では君達が攻めてきた」と反論したら、多分、「元寇は高麗と元がやったことで、我々の祖先・李氏朝鮮は関わりない」と言うでしょう。 

【李氏朝鮮の末期】
 李朝朝鮮の末期には政権内部で政権争いが繰り返され、国内が混乱していました。日本が要求した改革(甲午改革)は細々としか行われませんでした。

 イギリスの女性旅行家・イザベラ・バードの著作『朝鮮紀行』には、政治の混乱の様子や、役人達の腐敗、庶民の暮らしなどが記録されています。 ”断髪令”など、日本の失敗も書かれています。 なお、『朝鮮紀行』(時岡敬子訳)と『朝鮮奥地紀行』(朴尚得訳)は今でも入手可能です。 (共産党や左派の政党を支持する人達には、是非とも読んで頂きたい本です!)

 『朝鮮紀行』は韓国語に翻訳されて出版されている様です。韓国人にとっては不都合な内容が沢山出てくるのに、出版した人達の努力と勇気には敬意を表します。この本は韓国でどれだけ売れたのでしょうか?

【李氏朝鮮は国号を大韓帝国に改めた】 1897年
 1894年から95年にかけて戦われた日清戦争で日本が清国から得たのは台湾です。朝鮮半島ではありません。
 日清戦争で日本が勝利したことで、李氏朝鮮は清国の”くびき”から解放され、李氏朝鮮は1897年に国号を”大韓帝国”に改めました。
 ”朝鮮”と言う国号は、明国から与えられたものでした。属国で無くなったことを明確にするために”大韓”と言う国号にしたのだと思います。 新羅・高句麗・百済を”三韓”と呼びます。 三韓の領土(朝鮮半島)を統治する国であると言う意味で”韓”を採用したと言われています。
 李氏朝鮮の君主は単に”王”でしたが、”皇帝”と称する事にして、国号を”大韓帝国”と改めました。

【大韓帝国の改革】 1897年~
 明治維新の約30年後(1897年)に大韓帝国は日本の支援を受けて改革を始めました。然し、国力が低下していたために、自力での改革が出来る様な状態では無かったのです。

 軍隊の改革にも着手しましたが、財政がひっ迫していたため1899年時点でも軍の定員は9,000名に過ぎませんでした。 その後、増強されましたが2万人程度に止まりました。ちなみに、日清戦争で日本が大陸に派兵した軍隊は、24万人です。(当時、大韓帝国の人口は1,300万人もあったのですが!)

 西洋式の工場を建設することは、資金が無かっただけで無く、儒教に反する事だったので行わなかったのでしょう。

(私の考え) 1894年に日本は李氏朝鮮に改革を要求し、李氏朝鮮は改革(甲午改革)を行う旨の命令書を交付しました。この時に”罪人の連座制”が一応は廃止されました。金が無くても出来る改革が他にも有ったと思われます。例えば、腐敗撲滅、法律の整備、公平な裁判、人材登用などなど。 真剣に取り組んでいたら、民心が離れて行くのを止められたでしょう!

【日露戦争】  1904~5年
 日露戦争は、帝政ロシアの南進政策を阻止するために日本は戦ったと言われています。日本の支援を受けていた大韓帝国の皇帝・高宗(光武帝 )とその一派は、日本を裏切ってロシアを支持しました。

 1904年、高宗は英語が出来た(反皇帝運動家の)”李承晩”(初代韓国の大統領)をアメリカに派遣して、『アメリカの支援を得て日本の影響力を弱めよう』と画策しました。 アメリカに渡った李承晩は、(期待に反して)高宗の批判を始め、そのままアメリカに留まりました。

 自力での改革が不可能と考えていた、大韓帝国の一派は日露戦争で日本に協力しました。

 結局、高宗の予想(期待)に反して日本が勝利したために、大韓帝国は1905年に日本の保護国になりました。 (高宗は1907年に退位し→→純宗が即位しました。)

 1909年に 韓国統監の伊藤博文が暗殺されたあと、アメリカとイギリスの賛同が得られ、その他の列強の反対も無かったので、日本は大韓帝国を無血で併合しました。 (日本では、「大韓帝国の改革派”一進会”から併合の要請があった」と主張してきました。)

(私見) 併合を進めた総理大臣は、”図太く立ち回った”桂太郎です。桂太郎になって考えて見て下さい。当時の世界は、力のある国が弱小国を植民地にすることは当たり前の事でした。”生き馬の目を抜く”様な国際情勢の中で『生き抜ける国力』が大韓帝国には残っていなかったのです。国際的にほぼ認められたので、桂太郎は併合したのだと思います。国内の世論を抑えるために、「韓国の”一進会”から併合の要請があった」ことを巧みに利用したと私は考えています。

★★予告★★
次回は、併合時代の話しです。 是非、読んで下さい!