これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

社会人になってからの勉強 (その5)

2020-08-15 10:18:35 | 勉強
 今年の6月27日以来、「私がどんなにして勉強して来たか?」、長々と書きました。今回が最終稿です。

【有機農業用の機械を開発した経緯】
 私が有機農業に取り組んだ経緯は、2019年8月17日のブログ『紙の話し (その2-1)』に書きました。少し補足説明をしておきます。

 水を使わないで古紙を解(ほぐ)して綿状にする『エコパルパー』と言う機械を開発していた時、大きくて丈夫な布製の袋が必要になり、業者を探していました。 「袋を作らせて欲しい」と言って、少し胡散臭い老人(HK氏)と、私と同年の女性(KY女史)が来社されました。 二、三日して、私が勤務していたK社の秘書室から「KY女史に是非とも仕事を出して、面倒を見て欲しい!」と電話が有りました。

 調べて見ると、「KY女史は、昔・神戸の花隈に有った高級料亭の娘さんでした。その料亭は、K社の最大派閥の重役達が密談する場所だった」のです。 (料亭での密談の内容は、『島田文六著・”失権”・幻冬舎』に生々しく書かれています。) 私はHK氏の工場(?)に行ってみました。KY女史が一人で袋を縫ったりして、働いていました。HK氏は、KY女史が親から貰った遺産を少しずつ出させて、何とかやっている様な状態でした。HK氏は”嘘”と”真実”の模様を巧妙に散りばめた”大風呂敷を広げる”タイプの人間で、私の一番嫌いな人種でした。 私から見ると、「女性から金を貢がせる紐(ひも)」の様に見えました。

 ある日、HK氏とKY女史が来社されて、「大手製鉄会社(K社)が開発している機械を見て、アドバイスして欲しい」と私に懇願しました。 これが、雑草を堆肥化する『植繊機』の開発を始めた切っ掛けです。植繊機に付いては、2019年8月24日のブログ『紙の話し (その2-2)』を参照願います。

 HK氏は誤解していましたが、上司の部長と私にとっては「HK氏は”どうでも良い存在”で、KY女史を助けたかった」のです。 HK氏は、殆ど利益の出そうにない仕事を細々とやっていたので、商売が成り立つ様にして、KY女史の持ち出しをなくして遣りたかったのです。 部長の許可を得て、私は植繊機の開発を始めました。

 植繊機の開発は4カ月程で完了しました。KY女史にBK社を設立してもらい、私が3台程のロッドで植繊機を製作し、BK社で販売した事にして、マージンが取れる様にしました。

【有機農業の勉強】
 植繊機を、(株)クボタが全国で開催する農機具の展示即売会に出展させてもらいました。HK氏は植繊機を売るよりも、『HK有機農法』を売り込むのに熱心でした。 私は半農の様な家で育ったので、HK有機農法に”嘘”が散りばめられている事が分かりました。

 私は、「K社と一緒に事業をやっているのだから、非科学的な農法を話さないように!」と、HK氏にお願いしました。 『HK有機農法』の”嘘”を見抜くために、私は200冊ほど農業関係の本を買って、勉強しました。島根大学の教授が趣味で有機農業に取り組まれていたので、二回教えてもらいに行きました。

 HK氏が、「有機農業を始めたのは、A.G.ハワードの『農業聖典』に感銘を受けたからだ!」と言われるので、苦労して養賢堂が戦後直ぐに出版した『農業聖典』を入手しました。 (養賢堂版の入手は難しいですが、日本経済評論社や日本有機農業研究会が出版した翻訳本は、現在でも入手出来ます。)

 HK氏経由で田圃の一部を借り、HK氏の指導で(減農薬)有機農業をやってみました。田圃の所有者が畝違い(隣の畝)で同じ作物を化学肥料を使って育てたので、比較実験が出来ました。 HK氏が、「肥料過多が一番悪い!」、「土が濁らない様に水を撒け!・・・と細かく指導してくれました。 隣の畝に病気が発生しても、私達の作物は大丈夫でした。 数種類の作物を育てて見ましたが、スイカは甘く、大根とホウレン草は姿形(すがたかたち)が違いました。大根は水分が少なく、私の子供の頃の大根の様でした。

(余談) 植繊機を持って長野県、熊本県など数県の農家にPRに行った時、農家の奥さん達に「有機農業をやっているか?」と聞いてみました。 皆さん異口同音に「孫達に送る野菜は有機農業で、販売するのは化学肥料で育てている」と言いました。

【武者修行に出る事にしました!】
 1995年に阪神・淡路大震災が発生し、K社は大きな被害を受けて、研究・開発費を大幅に削減する事になりました。 私達の開発も中止する事になり、私は「子会社に出向する様に」と言われました。 子会社の数社が、「私を遣せ」と取り合いをしてくれたのです。 人事部が困って、「私に出向先を決めろ!」と言ってきました。私は、「全ての子会社の社長を、よく存じ上げているので、決める分けにはいかない。当社と無関係な会社に出向したい!」と答えました。

 私は機械技術者として自信が有りましたが、「自惚れかも知れない?」とも思いました。 それで、宮本武蔵の様に武者修行に出る事にしたのです。

 子会社3社は、破格の条件を提示してくれていました。その会社に出向して、期待に沿える仕事が出来たら給料も地位も少し上がる可能性が有ったのですが、「経験の無い分野で、技術を磨く」ことの方が私にとって魅力的でした。 K社と無関係の会社に出向すると、定年まで給料をK社が出してくれますが、昇給も昇格も無いのです。

(余談) 結局、K社の身勝手な都合で、私は数社に出向しました。社長が認めてくれて重役待遇にしてくれた会社も有りました。グリーン車を使って良い。「月30万円の限度内で個人的な買い物をして良い」と言ってクレジットカードを渡されたりしました。 結局、クレジットカードは使いませんでしたが、席を取るのが難しい時は、グリーン車に乗りました。「自惚れでは無い!」事が証明出来て、素晴らしい人生が送れました。

【製紙機械】
 1996年に最初に出向した会社(N社)は製紙機械の設計/製造をする小さな会社でした。自転車で10分程の所に大きな製紙工場(SA工場)が有ったので、毎週の様に工場を見学させて貰いました。SA工場には規模が異なる3ラインがあり、分工場に原始的な小規模のラインが有ったので、製紙博物館で勉強するに等しかったのです。 前述の様にFFT(高速フーリエ変換器)を買って貰って、この工場で振動が問題になっている装置の設備診断をし、幾つか提案して好評を得ました。その後、沢山の工場で設備診断をして、本業の仕事を頂きました。

 当時・各製紙工場が、生産量アップ、省力化、品質向上などに積極的に取り組んでいました。製紙工場ではシーケンサー制御やタッチパネルが殆ど採用されていませんでした。 N社は社運を賭けて、技術革新に取り組もうとしている所でした。私は先ず、SA工場の一番大きなラインのワインダーと言う機械の大改造案を作成して、担当者達を説得する役をしました。

 製紙は24時間操業で、問題のワインダーは4人×4直=16人で運転していました。私達の提案は「自動化して2人×4直=8人にし、運転速度を50%程アップ→生産量をアップ、更に品質を向上させる」と言う素晴らしいものでした。SA工場では作業員を一名減らすと年間経費が1,000万円の削減になりました。私が製造コストを積算すると6,000万円程になりました。顧客には「2年間の経費削減分で買って欲しい!」と交渉していました。「本当に君の言う性能が出るのなら、16,000万円で良い」と言って頂いていたのですが、N社の社長が8,000万円で良いと強く言うので、その金額になりました。

 私達の提案は”良いとこ尽くめ”ですから、”眉唾物”と思われがちです。性能が出ても”いちゃもんが付く”と予想したので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の運転状況を撮影して置くことにしました。(大阪の)日本橋の電気店に行くと、SONYが新発売のビデオカメラのキャンペーンをしていました。薄暗い所でも鮮明な画像が得られる優れ物でした。かなり高価でしたが買って帰ると、社長以下・全社員に怒られました。二、三日するとSONYの社員が来社して、「不具合が有るから、ビデオカメラを返して欲しい、代品は一週間以内に持ってくる」と言うのです。次の日に社長が「ビデオカメラを貸してくれ」と言い出しました。「赤外線の機能が優れているので、薄着の女性を撮影すると素晴らしい映像が撮れたのに!」と残念がっていました。 (日頃・超真面目な社長が、結構・助兵衛だと分かって”ほっと”しました!)

 改造工事が完了して運転すると、私達の提案以上の性能が出ましたが、予想通りに「速度アップにはなっていない」と言い出したので、改造前後の映像を見せて納得してもらいました。

 私は2回、N社に勤務して足掛け8年ほど製紙機械に携わりました。製紙工場は3Kの職場と言って良い様な環境で、改造/据付工事が皆さんがお休みの正月、ゴールデンウイーク、お盆休みに行われる等々、厳しい面も有りましたが、やりがいの有る仕事が沢山出来ました。

【電磁誘導加熱】
 電磁調理器(IH調理器)を使用している家庭が増えて来ています。金属には永久磁石が”くっつく”物(磁性金属)が有ります。磁性金属の内部には、小さな!小さな!永久磁石が点在しています。 一方、磁性金属の周りにコイルを巻いて、電流を流すと『電磁石』が出来ます。

 電力会社から供給される交流電力は、東日本は50Hzで、西日本は60Hzです。電磁石に流すと、磁石の極が1秒間に50回又は60回変化します。この電磁石の近くに磁性金属製の物を置いておくと、内部の小さな磁石が”あっち向いたり”、”こっち向いたり”しようとして、金属の内部で発熱します。これが、IH調理器の原理です。

 私は、大手重電(ME社)の協力会社(TS社)に出向して、電磁誘導加熱とヒートパイプの技術を用いた『ヒートパイプ式均熱ロール』に携わりました。TS社には設計担当者は一人もいなくて、ME社から入手した図面で、細々とヒートパイプ式均熱ロールを作っていました。ヒートパイプに関する参考書は明倫館書店から沢山購入出来ました。 電磁誘導加熱に関する資料は殆ど入手出来無かったので、シミュレーションプログラムを作成して、実機の運転データーを入れて見て、試行錯誤で修正→完成させました。

 大手フィルム・メーカー(FF社)から、TD社が製作した均熱ロールを修理する仕事を沢山頂きました。 FF社は同一の仕様でTD社に作らせた200本以上のロールを所有していました。一つの製造ラインに、そのロールを20本(?)ほど使用していた様です。FF社は全てのロールの温度分布を測定した記録を所有していました。 右端の温度が高いのをAタイプ、中央部が高いのをBタイプ、左端はCタイプとしていました。FF社では試行錯誤して、3種類のロールを有る配置にすると素晴らしいフィルムが出来る事を発見していたのです。

 FF社から、「BタイプのロールをAタイプに改造出来ないか研究して欲しい!」と依頼があり、典型的な3種類のロールを送って来ました。分解して、コイルも全て解いて調べました。コイルを不均一に巻いた状態の発熱分布を予想するプログラムを作りました。 (『均熱』が売りですから、邪道ですが)顧客が希望する『不均一温度分布のロール』が製作出来る様になりました。

 ヒートパイプ式均熱ロールの断面模式図は『 http://www.hidec-kyoto.jp/heat_roll/shr.html 』で検索すると見れます。(ハイデック株式会社のホームページ)

【その他、色々】
 K社には子会社以外の会社に出向した社員の面倒を見る係が有り、私の最初の担当者は入社以来の知人でした。 3年ほど経って、悪評の高い担当者に代わりました。 彼は、私が最初に出向した会社(N社)から、悪辣な手段で私を別の会社に出向させました。私は、その後・経験した事が無い分野の仕事を次々とする事になりました。

 彼は、吉岡一門や佐々木小次郎・・・剣客を次々と見付けてきてくれたのです。 図面や書類を全て英語で作成する輸出プラントの仕事では、「私がギブアップして早期退職する」と彼は期待したと思われます。『その手は桑名の焼き蛤』で、武者修行中の私にとっては『願っても無いこと』でした。

 話が長くなりすぎるので詳細は省略しますが、出向してから、食品、清涼飲料水、製薬、フィルム等の業界向けの仕事をして、熱交換器の設計もやりました。15年間ほどの武者修行でしたが、新しい知識が必要になったので、専門書や論文を沢山読みました。

 K社では開発に1年間ほどの時間を与えてくれましたが、中小企業での開発は『受注開発』が殆どで、6ヶ月とか3ヶ月以内の開発が要求されました。 特許が取れる内容の案件が多々有りましたが、明細書を書く時間が有りませんでした。

 リタイアを決断した時、「もう十分やった!」、「武者修行に出て良かった!」と”つくづく”思いました。 「技術屋として悔いの無い人生を送れた!」と今でも思っています。

《アドバイス :ストレス発散》 私は、K社で仕事をしていた時も、出向してからも職場を転々としました。 普通は職場を変わるとストレスが溜まるそうですから、私の様な生き方は推奨しません。 何回も移動を命じられる様な事になったら、仕事よりも趣味を楽しんだりして、ストレス発散を最優先にすべきだと思います。

 「今・大学生の諸君は、多分75歳くらいまで働かなければならない」と思いますが、逆に、「75歳まで働ける!」と考えて、就職した後も努力を続けてスキルアップを図って下さい。 入社した時の仕事が無くなるかも知れません。 その仕事の価値が下がってしまう可能性も有ります。 1970年にキャドオペレータだった方と2000年に同じ職場で働いた事が有ります。 彼は当時もキャドオペレータでした。 「若い時は、旅客機のパイロット並みの給料だったのに!」とぼやいていました。

《アドバイス :趣味と雑談》 『芸は身を助く』と言いますが、趣味が有ったら、他人が趣味に夢中になっているのが理解出来ます。そして、趣味の雑談が出来ます。 「私が、仕事一筋の人間だ」と誤解した人が多かったですが、私の趣味は絵画・陶磁器・クラシック音楽や渓流での毛ばり釣り、野球やラグビーの観戦、若い頃はスキーなど、結構多彩です。

 前稿で少し触れました大手重電のHT社のFS氏と、満開の桜の話しをした事が有ったのですが、「朝一からの打合せに来て欲しい!前夜の宿泊はHT社の寮を取っておく」と電話が有りました。夕方、寮に着くとFS氏が来られて、「打ち合わせは嘘で、明日はHT社が所有する神社などの桜を楽しんで下さい」と言って帰られました。 夕食は超豪華で、どこの桜も満開でした。

 本格的な趣味を持っている方達とも親しくなれました。盆栽が趣味の明光商会の故・高木禮二氏、ヨーロッパのアルプス登山を趣味にしている方、海外でスキューバダイビングを楽しむ方・・・皆さんの話しを聞いていると、私も楽しくなりました。 趣味を持つ事と、気楽に雑談出来る様になる事は、人生にとって勉強と同じくらい大切です。

【学問のすゝめ】
 私は高校生や大学生諸君に福沢諭吉の『学問のすゝめ』を推奨します。原文は文語体ですが、口語体の本も入手出来ます。冒頭の一節が余りにも有名な為に、「人間は平等だ」と言う内容だと誤解している方が多いいですが、タイトルの通りに「諸君、勉強しましょう!」と教えている本です。

 私は、次の一節が重要だと考えます。
『人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。
ただ学問を勤めて、物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。』

 1872年(明治5年)にこの本は出版されました。当時は社会が大きく変化して、有能な人材を要求する、ある意味では幸せな時代だったと思います。 福沢諭吉は「年功序列の時代が来る」とは予想していなかったでしょうね! その後、「勉強して役人になったり、大企業に入れたら、もう勉強なんか必要無い」と言う年功序列制度が、長く日本を駄目にして来ました。 学生時代に優秀だった多くの人達が勉強しなくても良い制度(年功序列制度)を続けていると、国家はジリ貧になってしまいます。

 現在は国際競争が激しくなって、自分を磨かない人間に高給を与える事が難しくなって来ています。今後は、会社や役所で活躍するためには、努力してスキルアップする必要が有ります。

【エピローグ】
 6月27日以来、8回に分けて私がどんなにして勉強して来たか書きました。『学問のすゝめ』を読み返してみて、平凡な私の様な人間でも、「若い時からコツコツとやったら、勉強を続けられる」と言う事を示したかったのです。

 私は結構勉強して、40機種ほどの機械の開発に携わり、全て成功しましたが、出世とは全く縁が無く、高給を頂く事も有りませんでした。 然し・これからは、福沢諭吉が考えていた「努力して自分を磨いた人が報われる社会になる」と私は信じています。

社会人になってからの勉強 (その4)

2020-08-08 09:34:08 | 勉強
 今回も、「私が社会人になって、どんな勉強をしたか? その結果、どんな事が出来たか?」と言う事を書きます。次回にも続きますが、我慢して読んで下さい。

【計測器とセンサー】
 私は、現役時代・40年の内、30年以上を機械の研究/開発に携わりました。種々の分野の機械でした。機械を開発する上では、計測器とセンサーの性能の向上と価格変化などの情報、原理などの知識が非常に重要でした。 私は若い時から、計測器とセンサーのカタログを集め、専用のノートにメモを取っていました。パソコンを使う様になってからは、データーベースが作成出来るソフトを買って、メモを整理しました。

 極低温(-270℃程)の機械から600℃以上の高温になる機械を扱ったので、温度センサーも種々の物が必要になりました。 圧力センサーでは、圧力が『0.2秒間』に300kg/cm2(≒29MPa)まで上昇する状況のデーターを採取して、解析する必要も有りました。

 小さな機械を開発する時、回転軸の振動を測定する必要が有りました。 ケンブリッジ大学の教授が発明した超小形の変移センサーを改良して、専用の変移センサーを作った事も有ります。

【振動と騒音の計測器】
 前々回(7月25日)のブログに、「1972年頃に振動と騒音について勉強した」と書きました。その時、FFT(高速フーリエ変換器)という測定器を借りて、使用しました。大きさは独身者向けの冷蔵庫ほど有りましたが、キャスターが付いていたので”ポータブル”と言う事になっていました。価格は、私の100カ月分の給料より高かったです。

 1985年に取り組んだ開発では、FFTがどうしても必要でした。それまで計測器には殆ど取り組んでいなかった、パナソニックが100万円台でFFTの販売を開始しました。開発費を工面して、直ぐに1台購入しました。納入に来たパナソニックの営業マンと小一時間雑談しました。

 FFTを開発した技術者達は、「先行他社製品よりコンパクトで高性能だから400万円ほどで売りたい」、営業部隊は「計測器分野では実績が無いから、250万円で売る」と言って、収拾が付かなかったそうです。 まだ御存命だった松下幸之助に相談したそうです。「そんな優れた製品の販売予定台数を○✕台にしては駄目だ、△△にしたら幾らで売れるか?」と言われたそうです。 それで、思い切って100万円台で販売を開始したのです。

 1996年に中小企業に出向した時、パナソニックのFFTを買って、製紙工場の設備診断を始めました。FFTを納入に来た営業マンに幸之助の決断の話しをして見ましたが、「聞いた事が無かった」と言いました。

 私は1972年から騒音計を持って、各地に出張しました。 当時の騒音計は凄く高価で、質量が2~3kgも有ったので、旅行も測定も結構大変でした。 

 今年の5月に、近所の広い庭の改修工事を始めたのですが、けたたましい騒音と物凄い粉塵が発生しました。奥さん達は洗濯物を取り込んで、工務店の責任者に抗議したのですが、平謝りするだけで、彼は「あと5日間だけ我慢して下さい!」と言い続けました。私が、「規制値を大幅にオーバーしている、騒音計を持って来て測定しなさい」と言うと、彼は「騒音計は持っていません」→→私が「amazonで数千円で売っている、今注文したら明日か明後日には入手出来る」・・・結局手作業で工事を続けました。 「騒音計さえ持っていない工務店に仕事をさせてはいけない!」と思いました。市は、こんな工務店を野放しにしてはいけません!

(笑い話し) 周囲が田圃の下水処理場から、引き合いを頂いて、昼間と深夜の暗騒音を測定した事が有ります。昼間の騒音は規制値以下でしたが、深夜に行って見ると、笑うしか有りませんでした! 溝や田圃の中で食用蛙達が大合唱していたのです。騒音規制法を考えた政治家も官僚も食用蛙まで、考えが至らなかったのです。

【営業活動と顧客対応】
 私は、営業担当者が経験した事の無い機械に、設計者として携わりました。どういう顧客に、どういう風に売り込むか?営業担当者と一緒に考える必要が有りました。 入社したK社だけで無く、出向してからも同じでした。

 K社に入社して2年目に故・海部八郎氏が育てた優秀な『海部軍団』のメンバーに営業活動のやり方を教えて頂きました。その直ぐ後に、大手重電のHT社の優秀な営業マン(FS氏)に事細かく指導して頂きました。国内だけで無く、外国の裏情報も勉強出来ました。 (FS氏は、私を実の弟の様に指導してくれました。)

【法律】
 法律に規制されない機械も有りますが、私が開発した機械では、皆さんが予想される以上に沢山の法律を勉強する必要が有りました。 例えば、電気事業法、原子炉基本法、高圧ガス保安法、建築基準法、騒音規制法、振動規制法、特許法、製造物責任法(PL法)などなど・・・ (『ウイキペディア 産業法』で検索して見て下さい。ビックリするほど沢山の法律が存在します!)

(余談) 現在は、全ての法律がインターネット上に公開されて、無料で読む事が出来ます。法律以外にも、種々の『技術基準』があり、高圧ガス関係では『質疑応答集』が有ります。 刑事事件や民事事件では、弁護士と相談しますが、設計や製造関係の法律は設計者が法律や技術基準を精読して、法律が要求している事項を加味した図面と各種要領書を作成します。

(余談) 私は各種・産業法を読んだので、民法、刑法、地方自治法・・・を時々、暇つぶしに読みました。 『軽犯罪法』は短いので、法律の入門書としては打って付けです。但し、「こんな法律は世界に例が無いのでは? それほど日本人は行儀が悪いのか?」考えさせられます。

【規格】
 戦後・長い間、JISの正式名称は日本工業規格でしたが、2019年からは日本産業規格になりました。JISは国際規格(ISO)に近づいて、現在は殆どISOを翻訳した様な内容になっています。

(余談) 私は入社2年目(1972年)から、ISOで設計していました。当時は『イソ』と呼んでいたので、つい『イソ』と言ってしまい、皆さんに笑われました。 現在・JISは日本規格協会が有料で出版していますが、法律と同様に「インターネット上に公開して、無料で読める様にすべきだ!」と考えます。

 「アメリカは唯我独尊の国だ!」と私は思います。アメリカの規格は独特です。アメリカ政府では無くて米国国家規格協会(ANSI :American National Standards Institute)が、下部組織(280以上の団体)が作成した規格を認定して、ANSI規格として発行しています。 他に、材料の規格=ASTM(アメリカ材料試験協会規格)、石油プラントの規格=API規格(アメリカ石油協会の規格)などが有ります。アメリカ以外の国に建設されるプラントでも、ANSI、ASTM、API規格が要求される事が多々有ります。

 船舶が典型ですが、保険に入るためには船級協会の基準で設計/製造する必要が有ります。日本では日本海事協会(NK)、イギリスはロイド船級協会、アメリカ船級協会等々・・・。 製造物責任法(PL法)が厳しい国に輸出する場合は、製造物責任保険(PL保険)に加入しますが、この場合は保険会社の基準で設計/製造する必要が有ります。

(余談) 私が、輸出が多いい工場の設計に所属していた時、関連する外国の規格が改定されると、入社三、四年までの若手社員を動員して、改定点を急いで翻訳し/纏めていました。私は年齢制限を超えていましたが、何故か?メンバーに選ばれました。(オリンピックのサッカーだったら、名誉なことですが!)

【気体軸受】
 MRI(核磁気共鳴画像法)やリニア新幹線には、超電導マグネットが使用されます。マグネットを極低温(-270℃ほど)に冷やす必要が有りますが、液体ヘリウムで冷却する以外に方法が有りません。

 極低温近くまで冷却したヘリウム・ガスを膨張させると液体になります。 少量を液化する装置では、レシプロ膨張機が使用されますが、1時間に数十リットル以上の液体ヘリウムを得る装置では、膨張タービンが必要になります。私は、膨張タービンの開発に携わりました。

 大雑把な話をしますが、ラジアルタービンでは、流入するガスの音速で羽根を回転させると高効率になります。 ガスの温度が低下すると、音速も下がります。 然し、気体のヘリウムは極低温になっても音速は高いので、タービンの羽根を高速で回転させる必要が有るのです。 市販の軸受が使用出来無いので、気体軸受の自作が不可欠になります。

 私は最初に、液化能力・50、100、150リットル/時間・3機種のヘリウム液化機用の膨張タービンを開発しました。軸受は静圧気体軸受でした。 次はティルティングパッド形動圧気体軸受を用いた、500リットル/時間用膨張タービンの開発に参加しました。 最初の静圧気体軸受の開発には手こずりましが、ほぼ1年間で完成しました。

 ティルティングパッド形動圧気体軸受は6か月程で完成したので、周りの社員達は「私は天才だ!」と思ったでしょう。 種明かしすると、以前に担当したガスタービンの軸受がティルティングパッド形油圧軸受だったので、原理/形状/加工方法に付いて勉強していたのです。

 ヘリウム膨張タービンの開発には、それまでに蓄積していた知識と経験をフル動員しました。大きなキングファイル2冊分程の英文の論文を短時間に読破する必要が有り、FFTを用いた振動解析、銀ロウ付け技術などなど。不足していたのは精密機械加工技術でした。

(余談 :精密機械加工) ヘリウム膨張タービンの開発には精密機械加工が不可欠でした。私が勤務していたK社の協力会社には対応出来る会社が無かったので、探したのですが、”なんと!”私の家から歩ける距離(2km程)の所に、(日本を代表する様な)素晴らしい会社(前田精密製作所)が有ったのです。 当時の社長は、故・前田豊三郎氏で、東京工業大学で機械を勉強された様でした。 精密機械加工に一生を捧げた様な方でした。 (私とは、親子程の年齢差が有りましたが、対等に付き合って頂きました。)

 社長は商売抜きで、私に精密機械加工について初歩から教えてくれました。「新しい機械が入ったから見においで!」とか電話してくれ、機械の特徴を説明してくれた後で、美味しいコーヒーを飲みながら工学の話しをしました。故・前田豊三郎氏は、私の大切な恩人の一人です!

(余談 :ミスが金の卵を産む事も有ります!) 最初に開発した静圧気体軸受・膨張タービンは軸径がφ9.5mm、φ12mm、φ15mmの3機種でした。3機種の常温実験が出来る実験装置を製作しました。ある日、φ12mmの実験をしたのですが、実験担当者がφ9.5mmだと勘違いして加速しました。 (当時・公表されていた論文では、)Φ12mmでは出せない回転数で問題無く運転していたのです。

 ギネスブック級の素晴らしい結果が得られたので、「若い社員に国際学会で発表させたい」と上申したのですが、頭の固い上層部が許可してくれませんでした。せっかく、「気体軸受は従来の常識以上の高速でも使用出来る」事を証明出来たのに、”金の卵”をカチンカチンの岩の上に生んだので、割れてしまいました!

【パソコン】
 ガスタービンの技術提携先のノールウェーの兵器廠(KB社)は、1972年に既に大形コンピューターを用いた社内メールシステムを構築していました。 私の会社(K社)でもIBMの大形コンピューターを導入していましたが、社内メールシステムの導入はずっと後になってからでした。 当時は、各工場と各営業所に端末機を電話回線で接続して、予備品の受注データの遣り取り、案件の予算管理等に活用していました。

 1982年にNECが9800シリーズのPCを発売しました。直ぐにK社は導入しました。私はベーシック(BASIC)と言う言語を勉強して、簡単なプログラムを作成して、技術計算をしました。 98PCは高価だったので、1985年頃に自分でNECの88PCを買って家で使いました。その後直ぐに、富士通のワープロ(オアシス)も買って、家で報告書等を作成しました。

 K社の一部の部署で、1991年にアップルのパソコン(PC)を用いた、社内メールシステムがやっと導入されました。私にも専用のPCが支給されたのです。私の所属していた部署では、部長が部員全員を集めて、「1年以内にPCの操作をマスター出来無かったら、辞めてもらう」、「PCに慣れるまでは、勤務時間中にゲームをやって良い」と言われました。その日から、部長も含めた古手の社員達は、日中にゲームを楽しんでいました。

 お陰様で、私は、会社からアップルのPCが支給された日から操作出来ました。そして、私にとってPCは不可欠な存在になりました。 それから5年程して中小企業に出向したのですが、「専用のPCを用意してくれる事」と言う条件を出しました。当時・まだ中小企業では、PCを導入している所は少なかったのです。

(余談) 現在は購入したPCが壊れていたと言う様な事は考えられませんが、当時は時々有りました。前述の部は50台ほど一度に購入したのですが、マッキントッシュの若い担当者が、その一台を使って簡単な操作説明を始めようとしました。よりにもよって、その1台は壊れていたのです。マッキントッシュ君は必死の形相で、「何とかしよう!」としましたが、埒が明きません。誰かが、「別のパソコンを使ったら!」とアドバイスしたら、マッキントッシュ君は「そういう手も有ったんだ!」と言う様な顔をしました。

(余談) 2001年に出向した会社が準備してくれていたPCは中古品で、直ぐにハードディスクが壊れてしまいました。 加古川市に大西ジムと言う会社が有りますが、当時は全国的にPCを売っていました。会社が近くだったので、大西ジムに買いに行ったのですが、年齢を聞かれました。「55歳」と答えると、「50歳以上の方には売れません」と言うのです。老人に売ったら、交換出来無くて、「引き取れ」と要求するので年齢制限を設けていたのです。「交換出来無くても返品しない」と言う念書を書いて、売ってもらいました。

 ハードディスクの交換は簡単でしたが、OSのウインドウズを再インストールするのに手間取りました。(当時のPCにはバックアップCDが付いていました。) 画面に表示される通りに操作しても、微妙なタイミングが要求され→途中で進まなくなり→最初からやり直し! この繰り返しで、結局・3日ほど掛かってヤット出来ました。(現在のウインドウズは、簡単に再インストール出来るそうです。)

社会人になってからの勉強 (その3)

2020-08-01 11:23:52 | 勉強
 今回は、設計/製図と、キャド(CAD)の操作について書きます。

【設計と製図は同じでは有りません!】
 多くの方が『設計』と『製図』を混同されます。製図とは図面を作成する事で、設計は仕様/性能、構造/形状、材質などを決定し、性能や強度の計算をする事です。設計者が作成した資料をベースに製図工が図面を作成するのです。中小企業の多くでは、設計者が図面も作成しますが、大企業の多くでは、製図を担当する子会社を持っています。

 ○○機械設計(株)と言う看板を掲げた会社が沢山有りますが、大半はキャドオペレータを派遣したり、社内でキャド(CAD)を使って製図するのが仕事です。 非常に稀ですが、大手機械メーカーで設計をされていた方が、早期退職して起業した会社も有ります。そんな会社では性能計算や強度計算も請け負っています。

(余談) 東京大学には航空宇宙工学科が有りますが、そこの卒業生は(私の知る限り)優秀でした。 その一人が社長の会社は、英語の設計/計算書/報告書/契約書を作成したり、難しい仕事しか受けませんでした。社員は20名程でしたが、大手企業の超ベテラン社員だった方達を高給で集めていた様でした。

(余談) 私は現役の最後・数カ月を某中小企業で勤務しました。そこでは、設計は私一人しかいませんでした。 ブラック企業の典型と言って良い最悪の会社だったので、私は直ぐに嫌になってきました。それを察して社長が設計を募集しました。30歳程のキャドオペレータが応募してきて、私に相談無く採用しました。彼は材料や強度計算などの知識と経験が全く無く、教える必要が有りましたが、傲慢な人柄だったので私は教育を諦めました。 「優秀な代わりが入社されたので、私は辞めさせて頂きます」と言って、サッサと退職しました。

【設計/製図の授業】
 私は大学で機械工学を学びました。機械の設計には勿論・設計/製図は必要ですが、開発や研究にも必要不可欠です。実験装置を作る時も、設計/製図は必要になります。

 私は大学で設計/製図をマスターしました。2年生?か3年生?になると、広い製図室に各自に製図テーブルと脇机が与えられました。 最初・2時間ほどJISの機械製図(JIS B 0001)の講義が有り、その後は、各自に違う仕様が与えられて、ウインチとか遠心ポンプ等を設計するのです。A1サイズの図面用紙を大学が用意してくれていました。計算書を別に作成して期日までに提出しないと、単位が取れませんでした。

 特に設計の時間と言うのは無くて、自分の好きな時間にやるのです。提出期日が近づくと、徹夜する事も有りました。 当時は、どの大学の機械工学科でも同じようだったらしく、ウインチや遠心ポンプを設計する参考書を売っていました。

 4年生になると卒業設計と言うのが有って、自分で機種、仕様を決めて設計しました。私は、新聞か雑誌に写真が掲載された新しいタイプのガソリンエンジンを設計しました。外形写真をベースに、想像を逞しくして設計したのです。部品点数が多くなり、膨大な計算が必要で、予想以上に時間が掛かってしまったので、途中で嫌になった記憶が有ります。

 大学の機械工学科を卒業したら、入社して設計/製図を教えてもらう必要は全く有りませんでした。 (現在は、どうなっているのでしょうか?)

【入社後の設計/製図】
 私は1971年にK社の機械開発部で仕事を始めました。設計が必要な社員には事務机の他に製図テーブルが与えられていましたが、72年に正社員の製図テーブルは撤去される事になりました。 多分、社員が増えて来たのに、事務所のスペースはそのままだった為だと思います。(狭いスペースに、増えた社員を押し込むと言う本末転倒の発想でした。)

 私達の課は、フロアーの片隅に有りました。ベテラン社員達がスチール製の本棚を並べて隠し部屋を作り、そこに私専用の製図テーブルを置いてくれました。私達の課が、別のビルに有ったた設計部に移るまで、2年間・私はその隠し部屋で計画図を作成して、課に派遣されていた超ベテランの製図工に製図して貰いました。

【その後の設計/製図】
 私達の課は最初、本社ビルに有った設計部に、その後・K工場の設計部に移りました。管理職以外には事務机と製図テーブルが与えられました。製図テーブルはA0サイズの図面が描ける広い机でした。 工場の設計部に勤務する様になって暫くすると、正社員の製図テーブルは撤去されてしまいました。 (理由は前述と同じで、スペースが不足したためでした。)

 私は仕方が無いので、A3の方眼紙に計画図を描きました。一枚仕上げるのに最初は倍ほどの時間が掛かる様になってしまいました。 

 東京本社に、各工場の設計担当者が駐在するスペースが設けられていました。私は1980年から4年間ほど、そこで仕事をしました。情報収集、見積積算、見積書/配置図などの作成と顧客回りが仕事でした。設計事務所から(私専用の)製図工を一人派遣してもらって、私が方眼紙に描いた計画図を図面化してもらいました。

 引き合い件数がドンドン増えて、1年後には二人、2年後には三人製図工を抱える事になりました。週に二、三日、遠方に出張していましたので、配置の計画図は出張先のホテル等で作成しました。 大きなアタッシュケースを買って、A3の方眼紙と製図道具一式を入れていたのです。 (今でも、このアタッシュケースを持っていますが、「よくも、こんな重い物を運んだ!」と我ながら感心します。)

(余談 :東京駅前の道路の舗装工事) 東京に長く住んでいる方でも、東京駅前の道路の補修工事を見た事が無いようです。八重洲側の道路の交通量は凄まじいですから、舗装工事は不可欠です。東京駐在の頃は、残業で週に一、二日は最終電車に乗れませんでした。 夜の12時頃になると、大勢の作業者と作業車両が集まって来て、道路のアスファルトを剥がし始めました。朝の6時頃には、白線を引いて、車も人も引き上げ何も無かった様になりました。次の晩は、別の場所を舗装するのです。毎年一回は舗装工事をしていました。

 旧鉄鋼ビルの様に、外壁にタイルを貼ったビルでは、夜中にタイル一枚ずつ木槌(?)で叩いて、浮いていないか?剥がれる恐れはないか?気の遠くなる様なチェックしていました。残業していると、結構気になる音でした!

【キャド(CAD)の歴史】
 キャド(CAD)とは、コンピュータを用いて図面を作成するシステムの事です。キャム(CAM))とは、CADで作成した図面のデータで自動工作機械を動かすシステムの事です。1971年に私が入社したK社の某工場では、大形コンピューターを用いたCAD及びCAMを導入していました。

 1972年にアメリカのIBM社から、専用のパソコン・システムにCADソフト(キャダム :CADAM)を入れた物が発売されました。 1975年頃に私の所属していた課が、某工場の設計部に移ったのですが、その設計部はキャダムを3セット程導入していました。 当時のキャダムは非常に高価で、パソコン、モニター、キーボード、ファンクションキーボードなど一式で700万円ほどもした様です。(キャダムのソフトはロッキード社製でした。)

 普通のパソコン(PC)で使えるCADソフトが各社で種々開発され、少しずつ性能が改善され、ソフトもPCも安価にななってきました。キャダムは非常に優れたソフトでシェアを50%以上持っていたと思いますが、(専用のパソコン・システムが必要で、)普通のパソコンで使用できる様にソフトを修正するのが難しかったのか?キャダムは発売中止なりました。

 私が出向した1996年頃に、やっと一部の中小企業でもCADが採用される様になりました。

(余談 :CAD教室) CAD教室の社長(TN氏)から、「キャドオペレータを育てるのではなくて、設計者を育てる教室にしたい」と相談を受けました。キャドの導入が始まった頃は、キャドの操作が難しいと多くの企業は考えていました。 TN氏は、高校を卒業した男女に1年間掛けて(ノンビリと)キャド操作と製図を教えていたのです。TN氏は大企業で設計をした経験から、「図面を作成する職場に若い子が入ったら、直ぐにキャドを操作して図面が描ける様になる」と思っていたのです。 要するに、自分が経営するCAD教室は必要ないと考える様になっていたのです。

 TN氏は、「設計者を養成する教室では、どんな事を教えたら良いか?」私に相談して来たのです。私は、カリキュラムと、その概要を検討しました。二、三回会って話したら、TN氏と私は、「キャドオペレータを目指す子に、工学を教えても身に付くはずがない」と考えたので、この計画は中止しました。

【三次元キャド(3D-CAD)】
 私が入社した年(1971年)に、K社はボーイング社と技術提携しました。ボーイング社から送って来る図面は全て三次元キャド(3D-CAD)で作成していました。ボーイング社では社員の大半が二次元で描いた図面を理解出来無かった為の様でした。(配管図さえ、三次元で描いていました。)

 K社でも1995年頃には、パソコンに3D-CADを入れて、建設機械の計画図等を描く様になっていました。部品の製作図は今でも二次元ですが、2010年頃になっても、3D-CADデータから二次元の部品製作図を作成するのは難しかった様でした。 それで、3D-CADの計画図で機械の動きをチェックして、OKだったら、2D-CADで計画図を一から描いて、そのCADデータから部品製作図を作っていました。

(余談) 東大の機械工学科を(銀時計をもらって)首席で卒業した社員と数年間同じ課に勤務した事が有ります。彼は二次元で描いた図面が理解出来ず、描く事も出来ませんでした。人事部のミス(?)で、設計に勤務していましたが、設計の仕事が出来る分けがありません!(彼の頭の中を覗いて見たかったです!)

【私とキャド(CAD)】
 私が最初にCADに取り組んだのは2000年で、社員150名程の中小企業の開発部に出向した時です。出向する1年前に、設計課が外国製の非常に珍しい二次元キャド(2D-CAD)を導入し、少し前に開発部も2セット導入していました。開発担当者は私を含めて5名でした。3名は製図テーブルで手描きでしたが、一人(HK氏)はパソコンとCADで設計/製図している事になっていました。

 私はHK氏からCADの操作を教えてもらう事になっていました。この会社は、不思議な事にCADの操作説明書を入手していませんでした。HK氏は、誰かに操作を少し教えてもらった様でしたが、まだ十分使いこなせていませんでした。HK氏は、製図テーブルを撤去されており、CADも旨く使えない状態で、私に教えられる状態では無かったのです。

 私は設計課に教えて貰いに行ったのですが、開発部と設計課は”犬猿の仲”の様な状態で、追い返されました。 私が1996年に出向する時、友人がオートキャド(AutoCAD)とその操作説明書をプレゼントしてくれていました。 その操作説明書を参考に、想像を逞しくして、メモを取りながらCADを操作しました。2週間ほどすると、何とか製図出来る様になりました。

 設計課の若手社員達が、定時後に私の様子を見に来て、「お疲れ様!」とか言って帰る様になりました。 当時、私は54歳の”老人”だったので、若手社員達は多分、「こんな年寄りがCADを使える様になる」とは思っていなかったと思います。 半月程してCADを使って計画図が描ける様になると、設計課の一人が彼らの作った機械要素(ボルト、ナット、配管部品など)のCADデータをCDに入れて持って来てくれました。 結局、私がHK氏にCADを教える事になったのです。

 事情があって、1年もしない内に別の会社に出向しました。そこで使用していたCADは、大手電機メーカーが開発した非常に特殊なCADでした。(手書きの時の様に)最初に図面のサイズを決め、縮尺を決めて作図する方式でした。CADの長所が生かされない、とんでもないCADでした。 調べると、このCADは殆ど売れておらず、開発を中断し、近々(ちかぢか)販売も止める事になっていました。 簡単な操作説明書が有ったので、このCADも使える様になりました。

 完成品の組立図をCADデータで要求する顧客が有ったので、社長を説得してAutoCADを買って貰いました。3年ほどして、別の会社に出向させられたのですが、そこでは、古手の社員は手描きで、若い社員はAutoCADで製図していました。勿論、私はAutoCADを使いました。

 私は50歳の時にK社から出向して、中小企業で10年間働きました。給料はK社から頂いていたのです。K社の定年は60歳で、定年になる1ケ月前に、最初に出向した会社(N社)の社長から、「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂きました。

 N社に最初に出向した時は、全員手描きで設計していましたが、2D-CADを採用していました。国内の企業が開発したキャドで、手描きに慣れた人が比較的簡単に操作出来る様に工夫したキャドでした。操作説明書が有り、全員使いこなしていたので、私も直ぐに操作出来る様になりました。

 顧客の多くから、コピーした図と一緒にAutoCADデーターを提出する様に要求される様になっていました。AutoCADに変換すると文字等が『化け』てしまい、修正に時間が掛かりました。 それで、結局・私はAutoCADを使用しました。

 私は10年間で4種類の二次元キャド(2D-CAD)が使える様になりましたが、設計事務所から派遣されてきたキャドオペレータは、もっと沢山の種類のキャドが操作出来ました。私の独断と偏見ですが、「キャド教室は不要で、慣れたら誰でもキャドは使える」と思います。特に、二十歳代の若者は、男性も女性も習得するのが早いです。

(余談 :データーの保管) N社では月に一度、CADデーターをCDに記録して、設計室に保管していました。「万一火災が発生したら、貴重なデーターを失ってしまうから、別棟の倉庫に保管しましょう!」と提案したのですが、社長以下誰も賛同してくれませんでした。数か月後に社長の友人の会社で火災が発生して、全てのパソコンとCADデーターを消失してしまいました。 次の日から、CDの記録を2部作って、倉庫と社長の自宅に保管する事になりました。

【世の中の変化】
 現在は手描きで図面を作成している会社は殆ど有りません。通信システムは5Gの時代に入ろうとしていますが、4Gでも多量のデーターを遣り取り出来ます。設計/製図の職場は、ドンドン変わって来ています。その例を以下に書きます。

① 昔は図面のコピーを持参したり、郵送していました。2000年頃から、中小の加工業者でもA1用の大形プリンターを導入する様になってきて、大きな部品の加工の見積を取る時、CADデータを送れば良い様になってきていました。

② 大手企業の山陰地方にある工場から、ダクトを改修したいと電話が有りました。私が勤務していた会社でしか製造出来ない部品(N部品)が必要でした。交通の便が悪く、出張すると一泊二日の旅になるのです。予算を聞くと、とても対応出来ない額でした。然し、その大手企業からは沢山注文して頂いていたので、無下には断れませんでした。

 「N部品だけ作って送ります。ダクトは設計だけしますから、近くの町工場で作って下さい」と回答しました。担当者は不安になって、「打ち合わせに来てください」とか「何とか、ダクトも作って下さい」と懇願しましたが、赤字の仕事は受けられません。 担当者を𠮟咤激励して、私の提案で進めました。電話で遣り取りして、CADデータを送っただけでしたが、旨く行きました。

 この手の注文は毎年・何件も有りましたが、出張して打合せ、ダクトも作り、据付作業員も派遣していましたが、そんな必要は無かったのです。

③ 私が勤務したK社では、1975年頃・数本の電話回線を使ったテレビ電話室が神戸と東京に有りました。私は数回利用しましたが、映像は”ぎこちなかった”です。現在は、スマホで無料のテレビ電話が利用出来ます。人口の密集した地域では、もう直ぐ『5G』の時代になります。 4Kか8Kの大きなモニターを設置したテレビ電話室が各社に普及したら、新幹線に乗って本社の会議に参加する必要は無くなり、遠方の顧客に出向く必要も無くなります。

④ 前にも書きましたが、英語で図面や仕様書などを作成する企業が増えて来ています。 今から20年以上前の2000年頃に、英語の読み書きが出来る国民が多いいフィリピンに、設計事務所を設けた会社が有りました。来日してキャドオペレータになったフィリピン人を支援して、フィリピンの田舎に設計事務所を設立させた企業も有りました。 頭脳明晰な人が、キャドオペレータを続けていると、設計の領域の知識を持つ様になります。私が会ったフィリピン人の社長は、正にそんな方でした。

(余談 :田舎に設けるのがポイント) 日本にも「生まれ故郷を離れたくない」と言う人が多いい地域が有ります。例えば、祭りが有名な岸和田(だんじり祭り)や姫路市白浜町(灘のけんか祭り)。 フィリピンにも田舎に行くと、そんな地域が有るそうです。ケソン市やマニラ市だと、腕が上がると給料の高い会社に移ってしまうようですが、田舎だとそんな心配はしなくて良い様です。

(余談 :スペルミス) 1980年頃、私は輸出案件を年に10件ほど担当しました。大手エンジニアリング会社に英語の図書を提出しました。輸出用の仕様書は事細かく書く必要が有るので、100ページ以上になりました。当時・最も大きかったエンジニアリング会社(CC社)は、提出した図書を入念にチェックして、スペルミスが6カ所も有ると再提出を要求してきました。「今回は3カ所あった」などと電話してきました。 私は英語が苦手でしたが、直ぐに殆どスペルミスが無い仕様書を作れる様になりました。 (種明かし:IBM製の記憶装置付きタイプライターを使っていたからです。前に作った仕様書のコピーを取って、必要な個所のみ修正すれば新案件の仕様書の完成です!)

社会人になってからの勉強 (その2)

2020-07-25 09:47:09 | 勉強
 「私が社会人になって、どんなにして勉強したか?」について書きます。時代が大きく変化したので、私のやり方を真似る事は出来なくなっていますが、現在にマッチする様に工夫して勉強して下さい。 日本は年功序列の社会ですが、社員の能力をチェックして、有能な社員には”それなりの賃金”を支払う企業が増加しています。スキルアップして高給をもらいましょう!

【フォートラン】
 K社に入社すると同期が450人ほどもいました。 私を含めて10人程の工学部卒が機械開発部に1年間仮配属になりました。 私ともう一人が、化学工学関係の先端技術を調査するグループに仮配属されました。 そこで、幸いな事に大形コンピューターを用いた技術計算の仕事をしました。

 コンピュータを用いる計算では『フォートラン(FORTRAN)』と言う言語が使用されます。残念ながら大学では勉強しませんでした。新入社員研修の一環として、数時間・基礎を教えてもらいました。その知識を直ぐに活用出来たのです。

 戦後、アメリカ政府はアメリカの企業に金を出して種々の研究を依頼しました。その結果は、国の報告書として出版されました。 その一つが、ゼネラル・エレクトリック(GE)が担当した、非常に特殊な熱交換器の性能計算プログラムでした。報告書には、使用している計算式、プログラム、テスト用のインプットデータ、計算結果が記載されていました。

 この種の報告書には、巧妙に『故意のミス』が隠されているので、計算が出来なくなっていました。私達の仕事は、計算式の『故意のミス』を解明して、プログラムの『故意のミス』を見付けて、正しいプログラムを作成する事でした。 私達の作ったプログラムに、GE社のインプットデータを入れて計算すると、報告書と全く同じ計算結果が得られました。

 NECが88や98シリーズのパソコンを発売した頃からは、ベーシック(BASIA)と言う言語で計算しました。 1985年にアップルPCでエクセル(Excel)が使用出来る様になりましたが、私は1990年頃から使用しました。現在のエクセルは使い勝手が悪くなっていますが、当時は『絵』も描き易く、フィルター機能も有るので重宝しました。 その後、ヴィジュアル ベーシック(Visual Basic :VB)にも取り組みましたが、中小企業に出向するとVBを操作出来る社員が殆どいなかったので、エクセルに戻りました。 エクセルで『絵』、計算式、説明付きの技術計算プログラムを沢山作成しました。

【半導体】
 私が社会人になった1971年頃は、部長職や重役向けの、民間企業が主催する(高額な会費を取る)最先端技術や国が力を入れる工業分野に関する講習会/勉強会が東京で有りました。K社の重役達も申し込むのですが、予定が入って参加出来なくなると、機械開発部に「誰か参加させて、会で配布した資料に要約文書を付けてを提出しろ」と言ってきました。 部員50名程集めて、挙手で希望者を募りました。

 私は勢いよく手を挙げたのですが、他には誰もいませんでした。重役に報告書を提出する事の大変さを、私は全く理解出来ていなかったのです。 第一回目の報告書はすんなりと受け取って貰えたので、次の時も私は挙手しました。何回目からか、秘書室から「もう少し大きな字で書け」、「もっとポイントを絞れ」・・・とか、電話でアドバイスしてくれる様になりました。1年程すると、秘書室が私を指名して来る様になりました。

 そんな中に、半導体に関する勉強会が有りました。報告書を提出すると、「半導体の開発状況を調査して、時々報告書を提出するように」と指示が有りました。重役の”お墨付き”が頂けたので、私は半導体の情報を集める様になりました。当時は半導体の技術革新は凄まじく、価格は急激に低下しました。

(余談) 何の講習会だったか忘れてしまいましたが、GHQ本部の有った『第一生命ビル』で開催されたことが有ります。 「吉田茂とマッカーサーがここで交渉したのだ!」と思い、休憩時間に許される範囲で見て回りました。『第一生命ビル』にはその後も行きました。外観は昔のままですが、1989年から内部のリホームが始まり、マッカーサーの執務室以外は昔の面影は無いようです。

【ガスタービン】
 私がガスタービンの仕事を始めた経緯は、先週のブログに書きました。課長のNM氏は素晴らしい技術者で、私を厳しく育ててくれました。

 ノルウェーの兵器廠(KB社)が開発したガスタービンを、国産化するのが狙いでした。最初は完成品を輸入し、次の段階では部品の状態で輸入して組立、最終的には部品を国産化する事になっていました。 課長以下5人でスタートしたガスタービン課は1年後には10人になっていました。課員が増えても仕事は山の様に有り、毎日残業しました。

 現在は『日本ガスタービン学会』が有りますが、当時はまだ勉強会の様な組織でした。私は、直ぐにガスタービンの勉強会に入り、東京で年に二、三回開かれた会に参加しました。

(余談) NM氏は私同様に貧しい家に育った様で、酸いも甘いも知っている方で、課員がミスしても決して怒鳴る事は有りませんでした。英会話も上手で海外出張の経験が豊富でした。奥さんも良く出来た方で、課員が初めて海外出張する事になると、会社に来られて用意すべき物を事細かく教えていました。 出張先で一緒に風呂に入った課員が、「課長は褌(ふんどし)をしていた!」と吹聴して回りました。 NM氏は何時も趣味の良いオーダーメードと思われるスーツを着ておられたので、想像外でしたが、私は「ほっと!して」親しみを覚えました。

【消音器】
 ガスタービンの仕事を始めて二、三か月後に、大手ホテル企業が東南アジアに建設中の大きなホテルから、非常用ガスタービン発電装置の引き合いが入りました。地下室に発電装置を設置して、吸排気口を日本庭園の隅に設ける計画でした。運転時に許容される騒音レベルは、日本の住宅街並みの、厳しいものでした。 非常に大掛かりな消音器が必要なのです。

 第1回目の打合せの3日前に、NM氏から消音器の設計を担当する様に言われました。私はまだ消音器については全く勉強していませんでした。(前稿に書きました)振動・騒音の研究チームのリーダーだったA氏に相談しました。A氏から2時間ほど消音器に関する講義を受け、『騒音・振動対策ハンドブック』を貸して頂きました。

 私は2日間このハンドブックに齧り(かじり)付き、一人で顧客との打ち合わせに行きました。(NM氏は同行してくれなかったのです。) 大手ジェネコンのOB社がホテルの建設を受注済みで、研究所で騒音を研究されていた方が出席されました。彼が、「貴方の先生は何方ですか?」と聞くので、「A氏です。」と答えると、「それなら大丈夫だ!」と言ってくれました。 当時、日本で騒音を研究されている方は、(A氏とOB社の研究員を含め)10人程しかいなかったのです。時々集まって勉強会を開いていた様でした。

 私が設計した最初の消音器でしたので、計画通りの性能が出るか心配でしたが、何のクレームも来なかったのでOKだったのだと思います。その後、私は消音器の設計ノウハウを整理して、課員の一人に教えました。

 『騒音・振動対策ハンドブック』を読んでいて、「データーを波長で修正する必要が有る」と気が付きました。ハンドブックのデーターは周波数(Hz)で整理されていました。ガスタービンの排気温度は500℃~600℃にもなるので、音の速さ(音速)が早くなりますから、同じ周波数でも波長が長くなります。 この閃き(ひらめき)で、高性能のガスタービン排気消音器の設計が出来る様になったのです。

(余談 :HP社の関数電卓) 1972年にアメリカのフューレット・パッカード(HP)がスマホ程のサイズの関数電卓を発売しました。(関数電卓とは、三角関数、指数関数、√、logなどが計算出来る電卓です。) A氏の研究室では直ぐに一台購入しました。ガスタービンの排気消音器を設計するためには、前述の様に波長の補正計算が必要でしたが、手で計算すると長時間掛かりました。それで、A氏の研究室から時々、HPの電卓を借りて来ました。 (この電卓の価格は、私の月給の5ヶ月分以上しました。)

 1973年の3月末に、私は夜中の12時過ぎに一人で残業していたのですが、経理の方が来られて、「80万円ほど金が余ってしまったので、至急使ってしまう必要がある。君の欲しい物を買ってあげるから、明朝一番までにリストを作ってください。但し、買った物は会社の資産に出来ないので、君が責任を持って保管して下さい」と言いました。私は徹夜して「欲しい物リスト」を作りました。 HPの電卓は他部署の社員まで勝手に使う様になって、時々行方不明になりました。次の年の3月末にも、夜中に経理の方がこられて、2台目のHP電卓を買ってもらいました。

(余談 :騒音・振動対策ハンドブック) 私は消音器の設計では社内で有名になり、時々他部署から相談を受ける様になりました。当時、日本には高温ガスを扱える消音器メーカーが無かったので、2社育てました。 騒音・振動対策ハンドブックを借りにくる人が多くなり、私は貸した相手の名前と日付をメモしていたのですが、「僕は借りていない」と言う輩がいて、二冊目を買いました。 その時、絶版になっていたので、入手に苦労しました。 何年かすると、また「借りていない」と言う輩がいて、結局・三冊買いました。 消音器の設計には、それほど貴重な本だったのです。

【機械の制御】
 ガスタービン課に、大学で機械制御を勉強した、私と同期の社員(OI君)がいました。OI君が制御設計を、私が機械設計を担当して、ペアを組んで仕事をする事が多かったのですが、OI君は制御設計には全く向いていな性格でした。 OI君の設計にはバグ(プログラムの誤り)が多くて、試運転に入ってもバグの修正に時間が掛かって、なかなか機械を動かすことが出来ませんでした。

 K社では受注案件の予算管理と工程管理を機械設計担当者が負う事になっていました。 要するに、OI君がミスすると私が怒られたのです。 それで、機械制御関係の本を買って来て、独学で勉強しました。OI君が作成した設計図をチェックして、朱記訂正して返しました。

 OI君は何台設計してもバグは少なくならなかったので、結局・私は自分で制御設計が出来る様になりました。私はその後、機械の開発を担当する様になり、①サイリスターを用いた電流制御、②パソコンを用いた機械の制御、③インバーター制御、④シーケンサー制御に取り組みました。 50歳で出向してから、制御担当者が現地で修正した制御プログラムをメールに添付して送ってもらい、プログラムを読んで機械の動きを把握して、(私が残業して)「取り扱い説明書」を作成し、→メール→現地で印刷する様にしました。 引き渡し運転/説明の時に「取り扱い説明書」が渡せるので、顧客に好評でした。

(余談)  OI君はその後も制御設計部署で仕事を続けましたが、ミスは無くならなかった様で、叱られ続けました。十年もすると、性格が悪くなって冗談も通じなくなり、嫌われ者なってしまいました。然し、私が制御設計が出来る様になったのは、OI君のお蔭ですから感謝しています。

【英語】 
 ノルウェーのKB社とは英語で”やり取り”しました。KB社の図面、技術資料は全て英語でした。 冬季オリンピックのスキーで活躍するので、日本人の多くは『ノルウェー』と言う言葉を知っていますが、どんな国か詳しく知っている方は少ないと思われます。人口は兵庫県と同じくらい(540万人)しか有りません。国内の需要が少ないので、ちょっとした企業は国外に売る事を前提にして、カタログなどは英語で作成していました。

 ガスタービン課は流体研究課の課長兼務のNM課長の下に、入社数年の社員二人と、前述のOI君と私の4人でスタートしました。私は4人の中で英語力が最も弱い社員でした。たぶんNM氏は、「私に英語力を付けさせないと、何ともならない」と考えたのだと思います。KB社から送られてきた図面や資料の翻訳は、全て私に命じました。 課が発足して1年程経つと、課員は9人に増強されており、2人は英語が堪能でしたが、英語の仕事は私が続けました。

 NM氏がKB社に出す質問書等は、和文の原稿を私に渡し、私が英文にして返すと、チェック/訂正してくれました。そして、私がテレックスで送信するのです。 KB社からの返信は、最初の頃は、「30分で翻訳せよ」でしたが、→「25分で」→最後には「15分」の要求になりました。 お陰様で、英文の読み書きが人並みに出来る様になりました。 別の仕事に移っても英語の読み書きは不可欠でしたので、NM氏には今でも感謝しています。

(余談 :テレックス) 昔の通信システムは、電話とテレックス(Telex)でした。国際電話料金が無茶苦茶高かったので、海外とのやり取りにはテレックスが使用されました。テレックス装置は小さな机ほどの大きさで、キーボードを叩いて紙テープに打刻(穴を開け)→送信器にテープを挿入→送信するのです。 テレックスには①受信機能、②送信機能と③テープを作る機能、三つの機能が有りましたが、一つの機能を選択する様になっていました。 つまり、受信中は送信とテープ作成が出来なかったのです。

 社員が200名ほど入ったビルに、テレックスは一台しか有りませんでした。テレックスは受信優先にセットされていたので、テープ作成中に受信すると、作業は中断しました。K社には欧米に何か所も事務所が有ったので、夜間は沢山受信しました。 夜の9時過ぎからテープ作成を始めましたが、終わるのが12時を過ぎる事が多々有りました。

【加工技術】
 課長のNM氏から頂いたアドバイスは、「加工を外注する時は、担当者を会社に呼ぶのではなく、最初はその会社に君が行って打合せなさい」、「部品や機器を発注する時も、営業担当者を呼ぶのでは無く、初回は君が出向いて打合せしなさい」でした。 新幹線を利用する必要の有る遠方の会社にも出向くのです。

 二十歳代だった若造の私が打合せに行っても、その会社で一番の技術者が丁寧に説明してくれ、必ず工場見学をさせてくれました。 私が依頼しようとしていた加工や機器以外の、その会社の自慢出来る技術や機器を説明し/見せてくれました。

 北海道と沖縄以外の、多くの加工業者を訪問しました。加工技術の知見を深めたので、社内で特殊な加工が必要になった部署から、私は相談を受ける様になりました。 それで、更に業者を探し続けることになりました。メッキ、熱処理、鍛造、放電加工などの業者は沢山有りますが、(多分・世界に誇れる)高度な技術を持った中小企業も数社有りました。残念ながら、若手の育成に力を入れていなかったので、現在では出来なくなっているかも知れません

(余談) NM氏のアドバイスを、K社から出向した後も、私はずっと守りました。そして、若い社員達に同じアドバイスをしましたが、誰一人従ってくれませんでした。

(余談) 特注したら肉厚が非常に薄いステンレスのパイプは作ってくれますが、曲げるのは極めて難しいのです。国内で加工業者を探したのですが、見付かりませんでした。ヨーロッパの競合企業に、駄目元で業者を聞いたら笑われてしまいました。彼等は、九州の中小企業で加工してもらっていたのです。日本には、他にも素晴らしい技術が沢山有ります。

【各種弁の構造】
 ガスタービンは非常用発電装置の原動機として、主として使用されました。 非常用が起動する時は、電力会社からの電気が止まった時です。 蓄電器(バッテリー)から直流電気を供給して、起動する方式でした。 バッテリーの容量を小さくするためには、電力消費量の少ないパイロット式直流電磁弁が必要でした。

 NM氏は私に、ノルウェーのKB社が採用していた弁類を分解して、スケッチして、メカニズムを解明する様に指示しました。 電磁弁だけでなく、燃料制御弁、減圧弁、温度調節弁等も分解しました。ヨーロッパにフィッシャー(Fischer)と言う、有名な制御弁メーカーが有りますが、その製品を何点か分解しました。非常に良く出来ていたので感心しました。

 A重油を使用される顧客が有ったのですが、タール状の物質が燃料系統の弁の内部に蓄積するので、年に一回分解して洗浄する必要が有りました。工場から作業員を出してもらうと金が掛かるので、何時も私が出張して作業しました。

(余談 :SMC社) 1979年頃、日本ではパイロット式直流電磁弁は輸入品を使用していました。国産のパイロット式直流電磁弁を調査する様に命じられていたのですが、国内にはメーカーが有りませんでした。 「焼結金属と言う会社が開発した」と聞いたので、私と同年配の担当者(S君)を呼んで打合せを始めました。

 前述の様に、私は欧米の電磁弁を勉強していましたので、焼結金属工業の製品について細かい質問をしましたが、S君の回答は全て適切なものでした。焼結金属工業は自社製品と欧米メーカー品の詳細で/正直な(社内用の極秘)比較資料を作成していたのです。 納入実績を聞くと、殆ど売れていない事が分かりました。

 東京ガスから、大手重電のH社経由で発電装置の引き合いが来て、私が担当する事になりました。当時、東京ガスは「電磁弁は信頼性の高い欧米の電磁弁しか使用しない」と言う社内規定が有りました。

 S君に、「貴社の納入実績表に、大手企業の名前が書けたら、きっと売りやすくなる」、「この案件に貴社の電磁弁が採用して貰える様に努力するから、全面的に協力して欲しい」と言うと、S君は「極秘の社内資料を私に渡して良い」と言う許可を得てくれました。幸いな事に、東京ガスの担当者もH社の担当者も勉強家で優れた方でした。 東京ガスから特別の許可が出ました。 その後、ガスタービンには焼結金属工業製電磁弁を採用しましたが、(私の知る限りでは)電磁弁は一回もトラブルを起こしませんでした。

 焼結金属工業はドンドン成長されて、社名を『SMC株式会社』に変えられました。今では従業員が2万人ほどの大企業になっています。

社会人になってからの勉強 (その1)

2020-07-18 10:00:26 | 勉強
 今回は、私から高校や大学で勉強している若者達へのアドバイスと、私が入社する前後に頂いたアドバイスについて書きます。

【私からのアドバイス】
 高校生や大学生に、私からのアドバイスを書きます。まあまあ良い考えだと思われたら、ご息女、ご子息やお孫さんに、このブログを推奨して下さい。

≪アドバイス①≫ :長文を書く練習が必要です!
 社会人になったら報告書等の、長文を作成することが必要になります。私は大学卒業して直ぐの沢山の社員に仕事を教えました。1985年頃から、修士卒が多くなりましたが、年々旨く報告書が書けない新入社員が増加して来ました。 現在はスマホの時代ですから、状況は更に悪くなっているそうです。

 社会人に成っての評価は、大学で学んだ学問よりも、文章力によって決まると考えて下さい。 大学を出る前に「長文を書く練習」をして下さい。そして、表現力を高めるために、小説など沢山の本を読む事を推奨します。

 私は『一枚ベスト』と指導して来ました。A4の用紙一枚に纏める事です。特に重役に提出する報告書は、A4一枚に纏め、文字のサイズを『14』か『16』にしました。 大企業の重役が一日に読む報告書は半端な数ではありませんから、小さい文字で書いたら読んでくれません。『16』の文字で、A4一枚にポイントを纏めるためには、相当練習する必要が有ります。

≪アドバイス②≫ :パソコンを買いましょう!
 私の様な人間は、スマホで長文の練習するのは無理です。パソコンを買って、長文を作りましょう!ExcelやPowerPointもマスターしましょう!技術屋を目指いしている学生諸君はVisual Basicにも挑戦しましょう!

 近年、中古を整備して、何年でも使えるソフト(Word、Excel、Internet Explorer)を入れたパソコンを、格安の値段で(amazonなどで)売っています。学生さんでも、小遣いを少し貯めたら買える値段です。

(余談) 長男の嫁さんはスマホで長文を、スラスラと作成します。多分そんなにして作ったと思われる、誤字脱字の無い長文のメールを、時々くれます。 彼女の様な才能が無いので、私が長文を作ると、誤字脱字だらけで、”てにおは”も可笑しいい文章になってしまいます。 白状しますが、このブログはExcelで原稿を作成して、ブログの投稿画面に貼り付けています。

≪アドバイス③≫ :入社したら得意な分野を作りましょう!
 大学で勉強するのは基礎の基礎です。社会人になって『馬鹿にされない/疎まれない』ためには、仕事に必要な知識を得るための勉強が不可欠です。仕事に就いたら出来るだけ早く、「その仕事に必要な知識/経験は何か?」を考えて見て下さい。

 大学を卒業して直ぐなら勉強出来ますが、数年後から勉強を始めるのは難しいです。 東大や京大の工学部を卒業して、数学が必要で無い部署に数年間勤務していた社員が、技術計算が必要な部署に転属して苦労しているのを多々見ました。 彼らは、フォートランの様なプログラム言語を用いて、大形コンピューターで計算する事は、ほぼ出来ませんでした。

 入社したら「あれもこれも勉強しよう」と考えないで、一番必要と思った分野の本を二、三冊精読して、まず得意な分野を作って下さい。 そうしたら、自信が持てる様になり、周囲からも認められる様になります。(私は、後述の様に消音器の勉強から始めました。)

≪アドバイス④≫
 入社して直ぐに、「こんな仕事は嫌だ!」と言って辞めた人が結構沢山いました。私は、預かった新入社員に、「情熱を掛けて仕事に取り組んで見て、それでもこの仕事が嫌いなら、転職したら良い」と何時も言いました。

 子供は遊びが好きです。人類は「遊びが好きになる遺伝子」を持っているのだと思います。 残念ながら「仕事が好きになる遺伝子」は持っていない様に思われます。 「仕事に耐えられる様になる」、更に「仕事が好きになる」ためには、自分で努力する必要が有ります。

≪アドバイス⑤≫ :仕事でミスが続いたら
 本人が気付くのは難しいかも知れませんが、「この仕事は彼には向いていない」と思う事が多々有りました。 そんなケースでは、仕事のミスを連発して怒られ続けることになります。十年もすると付き合いきれ無いほど性格が悪くなってしまいました。

 良い上司に恵まれた時は、上司が動いて他部署に移動させてくれますが、殆どの場合は本人が移動願いを出しても簡単には移動させてくれません。一度しか無い人生ですから、会社を辞めて、全く別の仕事に就く方が良いと私は思います。

≪アドバイス⑥≫ :パワハラとセクハラ
 世の中では「パワハラは犯罪だ!」が常識になってきていますが、大企業でも中小企業でも、パワハラを根絶する事は非常に難しいのです。40年間程の私の現役時代に、部下を虐める社員が10人以上いましたが、注意されたり、免職になった社員は一人もいませんでした。

 「部下がミスしたら上司が怒鳴り付けるのは、当たり前のことだ!」と考える人がいる限り、企業でパワハラを無くすのは難しいでしょう。躁病の人は、躁の状態になると些細な事でも怒鳴り始めます。躁病を理由にして首にすることは、法的に難しい様です。

 支配欲が病的に強い人は、部下を持つ様になると「根掘り葉掘り理由を見付けて」虐め始めます。 この手の人は、『虐め』がどんどんエスカレートして来ます。 不幸にして、この手の人間の部下になったらサッサと転職した方が良いです。

 自分のミスを部下に押し付ける輩(やから)は結構います。この手の人は日常は怒鳴ったり、虐めたりはしません。重要な開発に失敗したり、大きな仕事が受注出来なかった時に、責任を部下に押し付けるのです。 会社に取って極めて重要だった開発が進まなくなった責任を押し付けられて、精神的に可笑しくなりかけた社員を二人知っています。彼等は、精神異常になりかけている事に気付いて、さっさと退職しました。「良い選択だった」と思います。 精神的に耐えられるのだったら、我慢しましょう! 二、三年も経ったら笑い話になります!

 昔は勤務時間中に若い女性社員のお尻を、平気で触る社員が結構いました。20世紀の終わり頃には酒が入った席でも、女性社員の身体に触れる”輩(やから)”は見なくなりました。現在の民間企業では、セクハラをやったら厳重注意に、繰り返してやったら懲戒免職になると思います。 最近・話題になっている故・朴ソール市長の様な”輩”は、被害者が訴え無い限り、事件が表に出ませんから、日本にも沢山いるのだと想像されます。 自分の欲望が抑えられない人は、どんな人種にもいると思われるので、被害に遭ったら退職するか?、勇気を出して訴えるか?考えて下さい。

 会社で嫌なことが続いて、「この世は嫌だ!」と思ったら、精神科の先生のカウンセリングを受けましょう! 一回しか無い人生ですから、楽しく過ごしましょう! 仕事が楽しく無くても、『釣りバカ日誌』の浜ちゃんの様に趣味を楽しむ人生も有ります!

(余談) 久しぶりに会った友人・数人と、東京の高級レストランでディナーを楽しんでいました。隣に大きなテーブルが有って、外資系の企業が女性社員の送別会をしていました。白人の男性が数人、日本人の男性が二、三人、若い日本人の女性が四人程いました。英語でしたが大きな声で喋るので、女性社員の一人が結婚で退社する送別会だと分かりました。「セクハラは犯罪だ!」と日本でも認識されていますが、送別会が終わりに近づいた頃に、白人の男性達が退職する女性を強引に!強く!抱きしめてディープキスを繰り返しました。 白人達は、「未だに日本人は同等の人間だ」とは考えて無いのだと思いました。

(余談) 1995年頃の話しですが、当時・仕事上は全く繋がりの無い大手ゼネコンの所長(TS氏)と懇意になって、時々ですが勤務時間中に雑談していました。TS氏は温厚な紳士でした。ある日訪ねて来て、「さっき新入社員に注意したら、大粒の涙を流して泣いた」と深刻な顔で言いました。 それから数か月して、会社の親しかった管理職が私を部屋の隅に連れていって、「○○君が余りにも凡ミスが多いいので、工場の隅に連れて行って注意したら泣き出した。どんなにしたら良いか分からないから、置いてきた」と言いました。

 私は長男が幼稚園に行っている頃、悪ガキ二人で駐車場の車のガラスを石で割ったので、厳しく叱った事が有ります。次男は悪い事を全くした事が無く、兄弟喧嘩も友達との喧嘩もした事が無いと思います。現在の若者の多くは次男の様に育ったのだと思われます。 会社で少し厳しく言われたら、泣いても仕方がないでしょうね! 気にする必要は有りませんが、叱った方のショックは大きいです。 (俗に言う上級国家公務員試験に合格して官僚になった新人が、「大臣に怒られて泣いた」と言う話を聞いた事が有ります。)

≪アドバイス⑦≫ :英語を勉強しましょう!
 私は英語が大の苦手でしたので、英語について偉そうな事は言えませんが、貿易商社は勿論ですが、製造メーカーでも英語で図面や購入品を手配する仕様書、取り扱い説明書等を作成する事が多くなって来ています。 外国からの旅行者が増えて来ていますから、サービス業でも英語が必要です。

 私が社会人になった1971年頃の国際学会では、既に英語で発表していましたが、フランス人やドイツ人は英語が堪能なのに、イギリス人やアメリカ人に母国語で質問しました。 英米の研究者の多くは、仏/独語が苦手な様で、英語で質問する様に要求しました。紛糾する事が多々有りました。

 戦後・アメリカが強国であり、1993年に(イギリスも参加した)欧州連合(EU)が設立された事も要因になったと思いますが、現在は英語が国際標準語になっています。1985年頃にソビエトに機械を輸出した時でも、提出書類は英語でした。 (私の学生時代は第二言語が必須でしたが、現在では英語だけで事足ります。)

(余談) 私には小学1年生の孫がいます。2年前に幼稚園に入った時から、英語の塾に通っています。もう一人の『ジージ(Tジージ)』は大学で英語を学び、英語を日常的に使う仕事に従事してきたので、英語はペラペラです。Tジージと孫は英語で会話しているそうです。 英語の絵本だったら読める様です。 小さい時に英語に接したら、そんなに努力しなくても身に付くものですね!

【恩師から頂いたアドバイス】
 大学のゼミの先生(D助教授)から、種々のアドバイスを頂きました。 就職先を検討していた時に、K社について相談すると、「K社には優秀な技術者が殆どいないから、君にはピッタリだ!入社して少し勉強したら直ぐに仕事を任せて貰えるだろう!」と言う様な話をされました。 まさにその通りでした。

 K社に入って直ぐに同期で同じ寮に入ったS君と友達になりました。S君が、「当社の社員は勉強しない。二人で勉強しよう!」と言い出しました。寮には狭い・名ばかりの図書室が有りました。 本棚は有りましたが、辞書を数冊置いていただけでした。

 S君はドイツ語の金属工学関係の論文を、私は英語の騒音と振動に関する論文を、図書室で休日に読みました。 K社で出向の嵐が吹き出したら、S君は九州大学に移り、暫くして教授になりました。 教授になっていたS君に偶然・会った時に、「ドイツ語は上達したか?」と聞いたら、「あれから、ドイツ語は全くやっていない」との事でした。

(余談 :株の話し) D助教授は、「技術屋でも、新聞の経済欄を読むべきだ!、上場企業に入社したら、その会社の株を買いなさい。そうしたら、株式欄を読むようになる」と学生にアドバイスされていました。 私は入社して直ぐに持ち株組合に入りました。新入社員と子供達にも勧めました。 大学生諸君にも、株を買う事をお勧めします。

【姉のアドバイス :本を買いなさい!】
 一番上の姉が、「二、三年間は貯金しないで、本を買って勉強しなさい!」と入社した時にアドバイスしてくれました。

 入社後4年間ほど神戸市内の事務所に勤務しました。当時、神戸市には古書店は沢山有りましたが、工学関係の書籍を扱っていたのは、小さな店が2軒しか無かったと記憶します。専門書を扱っていた書店は、売り場面積の狭い『丸善』だけだったと思います。

 丸善の外商担当者が時々会社に来ていたので、学生時代に欲しかった本を注文しました。 最初に買ったのは『機械工学便覧』でした。 問題の項目を調べると言うより、私は機械工学便覧を、小説を読むように何回も読みました。 改訂版が出る度に、この便覧を買いました。

 私の勤務したK社には、中央図書館と各研究所や工場に図書室が有って、だいたい必要な本が保管されていましたが、中小企業に出向したら専門書は皆無と言って良い状態でした。専門書の多くは第一版だけ出版されて、絶版になるケースが多いいのです。 一方、専門書を扱う古書店は、ドンドン店仕舞いして、現在残っているのは神保町の『明倫館書店』だけになっていると思います。

 技術計算をするには種々のデータ(強度、粘度、・・・)が必要です。 データは色々な専門書に散在しています。 絶版になった本にしか記載されていない場合も有るので、明倫館書店に『探求書』扱いにしてもらいました。 二、三か月後に連絡が有ったり、忘れた頃に連絡が有ったりしました。 現在は、amazonから古書の専門書が入手可能ですが、『売り切れ』のケースが多いいです。 そんな時は、インターネットから明倫館書店に探求書の申し込みをして見て下さい。

 欧米で出版されて、絶版になっていない専門書が欲しかったら、輸入代行店に依頼するのが良いと思います。 出版社、本のタイトルが分かれば、結構・短時間で入手出来ます。 丸善経由だと安心ですが、手数料が高くて、時間が掛かります。

(余談) 2017年に私は技術屋を廃業しようと決意して、自宅で保管していた論文と専門書を処分しました。 専門書は若い人達に読んでもらいたくて、明倫館書店に引き取ってもらいました。450冊ほど有りました。 私の恩師の一人・横堀武夫先生の『材料力学』が400円程になって嬉しかったです。 学生時代に古書店で数十円で買った本で、材料の強度が問題になった時、何回か読み返した本でした。 「今でも読みたい人がいるのだ!」と思って、嬉しかったのです。

【先輩・A氏のアドバイス】
 K社に入社して直ぐに、大学の10年ほど先輩(A氏)の知己を得ました。 通勤路が重なっていた事も有って、時々ですが美味しいコーヒーを奢ってくれました。 その時、色々なアドバイスをして頂きました。

 A氏は振動と騒音を研究するチームのリーダーでした。(私の大学には振動や騒音を研究されている先生はいませんでした。) 私は仮配属中で、1年後に正式配属になると言われていました。 A氏の話を聞いていて、振動と騒音の専門家になろうと決心しました。

 K社では超大形の高炉を建設中でした。排気口が大きくなるので、数ヘルツ(Hz)の超低音騒音(超低周波騒音)の発生が予想されていました。日本ではまだ超低周波騒音について研究している人がいませんでした。 A氏が、欧米の論文を沢山コピーして渡してくれました。 この論文を、(前述の様に)休日に寮の図書室で読んだのです。

 A氏のチームに正式配属して貰える事になったのですが、A氏が「まず、機械の勉強をした方が良い!」と言って、ガスタービンの技術導入を始めようとしていたNM課長に「2年間預けるので、みっちり鍛えて下さい」と交渉してくれました。 そんな分けで、ガスタービンに取り組んだのですが、約束の2年が経過しても、NM課長が「もう1年貸してくれ」、次の年にも「もう1年貸してくれ」と言って、結局・A氏のチームに参加する事は出来ませんでした。

(余談) A氏はスポーツマンでスキーとヨットが得意でした。 二、三回スキーに連れて行って頂きましたが、当時は非常に珍しかったアクロバットスキーをやられるのです。宙返りやジャンプ等々。 A氏はクラシック音楽の愛好者で、私も好きだったのでコーヒーを飲みながら話をしました。 1985年頃に久しぶりにお会いした時、アメリカの黒人ソプラノ歌手・キャスリーン・バトルを薦めてくれました。彼女の声は、少し特徴が有り、味が有りますね!素晴らしいです。