これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

柏餅(いびつ餅)

2019-04-13 16:12:00 | 昔の日本
 もうすぐ端午の節句ですね! 今回は、柏餅の思い出を書いてみました。1950年頃、私の山奥のふる里にも店は十数軒有りましたが、日持ちのしない菓子は売っていませんでした。家から、バスで一時間程の所に、和菓子屋が一軒だけ有りましたが、柏餅は家で作る物だったのです。
 余談ですが、柏餅の餅は『搗いた餅』では無く、餡マンの様に『むした餅』です。御存じでした!

【石臼と柏餅】
 私は子供の頃から柏餅が大好きですが、なぜか母は作ってくれませんでした。近所のお婆さんが、毎年4月の下旬になると、石臼で餅米を引き始めるのですが、私は小学校に入る前から毎年、手伝いに行きました。手伝うと言うより、話し相手をすると言った方が正しかったと思います。 5月5日になると、必ず『おいしい!おいしい!』柏餅を数個頂くことが出来ました。

 田舎では石臼は必需品で、どの家にも有りました。石臼を挽くのには、結構な力とコツが必要です。その上、1時間挽いてもわずかな粉しか出来ません。お婆さんは、板戸を開けた蔵の中に石臼を置いて、まだ寒いのに火鉢も無い板の間で、朝から夕方まで数日間も石臼を廻し続けていました。

(余談) 端午の節句には小さい頃から私が”いびつの葉”を取って来ると、母が『いびつの葉で包んだ餡まん』を作ってくれました。母は、砂糖を余り使わなかったので、甘くない”餡まん”でしたが、毎年楽しみにしていました。今でも、私は”肉まん”より、”餡まん”の方が好きです。

(余談) 姫路名物の御座候(=今川焼)をご存知ですか?(株)御座候は美味しい柏餅も期間限定で販売しています。(私は、毎年買っています。) (株)御座候が2005年に新工場を建設された時に、『肉まん・餡まん』製造ラインを建設される事になり、機械の一部を製作させて頂きました。私の好物の『餡まん』は、未だに販売していません。きっと美味しい『餡まん』を開発してくれると、私はもう15年も待っています。

【餅粉で作った”いびつ餅”を食べたい!】
 紀州の田舎では『いびつ餅』と呼んでいました。柏の木が無かったので『いびつ(サルトリイバラ)』の葉に挟んでいたからだと思います。

 田舎を出てからは、端午の節句になると老舗の和菓子屋を探して、柏餅を買いましたが、近所のお婆さんの方が美味しかったと何時も思いました。市販の物は上新粉(うるち米の粉)で、お婆さんのは餅粉(もち米の粉)で作っていたのです。お婆さんの”いびつ餅”は少し色白だった?と記憶しています。

 インターネットに、餅粉で柏餅を作るレシピが公表されているので、今でも、餅粉の柏餅を楽しんでいる方がおられるのですね!

 昨年の今頃、大阪の老舗と思われる和菓子屋さんで、「餅粉で柏餅を作って頂けませんか?」と尋ねてみました。店の奥から先代と思われる方が出て来られて、「作った事が無いので」と断られました。 餅粉で作った柏餅を売っている店があったら是非とも教えて下さい!

【みそ餡の柏餅】
 端午の節句に東京の姉の家に遊びに行ったら、義理の兄が数駅先の和菓子屋まで行ってくれ、「この店の柏餅は特に美味い」と出してくれました。何と!味噌餡でした!

 ゴールデンウイークには、姉の家は出来るだけ避ける事にしましたが、どうしても行かなければならない時が数回有りました。必ず、味噌餡の柏餅が出ました。

 私の大好きだった姉は30年以上前に逝ってしまいました。最近、義理の兄は車椅子が欠かせ無くなっています。

田舎の昔の正月 (その2)

2019-01-05 00:40:44 | 昔の日本
 今回も、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 現在は、お金さえ出せば”餅”、”おせち料理”などなど何でも手に入りますが、昔は家族総出で正月の準備をしました。

【餅つき】
 きな粉も自家製で、12月の中旬に、炒った大豆を石臼で粉にしました。 学校から帰ったら、私も石臼を廻しました。

 餅つきの前日に、母が多量の”あんこ”を作りました。 母は砂糖嫌いの不思議な人で、”あんこ”にも砂糖はあまり入れませんでした。 その夜、杵を水に浸して置きました。
 どの家にも石臼か木臼があり、我が家のは少しひび割れた年季の入った木臼でした。 (1975年頃に、実家では餅つき機を購入して、木臼を処分してしまった様です。)

 八人家族でしたので、早朝から昼頃までかけて、30kg(20升)くらいの糯米を搗きました。 近所に、十人家族の家が有りましたが、一俵(60kg)搗くと自慢していました。 昔は、米を沢山食べたのです!

 私は、皿の上に餡を敷いて、(片栗粉を使用せずに)臼から少量の餅を直接皿に落としてもらい、熱々の餅を餡と一緒に頂くのが楽しみでした。

(余談) 姉の一人が高等学校で片栗粉の作り方を教わってきたので、私と二人で時々作りました。 石臼でジャガイモを磨り潰した物を晒しで包んで、水を入れた容器の中で何回も何回も揉みます。 容器の水は白く濁って来ます。 そのまま放置すると、容器の底に白い粉が溜まります。 水を捨てて、乾燥させると片栗粉になりました。

【年末に豆腐を作りました】
 田舎の店では豆腐を売っていませんでしたので、我が家では一年に何回か豆腐を作りましたが、年末には必ず作りました。

 大豆は貴重な畑ではなく、水田の”畔(あぜ)”で育てました。 近年に撮影された時代劇映画やテレビドラマの水田の周りには、大豆は植わっていませんが、私の田舎では1970年頃まで、ほぼ全ての畔に大豆が植えられていました。

 前日、水に漬けて置いた大豆を、水を加えながら石臼で磨り潰し、釜に入れて炊きます。(もの凄い泡が立ちました。) 木の型枠の上に布(フィルター)を置き、釜の液体を流し込んで、素早く”にがり”を加えると、豆腐が出来ました。

 ”布”の上に残ったのが”おから”です。 私は、”おから”も大好きです。 市販の”おから”より美味しかった様に思います。

 豆腐を作る時、一番大変なのが石臼の作業です。 1960年頃に、母がミキサーを買ったので豆腐作りは簡単になりましたが、この頃から我が家では豆腐は作らなくなりました。

【コンニャクも作りました】
 コンニャクは、皮が黒いコンニャク芋から作ります。 連作障害が無い様で、田舎では毎年同じ畑の隅に植えていました。 虫も病気も発生せず、ほったらかしで育てました。
 容器に竈の灰と水を入れ、コンニャクの凝固剤(灰汁)を作りました。 コンニャク芋と水を桶に入れて、二本の棒を交差させて縛った道具を捏ねて皮をむきました。

 釜で水を沸騰させ、そこに芋を入れて、結構長い時間煮た様に思います。 芋を臼に入れて、杵で叩いて”こねる”だけで、"合いの手“”は要りません。 30分ほど搗いたら、お湯を加えながら搗きました。 杵から解放された時、私は疲れてしまって、何時も隣の部屋で横になっていたので、その後の母と姉達の作業を見ていません。 私の役目は皮むき、杵搗き、竈の火の番でした。

 我が家のコンニャクはスーパーで売っているものより、色黒で硬くて美味しかったです。 田舎に帰ると、今でもコンニャクを植えた家があります。

【棒寿司】
 棒寿司は、11月上旬の秋祭りと、年末の二回作りました。 戦前は、秋に鮎の”なれずし”を作って、正月に頂いたと父は言っていました。

 秋祭りの時の棒寿司は、秋刀魚(サイラ)が主でしたが、正月には鯖、アジ、カマスでした。 鯖以外の魚は頭付きで棒寿司にするのです。 カマスが大好きな姉が、「頭を取って、寿司にして欲しい!」と言ったら、父が酷く怒った事を覚えています。 食べられない頭が嫌だったのでは無く、この姉は尖った物が嫌いだったのです。

 寿司を作る日の朝、私は一人で笹の葉を取に出掛けました。 隣の集落に続いた川沿いの細い昔の道があり、当時はもう殆ど使用されていませんでした。 草ぼうぼうの道で、怖い”マムシ”が時々いるのですが、寿司を作る時期には冬眠しているので安心です。 この小道の脇に、普通の二倍以上大きな葉を付ける笹が自生していました。

 棒寿司は笹の葉で巻いて、木の箱にぎっしり詰めて、蓋をして置きました。 笹の葉の香りが寿司に移って、美味しかったです。

(余談:秋刀魚) 田舎では秋刀魚の事を『サイラ』と呼んでいました。紀州の秋刀魚は脂が少なく、焼いてもボトボト脂が滴る事が無かった様に思います。 棒寿司には、脂の少ない方が適しています。 紀州出身の佐藤春夫の詩、『秋刀魚の歌』には紀州の秋刀魚の方がイメージぴったりだと思います。

【おせち料理】
 大晦日に、母と姉達が手分けして、おせち料理を作りました。 大所帯だったので、沢山作りましたが、特に変わったものは有りませんでした。
 紅白歌合戦が始まる頃までには、正月の準備は完了していました。 我が家にテレビが来たのは1970年過ぎで、まだラジオで聞いていました。 私は、歌謡曲が嫌いなので、大晦日には別室で読書をしました。

【国旗】
 集落の全ての家で、祝日には国旗を掲げました。もちろん正月にも掲げました。 集落には、父が中心になって再建した氏神さんが有りましたが、初詣の記憶は有りません。

(余談) 妻の嫁入り道具の中に国旗が入っていました。  我が家では、1985年頃まで祝日には国旗を玄関先に飾っていました。

【お屠蘇】
 我が家には、”塗り”のお屠蘇のセットが有りました。 結婚後に家内は、日本酒に「屠蘇散」を加えていましたが、田舎では単なる日本酒でした。 元旦の朝は、まず、家族全員でお屠蘇を頂きました。 物心付くころから、幼い私も一番小さい杯で頂きました。 勿論、そのあとでお年玉を頂きました。

 昨年、長男の娘が五歳になるので、「そろそろお屠蘇を飲ませても良いか」と思い、お嫁さんに伺ったのですが、「まだ早い」と言われました。 お屠蘇は何歳からなら、良いと思われますか?

【火鉢と栗】
 我が家は、幹の直径が50cm以上有る大きな栗の木を、山裾に十本程植えていました。 栗は豊作と不作の年が有りますが、不作の年でも食べきれない程の収穫がありました。

 正月には、朝から火鉢に炭を入れ、家族は銘々勝手に餅や栗を焼いて食べました。 私は、皆を驚かせようと、栗の皮に傷を付けずに火鉢に入れたのです。 栗が弾けて、灰が部屋中に舞い上がり、大変怒られた記憶があります。

【凧揚げ】
 12月に入ると、男の子達は奴凧と凧糸を買い、夏の障子の張替えの時に出来た”紙端”を適当に切って、凧の足にしました。 糊は店で買う”物”ですが、昔は御飯で凧に”足”を貼り付けました。

 お年玉をもらうと、タコ糸を数束買い増しして、凧を高く揚げる競争をしました。  そろそろ冬休みの終わりの頃になると、タコ糸を何本も継いで、山より高く凧を揚げたあと、何とかして地上に降ろそうと奮闘しました。  誰も凧を回収する事は出来ず、糸が切れて山の向こうに飛んで行きました。 それで、楽しい正月は終わりになったのです。

田舎の昔の正月 (その1)

2018-12-29 00:31:33 | 昔の日本
 今回と次回は、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 まだ70年しか経っていませんが、日本はすっかり変わってしまいました!

【1950年の田舎】
 1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。この年、私は4歳で、山村の田舎はまだまだ貧しかったです。 この年から朝鮮特需が始まりましたが、田舎の現金収入は山林の伐採、植林、下刈り、枝打ち、間伐などと木材の輸送が主でした。
 木材はトラックでも運びましたが、筏に組んで川を下るのがまだ主流だったと思います。 真冬以外、結構寒くなっても筏下りが行われていました。

 戦争の傷跡が色濃く残っていました。 幼い子を残して戦死された家や、戦争で負傷したり、病気になって満足に働けない人もいました。 どの家にも、昭和天皇と皇后の写真を飾っていました。

 中学校を卒業すると大阪などに就職し、盆・正月と秋の祭りの時に帰省する様になっていました。 都会の生活に馴染めない男達が帰って来たので、村には青年がまだ沢山いました。 女は辛抱強いのか? 辞めて村に帰った女性は少なかったと思います。

【行商人】
 年末になると、背中に大きな荷物を背負った行商人達が、別々の日にやって来ました。男性が二人、女性(Aさん)一人が田舎の店で売っていない、少し高価な洋服や化粧品などを売って回ったのです。私は、紙風船を毎年買って貰いました。 田舎に旅館が有りましたが、行商人はお金を節約するために、何がしかの金を払って普通の家に泊まりました。

 1960年頃には、男性二人は来なくなりましたが、Aさんは1965年頃まで行商を続けていました。

【Aさんの話し】
 Aさんは,ほとんど隣家(B家)に泊まっていました。 B家は、病床の夫、年老いた姑、二人の息子を、女性(Cさん)一人で養っている貧しい家でした。 満足な食事が出せ無かったと思いますが、Cさんは立派な女性だったので、AさんはB家を選んだのだと思います。

 Cさんの旦那さんの病気は段々悪化して、Aさんを泊める事が出来なくなりました。 その間、Aさんは別の家(D家)に泊まっていました。 Cさんの旦那さんは1960年頃に亡くなられ、その後はまた、AさんはB家に泊まる様になりました。

 その後、D家は事業に失敗して困窮する様になりました。 一方、Aさんは、全国紙に『闇の高利貸しをして逮捕された』と言う記事が出て、地方紙には貸した総額(数百万円)まで報じられ、村中大騒ぎになりました。 執行猶予になったのか、Aさんはその後も行商を続けていました。

 後で知ったのですが、Aさんは天涯孤独だった様です。 ある日、Aさんが”ひょっこり”B家にやって来て、そのまま寝込んでしまいました。 死期が近づいた事を悟って、B家で最後を迎えたいと思ったのでしょう!

 10日ほど経って、D家の夫婦が来て、Aさんを無理やり連れて帰りました。 二三か月後に、Aさんは亡くなられました。 その後少し経って、D家は事業を再開したので、「Aさんは沢山お金を持っていたのだろう!」と言う噂が村中に広まりました。 世の中は『花咲か爺さん』の様にはならないものです。 ただし、D家の夫婦は決して悪い人では有りませんでした。

【堀炬燵】
 1950年頃まで、我が家には炉端が有ったそうです。炉端を潰して、板の間に畳を敷いて、炭火炬燵(こたつ)になりました。 その後すぐに、家族8人が座れる大きな堀炬燵に直して、練炭コンロを足元に置いていました。 父の横には、火鉢も置いていました。

 練炭コンロは火力を調節すると、10時間以上暖かかったです。 昼前に点火しても、夜寝る前まで、炬燵は”ぬくぬく”でした。

 食事をする部屋が別にあったのですが、堀炬燵に火を入れると、その上で食べました。 土鍋料理やすき焼きは、別のコンロを炬燵の上に置いて頂きました。

 年末年始は、ほとんどの時間、家族は炬燵の周りで過ごしました。 昔は、今より寒かった様で、炬燵から出るのが辛かったです。

【盆暮れの支払い】
 少し高い買い物は”付け(掛け売り)”で買い、盆と暮れ(年末)に支払いました。 父は山林と木材の商売をしていましたので、年末には町に集金に行き、おせち料理の材料を沢山買って来てくれました。

 集金して来た金で、村の人達に労賃を払い、店の支払いをしました。 当時、田舎にあった金融機関は郵便局と農協だけで、父は現金で集金して来たのです。 大きな風呂敷包みに百円札を入れて持ち運んでいました。

(余談) 1950年頃の大学卒の初任給は3,000円ほどだった様です。 1950年に聖徳太子の千円札が発行されましたが、当時としては余りにも高額だったので、旧紙幣(A券)の百円札が主として使用されていました。 1953年に板垣退助の百円紙幣(B券)が発行されて使用される様になりました。 聖徳太子の一万円札は、1958年に発行されたのです。

【大掃除】
 母か父が、「明日、大掃除をする」と言うと、誰が何をするか決まっていませんでしたが、皆が適当にやったら午前中には家の中が綺麗になりました。 私は、小さいころから、毎年、朝早くに川岸から笹を数本取ってきました。

 年末の大掃除は、家族総出で,天井、壁など手の届かない所のホコリを葉の付いた笹で落とすことから始めました。 お盆の前にも大掃除をしましたが、その時は畳をあげて干したり、障子の張替えもしました。

 五右衛門風呂と竈の煙突の掃除は、父と私でやりました。 煤が付くので、母も姉達も手伝ってくれず、小学校3年頃からは私一人の仕事になってしまいました。

(余談:掃除道具) 部屋の掃除に使う草箒は田舎の店で売っており、大抵の家に大小・2本ありました。 庭や土間を掃く竹箒は自家製か近所の器用な人に作ってもらっていました。 ”ちりとり”は木製で、大抵は旦那さんの手作りでした。 棒の先に細く切った布を付けた”布はたき”は、奥さんが作りました。