これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙の話し (その3)

2019-08-31 15:04:31 | 工業技術
 今回は、昔の和紙の話しと、製紙機械メーカーで得た知識/経験を纏めて見ました。

【私と和紙】
 私が生まれた山奥の村には、1960年頃まで、紙漉き屋が一軒ありました。半数程の家で、原料になる楮(こうぞ)を栽培していました。原料を紙漉き屋に持って行くと、障子紙と交換して貰えたのです。

 私が小学2年生になった時に、町の新制高校を卒業された紙漉き屋の娘さんが帰ってこられて、1年生の担任になられました。私の担任は中年の女性で厳しい方でしたが、紙漉き屋の娘さんは優しくて、綺麗な方でした。休日に紙漉き屋に行くと、先生がもんぺ姿で紙漉きをされていました。黙々と作業されて、話をした記憶は有りませんが、それから時々行きました。

1960年頃、私の田舎の民家にはガラスはまだ殆ど普及していませんでした。玄関は障子と雨戸でした。少々の雨でも雨戸は閉めませんでした。(まだ、民家には電気が来ていなかったので、雨戸を閉めたら家の中が真っ暗になってしまいます。) 和紙は丈夫ですから、少しくらいなら雨に濡れても破れる事は無かったのです。 私の集落は北向きでしたが、家の”軒天井(のきてんじょう)”は1メートル以上も張り出していました。陽光が部屋に差し込まない為で無く、雨が障子に当たり難くする為だったと思います。

 近所に慶応年間生まれのお婆さんが住んでいて、近所の人達は”化け物”だと言っていましたが、優しい働き者のお婆さんでした。1960年頃まで、お婆さんは機織りをしていて、私は時々見学しました。機織りをしながら、昔の話をして貰ったのですが、「昔は、紙の着物が有った」と言っていました。半信半疑でしたが、インターネット上で今でも和紙製の着物が販売されています。

 妻の実家は40年ほど前まで、団扇(うちわ)を作っていました。和紙に柿渋を塗ると極めて丈夫になります。50年以上前に作った”渋団扇”を記念に持ってきていますが、(さっき見てみましたが、)びくともしていません。

【和紙の原料】
 和紙の原料は樹木の『皮』で、洋紙の原料は樹木の『幹』です。但し、麻からも和紙が作られる様です。和紙の主な原料は次の3種類です。

楮(こうぞ) :楮は人口栽培が出来て、繊維が長いので、今でも和紙の原料の主流です。現在は、海外から楮を輸入している様です。

三椏(みつまた) :子供の頃、三椏を栽培している家が有りました。その家の方から聞いた話ですが、「クリーム色の和紙に仕上がって、卒業証書や表彰状に使用する」そうです。

雁皮(がんぴ) :雁皮は栽培が難しいので、自生している木を切って樹皮を剥がし、乾燥させておくと、毎年業者が来て買ってくれました。私の故郷では、雁皮が自生している場所は非常に少なかったで、雁皮を採集するのは子供の小遣い稼ぎでした。

【紙を発明したのは?】
 歴史の教科書では、中国の蔡倫が105年に紙を発明したと書いていましたが、近年、中国でそれよりも300年ほど前に作られた麻の繊維で作った紙が発掘されました。蔡倫は木の皮を用いて、和紙の様な紙を作ったのです。

 私の好きな本の一つは、司馬遷の史記です。史記が完成したのは紀元前91年頃と言われています。司馬遷は、木簡か竹簡に書きました。後に司馬遷は裕福になり、絹布(けんぷ)が購入出来る様になって、絹布にも書いた様です。既に、麻紙は有ったと思いますが、司馬遷は、史記を永遠に残したいと考えていた様ですから、まだ実績の乏しい麻紙は使用しなかったのではと、私は思います。

 日本には、4世紀~5世紀頃に紙に書かれた「論語」などが伝わったそうですが、紙が作られる様になった時期は諸説あって分かりません。

【紙を作る技術の伝搬】
 紙の製造技術は中国から→中東→ヨーロッパに伝わりました。中東とヨーロッパでは木の皮からではなく、麻や木綿の繊維が主だった様です。

 ドイツ人のグーテンベルクが金属製活字を考案したのは、1445年頃です。それ以降、紙の需要は急激に増加したと思われますが、ヨーロッパでは中国発の従来通りの技術で紙を製造していました。

【抄紙機(製紙機械)】
 フランスのレオミュールが、蜂の巣が木の繊維を集めて作られている事に気付き、1719年に「木の幹の繊維から紙が作れる」という論文を発表しましたが、実用化には至りませんでした。 ドイツ人のケラーが、1840年に木材パルプの開発に成功しました。

 1798年にフランスで、手動でエンドレスの金網を回転させる抄紙機が発明され、イギリスで水車動力を利用した抄紙機が実用化して、1800年頃から多量に紙が製造される様になったのです。

 1872年に元広島藩主(浅野長勲)が有恒社と言う製紙会社を日本で最初に設立しましたが、操業は1984年です。1873年に、(24年発行予定の10,000円札の)渋沢栄一が中心になって、製紙会社が設立され、1874年に操業を開始した様です。この会社は、後に王子製紙と社名を変更しました。王子製紙は三井家の資本も入り日本一の製紙会社に成長しました。

 1945年から始まった財閥解体時に、王子製紙は幾つもの会社に分割され、そのご分割された会社は合併をして、王子製紙と日本製紙になりました。(その為に、2社は競合企業ですが三井住友銀行の資本が入っているのです。)

(余談) 間違った記事を時々見掛けるので、老婆心ながら敢えて書きます。戦前の王子製紙は渋沢家や三井家などの資本が入っていましたから、(厳密には)財閥では無かったのです。 製紙業界の巨人でしたから、GHQは財閥の定義を拡大して、王子製紙を無理やり解散させたのだと私は見ています。

【製紙機械メーカ】
 1996年に私が製紙機械のメーカーに出向した時は、世界の製紙機械(抄紙機)業界は大変革中でした。そして二大企業、フィンランドのバルメット社とドイツのフォイト社に集約されました。

 私が製紙機械を手掛けている間に、日本では、バルメット社と提携していた三菱重工と住友重機械工業が、相次いで抄紙機から撤退しました。中堅の日立造船富岡機械が会社を整理しました。現在抄紙機を手掛けているのは、フォイト社と提携しているIHIと、中堅の川之江造機と小林製作所だけになっています。

 製紙設備の周辺機器を手掛けていた中小企業の多くが、転業したり倒産したりしていました。私は、製紙会社から依頼されて残っている(まだやっている)会社を探す仕事もしました。

【製紙機械の思い出】
 私は製紙機械メーカーに出向して直ぐに、振動や騒音の周波数を分析する(高価な)FFT(高速フーリエ変換)を買ってもらって、問題の発生している製紙機械を診断する為に走り回りました。製紙機械は少しづつ改良して、生産量アップや紙質の向上を図るのですが、古い小規模の機械が多数稼動していました。少量の需要しか無い紙は、古い機械を”騙し騙し”使って生産しています。多分、現在も古い機械が稼働していると思われます。動く博物館の様です。

 私が出向した会社は、昔は抄紙機も手掛けていた様ですが、リール(Reel)とワインダー(Winder)、スリッター(Slitter)等に特化していました。製紙会社からのアドバイス依頼は、抄紙機全体に対して有りましたので、出張したら種々の設備を見学させて頂いて、勉強しました。

(思い出 :1) 私が1996年に出向した会社から、自転車で行ける製紙工場が4か所有りました。1工場は、アドバイス依頼は時々有りましたが、工場に立ち入らせて貰えず、注文も頂けませんでした。他の3工場は、出入り自由の特別許可を頂いたので、時間を作って週に2回は勉強に行きました。私が製紙機械を手掛けたのは8年程でしたが、製紙会社に40年間務めた人よりも、新旧、大小、種々の方式の製紙機械を見る事が出来ました。

(思い出 :2) 1920年頃に北海道に納入された機械を、2000年頃に富士市の某工場で診断した事が有ります。お客さん(A社)も、もう臨終に近い事をよく承知されていて、「あと何カ月持つでしょうか?」が問題でいた。手の施しようの無い状態でした。「抄紙機も含め設備全体を、最新の仕様で更新したい」と言われるので、私の会社はワインダーの見積を出しました。

 「こんな古い機械を使っている会社だから、金が無いのでは?」と心配しながら、かなり高めの金額を提示しました。なんと!ネゴ無しで即決してくれました。沢山儲かる事になり、社長が温めていたアイディアを何点も盛り込んで、仕様に無い機能を付きの機械にしました。引き渡しの時に、「こんな事も出来ます、・・・」と社長は得意そうに説明したら、「そんな機能は必要有りません」と言われ、面目まる潰れでした。

 この時試した社長のアイディアは、その後、各社の改造に必要になり、会社として貴重な財産になったのです。A社は競合する製紙会社に、私達が納入した機械の見学を許してくれたので、デモ機の様にさせて頂き、営業活動が楽になりました。

(思い出 :3) 私が出向する何年か前から、工場の隅にチョットした実験装置を置いて、省力化や製品の品質向上の実験をしていました。特許を取得していましたが、まだ、新しい技術の実績は殆ど有りませんでした。某工場のメインの抄紙機を大改造して、大幅に生産量を増やす計画が進められていました。ワインダーも巻き取り速度を大幅にアップする必要があり、出向先の会社に引き合いが入りました。

 私は、見積積算して、顧客を説得する役を担当しました。「単に速度アップだけで無く、製品の品質向上と省力化」を提案しました。製紙会社の重役が私達の提案を受け入れてくれて、話はとんとん拍子に進みました。ワインダーは4人×4直(16人)で操業していましたが、2人×4直(8人)で十分な自動化を提案したのです。

 現場の作業者達は大反対でした。巻き取り時間(作業時間)が大幅に短縮出来ても、『いちゃもんが付く』と予想されたので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の状況を詳細に撮影して置きました。改造は大成功でしたが、現場の責任者は「時間は短縮されていない」と言うのです。ビデオカメラの映像で、時間が分かりますから、責任者は渋々納得しました。

(思い出 :4) 出向先に、元は機械技術者でしたが、独学でシーケンサーを勉強していた優秀な社員がいました。ワインダーの改造を依頼された時に、彼と私は、操作盤をタッチパネルにする提案をしました。当時は、製紙会社では殆どタッチパネルは採用されていませんでした。スタッフも、現場の熟練社員も大反対でしたが、この会社の上層部に技術の進歩を勉強されている方がおられ、採用して頂く事が出来ました。

 完成後、タッチパネルの操作方法を教え、試運転する事になりました。現場の責任者が(多分、失敗を期待して)、それまでは馬鹿にしていた一番若い作業者に操作させました。なんと!何の問題も無く操作したのです。

(思い出 :5) 某製紙会社から振動が激しい抄紙機の診断を依頼され、FFT等の計測器を持って出張しました。設備全体が強烈に振動していて、原因解明に二日も掛かってしまいました。抄紙機に使用されるモータは速度制御が必要なため、古い設備では電圧で速度調節が出来る直流モータが採用されています。

 戦前に製作された古い直流モータの回転部品が、(経年変化で)変形してバランスが狂っていたのです。原因を究明したのに、一銭も払ってもらえず、帰社後社長に嫌味を言われました。日本では技術料を支払う習慣が殆ど無かったのです。他でも、同様のケースが沢山有りました!「技術はサービスだ!」・・・これでは技術者は育てられません。

(思い出 :6) 遠方の会社から、「あるワインダーで特定の紙を巻き取ると断紙(紙が破れるトラブル)が頻繁に起こるので、原因を解明して欲しい」と依頼されました。前述の重いFFT等の測定計器を持って、指定された日時に出張したら、担当者が平気な顔で「計画変更で今日は問題の紙は製造しない」と言うのです。その代わり、私は工場の設備を勝手に見させて頂きました。その後、また電話があり、行ったのですが、「計画変更」でした。

 3回目に行った時は問題の紙を製造していました。紙を乾燥させる設備をドライヤーと呼びますが、ドライヤーの出口に必ず紙の湿度を計測して表示する計器が付いています。表示が「5%以下」になっていたので、運転員に「これでは、断紙しますね」と言うと、「そうなんです! この抄紙機では、この紙は製造出来無いと何回もスタッフに言ったのですが」と言いました。念のために、「異常振動が発生していないか?」データを採取しました。スタッフに、「異常振動は無く、原因は乾燥し過ぎで、紙の強度が低下している為でしょう」と報告したら、「あ、そうですか」と言っただけでした。

 日本は、年功序列・終身雇用の会社が今でも多いいですから、勉強はしない、他人の助言は無視する、仕事は駄目な社員が大抵の会社に結構沢山います。私が務めていた会社では、そんな部下を抱えた課長が、「○○を移動させて欲しい」と部長に言うと、「その課長に能力が無いので○○を使いこなせ無い、無能な課長だ」と評価する様でした。

(余談) 私が勤務した会社では、苦労無しで専務になられた様な方が、「会社を活性化させる為には事業部間の人事交流が必要だ!就いては、優秀な人材を出せ」とか「研究所に新しい研究室を設けるので、経験豊富な人材を出せ」とか言って来ます。「○○と言う、打って付けの社員を出します」と回答するのです。やっと、○○氏をお払い箱に出来たわけですが、他にも沢山同類の社員が残っていました。

紙の話し (その2-2)

2019-08-24 00:28:58 | 工業技術
 前回に引き続き、紙を綿にする機械(エコパルパー)と有機肥料を作る”植繊機”の開発についての話しです。開発を途中で終わってしまったので、何方かが一つでも実現してくれる事を期待して書きます。

【エコパルパー】
 エコパルパーで作った紙綿の特性についても研究したのですが、当時世界一と言われていたアメリか製の機械で作った紙綿を入手して比較しましたが、私の綿の方が種々の点で優れていました。何社かから引き合いが有りましたが、(システムで販売する計画でしたので)機械単体で売る許可が得られず、エコパルパーは一台も販売せずに開発は終了しました。

(余談) 私が定年退職したら、(特許も切れるから)静岡県に有った山本百馬製作所さんに設計ノーハウを伝授しようと考えていたのですが、残念なことに倒産していました。山本百馬さんの機械は、原理を解明しないで設計した様で、不必要な個所が頑丈になっていて、騒音が大きく、大きなエネルギー(電力)が必要でした。

【牛乳パックの紙綿】
 牛乳パックから紙綿を作って欲しいと言う話が入りました。当時、牛乳パックは古紙屋から入手出来無かったので、工場の各部署に、「牛乳パックを持って来て頂きたい!」と言う、回覧を廻しました。直ぐに、沢山持って来て頂けました。本当にありがたかったです!

 真っ白い、フワフワの綿が出来ました。(インクの量は予想以上に少なかったので、綿は白かったのです。)パックの内側に薄い樹脂膜があるらしいのですが、顧客から「その膜も粉砕された様で確認できなかった」と報告が有りました。

【紙綿の利用 :1】
 大手商社のM社から、ドイツ(?)で開発された「アスファルトに紙綿を混ぜる技術」の話しが舞い込みました。道路に敷かれたアスファルトが水を通す様になって、大雨時でも水溜まりが出来にくくなる為にスリップ事故が減少し、車のタイヤが発生する騒音も低下出来ると言うメリットが有りました。

 私は、必要な機械の検討をして、上司とM社の担当者が当時の運輸省に説明に行きました。なんと、運輸省はその技術を知っていたのです。「この技術については他言無用!」と厳しく言われたそうです。当時、市街地を走る高速道路の騒音訴訟が多数争われており、この技術を導入する計画を進めていたのです。一度に施工する予算が取れないので、効果は秘密にして、少しずつ進める腹積もりだったのです。

 現在では、皆さんの身近の道路でも、この技術が採用されています。スリップ事故も車の騒音も、かなり減少していると思われますが、気付かれていますか?

【紙綿の利用 :2 パルプモールド】
 現在、卵(玉子)はプラスチックの容器に入れて販売されていますが、昔一時期、グレーの紙製の容器に入れていました。あの容器がパルプモールド製です。古紙を水の中で繊維状にし、そのドロドロの液を、金網製の型に流し込んで、成形品を作るのです。

 パルプモールドを手掛けている大手の会社に、紙綿を持ち込んで実験してもらいました。水の切れが信じられないほど良いのです。(肉厚の成形品を短時間に製造出来る事になります。) 私の紙綿を水に入れて攪拌しても、繊維の表面に空気が残るので、水切れが良いのだと私は考えています。

【紙綿の利用 :3 藍の茎の無臭発酵】
 藍染の染料は藍の葉を発酵させて作り、茎は不要物です。茎には窒素分が多いいので、腐ると悪臭を発する様です。徳島県の農家から、堆肥化実験の依頼が有りました。彼が待ち合わせ場所に指定したコンビニに、(前稿に書いた町の発明家の)H氏と植繊機、発酵槽そして紙綿を持って行きました。

 彼は、軽トラに藍の茎を満載してやって来ました。 「コンビニの駐車場で処理して、発酵槽をコンビニの出入口から3メートル程の所に設置してくれ」と言うのです。「臭いが出ないのだったら、コンビニの出入口に置いても問題ないはずだ」と言うのです。(24時間営業ですから、悪臭の有無を確認するには最適の場所です。)

 藍の茎は予想に反して水分が少なかったので、殆ど紙綿を添加する必要が有りませんでした。2週間程して、結果を確認に行きました。コンビニの店長から、「臭いは全く出なかった」と聞いて安心しました。発酵槽を開けて見ると、一面に大きなキノコが生えて、発酵はほぼ終了していました。実験は大成功だったのです!

(私の目論見) 神戸港には、野菜や果物が海外から多量に入って来ますが、数パーセントは廃棄されているとの情報が有りました。野菜や果物には水分が多いいので、紙綿を添加して植繊機で混錬したら、無臭発酵する事を既に確認済みでした。私は、神戸港を有機肥料の製造地にしようと考えていたのです。

【紙綿の利用 :4 魚の腸を有機肥料に】
 魚の腸(はらわた)が腐ると酷い臭いを出しますが、植繊機に腸と適量の紙綿を加えて混錬し、紙綿に水分を吸収させると殆ど臭いを出さずに(短時間に)発酵させる事が出来ました。植繊機が排出した処理物は外気より20度ほど高温になりますが、(真冬に行った実験でも)処理物の温度は低下せずに、逆に徐々に上昇し発酵が直ぐに始まる事を確認しました。

 有機物を腐らせる菌には、好気性菌と嫌気性菌があります。腐敗時に悪臭を発生するのは嫌気性菌による腐敗です。好気性菌が有利になる環境にしてやれば、臭いは殆ど出ません。有機物を腐らせて有機肥料を作る時、悪臭が出ると、貴重な窒素分がガスになって飛んでしまいます。

 1990年頃、関西の大手魚屋等から出る魚の腸は、専用のトラックで関西空港の近くの焼却設備に運んで燃やしていました。私達が考案した方法で有機肥料化したら、繊維が沢山入った養分タップリの有機肥料を、安価に製造出来るという確信がありました。(魚粉肥料に繊維を加えた様な、新種のミネラルたっぷりの肥料が出来ると考えたのです。)

 ”甘い桃”や”甘い蜜柑”の農家を、それと無く調べて見ました。(そう言う農家は、栽培ノーハウを秘伝にしていて、詳細は絶対に聞き出せませんでした。)苦汁(にがり)を種々の有機肥料に混ぜたり、魚粉肥料を使用している様でした。「ミネラルが果実を甘くすののでは?」と私は考えています。

(余談) 我が家の庭にユスラウメ(山桜桃梅)を植えていました。魚粉肥料を使ってみると、山形の”さくらんぼ”に近い甘さになりました。散歩する大人達に試食してもらいましたが、「子供の頃に食べたユスラウメより、ずっと甘い」と何人かが言ってくれました。

(余談) イチゴは海に近い畑で育てると、実が甘くなると言う話を聞いた事が有ります。私は、風が海のミネラルを運んで来るからでは?と考えています。

【籾殻粉砕機】
 若い人達の為に(老婆心ながら)、白い米をどんなにして作るか?書いておきます。①稲の実が付いている所を”稲穂(いなほ)”と呼びます。→②稲穂から実を外す事を”脱穀と呼び、”籾(もみ)”なります。→③籾の表面を覆う殻を”籾殻”と呼び、籾殻を除去したら”玄米”になります。→④玄米の表面を削る事を”精米”と呼び、”精白米”と”米ぬか”が出来ます。精白米を袋に入れて、スーパーなどで販売しているのです。

 脱穀は稲穂を扱(しご)いたり、叩いたりしても出来ますが、私が子供の頃は、どの家にも木製の足踏み式脱穀機が有りました。

 精米は、一升瓶に籾を入れて木の棒で根気よく突いても出来ます。私が育った集落に、田畑を所有しない(よそ者の)独身の男性が住んでいました。彼の家が火事で半焼した時、一升瓶に籾を入れて精米途中だったのです。彼は、夜中に他人の田から、籾を盗んで来て米を得ていたのです。集落の人達は、雀が食べるていると思い込んで、愉快な案山子を作ったり、色とりどりのテープは張ったり、雀除対策の競争をしていたので、一升瓶を見て皆で大笑いしました。彼は、その後も盗みをしましたが、集落では許容していました。私の父は雀対策競争には参加しなかたので、多分、彼が犯人だと知っていたと思います。(籾の被害は夜に発生しましたが、雀は夜は寝ています。) 集落の各家から建材を持ち寄って、総出で彼の家を建て直しました。小さな家でしたから、二三日で完成しました。

 子供の頃、足踏み精米機を使用している農家が有りました。精米は子供の仕事でしたから、その家の子供と遊ぶためには、私も手伝う必要が有りました。水車精米機も動いていました。どちらも、石臼に籾を入れて、太い棒を上下させて、籾を突いて精米をするのです。

 村に一軒、モータ駆動の精米機を置いた店が有りました。我が家はそこで精米してもらいましたが、”精白米”と”こめ糠”だけでなく、籾殻も持ち帰らなければなりませんでした。籾殻は結構厄介ものなのです!

 もみ殻は軽い上に、なかなか腐りません。田にすき込んでも、水を張ると浮上して、排水口や排水溝を詰まらせてしまいます。昔から、全国の農家では籾殻は焼却していました。然し、チョロチョロとしか燃えてくれず、その上煙が酷いのです。長野オリンピックの時に、「信州では籾殻の焼却は禁止された」と言う記事を読みました。その頃から、全国的に焼却は難しくなって行きました。

 植繊機の販売を始めた頃、「某JAの籾殻倉庫が満杯になっているので処理してやって欲しい」と言うので、トラクターと植繊機を持って行きました。真新しい大きな倉庫が、ほぼ満杯になっていました。処理(粉砕)を始めると、農家の方が沢山集まってこられて、見物されていました。粉砕した籾殻が吸水するか?等実験していたら、「貰っても良いか?」と言われる方がいて、「どうぞ」と答えると、皆さんが軽トラに積み始めました。

 植繊機は試作1号機から、籾殻の様に硬い物でも処理出来る様に、摩耗が激しいと予想される個所には硬度の高い材料を使用し、その部分だけ取り替えられる構造にしていました。電動の植繊機は、籾殻粉砕機として、今でも販売されているようです。

【町の発明家】
 この開発をやっていた頃、3人の町の発明家と時々話をする様になりました。皆さん、それぞれ独特の個性が有って、(普通の正常な人は付き合いきれないと思われますが)私にとっては愉快な方々でした。

 A方式が良いか?B方式が良いか?議論していたとします。町の発明家はA方式が良い、私はB方式の方だと言ったとします。暫くすると、彼は「君はA方式が良いと言ったが、君は馬鹿だ!絶対にB方式で無いとだめだ!」と言い出します。「貴方がA方式と言いましたよ」と言うと、二度と会ってくれなくなるのです。そういう性格だから、次々とアイディアが湧くのでしょう。

 その後、新たな町の発明家3人の面識を得ました。6人に共通していたのは、特許権を数件取得して、その内の1件か2件で纏まった金を手に入れましたが、金を使い切って、私がお会いした頃は夢を追って生きていました。町工場の社長さんだったりで、生活に困っている方はいませんでした。

(余談) 終戦直後、瀬戸内海には海賊が出没して、闇物資を輸送する船から法外な通行料を取ったそうです。海賊は、旧海軍の機関銃付き小型船を使用していたそうです。町の発明家の一人から、「旧海軍の小型高速船を入手して、四国から大阪・神戸に闇物資を運んで大儲けした」と言う話を、よく聞かされました。

【エピローグ】
 1993年に阪神淡路大震災が発生し、会社の設備が多数破損しました。会社の経営が苦しくなって、開発費の大幅削減が始まりました。その為に、私達の開発は1995年度で終了する事になってしまいました。会社での仕事はエコパルパーと植繊機が最後の仕事になりました。そして、私は出向する事になったのです。

 私は技術屋として自信が有ったので、”武者修行”の様に、会社とは取引の無い企業に出向して、全く経験の無い分野で”力試し”をしたいと申し入れました。色々有りましたが、最後には私の希望を認めて頂きました。

 最初は製紙機械の設計/製造の技術志向の小さな会社に出向したのですが、私の会社の理不尽な命令で別の会社に回され→・・・結局定年までの10年間で5社に出向しました。製紙機械、製薬機械、食品機械、フィルムの機械、熱交換器など・・・。数学、機械工学だけで無く、電気工学の知識が必要な機械も担当しました。技術屋としては、出向してからの方が、充実した楽しい日々を過ごす事が出来ました。武者修行に出て、大正解だったのです!


★★★★★★★★★★★★★★★★
(余談) 私の長男には、安倍晋三氏と同じようなアレルギー性の持病が有ります。「無農薬有機野菜だとアレルギーの発症を抑えられるかも?」と言う記事を読んで、(会社では誰にも言いませんでしたが、)有機農業の研究に取り組んだのです。開発終了が決定する数週間前に、息子さんが米アレルギーで大吟醸酒を作る米しか食べられない母親から、「家庭で大吟醸酒米が作れる、手頃な価格の精米機を開発して欲しい」と言う手紙が来ました。

 当時、息子は少し病状が良くなっていましたが、具の入っていない小さな”おにぎり”を一日に一個しか食べられませんでした。自分事の様に思えたので、早速、家庭用精米機のメーカーを調査し、何とか出来ないか?検討しました。結局時間切れで、開発出来ませんでした。今でも、心残りです。

紙の話し (その2-1)

2019-08-17 11:27:09 | 工業技術
 私は、足掛け10年以上、紙関係の仕事をしました。今回は、最初に取り組んだ『水を使わないで紙を綿状にする機械』を開発した時の話しです。話が長くなってしまいましたので、二回に分けて投稿します。

【開発の経緯】
 1990年頃に古紙の価格が暴落して、一部の地域では古紙を回収してくれる業者がいなくなりました。「開発費を支援するから、古紙の新しい利用技術を提案して欲しい」と政府が大手企業に通達しました。これから述べる機械の開発は、その要望によって始められたのです。

【発明品の見学】
 昔、私が嫌いだった上司がいました。彼に追い出されて、私は別の部署に転勤していたのですが、突然、「某社が特許出願中の機械を見て、感想を聞かせてくれ」と電話が有りました。当時の上司から「行ってやれ」と言われたので、渋々東京まで出掛けました。

 少し胡散臭い会社で、①(日本を代表する)T大学のA教授の発明で、②超音波を発生させて紙を綿にする、③アメリカ製の特殊な送風機(ブロワ)をベースにしている、④電力消費量が極めて少ない、⑤特許使用契約を締結するまで機械の内部構造は開示しない、・・・と事前に説明されました。

 新聞紙を裁断して機械に投入すると、綿状になって排出されました。それまでの見学の時は、2~3分で停止させていた様ですが、私が手で機械の振動を見たり、金属の棒を機械に当てて振動音を聞いたり、種々質問したために、この時はあっという間に10分近く経ってしまいました。急に紙片を吸い込まなくなってしまったので、「内部で詰まってしまった様うですね!」と言うと、機械を分解してくれました。多分、もう十分金を巻き上げたので、これ以上騙すのは可愛そうだと考えたのだと思います。

 私は入社以来、音と振動についても勉強していましたので、超音波で紙を分解すると言うのは眉唾だと思いました。機械にはアメリカの会社の銘板が貼られていましたが、同じ構造の国産メーカを知っていました。モータをインバーターで制御していましたが、普通の電力計で計測していましたので、計測値が少なく表示される事を知っていました。(故意に嘘を言っていたのか?無知だたのか?とにかく、説明は出鱈目だったのです。)

【国立大学の特許】
 昔は、国立大学や国立の研究所が取得した特許は、使用願いを出すと、どの企業にも使用許可が出る事になっていました。一見公平な制度の様に見えますが、まったく馬鹿げた制度なのです。(現在は、改められています。)

 A大学からB社が使用権を得て、ある機械を苦労して開発したとします。その機械を上市すると好評でした。それを見ていたC社が、A大学に特許の使用願い出すと、必ず許可が得られるのです。それでは、可能性が有ると思われる特許でも、実用化して見ようと思う企業は殆ど無いのです。

 一方では、発明者の先生達に支払う特許料は微々たるものでした。先生達の発明を、自分の名前で出願して、企業に売る商売人が登場する事になります。素晴らしい発明は少ないので、骨董商の様に怪しげな(紛い物の)アイディアでも金を稼ぐ必要が有ります。

 この発明品の場合は、機械の運転を見たいと言うと数百万円、二回目の見学を希望すると2~3百万円の追加料金を支払う必要が有りました。私は、三回目の見学会に参加したので、総額は一千万円にもなっていました。

【嘘から出た実(まこと)!?】
 私は、機械の運転を見ながら「どんな原理で紙綿になるのか?」考えていました。「超音波で無いとしたら、・・・」。機械を分解して、内部構造がわかった時、ふと子供の頃に見た情景を思い出しました。

 私は子供の頃、洪水が起こると、木材が川岸の岩壁に衝突するのを見にいきました。(時々しか起こりませんでしたが、)丁度良い角度で激突すると、木材の先端が見事に砕けて、”ささくれ立つ”たり、裂けたりするのです。もし、そんな現象で紙が綿になっているのなら、目詰まり対策は出来そうだから、『噓から出た実』で、この機械は物になるかも知れないと思いました。

 然し、私の考えを言ったら、嫌な上司の下でまた働く事になるのが必定でしたから、黙っておくことにしました。

【結局、開発を担当する事になりました】
 暫くたって、上司から「来週から、○○工場に出勤して、例の機械を開発しろ!」と命令されました。人事異動は出ず、私は貸し出されたのです。私は、他部署に貸し出されて、その部署の開発を担当するのは、この時で4回目でした。(開発に全て成功しましたが、その部署には存在しない人間ですから、結局4回とも私の成果にはなりませんでした。)

 例の会社から、私が見た装置が一式送られて来ていました。私は、早速目詰まりを回避する大胆な改造を行いました。これで駄目なら、手を引こうと考えていましたが、上手くいったのです!

【綿になる現象を確認しました】
 開発を始めて直ぐに(1993年2月頃)、矢が刺さった鴨が話題になり、NHKでクロスボウで放たれた矢の超高速映像が放映されました。1秒間に何コマの映像か凡その計算をして見ると、1万コマ以上だと分かりました。(テレビは、1秒間に30コマです。)機械の内部を、この高速カメラで撮影したら、綿になっている状況が確認出来るだろうと思いました。

 早速、メーカーを調べたら、フォトロン社でした。価格は確か1,300万円ほどだったと思います。1,150万円が限界だと言われたのですが、私が用意出来たのは400万円ほどでした。映像機器をレンタルしている映像センター社に、「フォトロン製超高速ビデオカメラが如何に優れ物で有るか」売り込みました。「10日間400万円のレンタル料で、貴社の最初の顧客になるから、貴社で購入して欲しい」と説得して、成功しました。

 機械の一部を透明なアクリル製にして、光が内部に入る様に工夫しました。撮影は大成功で、私が予想していた様な原理で古紙が綿になっていました。大型化する為のポイントが分かり、機械の寿命を延ばす為に必要な改善点も把握出来ました。完成した機械は構造がシンプルで、製造原価を安く抑える事が出来、消費エネルギーが少ない優れ物でした。 嘘が、本当に実(まこと)になったのです!

【特許の修正】
 出願されていた特許は、超音波で綿にすると言う前提の内容でしたので、私が全面的に書き直し、私を発明者に追加して再出願しました。当時は、出願後1年以内であれば、明細書の修正が出来ました。例の胡散臭い会社経由で出願したのですが、私の名前を削除して提出していました。その為に、私は特許料を1円も頂けませんでした。 (この機械は、エコパルパーと命名して商標登録しました。)

(余談) 私が発明者の一人だと、特許庁に異議申し立てしたとします。特許庁が私の主張を認めたら、(読者は)私が発明者に追加されると思われるでしょう! 実際は、その特許が無効になってしまうだけなのです。

【大型機を開発しました】
 紙綿からコンクリートパネル(コンパネ)を製造するのが、開発の目的だったのです。従って、試作機の10倍程の処理能力が必要でした。直ぐに大型機の設計/試作に着手しました。大型機は何の手直しをする事無く、目標の性能を達成しました。コンパネ製造のレシピを研究していた開発チームに、必要な紙綿を供給するのを兼ねて、大型機の耐久試験に入りました。 (私は、珍しく暇になりました。)

【有機肥料を作る機械(植繊機)の開発】
 (当時、大手の)K製鉄会社の重役だった方(Y氏)が、早めに退職され、田圃を買って趣味で有機農業に取り組まれていました。Y氏がK社の某工場の技術陣に雑草から有機肥料を作る機械の開発を依頼しました。K社は、町の発明家(H氏)の協力を得て開発を続けてきましたが、暗礁に乗り上げてしまいました。H氏は、機械で処理した物を入れて、効率よく発酵させるビニールシート製の発酵槽を試作済みでした。 モンゴール人のテント(ゲル)状で、直径1.5m×高さ2mほどの大きさでした。

 耐久試験に入った頃、H氏が訪ねて来て、K社の機械を見てアドバイスして欲しいと言いました。K社に行くと、課長以下数人で機械を運転して、最後に機械を分解して見せてくれました。種々の分野で使用されている、極ありふれた原理の機械でした。問題の原因を理解出来ず、逆の方向に改良していたことが、直ぐに分かりました。 ”引く”相撲取りは大成しませんが、開発では『押して駄目なら、引いてみろ!』が重要です。K社は、押して、押して、押しまくっていたのです。

 アドバイスしようとしたら、「もう懲り懲りなので、貴方に任せたい。この機械を差し上げます!」と言われました。同行していたH氏が私と二人で開発したいと言うので、引き継ぎを了承しました。失敗の試作機を貰っても参考にならないので、機械の貸与は丁重にお断りしました。

 H氏と、二日間掛けて試作機の検討をしました。K社の機械はモータ駆動でしたが、H氏は田畑で運転出来る様に、トラクターの出力軸での駆動を強く要求しました。試作一号機はトラクター駆動とし、二号機は電動機駆動にする事にしました。(試作一号機は、四カ月程で完成しました。)

 二人の名前で特許を出願し、『植繊機』という商標登録もしました。殆どは私のアイディアだったのですが、彼は時間が経つと全てのアイディアを自分が出したと言い出し、最後には私が特許を盗んだとまで言い出しました。そして、「君とは絶交だ!」と言ったので、それ以来、彼とは会っていません。植繊機は、今でも販売されています。

【私に自由が与えられました】
 話が前後しますが、大型機の耐久試験に入り問題が発生していなかったので、「本来の職場に返して下さい」と申し入れました。「他の開発チームの開発が遅れているから、君の開発チームはそのままにして、開発費は今まで通り出すから、好きな研究をして待っていろ」と言われました。

 直属の部長から、「(他の課の若手社員)S君に特許を、I君に流体力学を、T君に設計ノーハウを、・・・を教えてくれ」と言われました。私の開発チームには国立大学の修士卒の新人が二人いましたので、若手数人の教育係になったのです。その上、仕事が全く出来ない私より年上の社員二人を、「人件費は別に出すから、君の部下にする」とまで言われました。(この二人には手を焼きました。)

 植繊機の引き合いが入り始めると、営業部隊を作る事になり、部長職の方と”ひら”営業マンを私の部下にする命令が出ました。部長職の方は人格者でしたが、アイディアが全く出ない方で、細かい所まで私が指示する必要が有りました。ひら営業マンは、「君は、僕の上司ではない!」と言い張りました。彼の考えは正論です。私は、(人事上)その部署には存在しない幽霊社員でしたから。

 会社の金で田圃を借りて、トラクターをリースし、草刈り機等々を買って、有機農業に詳しい方に指導をお願いして有機農業の実験をしました。有機農業関係の書籍を沢山購入して勉強しました。 私の会社人生の中で、この時期は一番気楽で楽しかったと今では思います。

紙の話し (その1)

2019-08-10 11:41:39 | 工業技術
 今まで、余り技術屋らしい記事は書いて来ませんでしたが、私は一応、端くれの技術屋です。今回から、皆さんに身近な紙について書きます。

【紙はプラスチックの代替品になる!?】
 近年、プラスチックゴミを減らす運動が世界的になって来ています。その象徴がプラスチック製のストローの廃止です。紙製のストローの目途がついたので、出来る所から始めようと言う運動です。

 ヨーロッパ諸国では30年以上前(1990年頃)から、プラスチック製品を減らす取り組みが始まっていました。日本では、少し大型の家庭電器製品を買うと、製品を固定するために成形した発泡スチロールが用いられ、それを段ボール箱に入れています。ヨーロッパでは、発泡スチロールを使用すると、メーカーが持ち帰る事になっている様でした。某大手企業から、私に「発泡スチロールで無い緩衝材を共同開発しませんか?」と言う話が来ました。

 「日本では何故発泡スチロールの緩衝材が許容されるのか?」疑問に思い調べてみました。中小企業の多いい、発泡スチロール製緩衝材のメーカーを潰せないと言う、政治的判断が主な理由の様でした。それ以来、プラスチック・ゴミについて情報を集めています。

 緩衝材は、古紙を原料とするパルプモールドで作る事が出来ます。パルプモールド業界は、現在元気が無くなっている様に見えますが、プラゴミを減らす運動が盛んになると、活気を取り戻せると私は考えています。

【紙の分野では、日本はガラパゴスです】
 紙の分野では、日本はガラパゴス諸島の様な、貴重な存在です。紙はISO(国際標準化機構)とJIS(日本工業規格)の規格が有りますが、日本では規格に無い特殊な紙が種々市販されています。

 製紙会社から、製紙機械メーカーに「こんな紙を作りたい!」と言うと、外国のメーカーだと「開発費用は?、需要は?、価格は?、利潤は?」と考えてから始めます。日本では、「何とかして顧客の要望に応えたい」と考えて、取り敢えず開発を始めてみます。

(例 :新聞用紙) 薄くて強度の高い新聞用紙! 日本経済新聞は、他の大手全国紙よりページ数が多い様です。配達員の負担を軽減する為には、ページ数が増えても重くならない→紙を薄くしたい。 一方、日本の大手全国紙は発行部数が多いい→三菱重工が輪転印刷機の高速化を進めた→紙の強度を高める必要が有った。(大昔、私は2回、新聞社の輪転機を見学しましたが、現在の輪転機は全く別物だそうです。新聞社は見学会をやっていますから、是非とも参加して見て下さい。見られたらビックリされると思います!)

(余談) 新聞の印刷は配達時間厳守の為に、印刷中のトラブルを極力抑える必要が有ります。紙の強度不足で印刷中に紙が破断したら、輪転機を一旦止める必要が有ります。紙の破断原因として想定されるのは、紙の強度だけでは有りません。昔、私が出向していた製紙機械のメーカーは、独自の優れたアイディアの装置を、新聞紙を製造する製紙メーカの殆どに納入していました。

(例 :新聞用紙) 2000年頃に聞いた話ですが、元旦の一面(第1ページ)は白い特別な新聞用紙を使用するそうです。昔から、各社とも一面に天皇陛下の写真を掲載するからだそうです。

(例 :紙のサイズ) 紙のサイズには色々有りますが、私達の身近に有るのはA列とB列の2種類です。B列はISOにも規格が有りますが、日本のB列は少し(6%ほど)広いです。(昔は、何故か官庁に提出する書類はB列の用紙が要求されました。図面はA列でも許容されましたが、A列とB列の紙を製本する事になりましたから苦労しました。)

【製紙設備の見学をお勧めします!】
 製紙会社も工場見学会を開催しています。一般に製紙工場は暑くて綺麗な環境で無いので少し覚悟して参加する必要があります。苫小牧に行かれたら王子製紙の新聞用紙の製造ラインを、是非とも見学して下さい。幅8メートルの紙が、一分間に1.7キロメートルの速さ(時速100キロメートル)で流れています。(四直三交代で24時間操業していますから、)一台の機械で、一日に8m×2,400kmの紙を製造している事になります。

 私が知っている超大型の製紙機械(抄紙機)は、日本製紙の石巻工場とレンゴーの八潮工場にも有ります。最新鋭の抄紙機はいわき大王製紙に有ります。残念ながら、3工場とも公開していません。子供達に工場見学をさせるのは、良い思い出作りになると思いますよ! 「全国社会科見学施設一覧」で検索すると、種々の分野の工場見学会が紹介されています。

【洋紙の原料】
 洋紙の(元の)原料は木の幹です。現在市販されている紙の多くには、古紙が使用されていますから、古紙も原料と言えます。古紙が100%の紙も有ります。

 日本は雨が多いいので木が良く育ちます。国土の大半は山林ですから、紙の原料は自給出来そうに思いますが、現在は大半を輸入しています。木材チップかバージンパルプとして輸入しているのです。詳しく知りたい方は、「日本製紙連合会」のホームページを開いて見て下さい。

 木材から得た”繊維”をパルプと呼びます。細かい話を省略すると、パルプには、機械パルプ、化学パルプと漂白パルプの3種類があります。これらのパルプを乾燥して、板状かロール状に成形したものが”バージンパルプ”です。

機械パルプ(MP) :①木を伐採→②木材を破砕→③木材チップ→④水中で砕いて繊維にする→⑤機械パルプ

化学パルプ(CP) : ③木材チップ→④釜にチップと薬品を入れ高温/高圧で煮る(蒸解工程)→⑤化学パルプ

漂白パルプ :⑤蒸解工程のあと→⑥薬品で漂白する→⑦漂白パルプ

 元の木材が100%だったとすると、機械パルプの歩留まりは80%、化学パルプは50%になります。化学パルプは蒸解工程で、繊維のリグニンを除去しています。機械パルプで作った紙よりも格段に強い紙(クラフト紙)が得られます。クラフト紙は薄い茶褐色で、セメントの袋や、(身近では、)クラフトテープに使用されています。

 機械パルプは最初は白色ですが、リグニンが残っていますから、時間が経つと色が付いてきます。機械パルプは新聞用紙が代表例ですが、現在の新聞用紙は古紙が混入されていますから、純粋な機械パルプ紙では有りません。

【繊維の構造】
 植物の繊維は三層になっています。真中の円を大きく、三重丸を書いて見て下さい。一番外の層がリグニン、真中がヘミセルロース、一番内側をセルロースと呼びます。綿の繊維は、ほぼセルロースです。セルロースは水には溶けません。人が食べても無害で、体内の菌が分解するので少し吸収してエネルギー原になる様です。

 私が見た工業用セルロースは、真っ白い、サラサラした紛体でした。セルロースは種々の分野で使用されています。セルロースは、ニトロセルロースにして樟脳を添加して、熱を加えるとプラスチックの様に成形出来ます。(これが、セルロイドです。)昔は、映画のフィルムや、キューピー人形等にも使用されていましたが、非常に燃えやすいので現在は、身近な製品には殆ど使用されていません。(セルロースは入手可能ですが、自然発火する恐れが有りますから、素人には危険物です!)

【繊維が絡まって紙になります】
 1993年頃、キーエンス社から顕微鏡を借りて、種々の紙の表面を観察した事が有ります。残念ながら映像の記録は残せませんでした。普通の光学顕微鏡では無理ですが、キーエンス製では繊維の太さ、長さ、絡まり状態がはっきりと確認出来ました。繊維の太さも種々で、長さもマチマチな事が分かりました。

 紙は、接着剤で繊維をくっ付けている分けではありません。無数の繊維が複雑に絡まり合っているだけです。

【着色した紙】
 2000年頃の話ですが、大手製紙会社の某工場で数人の女性達が、1メートル四方程に裁断され、着色された紙を、高さ1メートル程に積んで、一枚一枚目視検査していました。気の遠くなる様な作業です。

 着色した和紙が市販されていますが、完成した紙を染めている様です。洋紙は漉く前に繊維を染めていました。色ムラが出易いいので、検査が必要とのことでした。

【塗工紙】
 紙の表面がツルツルで光沢が有る紙を見掛けますが、炭酸カルシウムやカオリンの粉を糊(や接着剤)に混ぜた塗料を紙に塗布してたもので、塗工紙と呼ばれます。塗工紙に印刷すると綺麗に仕上がりますが、古紙の再利用と言う点では、好ましく無い紙です。

 某大企業では、事務所で出るゴミの回収箱が、塗工紙用と他の紙用が別になっていました。然し、一般家庭で塗工紙を分けるのは難しいですから、なるべく塗工紙を使用しない社会になる事を期待しています。

【カレンダー(calender)】
 二本のロールを強く押し付けて、その間に紙を通すと紙の表面は平坦になり、光沢が出てきます。より平坦に、より光沢を出したかったら、何組ものロールの間を通します。この装置をカレンダーと呼びます。

 専門用語では、1回圧力を加える事を『1ニップ』と呼びます。印刷用の紙は、8ニップ~12ニップです。塗工紙ほどの光沢は出ませんが、私にとっては十分過ぎる光沢のある紙の様に思います。

(余談) 製紙の分野の人でも、英文の資料を書く時、歴のカレンダー(calendar)のスペルを使用される方がいますが、製紙のカレンダーは”calender”です。

昔の田舎の集会と現在の町内会

2019-08-03 11:44:39 | 社会問題
 今回は、私の子供の頃の田舎の集会と、家を建てた頃からの都会の町内会の話しです。田舎の集会は生活に関係した重要なものでしたが、現在の町内会は『エゴ(ego)』のぶっつけ合いの様で、主な問題は”家庭ゴミ”の様です。お祭りの盛んな地域では、今でも町内会は重要な存在の様ですが!

【田圃の用水路】
 私の育った山奥の集落の田圃は、川上の少し大きな谷から水を取っていました。用水路の長さは10キロメートル以上有りました。5か所の集落が共同で利用していました。

 集落の集会の、最大の課題は用水路の維持/管理と水の配分でした。毎年、田植えシーズンの前に、五つの集落の代表が、日時と分担の場所を決めて、用水路の草を引いたり、ドロを除去しました。各家から何人出るかは、集落の集会で決めていました。私には姉が5人いるのですが、男は私だけでしたから、小学生になった頃から、母と私が参加しました。ワイワイ、喋りながらの仕事でしたから、結構楽しかったです。

 五集落の集会で、各集落に割り当てる(24時間制の)取水時間を決めるのです。例えば、7日の18時~23時はA集落が取水して良いと言う様に。そして、集落で、各家の取水時間を決めました。

 自分の家の時間になったら、真夜中でも取水口を開閉しなけれなりません。時々、”ずる”をする人が出ましたが、大喧嘩にはならなかった様です。

 山の上に、結構立派な五集落の神社が有りました。毎年、数十人集まって、お祭りをして、最後に餅まきをしました。五集落の住人が「大切な用水路を維持/管理しなさい!喧嘩しないで、用水路の水を分かち合いなさい」と言うために昔の人達が建立した神社だったと思います。1975年頃に、家内を連れてお参りしましたが、現在は無くなっている様です。

(余談) 1950年代に大渇水があって、米が殆ど収穫出来ない事がありました。その後、川から用水路にポンプで水を汲み上げる設備を村が設けたので、五集落の結束は必要でなくなって来ました。

【集落の道】
 集落には、軽自動車がやっと通れる程の道が2本有りました。石垣が崩れたりすると、集落の集会で修復の相談をしていました。

 殆どの家で、農耕用の牛を飼っていましたので、道端の雑草は自由に刈り取って飼料にしていました。奪い合いになる事は、全く有りませんでした。

(余談) 小学生低学年の頃、父と二人で羊の子供を2頭貰って来て、私のペットにしました。最初は、小さくて可愛らしかったのですが、直ぐに大きくなってしまいました。勿論、我が家でも牛を飼っていました。私は、大きな竹籠と鎌を持って、集落の道の草を刈り取って、羊と牛にやりました。父から、羊を週2回ほどは散歩させる様に言われていたのですが、美味しい草を見付けたら動こうとしなくなりました。羊はペットには向きません、主人の言う事は完全に無視しますから。

【子供達の仕事】
 小学生の子供達で、①集落の氏神さんの草引き、②集落の墓の草引き、③田圃の畔の野焼きを毎年しました。何時やるかは、大人達で決めていました。草引きは蚊に刺されながらの仕事で大変でしたが、野焼きは楽しかったです。野焼きの時は、大人達は遠くで見守っていました。高学年の子供達が、低学年の子供達が火傷しない様に注意/指導して火を付けて回るのです。

(余談) 各集落に氏神さんが有りました。 私の田舎だけの風習かも知れませんが、初宮参りはその家の氏神さんに参りました。男子が町に出て一家を構えても、ふる里の氏神さんに参るのです。私の集落では、赤ちゃん、嫁さん(母)、父親の母(祖母)の三人が、お菓子を持って氏神さんに参りました。初宮参りには、決して男は参加しませんでした。(氏神さんにお供えしたお菓子は、子供達が早い者勝ちで奪い合いました。)

【集落の集会】
 私の育った集落の集会には、集会場、規約、積立金、会長制も有りませんでした。集会が必要な時は、「何日の何時に、誰々の家に集まって下さい」と、誰かが言えば良いのです。お金が必要な事は滅多に有りませんでしたが、”奉加帳”の様な物を作って回覧しました。

 皆でやる作業に人を出せない家も有りましたが、誰も文句は言いませんでした。老人だけの家や、ご主人が亡くなった家の田植えは、「○○家の田植えを××日にやる」と誰かが言って、近所の人達が手伝いました。私も、そんな田植えに毎年参加しました。無駄話をしながらやったので、楽しかったです。

【集会場】
 男達の出稼ぎが始まって、経済的に少し余裕が出来てきたら、集落の奥さん達が”婦人会”を作りました。月に一二度、誰かの家に集まって、お喋りしながら、持ち寄った食材で昼食を作るのです。学校では給食が出ましたから、小さい子供と自分達の分を作れば良いのです。年に一二度、学校が休みの時に、小学生達の分も作ってくれました。

 1960年代に、村の補助金で集落に集会場が出来ました。8畳くらいの畳敷きの部屋と台所と洗面所が有りました。結局、婦人会専用の部屋の様になりました。現在でも、有ります。田舎に帰って、女性達と話すと、婦人会は楽しいと言っています。(私は、老婆会だと思うのですが!)

(余談) 私の故郷は山奥の限界集落の様な所ですが、1980年頃に簡易水道が出来て、1990年代の中頃?に簡易下水処理施設が出来て水洗トイレになりました。集落の集会場のトイレはウオシュレットになっているかも知れません。

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【家庭ゴミの回収は色々です】
 私は、神戸市に一戸建ての住居が有りますが、単身赴任の様な形で大阪市の小さな賃貸マンションの管理人を(ボランティアで)しています。息子達はそれぞれ別の市で、分譲マンションに住んでいます。共通しているのは、家庭ゴミの問題です。息子達のマンションの周辺には一戸建て住宅が無いので、町内会は無い様です。

 大阪市で管理している賃貸マンションの周辺には、賃貸や分譲マンションが複数建っていますが、一顧建て住宅も多く、町内会が有ります。マンションの住人は町内会には入っていません。マンションには、ゴミ置き場が設けられていますが、一戸建ての場合は、町内会のゴミ置き場は無く、昔から各家の前にゴミを出しています。古い賃貸の長屋が並んだ一角にも、ゴミ置き場は有りません。

 神戸市の場合は、町内会でゴミ置き場(クリーンステーション)を決め、市に届ける事になっています。私の家の町内では、『燃えるゴミ(生ゴミ)』はクリーンステーションに出しますが、古紙は各家の前に出し、『プラゴミ』、『缶・瓶・ペットボトル』と『燃えないゴミ』は他の町内と共有のクリーンステーションに出します。『古着、布製品』は別の所に出します。

 神戸市は杓子定規で、分別に厳しいです。少し変な物が入っていると、そのゴミ袋は持って行ってくれませんので、当番が分別し直しています。大阪市は、分別が無茶苦茶なゴミ袋でも、根負けするのか?一週間ほど放置すると結局は持って行ってくれます。

 京都府の某市に、私が庭の管理をしている一戸建ての家が有ります。バブル期に大手企業が開発した200戸以上の閑静な団地です。ゴミ袋は、各家の前に出します。この市は経済的に苦しいので、ゴミ回収費用の一部を上乗せした(少し高い)専用のゴミ袋の使用を義務付けています。

 兵庫県に、大手企業から税金が沢山入る、小さな裕福な市が有ります。その市の某中小企業に昔勤務しました。会社から出るゴミは産業廃棄物として有料で引き取ってもらうのが普通ですが、町内のゴミ置き場に出す事を市は黙認していた様でした。(その会社の女性パート従業員が、仕事を終わった後、ゴミ置き場の掃除をボランティアでしていました。)

【法律と町内会と家庭ゴミ】
 後述の様に、2年ほど前に、町内会のゴミ置き場を移動させる件で揉めたので、関連の法律を読んで見ました。ゴミ置き場については、全国的な一律な規定は無いのです。

★ 町内会 :総務省・『地方自治法』の第260条
★ ゴミ置き場 :環境省・『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』の第4条、第6条、第6条の2が関連しそうですが、明確な規定は有りません。
● 神戸市は条例でゴミ置き場(クリーンステーション)について規定しています。

【町内会に入れてもらいました!】
 1985年に家を建てた時に、町内会に入れてもらいました。大きな屋敷に住んでいた方が亡くなられ、敷地を五等分して、3区画には遺族が家を3軒建て、2区画を売りに出しました。私が買う1年前に、隣が1区画を買って家を建てていました。

 私の家が完成して、手土産を持って町内会長に挨拶に行くと、「町内会には入れない」と言い出しました。ゴミが出せなくなってしまうので、日を改めてお願いに行き、「どういう条件なら入れて頂けるか?」聞いて見ました。「町内会長や会計に立候補しないと誓約するのなら入れましょう!」と言われました。会長の一存で、何でも決めて良い「一種の独裁国家の様だ!」と思いました。

 隣の家も町内会に入れて貰えなかったので、別の町内会のゴミ置き場に、コッソリと置いていたそうです。私の話を聞いて、早速お願いに行きました。(同じ条件でした。)

 その後直ぐに、近所の大きな「公園の掃除に参加してくれますか?」と言う回覧が来ましたので、「参加」に丸を付けました。私はボランティアのつもりでしたが、掃除が終わると封筒に入ったお金(千円?)とタオルをくれました。市から出ていたのです。数日すると、私が欲張りだと言う噂が広がってしまいました。公園の掃除は、老人達の小遣い稼ぎで、私が横取りしたと言う意味でした。市から出る金は決まっていたので、私が参加したために、一人あぶれてしまったのです。

 その後も町内の老人達が公園の掃除をしていますが、参加者募集の回覧は二度と回りませんでした。町内会として市から委託されていると思いますが、参加者は古くからの住人達が勝手に決めているのでしょう。

【町内会の会計をやらされました】
 2000年頃に突然、我が家と隣で町内会長と会計をやれと言って来ました。古い住人達が年老いて、役員が出来る人が少なくなった為です。隣の奥さんと家内がジャンケンして、我が家は会計をする事になりました。規約などは全く無く、名簿と貯まった会費だけでした。会費は少額でしたが、使い道が無い為に200万円以上残っていました。私名義の通帳を作って、それに入れる様に言われました。

 任期は2年でした。古い住人の一人から「次の会長と会計を、この二軒に依頼する様に」と指示が有りました。引き継ぎをして、二三か月後に会計を担当する事になった奥さんが家出してしまいました。古い住人の一人が、仕方なく会計をやっていた様です。任期終了になる直前に、奥さんが帰って来られた、町内会費は手付かずで残っていることが分かりました。

【町内会のゴミ置き場】
 町内に市の所有する更地が有り、その一角を町内のゴミ置き場(クリーンステーション)として使用する許可を得ていました。市がその更地を民間企業に売却する事になり、当時の町内会長が「売却の契約書にクリーンステーションの使用を引き継がせる」と言う念書(?)を書いてもらいました。

 分譲住宅が出来て、購入者からクリーンステーションの移設要求が町内会長に提出されました。

(ドロドロした話し) 私は政治絡みの仕事を長年やってきましたので、裏のドロドロした世界を普通の方より知っています。A市に古手の市会議員(B議員)がいたとします。B議員はC工務店から恩義を受けていて、便宜を図る必要が有ります。B議員は勝手に、A市の所有する”土地D”を格安の価格で、C工務店に払い下げる事にしました。C工務店は、どんな家を建てて分譲すれば幾らぐらいの利益が有られるか計算します。C工務店は、E不動産会社に”土地D”の買取を依頼します。B議員は、A市に”土地D”をE不動産会社に払い下げる様に働き掛けます。 (高額の土地の場合は、公開入札を装うのが普通です。)

 ”土地D”の一部をF町内会に使用許可を出している時は、A市の担当者が、F町内会に「売却しても、購入者に使用許可を継続する条件付きで売却する」と説明し、F町内会から要求が有ると、その諭旨を明記した書類を書きます。土地を購入したE不動産会社は、C工務店に転売します。その時、A市が要求した条件を無視しした契約書が作成されるのです。

 F町内会に市の担当者が説明に来た時、F町内会が「その一角だけ町内会に売却して欲しい」と言うと、「そんな必要は有りません」と誤魔化します。土地の一部が欠けたら、C工務店が計画している家が(建ぺい率の関係で)建てられ無い恐れが有る事を、市の担当者は知っているのです。

【町内会が初めて開かれました】
 2017年に、「クリーンステーションの移設の件」と言う町内会が初めて開かれました。毎回、殆ど何も決まらなかったので、4回ほど集まりました。町内会長は80歳程のエゴの塊の様な方です。積極的に町内会長になりたい人がいない事を理由に、今の町内会長は自分で勝手に任期を延長して、既に数年続けています。

① 町内会の分割が彼の目論見でした。町内会を二つか三つに分割して、それぞれ新たなクリーンステーションを設けたかったのです。分割案には異論が多かったので、私が「多数決で決める」提案をしましたが、会長は「町内会は全員一致でなければならない」と言い張って、集会の度に分割案を持ち出しました。町内会の会員は50軒ほどですが、「市から会員数が多過ぎるから、分割する様に口頭で指示されている」とまで言い出しました。(多分、噓だと思いました。)

② クリーンステーションはゴミが回収された後、当番の方が家から水をバケツに入れて運び、掃除する事になっています。年老いて掃除が難しい人は免除していましたが、夫婦で遠方に良く旅行される元気な方も、免除になっていました。「誰が、どういう基準で決めているのか?」と言う質問がでましたが、回答しませんでした。

③ クリーンステーションの掃除を、「シルバー人材センターに依頼して欲しい」と言う意見が多数有り、会長が費用を調べる事になったのですが、何の報告も無く、掃除当番は今でも続いています。

④ 町内に、細い道しか無い為、現在の建築基準法では新たな家が建てられない土地があります。淡路大震災で、そこに立っていた7軒ほどの家が全滅して、4軒分の土地にマンスリーマンションが建ちました。賃貸アパートの場合は、専用のクリーンステーションを設けるのが神戸市のルールの様ですが、「借家人が町内のクリーンステーションを利用するのは禁止すべきだ」と言う意見が出ました。「前の会長が許可したのだから、私は関係無い」と言って口を閉ざしました。「所有者は町内会費を払って無い様だし、掃除も免除しているのは可笑しい」と言う人がいましたが、会長は無視しました。

⑤ 「沢山貯まっている町内会費を個人名義の通帳に入れているのは好ましくないし、地方自治法が改正されて、法人化が簡単に出来る様になっているから、我が町内会も法人化しよう」、「町内会の規約を作ろう」と言う提案も有りましたが、会長は「法人化も規約も必要ない」と議題にしませんでした。

 結局、奇特な方が「私の家の前の道路をクリーンステーションにして下さい」と言ってくれたので、問題は丸く収まりました。