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陸奥宗光

2019-09-14 10:28:02 | 偉人
 今回は、私の故郷・紀州出身の偉人、陸奥宗光について書きます。陸奥は幕末から明治に掛けて種々の有名人達と親交が有りましたが、彼らの年齢を整理して見ました。最後に、私の独断と偏見で、和歌山県出身の有名人のベストテンを選んでみました。

【陸奥宗光の経歴】
 陸奥宗光は、1844年に紀州藩士の子として、現在の和歌山市で誕生しましたが、父親の失脚のため8歳で江戸に出て→勤王の獅子になり、→幕末から明治時代に活躍しました。

 陸奥宗光は、治外法権を撤廃した外務大臣としては、歴史の教科書に登場しましたが、明治の初期に紀州藩の改革に関係した事は、余り知られていません。外務大臣になって、日清戦争前後の難しい交渉を担当し、晩年に回想録『蹇蹇録」を書きました。

★ 1844年 :誕生 ;紀州藩の武士の子として現・和歌山市で生まれた。
★ 1852年 :江戸に出る(8歳) ;父の失脚のため
★ 1858年 :安井息軒に師事
★ 1863年 :勝海舟の神戸海軍操練所に入る。
★ 1867年 :坂本龍馬の海援隊に参加 (この年、龍馬は暗殺された)
★ 1868年 :明治維新 ;陸奥宗光は外国事務局御用係
★ 1869年 :下野→紀州藩に帰る→紀州藩の改革に参加
★ 1869年 :兵庫県知事
★ 1871年 :神奈川県令
★ 1872年 :地租改正局長
★ 1875年 :元老院議官
★ 1877年 :投獄 ・・・西南戦争関連の疑い
★ 1883年 :特赦によって出獄→イギリス留学
★ 1884年 :ロンドン着
★ 1886年 :帰国→外務省へ
★ 1888年 :駐米公使→駐米公使兼駐メキシコ公使
★ 1890年 :農商務大臣
★ 1892年 :外務大臣(1892年8月~96年5月)
★ 1894年 :日英通商航海条約⇒⇒治外法権の撤廃
★ 1894年~95年 :東学党の乱→日清戦争→下関条約
★ 三国干渉(フランス、ドイツ、ロシア)→1895年11月8日“”遼東還付条約“”
★ 1895年 :蹇蹇録が完成・・・→1929年出版
★ 1897年 :陸奥宗光没(53歳)
★ 1897年10月 :李氏朝鮮→大韓帝国
★ 1910年 :韓国併合

【紀州藩の改革】
 紀州藩は御三家の一つですから、1867年に慶喜が大政奉還したあと、恭順の意を示す必要が有りました。紀州藩主の徳川茂承は、勤王の獅子だった陸奥宗光を呼んで、恭順の示し方について意見を聞きました。(二人は同じ年齢でした。) 茂承は「領地の一部を差し出す等の案」を提示し、宗光は親交の有った坂本龍馬の”船中八策”を具現化する様な思い切った藩政の大改革を提案しました。

 津田出(つだ いずる)が陸奥宗光と相談しながら、紀州藩の制度改革を行ったと私は見ています。幕末の島津藩の様に西洋技術の習得を目指したのでは無く、封建体制の改革でした。武士が特権を失う訳ですから、難しかったと思われます。 同時に、藩主は独裁的な権力を自ら放棄したので、廃藩置県後の各藩の藩主達と同じ様になったのです。然し、保守派の巻き返しによって、改革は頓挫した様です。

★ 徴兵制・・・プロシア式の洋式軍隊を創設 → 明治政府は1873年に徴兵制を導入
★ 藩治職制 →政治府(藩政府)の下に→公用局、軍務局、会計局、刑法局、民政局を設けました。藩主の生活費は、多分、政治府から支給される様にしたのだと思います。
★ 郡県制度 → 明治政府の廃藩置県へ
★ 封建体制の大幅縮小 →無役の武士の石高を大幅に削減

(庄屋制度を→郡県制度) 江戸時代、農民の庄屋や、町民の町名主が幕府や各藩から委託された形で、その地方を治めました。戊辰戦争で負けた藩では、直ぐに庄屋制度は廃止されました。紀州藩は戊辰戦争で新政府側でしたから、多分、より一層恭順を示すために「郡県制度」を導入して、庄屋制度を廃止したのでは?と想像します。

(余談) 津田出は保守派によって失脚させられましたが、明治政府に認められ、大蔵少輔(大蔵副大臣の様な職)→陸軍少将→元老院議官になりました。

【蹇蹇録(けんけんろく)】
 蹇蹇録は岩波文庫や中公新書などで入手出来ます。私は岩波文庫の『新訂 蹇蹇録』を所有しています。若い人達に読んでもらうには、翻訳が必要かも知れません。

 国会議員や外務省を目指している若者には必読の書だと、私は思います。

 蹇蹇録の副題は”日清戦争外交秘録”となっています。東学党の乱→日清戦争→下関条約→三国干渉→遼東還付条約締結までの、外務大臣だった陸奥宗光の回想録です。外交の裏話のため、脱稿から30年以上は秘密にされ、刊行されたのは1929年です。

 当時はまだ、欧米諸国やロシア、中国(清朝)でさえ、『隙あらば他国を侵略して植民地化しよう!』と虎視眈々と狙っている時代だったのです。李氏朝鮮でも、改革して植民地化を逃れようとする人達がいましたが、保守勢力が強くて改革は殆ど進みませんでした。日清戦争によって、清国は弱体化し、李氏朝鮮は『大韓帝国』と国号を替えましたが、改革は進まず、1910年に日本に併合されたのです。

(フィリピンの例) フィリピンは1565年~1898年まで、300年以上スペインの植民地でした。スペインは弱体化して1898年にフィリピンを2,000万ドルでアメリカに売り渡しました。アメリカの植民地になったわけです。1941年に日本軍がフィリピンに上陸し、アメリカを排除しました。1945年に日本軍の撤退の後、アメリカの自治領になり→1946年に共和国になりました。その後、アメリカの影響下から抜け出したのです。

【王政復古時の年齢】  1868年1月3日
 幕末から明治初期に活躍された人達は皆若かったですね! 王政復古の時(1868年時点)の年齢を、ご参考までに書いて置きます。坂本龍馬は前年に暗殺されましたが、生きていたら『32歳』でした。

★ 明治天皇   :15歳
★ 陸奥宗光   :23歳
★ 西郷隆盛   :ほぼ40歳
★ 大久保利通  :37歳
★ 伊藤博文   :26歳
★ 木戸孝允   :34歳 (桂 小五郎)
★ 大村益次郎  :43歳
★ 勝海舟    :44歳
★ 後藤象二郎  :29歳
★ 板垣退助   :30歳
★ 三条実美   :30歳
★ 岩倉具視   :42歳
★ 徳川慶喜   :ほぼ31歳

(新暦・旧暦) 明治6年(1873年)から太陽暦(グレゴリオ暦)を使用することになりました。明治5年の12月3日を明治6年1月1日としました。従って、それ以前の西暦表記には旧暦と新暦換算が混在しています。上記の年齢はウイキペディアに記載された”生まれた年”をベースにして、私が計算しました。±1歳の誤差は御容赦願います!

(余談) 新暦を使用する事にした理由は、①公務員の給料削減、②公務員の労働日数を増やす為だったのです。旧暦だと、明治5年は12ヶ月、 閏年(うるう年)の明治6年は13ヶ月でした、明治5年の12月3日を明治6年1月1日としたので、明治5年の12月は二日間だけすから、この月の給料は支給しなかったのです。新暦にすると、明治6年の給料は12回払えば良い事になりますから、2年間で2ヶ月分の給料が節約できたのです。

 江戸時代は、五節句と盆暮は休日で、大店(おおだな)では月に3日の定期的な休日が有った様です。(無役の下級武士は殆どの日が休日でした。) 明治になると、公務員は毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日が休日だった様です。1976年に、公務員は土曜はハンドン、日曜は休日になりました。

【和歌山県出身の有名人】
 紀州出身の有名人は少ないです。紀の川や有田川の方は、まあまあ頑張る人が多いい様ですが、私の故郷の南紀は温暖で海の幸も山の幸も豊なので、「頑張る必要が無い」と地元の人達さえ言っています。 私が独断で有名人のベスト10を選びました。番外は、ベルリンオリンピックの前畑秀子と武蔵坊弁慶です。

 8番目に挙げた島正博氏は、私の”灰色の脳細胞”では取り組めそうにない編機の分野で、沢山発明/開発された方です。全自動手袋編機→・・・→完全無縫製横編機。 技術屋の端くれとして、私は尊敬しています。

① 陸奥宗光
② 南方熊楠 :私は2018年8月11日に『南方熊楠は町の誇りでした』を投稿しました。興味が有ったら読んで下さい。
③ 松下幸之助 :紀州には良い思い出が無かったのか!? 幸之助は、和歌山県には工場を建てませんでした。
④ 西行法師
⑤ 下村観山 :私は絵画が好きなので、画家を二人選びました。
⑥ 川端龍子
⑦ 佐藤春夫
⑧ 島正博 :島精機製作所創業者
⑨ 竹中平蔵
⑩ 片山哲 :第46代内閣総理大臣 ;私の高校の大先輩なので、思想は違いますが選びました。

 西行法師の享年は72か73だった様です。私はそれ以上に生きそうです。『ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月のころ』



南方熊楠は町の誇りでした!

2018-08-11 10:39:13 | 偉人
 高校2年のある授業の最初に、先生が開口一番「このクラスには南方熊楠の親戚のものがいる」と言われ、南方熊楠の話しをしてくれました。町の子供たちはほとんど南方熊楠を知っていたと思いますが、私は山奥の生まれで聞いた事のない名前でした。

【町の人から聞いた話】
 南方熊楠さんには収入が無かったので、旦那衆達がお金を用立てたらしい。尊敬する大先生にお金をあげる事は余りにも失礼なので、貸した事にしたらしいです。

 貸した方は、はなから返してもらおうと思っていなかったし、南方熊楠さんには返すあてなど無かった。「借金の返済をもう少し待ってほしい」という手紙を出し、貸した方は今でも”その手紙”を大事に持っている。

【家内の実家に南方熊楠からの手紙が有りました】
 結婚してまもなく、義母が「家には南方熊楠さんからの手紙がある」と言って、出してきました。「借りた金を返せなくて申し訳無い、もう少し待ってほしい」と言う様な手紙が複数ありました。
 町の人から聞いていた事は本当だったのです!

 家内の実家から南方邸までは、歩いて数分の距離です。義父は催促に行かなかったので、南方熊楠は手紙を書いたのだと私は推察しました。
 その手紙は、今でも義理の兄が大事に保管しています。

【南方熊楠と田辺市】
 南方熊楠は和歌山市の出身で、1904年(明治37年) からは田辺市の借家で研究を続けたようです。 この頃は、37歳くらいで、まだ独身でした。

 既に、有名な博物学者で、町の人達の”誇り”だったようです。一生、町の研究者でしたから、収入は殆ど無かったと思われます。

【南方熊楠の墓石】
 紀伊田辺駅から北西に約1km程の所の、”高山寺”に『南方熊楠墓』と彫られた一際目立つ墓石があります。 (駅からタクシーだとすぐです。)

 この墓石のすぐ近くに親戚の墓が有るので、私は何回か『南方熊楠墓』前まで行きました。

【ネイチャーと南方熊楠】
 自然科学の研究者は、英国の学術雑誌”ネイチャー”に論文がのる事が夢だと思いますが、南方熊楠の論文は51点も掲載されているそうです。(出典:ウィキペディア)

【エピローグ
 十年程前に親戚が集まった席で、「南方熊楠は借金を払わないで死んだ!」と言うのを聞いて、私は皆に聞こえるように”大きな声”で、ここに書いた話をしました。 年月を重ねると、話はとんでもない方向に歪められてしまうものですね! 当時の旦那衆達の”心意気”が曲解されない様に、このプログを書きました。