これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙幣と貨幣の話し (その2)

2020-01-25 13:39:38 | 歴史
 今回はお札(紙幣)に関連する話を書きます。

【紙幣に興味を持ったのは】
 私が紙幣に興味を持ったのは、紙幣はその時代の最高の技術で印刷していると思ったからです。 収集を始めた後、段々高度な技術が取り入れられる様になりました。 偽造防止のために、教えて貰わないと分からない(小さな)仕掛けをしていたり、ドンドン興味が湧いてきました。

 母が引出し等に入れていた紙幣は、全て少額のものでしたから、紙質は悪く、ラフな印刷でした。 昔は少額紙幣は”ぞんざい”に扱ったのか?新しい紙幣に取替無かったのか? 母の紙幣は、ボロボロで一分欠損している物さえ有りました。

【紙幣の印刷は?】
 現在発行されている紙幣には『国立印刷局製造』と小さく印刷されていますが、1872年(明治5年)に発行された紙幣や、その後の少額紙幣などには製造局が印刷されていない物も有ります。

 どの色から順番に印刷していくかによって、見た目が違ってきます。インクだけでは無く、印刷手順等も極秘の様です。

(余談) 1984年から福沢諭吉の一万円札が発行されています。最初に発行された紙幣には『大蔵省印刷局製造』と入って、ホログラムが有りません。 偽札が出回りだしたので、2001年から発行された一万円札からホログラムが入り、『財務省印刷局製造」となりました。 2004年から裏面が『平等院の鳳凰像』に変わり、『国立印刷局製造』になりました。

【紙幣の用紙は?】
 紙幣の紙は、『みつまた(三椏)』などを原料に国立印刷局が製造する、一種の和紙です。 一万円札は、少し黄色で最も上等な紙を使用している様に見えます。

(余談) 一万円札を家で洗濯した事が有ります。 見た目でもハッキリ分かるほど縮んでいましたが、全く破れてはいませんでした。 学生時代にクリーニング店に取りに行くと、「ポケットに入っていた」と言って、一万円札を含む十枚ほどの札を出してきました。 貧乏学生ですから、そんな大金を日頃持ち歩いていませんでしたので、「私のではない」と言ったのですが、「受け取って貰わないと困る」と言う様なやり取りの末に、有難く頂いてしまいました。

(余談) ある方が、紙幣用紙を製造する工場で仕事をしていると、近くに(2cm×2cm程の)紙切れが落ちていたそうです。彼は、その紙片をポケットに入れて仕事を続けていると、周りに沢山の社員(?)が出てきて、窓から下を見ると溝川(ドブガワ)にも数人入って何かを探していました。 「紙片を探している」と言われ、「今更、出したら出入り禁止になる」と思ったので、そのまま帰ったそうです。 (”ある方”は既に亡くなられています。決して、私では有りません。)

【明治最初の紙幣】
 江戸時代は、各藩が”藩札”を発行していました。廃藩置県は1871年ですから、明治になっても藩は存在し、藩札は流通していました。(戊辰戦争で負けた藩で、取り潰された藩は無い様ですが、藩札はどんなになったのか?ご存知の方があおられたら教えて下さい。)

 明治元年(1868年)に、明治政府は銅版印刷の”太政官札”を5種類発行しました。(十両、五両、一両、一分、一朱) 1869年~70年に”民部省札”5種類発行しました。(二分、一分、二朱、一朱)

 1872年(明治4年)10月に、”円”の大蔵省兌換証券を最初に発行しました。3種類です。(10円、5円、1円) 三井組の名義で発行されたので、『三井札』と呼ばれています。 次の月に、北海道開拓資金を得るために、三井組の名義で開拓使兌換証券も発行しました。

(三井財閥) 三井家は1600年頃に武士を捨てて、伊勢・松坂で商売を始め、1673年に江戸に進出し、小間物屋→呉服商(後の三越)から両替商等々手を広げ、幕末には莫大な資産を持つ一族になっていました。明治維新の前年に、三井家、小野家と島田家の3豪商で反幕府側に一万両も用立てて、薩長を援助したのです。 明治政府は、最初から三井一族の協力無しでは成り立たない状態でした。(三井家の特徴は、財産を一族の共有にして、各家に給料(?)の様な形で金を渡したことです。愚鈍な当主が出ても、一存で、財産を失ってしまう恐れを無くしたのだと思います。)

【政府紙幣】
 1873年(明治5年)に、ドイツで印刷した不兌換紙幣を発行しました。9種類です。(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭) この紙幣は、1877年から日本で印刷しました。 縦長の紙幣で、『明治通宝』のハンコが押されています。

 1881年(明治14年)から新しい紙幣が発行されました。 この時から、紙の原料に『みつまた(三椏)』が使用される様になり、形は横長になりました。 10円、5円、1円、50銭、20銭の5種類です。 原版をイタリア人が製作したために、神功皇后が白人の様な顔になっています。

【国立銀行券】
 1872年に国立銀行条例が制定されて、各地に雨後の筍の様に、全国で153行、”国立銀行”が設立されました。国立銀行(ナンバー銀行)は民間銀行で、国が認めた銀行です。国営や国有銀行では有りません。 合併/倒産などで、ナンバー銀行は少なくなっていますが、今でも、第四銀行、七十七銀行など数社が健在です。

 1873年から、国立銀行券が5種類(二十円、十円、五円、二円、一円)が発行されました。 各国立銀行が政府の公債を買って、購入した公債に相当する金額の国立銀行券を発行しました。 紙幣は政府が印刷し、各国立銀行は紙幣に銀行名、頭取名等の印を押しました。 従って、厳密には『一円券』だけでも少なくとも153種類有ります。『大日本帝国流用紙幣』と、5年後に発行された物には『大日本帝国国立銀行』と印刷されています。

【西郷札と承恵社札】
 1977年(明治10年)の西南戦争の時に、薩摩軍が『西郷札』を発行し、鹿児島県庁が金融業を営んでいた承恵寺と撫育社に証券『承恵社札(しょうけいしゃさつ)』を発行させました。 両方で、薩摩軍は18万円ほどの軍資金を得た様です。

【日本銀行券】
 通貨を発行する日本銀行が設立されたのは1882年(明治15年)です。1885年に最初の紙幣を発行しました。当時・正式には金本位制でしたが『日本銀行兌換券』と印刷されています。(百円、十円、五円、一円の4種類です。) 偽札が出回ったそうです。

 1888年に偽造防止対策を加味した新しい『日本銀行兌換銀券』が発行されました。この時から、肖像画が入る様になりました。(百円、十円、五円、一円の4種類です。)

 1897年(明治30年)に金本位制に変わりました。”銀”の文字を入れない新しい紙幣『日本銀行兌換券』が発行されました。(百円、十円、五円の3種類です。) この時から、図案/原版を日本人が手掛ける様になりました。

(余談) 日本銀行が株式会社?なのをご存知ですか。資本金は、1億円しか有りません。(1株=100円、100万株) 但し、株券とは言わず”出資証券”と呼ぶそうです。日本政府が55%所有していますが、残りの45%はJASDAQ(ジャスダック)で売買出来る様です。(配当金は、出資金100円当たり、5円以下と定められている様です。利益は1兆円以上有りますが、僅かな配当金以外は、国庫に納められる事になります。)

【少額の政府紙幣】
 貨幣の内、紙の物を紙幣、金属の物を硬貨と言います。硬貨は明治時代から政府発行で、造幣局で製造されています。 紙幣の方は、1885年(明治18年)以来、原則として日本銀行が発行して来ました。 硬貨の製造が間に合わなかったので、1917年(大正6年)に政府が50、20、10銭の紙幣を発行しました。 戦前の政府発行紙幣には、『大日本国政府紙幣』、戦後のものには『日本政府紙幣』と印刷されています。

(余談) 昭和十年代には、①大正時代から発行されていた50銭銀貨、②1923年(大正12年)まで発行された50銭・政府紙幣、③1925年(昭和13年)の日銀・50銭札、④1929年の50銭・政府紙幣・・・4種類の50銭貨幣が流通していたと想像します。 混乱しそうに思われます! (1882年にも50銭・政府紙幣が発行されています。) 

(余談) 現在は、500~1円まで6種類の硬貨が発行されていますが、長い間・デザインを余り変えていません。 少額のため偽硬貨が作られる恐れが無く、自動販売機が普及したので誤動作を回避する為にデザインを変えていないのだと思われます。 造幣局は技術を磨いていて、その成果を記念硬貨で公表しています。 「耐久性が有るのか?」と私は疑問に思うのですが、カラフルな記念硬貨も有ります。

【外国の貨幣】
 私が現役の頃、海外出張をした社員が外国の紙幣や硬貨を持って来てくれました。 大抵は小額の貨幣でしたが、高額の物は当時のレートで買いました。 インドなどの紙幣はボロボロで、ホチキスの穴があいていて、紙幣を”ぞんざい”に扱っている証拠でした。 紙質も悪く、印刷技術もお粗末な物が多かったです。

 「1ドル紙幣はもういらない」と言っても、持って来てくれました。すべて”クシャクシャ/クタクタ”でした。アメリカは今でもチップ社会ですが、チップはポケットから”さっと”出すのがスマートで、財布から出すのは”カッコ悪い”のだそうです。 新しい1ドル紙幣の表面はインクの凹凸で枚数を数え難いので、クシャクシャにしないとチップを過剰に渡してしまう恐れがある様です。 (同じ理由で、私は”手の切れる様な千円札”が嫌いです。)

 近年、世界では高額紙幣は発行されない方向に進んでいます。日本でもキャッシュレス化が進んだら、一万円札は消えてしまうかも知れません。 世界の高額紙幣ランキングで、一万円札は10位以内に入ります。 (近年まで10,000シンガポールドル札≒82万円、が一位でしたが、現在は発行されていません。)

(余談) アメリカでは、かなり前から100ドル紙幣は一般には流通しなくなっています。かっては十万ドル紙幣が発行されていました。 ハウスキーパが、電話台の引出しに十万ドル紙幣が入っているのを見付け、玩具だと思っていたそうですが、「もしかしたら?」と魔が差して、スーパーで使って見たと言う記事を読んだことが有ります。皆さんのご想像の通り、警察に通報されて、その場で逮捕されたと書いていました。

【チェコスロバキアの話し】
 昔、有ったチェコスロバキアに出張した人の話しです。1972年に大掛かりな装置の試運転/運転指導の為に、数人で3ケ月ほど滞在した様でした。 その内の一人は私の尊敬する方でした。会社から出張手当とホテル代が支給されるのに、「ホテル代は顧客持ちで、顧客から高額の日当が貰えるので、沢山お金を持って帰る」と、嬉しそうに言って出掛けました。

 現地では、殆ど休日無しに働き、約束の通りに高額の日当を貰ったそうです。帰る時に空港で、チェコスロバキアのお金『コルナ』は国外持ち出し禁止だと言われたそうです。 どうした?と思います。 空港のカウンターの横に有った階段の上から”餅まき”の様に、皆で持っていた札を全てバラ撒いたそうです。 「沢山・人が集まって楽しかった」と負け惜しみを言っていました。

 彼は、私が紙幣を収集している事を知っていたので、「持って来てやる」と約束していたのですが、一枚も残さずにバラ撒いたのです。

紙幣と貨幣の話し (その1)

2020-01-18 12:34:03 | 歴史
 今回から、貨幣の収集が切っ掛けで知った、紙幣と貨幣の話を書きます。 3回ほど連載する予定です。

【母の不思議な習慣】
 私の母には変わったところが色々有りました。その一つが、全ての引出し、文箱、その他の収納箱に昔の貨幣や紙幣を入れる事です。(紙幣は全て少額で、使い古したボロボロの状態でした) 臍繰り(ヘソクリ)か?迷信の一種か?と思っていたのですが、小学生になった頃に、「引出しの貨幣や紙幣を貰ってもいいか?」と聞いたら、あっさりと許可してくれました。

 箪笥や長持にも入っていて、貨幣は千枚ほど、紙幣は少なかったですが数十枚は有りました。大正時代から戦中まで日本で発行された物でした。それ以来、貨幣を収集する様になりました。満州や朝鮮半島から引き揚げて来た家の子供達から、持ち帰った貨幣を物々交換して手に入れました。

 一文銭や四文銭は、我が家には一枚も有りませんでしたが、村のどの家にも沢山残っていたので、物々交換で沢山入手出来ました。(江戸時代の銭を、2メートル程の紐に通したのを見せて貰った事も有ります。)

【コイン収集のその後】
 古銭や古い紙幣の取引価格が記載された本を入手しましたが、価値の有るのは殆どまだ所有していませんでした。簡単な発行時の経緯なども書いていて、後で考えると良い勉強をしたと思います。

 小学館出版の小学◎年生と漫画の雑誌を購読していたのでが、懸賞に応募したら大きくて/豪華な玩具が当たりました。開封していた時、たまたま近所の一歳年上の男の子が通り掛かり、早速動かして見ました。(彼が家に帰るには、我が家の庭を必ず通る必要が有ったのです。)

 暫くすると、彼が、明治7年の50銭か?20銭硬貨か?を持って来て、「これと交換してくれ」と言うのです。前述の本で、その貨幣の価値を知っていました。玩具を持って彼の家に行って、彼の両親に「このコインは高価だけど、交換しても良いか?」と聞くと、逆に「お前の方こそ親の許しが必要では?」と言う様なやり取りがあり、何と!取引が成立したのです。それ以来、私の宝物になりました。

 1916年~38年に発行された”桐一銭銅貨”を数十枚収集していたのですが、東京で働いていた姉が、「自動切符販売機で、十円硬貨として使えるかも知れない」と言って、二、三枚持って行きました。次に帰って来た時に、数枚を残して、強引に全部持って行ってしまいました。(桐一銭銅貨と十円硬貨ではだいぶ違いますが、当時の自動切符販売機はいい加減な物だったのです。)

 私は、段々紙幣の方に興味が湧いて来て、コインの収集は殆どしなくなっていました。私には十歳も違わない甥がいるのですが、甥が中学生の頃コイン収集を始めたので、ほぼ全てプレゼントしました。最近、どうなったか聞いたところ、直ぐに興味が無くなって、今ではそれらのコインの行方は分からないそうです。

【貨幣と紙幣の本】
 私は町の高校に入ったので、貨幣と紙幣に関する本が買えました。これから書く記事は、その頃から貯えた知識がベースになっています。今でも、古い紙幣には興味が有りますが、明治初期の紙幣は高価なので収集は諦めました。

【徳川家康と小判】
 「お金の有難さ」を別の意味で理解して頂きたいと考えています。 イギリス人の女性・イザベル・バードが1894年(明治27年)から朝鮮半島に行った時の記録『朝鮮紀行』を読んで見て下さい。 当時、まだ朝鮮半島では貨幣経済は未発達で、高額貨幣は発行されていませんでした。 彼女が、半島を旅行しようとした時の問題の一つは、旅行費用の運搬でした。 「穴明き銭しか無く、銀行や両替商は、彼女の旅先には一軒も無かった」と書いています。 従って、彼女は穴開き銭を多量に運ぶ必要が有ったのです。

 1円が穴明き銭3,200枚に相当し、100円は320,000枚になりますから、「100円分の銭を運ぶのに、馬一頭か、男を6人雇う必要が有る」と書いています。 当時、既に日本では100円(≒100ドル)札が発行されていました。 (彼女は、結局・日本の銀貨を持ち歩いたと書いています。)

 豊臣秀吉が天正大判を1588年に発行しましたが、流通貨幣では有りませんでした。(大判に含まれる金の量と、その時の金の相場で、流通貨幣の”一文銭”と交換したのです。)

 日本で最初の高額の流通貨幣を発行したのは、徳川家康です。 関ヶ原の戦い(1600年)の翌年に、慶長小判が出ました。 日本の経済発展に、家康は多大な貢献をしたと私は思っています。 この事は、高校の歴史の教科書で取り上げるべきです。(小判の金の含有率を下げた事は書かれている様ですが。)

 ウイキペディアによると、慶長小判の1両で、米3~4石が買えたそうです。 当時は一人一年に1石も食べた様ですが、二、三両有れば大家族の1年分の米が買えました。 米1石=150kgですから、10kg=5,000円をベースにして計算すると、1石=75,000円になります。 (1両≒225,000~300,00円) 慶長小判は、13,000~14,700万両発行されたと言われています。 当時、流通経済がどれほど発展していたのか?想像する事が出来ます。

(私の勉強方法) 「江戸時代初期の江戸の人口は15万人ほど、幕末には武士、出稼ぎ、旅人などを含めると150万人ほどいた」と言う記事を読みました。 「江戸の周辺は関東ローム層で、田圃が少ないですから、米は殆ど採れません。1年間に米を15万人×1石(150kg)/1,000=22,500トンも運び込む必要があった」・・・「船で運ぶとしたら何隻必要か?」などと考えてしまいます。 学校で歴史は”暗記のするもの”としないで、私の様な教え方をしたら歴史好きが増える様に思います。

(余談 :悪貨は良貨を駆逐する) 江戸時代に小判は11種類発行されましたが、金の含有量は、段々少なくなりました。 最初の慶長小判は重さ17.73g(金は15.19g)、最後の万延小判は3.90g(金は2.24g)です。 1871年に発行された、明治・最初の旧1円金貨は1.67g(金は1.50g)です。

(余談 :小判を金色に見せる工夫) 小判は金と銀の合金で、慶長小判は20Kほどですが、万延小判14Kほどです。 小判を作る最後の工程(?)で、薬品を用いて表面の銀を除去していました。 表面は金の含有量が多くなり、金色に発色します。 表面が擦り減ると輝きは低下します。(小判の表面には凹凸が有りますが)凹の部分は金色を保ちます。

(注記) 造幣局は純金を『24K』と、金含有量が75%の物に『18K』と表示する様に決めています。 『K18』とか『18金』と表示した物もありますが、造幣局の規定値よりも金の含有率が低いものが有るので注意が必要です。

(余談) 母の実家も山奥に有りました。 その村の古い家を、1960年頃に建て替えることになり、私の親戚の方が古家を壊すのを手伝っていた時の話しです。 梁(はり)の上から小判が十数枚落ちて来たそうです。 私は、「こんな山奥にも小判が流通していたのだ!」と驚きました。

【明治の最初の貨幣と為替】
 1871年(明治4年)に新し通貨”円”が制定されました。1両=1円=米1ドルとしたのです。その年から貨幣を発行し始めました。20円、10円、5円、2円及び1円金貨と、1円、50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨の10種類です。 (この時に発行された5銭銀貨は直径16.15mm、質量は1.25gしかありません。)

 明治政府は最初、金本位制として『金貨は国内流通用』、当時の世界では貿易の決済は銀でしたから『銀貨は貿易用』と考えていた様です。然し、貿易赤字が続いたために多量の金貨が海外に流失してしまいました。 困った政府は、1878年(明治11年)に銀貨の国内流通を認めました。→実質的には金銀複本位制になりました。

 江戸時代の貨幣制度では、1両=4分=16朱=4,000文で、1文銭と4文銭が有りました。1871年には、5銭未満の貨幣は発行されませんでした。 1両=1円とすると、5銭=200文になりますから、5銭はかなり高額の貨幣です。 その為、2年間ほどは江戸時代の一文銭や4文銭を使ったのです。 1873年(明治6年)に2銭、1銭、半銭と1厘銅貨が発行されました。

注記:1) 新貨幣制度の単位は、 1円=100銭=1000厘(りん)です。 1厘=10毛(もう)ですが、毛単位の貨幣を私は見た事が無いので、発行されていないと思います。

注記:2) 1871年(明治4年)に発行された貨幣の内、20円、5円、2円金貨と、1円50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨は年号が『明治三年』になっています。

注記:3) 1871年に、1円は金貨(φ13.51mm、1.67g)と銀貨(φ38.58mm、26.96g)の2種類が発行されました。金貨:銀貨=1:2程の割合で発行されました。発行総数は550万枚程です(550万両に相当します。) 当時の1円は現在の1万円札よりもずっと高額でが、こんな小さな貨幣では紛失する恐れが有るので、(政府の方針に反して)「1円銀貨は国内でも流通していたのでは?」と私は考えています。(ちなみに、1円アルミ貨はφ20mm、1gです。)

【荒野の用心棒の時代】
 クリント・イーストウッドが主演したマカロニウエスタンは、明治維新より少し前(1865年)くらいの話しです。 当時の1ドルは、現在のアメリカの価値で25,000円~30,000円ほどの様です。 『許されざる者』で娼婦達が、ならず者・二人に掛けた懸賞金は1,000ドルでした。

 落語の『時そば』は、二八=16文(0.004両)です。 ”ちくわ”だけが入った”かけそば”を食べたのです。 蕎麦の価格をベースにして、江戸時代の一両を現在の価値に換算すると100,000~130,000円ほどになるそうです。 昔の通貨の価値を換算する時、何をベースにするか?によって値が大幅に違います。

【記念硬貨】
 1964年(昭和39年)の東京オリンピックから記念硬貨(100円と1,000円)が発行される様になり、近年は特に多いいです。 興味の有る方は、造幣局のホームページの『記念貨幣一覧』で検索して下さい。

 記念硬貨は、①金融機関で両替する、②造幣局からの発行予定案内に応募して当選した人に送る、2種類の方法で発行しています。 大体、高額の物は②の方法でしか入手出来ません。

 2019年までに発行された金貨の記念硬貨だけでも、10種類あります。 最初は、1986年と87年(昭和61年と62年)に天皇陛下御在位60年記念の十万円硬貨です。 バブル景気が始まる前でしたが、日本は豊になっていたのだと思います。2年間で1,100万枚(金額にすると1.1兆円)発行されました。

 2004年(平成16年)の国際博覧会記念の一万円硬貨から、刻印金額の10倍以上の金額で頒布される様になっています。 これらの硬貨を金融機関で両替しよとしたら、一万円にしかなりません。 最近の金の価格は1gが6,000円程ですから、金として売ったら15.6×6,000=93,600円になります。 記念硬貨は流通通貨では無くて、コイン商を儲けさせる『商品』なんです。

昭和61、62年 30mm、20g 純金 :天皇陛下御在位60年記念 :100,000円
平成2年  33mm、30g 純金 :天皇陛下御即位記念 :100,000円
平成5年  27mm、18g 純金 皇太子殿下御成婚記念 :50,000円
平成9年  27mm、18g 純金 長野オリンピック :50,000円
平成16年 26mm、15.6g 純金 :国際博覧会記念 :10,000円
平成21年 28mm、20g 純金 :天皇陛下御在位20年記念 :10,000円
平成27年 26mm、15.6g 純金 :東日本大震災復興事業記念 :10,000円
平成30年 26mm、15.6g 純金 :東京2020オリンピック競技大会記念 :10,000円
平成31年 28mm、20g 純金 :皇陛下御在位30年記念 :10,000円
平成31年 26mm、15.6g 純金 :ラグビーワールドカップ日本大会 :10,000円

(注 :自動販売機) 日本銀行は、「自動販売機で使用出来ない記念硬貨が有るので、その場合は金融機関で両替して下さい」と言っています。

(余談) 親戚に記念硬貨の収集をしている方がおられるのですが、彼は今でも超多忙なので、家内と私が手分けして金融機関での両替や造幣局への応募をしたりしています。去年、発行された『天皇陛下御在位30年記念』の500円硬貨は500万枚も発行されたのに、金融機関を走り回りましたが、超人気で30枚ほどしか入手出来ませんでした。 明仁上皇(平成天皇)の人徳で、記念硬貨が飛ぶように捌けたのだと思います。 近年、発行された東京オリンピックの100円・記念硬貨は余り人気が無かったのか、金融機関に沢山残っていたので、360枚入手出来ました。 36,000円分で1.7kgも有り、とても財布には入りませんでした。

(余談) これは、1988年頃の話しです。 仕事が出来て、無理な依頼をしても必ず期日までにやってくれる社員がいました。 彼は何時も財布に十万円の記念硬貨を入れていて、時々見せてくれました。彼の欠点は『大酒飲み』で、ある夜・姫路で飲んで清算しようとしたら現金が足りなかったのだそうです。十万円硬貨で払おうとしたら、受け取って貰えず、十万円硬貨は質にも取ってくれ無かったので、時計を置いてきたと言っていました。

我が家の芋粥(いもがゆ)

2020-01-11 11:12:06 | 園芸
 今回は、私の大好物の”芋粥”とジネンジョ掘りの話しです。 我が家の・お嫁さん二人に芋粥を食べて貰って、感想を聞きたかったのですが、二人とも食べた事があり、「好きですが、噛めないので胃を悪くしますね」と言いました。 (我が家の芋粥は、まだ食べて貰っていません。) 芋粥を食べたら、必ず胃薬を飲んで下さい。

【芋粥が大好物です!】
 我が家では、ジネンジョかツクネ芋を擂鉢で擂って、出汁(だしじる)を加えて、少量の御飯に芋汁をタップリ掛けたのを”芋粥”と呼んでいました。 父の大好物で、私も好きです。 何故か?母と姉達は殆ど食べませんでした。

 家の東側の石垣の上に馬酔木(アセビ)の垣根が有り、父はその根元でツクネ芋を育てていました。収穫する為には、石垣を壊す必要が有りましたが、父は他の場所では育てませんでした。 ジネンジョ堀りは、私の仕事でした。 小学低学年の頃から、近くの2才年上の男子について急な山に入り、掘って来ました。 父は、何時も喜んでくれました。

 結婚後、家内が私の母の味で”芋粥”を作ってくれる様になって、うす塩の干し”うるめいわし”を添えてくれる様になりました。 『芋粥+うるめいわし』は絶品です!

(余談 :故郷の茶粥) 紀州では、ほうじ茶か番茶で少量の米を炊いたのを『茶粥(ちゃがゆ)』と呼んで、今でも人気が有ります。 私の故郷では、『おかいさん』と呼んでいました。 戦後の食糧難の時代には茶粥に薩摩芋を入れていました。それを、近所の家では『芋粥』と呼んでいました。

(余談 :番茶) どの家でも、畑の周囲に茶を植えていて、新芽を摘んで”お茶”を作りました。集落の数軒が大きな釜を持っていて、庭に仮設の竈(かまど)を築き、何軒かの主婦たちが協力して一年分の”お茶”を作ったのです。 茶葉の水分を飛ばしたら”番茶”になり、さらに過熱する(焙じる)と”ほうじ茶”になります。 私の集落では”番茶”を作りました。 茶摘みには子供達も参加しました。

【芥川龍之介の芋粥】
 私は少しませていたので、姉が借りてきた芥川龍之介の『芋粥』を小学五、六年生の時に読みました。 我が家の芋粥を食べながら、”五位”を想像しました。 ずっと後になって知ったのですが、五位が好きだったのは、植物を煎じて作った甘い汁で、ジネンジョを煮たものだった様です。 (私は食べた事が有りませんが、多分好きにはなれないと思います。)

【飯屋のトロロ定食】
 入社後、結婚するまでの4年間ほど寮生活でした。バスや電車が無くなる時間まで働いて、30分ほど掛けて歩いて寮に帰る日が多かったのですが、途中に遅くまでやっている小さな飯屋が有って、何時も『トロロ定食』を頂きました。

 米と麦を混ぜて炊いたご飯(麦御飯)に、粘り気の強いヤマノイモを擂って出汁に溶かした物を少量掛け、焼き鰯、味噌汁、沢庵が添えられていました。 母の作ってくれた”芋粥”とは全く違う物でしたが、鰯が良く合っていました。 

【ヤマノイモ】
 ヤマノイモ科に属する食用の芋には、大きく分けて4種類有ります。 地方によって呼び名が違うので、”ややこしい”です。 私の故郷では、ジネンジョを『ヤマイモ』とか『ヤマノイモ』と呼びます。 近所に鳥取県出身の方がおられ、毎年12月になると「到来物のヤマイモです」と言って、スーパーで売っている”ナガイモ”とソックリの芋を頂きます。 粘り気が非常に強く、子供の頃に食べたジネンジョの様に美味しいです。 (私は、ジネンジョを栽培した物ではと思っています。 ”芋粥”にして頂いています。)

 ヤマノイモ科は雌雄異株です。 白い小さな花が咲きます。 ジネンジョとナガイモには種子が出来、種子から育てる事も出来ます。 種子は、風で飛びそうな形状をしています。 (ツクネ芋とイチョウ芋は雌株しか無いので、種子は出来ません。)

 ツクネ芋以外は、蔓に沢山”零余子(むかご)”を付けます。(私は、ツクネ芋の零余子を見た事が有りません。)

① ジネンジョ(自然薯) :雌株+雄株が有り→種子、零余子(ムカゴ)が出来ます。
② ツクネ芋 :雌株のみ、零余子(ムカゴ)は殆ど出来ません。
③ イチョウ芋(大和芋) :雌株のみ、零余子(むかご)が出来ます。
④ ナガイモ(長芋) ::雌株+雄株が有り→種子、零余子(ムカゴ)・・・スーパーで売っています。

 粘り気が最も強いのは、ジネンジョで、その次がツクネ芋です。 ジネンジョは、赤土で育ったのが一番美味しかったと記憶しています。(赤土には殆ど肥料分が無いのに不思議です!)

【ジネンジョの繁殖と成長】
 ジネンジョは種子とムカゴ、何方でも繁殖します。山の上の方でも自生していますから、種子は遠くまで飛べるのでしょう。 ムカゴが地面に落ちて、次の春、芽を出したとします。 蔓が近くの木の幹に絡みつき、上へ上へと伸びて行きます。葉が太陽の光に当たる所まで蔓が伸びると、芋が成長し始めます。これが、次の年の親芋になります。 11月の中旬から葉が枯れ始め、12月頃には蔓も枯れて、蔓は根本からバラバラになって、地上に落下してしまいます。

 次の年に親芋から芽が出て、親芋に蓄えた養分を貰って蔓が成長します。蔓の付け根に新しい芋が出来て、親芋の横を下へ下へと成長します。 秋ごろには、親芋は殆どの養分を蔓に与えて、皮だけになってしまいます。 新しい芋は、親芋よりも地下深くまで伸びて、太くなります。 (人間の一生に似ていますね!)

 何年かすると、蔓は太くなり、芋は2メートル近くまで長くなります。 平地で深さ2メートルの穴を掘るのは難しいですが、急な斜面なら長い芋を比較的簡単に掘り出せます。

【ジネンジョ掘り】
 私は、和歌山県の山村で育ったのですが、11月頃になると、男の子供達が山に入ってジネンジョを掘りました。 (私の集落では、大人はジネンジョ堀りはしませんでした。) 2メートル近い芋は、せいぜい一日に1本か2本しか掘れません。 私は、何時も芋の一番上の方を30cmほど折って、穴に埋め戻してやりました。 親芋になって、次の年から又、成長してくれます。

 小腹が空くとムカゴを食べました。 喉が渇いたら、谷の水を手で掬って飲みました。 食べ物を得る遊びは、”しんどくても”楽しいかったです!

(余談 :蛇の冬眠) 蛇や蛙が冬眠する事を学校で教えて貰ったと思いますが、殆どの人はドンな状態で、ドンな所で冬眠しているか?ご存知無いと思います。ジネンジョを堀っていたら、時々・蛇や蛙が出てきました。 蛇の直ぐ近くに蛙が冬眠している事も有りました。 「来年、目が覚めたら”こいつ”を食ってやろう!」と蛇は目論んでいるんだと、年上の子供は言ったいました。 多分、嘘です。 (元気な蛇は殺して遊びましたが、動かない蛇と蛙を見付けたら、何時も直ぐに穴を掘って、埋めてやりました。)

(余談 :川石) 山の上の方でジネンジョを掘っていると、丸くなった”川石”が所々に落ちていました。 大昔は、この付近を川が流れていたのだと、知る事が出来ました。 「どれだけの年月を掛けて、あんな下の方を川が流れる様になったのかな?」と、自然の力の大きさに感動しました。

【ジネンジョ掘りの名人】
 四歳年上の男性が、私が育った集落の最長老になっています。彼は、小学生の頃からジネンジョ堀りの名人でした。 2メール近いジネンジョを、傷一つ付けないで、木に括り付けて持ち帰っていました。 町から、ジネンジョを買い付けに来る人に売って、小遣い稼ぎをしてたのです。 (私達が掘った物には、必ず傷が有ったので、買い取って貰えませんでした。)

 ジネンジョは周囲の岩や石を避けて、前後左右に曲がって成長します。 スーパーで売っている様に、真っすぐい棒の様では無いのです。 断面は丸かったり、平べったかったりするので、気を付けながら掘っても、傷を付けてしまいます。 名人に、何回も弟子入りをお願いしたのですが、結局・一回も連れて行って貰えませんでした。

【ツクネ芋を栽培しています。】
 我が家の居間の窓の下に、二坪ほどの小さな花壇が有ります。 (我が家では『ハタケ』と呼んでいます。) 夏季は胡瓜かゴーヤを植えてグリーンカーテンにしていました。(冬季は玉葱を育てて来ました。) 連作障害か(?)、胡瓜は生育が悪くなりました。 ゴーヤは今でも元気に育つのですが、家内も私もゴーヤが余り好きで無く、近所に配っても、喜んでくれる方が少ないので、数年前から”ツクネ芋”を育てています。

 ツクネ芋を育てるのは意外と簡単です。 グリーンカーテンにはなりますが、11月頃まで葉が枯れないので、少し問題です。

 最初の年は、スーパーから小ぶりのツクネ芋を2個買ってきて、それぞれ四等分して、大きなプランターと”ハタケ”に分けて植えてみました。 11月に掘ってみると、プランターの方はスーパーで買って来た物より小さかったですが、地植えした方は結構な大きさになっていました。

 一番大きかった芋を擂り下ろしていたら、黒っぽく変色して来ました。多分、灰汁(あく)が強いのだと思い、少し食べて見ましたが美味しく有りませんでした。 インターネットで調べたらツクネ芋には、余り肥料を与えたら駄目と書いていました。 次の年から、発酵油粕の固形肥料を少量、年に1回だけ与えています。

 去年、芽の出る前(3月頃)に、ハタケに植えた1個が猫に掘り起こされ、乾燥して萎びていました。駄目元で埋めたら、芽が出て、スクスクと育ち、大きな芋になっていました。 植物の生命力の強さには、時々驚かされます。

 ツクネ芋にも連作障害が有る様ですが、今の所、生育は順調です。 「土に有機物が沢山入っているためか?」と勝手に判断しています。 病気は一度も発生していません。 毎年、蛾の一種のキイロスズメが葉を食べます。 薄い草色の保護色ですが、大きな黒い糞を落とし、私の中指ほどの大きさになるので、簡単に見付ける事が出来ます。 一度・徹底的に退治すると、(我が家の場合は)その年はもう発生しません。

【我が家の”ハタケ”】
 家の西側の半分と南側に幅1メール、東側の半分に幅2メールほどの花壇を作っています。そして、居間の窓の下に”ハタケ”が有ります。 40年ほど前に家を建てた時、周囲に畑が沢山あり、毎年、少しずつ家が建ちました。 不要になった畑の土を頂いてきて、花壇と”ハタケ”に入れました。 レンガを沢山買って来て、最初は横に寝かせていたのですが、土が増えてきたので今ではレンガを立てています。 特に”ハタケ”は水はけを良くするために、レンガを二段に立てて、庭より40センチ以上・土を盛り上げています。

 家内は花が好きなので、最初の頃は一年草の花や、紫陽花等を化学肥料で育てていました。(家内は”土弄り(つちいじり)”が嫌いな方なので、花壇の手入れは私の担当です。) 数年もすると、ミミズや蝉の幼虫が殆どいなくなってしまいました。 以来、化学肥料は出来るだけ少なくして、バーク堆肥、骨粉、発酵油粕で育てています。(時々、魚粉、牛糞、鶏糞も使います。)

 竹村電機製作所の土壌酸度測定器でペーハー(PH)の管理もしています。 PH計は4,000~8,000円程で入手出来ます。 化学肥料を多用される方には、お勧めします。

金正恩は賢いのか?

2020-01-04 13:41:48 | 天皇制
 今年は、北朝鮮とイランで何か起こりそうです。 今回は、北朝鮮の金正恩へのアドバイスのつもりで書きました。 トランプ大統領は、「金正恩は約束を守る、賢い人間だ」と言っていますが、貴方はどう思われますか?

【私の持論を変える必要が有りそうです】
 私は、昨年まで「金正恩は、アメリカに終戦条約を締結させる為に、核兵器や長距離弾道ミサイルを開発している」、「終戦条約を結べたら、核兵器や長距離弾道ミサイルを破棄する」と考えていました。 昨年の言動から、『次の二点をアメリカに認めさせた上で終戦条約を締結し、経済制裁を解除させる」と考えている様に思います。

① 新たな核兵器や長距離弾道ミサイルの開発は行わないが、現有の物は廃棄しない。
② 恐怖政治による統治には干渉しない。

【金正恩に自制を求めます】
 2019年12月の年末に、四日間も朝鮮労働党中央委員会を開催し、『新たな戦略兵器』とか『衝撃的な実際行動』とか、内外に威勢の良い発信をしました。 評論家は次の様に予想しています。

① 今年の軍事パレードで、強力な新兵器を公開する。
② 人口衛星の打ち上げと称して、射程10,000km以上のロケットを打ち上げる。
③ 射程10,000km以上の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を発射する。
④ 射程2,000km程度の、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の実験をする。

 ①か④のケースであれば、アメリカは殆ど問題にしないと思われますが、②か③のケースでは、経済制裁を更に厳しくしようと動く可能性が有ります。 (核実験の再開の可能性は低いと、私は思います。)

 ②か③の行動に出たら、二、三年の内に経済制裁が緩和される事は無いでしょう。 「アメリカを脅して、屈服させる事は出来ない」のだと、金正恩に悟って欲しいと考えています。

【大店のボンボン】
 江戸時代の大店では、主人が亡くなると、大番頭や番頭さんが店を切り盛りしながら、世間知らずのボンボンに仕事を教えたり、アドバイスして育てた様です。 ボンボンが、煩いからと言って番頭さんを辞めさせた話を聞いた事が有りません。

 金正恩は27歳ほどの若さで、2011年に父の後を継ぎました。 2013年には叔父の張成沢を処刑し、父親に仕えていた重臣達を次々に粛清/排除してきました。 当時、評論家の一部は、「金正恩の後ろに権力を握った複数の長老がいて、彼を操っているのでは?」と言っていました。 今では、長老説は誤りで、金正恩の考えで恐怖政治とアメリカに対するチキンレースを進めていると考えるべきです。

 大番頭や番頭に相当するスタッフがいなくなっているので、金正恩を諫めたり、アドバイスする人がいません。 ボンボンは、海千山千のトランプや習近平と、一人で悩んで交渉しなければならないのです。 「相談する人が誰もいなくて、何時・反逆するか分からない取り巻きの中で、ボンボンは暮らしている」と想像して見て下さい! 正常を維持する事すら、難しいと思いませんか?

【徳川家康は!】
 尾張、紀州、水戸の御三家を設立する時、徳川家康と二代将軍秀忠は附家老(つけがろう)制度を採用しました。  附家老たちに幼少の藩主を支え、政務を執られたのです。 尾張藩の祖・義直は5才ほど、紀州藩の祖・頼宣は17才ほど、水戸藩の祖・頼房は6才ほどでした。

 附家老を準大名扱いとして、御三家の当主でも勝手に附家老を殺したり、改易出来なくしたのです。 金正日は、若く経験の乏しい金正恩を後継者に指名しただけで、金正恩を支える体制(集団)を設けませんでした。 金正恩が権力を確たるものにする為には、反逆する可能性が有る重臣達を粛清せざるを得なかったのかも知れません。

(余談) 私の故郷の田辺は、紀州藩の附家老の安藤家(38,000石)が明治になるまで治めました。 安藤家は国家老、新宮を治めた附家老・水野家(35,000石)は江戸家老、それぞれ役割を分担していた様です。 田辺には銘菓『三万五千石』が有りますが、創業者から直接聞いた話ですが、「三万八千石」にするか?「三万五千石」の方が良いか?悩んだそうです。

【北朝鮮の核兵器はアメリカの脅威?】
 金正恩は核爆弾と、それを運ぶミサイルはアメリカの脅威になると考えている様です。 マスコミ各社の論評も、脅威論で一致しています。 然し、私はその考え方には賛同しません。

 核兵器は使用出来ない兵器です。 敵国に攻めさせない為の兵器です。 但し、超大国が、核兵器を持たない弱小国に使用する事は出来ます。 例えばの話ですが、中国がタジキスタンに核爆弾を二、三発落としたとします、世界各国は非難の声を上げるでしょうが、軍事介入するとは思えません。 中国に経済制裁を科すのも難しいでしょう。 中国は常任理事国ですから、国連は殆ど何も出来ないと予想します。

 北朝鮮が、核ミサイルをアメリカや韓国に発射したら、数十倍の反撃を受けるのは必至(ひっし)です。北朝鮮にとって何もメリットが有りません。

 北朝鮮から屈辱的な非難をされても、韓国政府や国民の多くが黙っているのは、国境から近いソウルに人口と富が集中していると言う弱点が有るからです。 現有の北朝鮮の通常兵器だけで、十分・壊滅的な打撃を与える事が出来、核兵器は必要有りません。 韓国の方が圧倒的に豊かですから、「金持ち喧嘩せず」で、韓国から戦争を仕掛ける恐れは殆ど有りません。

【北朝鮮の潜水艦は脅威か?】
 北朝鮮が弾道ミサイルを発射出来る3,000トン級の大形潜水艦を建造したと報じられていますが、私は、殆ど使い物にならない試作品で、アメリカの脅威にはならないと考えています。

 水中の潜水艦を探知する技術が発達しています。
① ソナー(水中音波探知機:SONAR) :艦船や潜水艦に装備されています。
② 磁気探知機(MAD) :飛行機に装備されていて、空から潜水艦を監視します。

 日本周辺の海底には、ソナーの一種の水中聴音機が沈められていて、潜水艦が潜って通過しようとしても、感知される可能性が極めて高いのです。 アメリカ軍はソナーのデータ(音のデータ)を蓄積していて、艦船や潜水艦の国籍と機種を特定する(顔認証システムの様な)ソフトを持っています。(多分、自衛隊も持っています。)

 太平洋まで出れたとして、某国に魚雷で撃沈されても、北朝鮮が事故か?撃沈か?判断/証明する事は不可能です。

(余談) 常温常圧(25℃、1,013hPa)の音の速度(音速)は346m/sですが、水深1,000mの音速は1,482m/sもあります。 今・発生した音を、10秒後には15kmも先に沈められた水中聴音機にキャッチされてしまうのです。 津軽海峡の一番狭い幅は、20kmほどです。 日本の許可無しに、北朝鮮の潜水艦が通る事は不可能です。

【北朝鮮の恐怖政治は問題か?】
 連座制(一族諸共を罰する制度〉は、中国の殷の時代に始まり、朝鮮半島や日本にも伝わりました。 李氏朝鮮(1392年~1910年)では、儒教によって身分制度が厳格になり、下層階級の人は人間とは認められなかったのです。 刑罰は人間以下の動物に対して行うのですから、見せしめの為に公開され、想像を絶するほど残酷なものでした。 その一例が『凌遅刑(りょうちけい)』です。・・・『凌遅刑』で検索して見て下さい。

 1392年から現在までの約630年の内、北朝鮮で『連座制による恐怖政治』と、『惨い公開処刑』が廃止されたのは日本が統治した35年間だけで、600年間ほど続けています。 (北朝鮮は、李氏朝鮮の慣習を続けているだけなのです。) 二十一世紀の現在でも、北朝鮮の殆どの国民は、民主主義についての知識がなく、その素晴らしさを知らないで暮していると、私は想像しています。

 金正恩は、4年間ほどスイスに留学しましたから、「恐怖政治は時代遅れだ」と認識しているはずです。 然し、金王朝を維持する名分が有りませんから、他に方法が考え付かないのでしょう。

 最近、中国のウイグル人に対する圧政が少しだけ、国際問題になっていますが、トランプ大統領も文大統領も北朝鮮に非人道的な強制収容所の廃止を要求していません。 核兵器は『戦争抑止の兵器』で『使用する兵器』では有りません。 北朝鮮を核保有国と認めても”差し迫った問題”では有りませんが、北朝鮮の強制収容所では、毎日・罪の無い人達が死んでいます。

 国連の人権理事会は毎年、北朝鮮の人権問題を取り上げていますが、各国は具体的な動きをしてこなかったのです。 常任理事国の中国とロシアは、国連が人権問題で積極的に活動する事には反対するでしょう! 換言すると、北朝鮮の恐怖政治が国際問題に発展する可能性は極めて低いと思います。 (残念ですが!) 

(余談) 私は、北朝鮮の強制収容所の記事を読むと、何時も心が痛むのですが、北朝鮮の人民にとっては極当たり前の存在になっているのかも知れません。 韓国の大半の人達にとっても、たいした問題では無いようです。 韓国の人達が強制収容所の廃止運動をしない限り、存続し続けるでしょう!

【北朝鮮への投資】
 トランプ大統領が北朝鮮の核兵器と恐怖政治を認めて、経済制裁を全面的に解除し、終戦条約に署名したとします。 法律よりも金正恩の考えが優先される北朝鮮に、日本を含めた欧米諸国の企業が投資するでしょうか? 中国人は真っ先に投資しそうです。 多分、韓国の一部の企業も投資すると思われます。

(余談) 鄧小平の誘いに乗って、欧米の企業が中国に投資したのは、「中国が豊かになったら、民主化するだろう!」と安易に考えたからです。 「北朝鮮が法律を整備して、法治国家で有る事を証明しない限り、欧米諸国の企業は投資しない」と私は思います。 アメリカ人の青年オットー・ワームビアさんの事件を覚えていますか? 投資した企業の北朝鮮駐在員が、理由不明で拘束され、拷問される恐れが有ります!

 2019年から、中国とロシアは「国連の経済制裁を緩和すべきである」と主張しています。 北朝鮮が兵器の開発を止めて、アメリカを刺激する発言も止めれば、一、二年後に緩和される可能性が有ります。 そうなっても、法治国家で有る事を証明しない限り、投資するのは中国と韓国の企業だけでは無いでしょうか?