今回は、昔の和紙の話しと、製紙機械メーカーで得た知識/経験を纏めて見ました。
【私と和紙】
私が生まれた山奥の村には、1960年頃まで、紙漉き屋が一軒ありました。半数程の家で、原料になる楮(こうぞ)を栽培していました。原料を紙漉き屋に持って行くと、障子紙と交換して貰えたのです。
私が小学2年生になった時に、町の新制高校を卒業された紙漉き屋の娘さんが帰ってこられて、1年生の担任になられました。私の担任は中年の女性で厳しい方でしたが、紙漉き屋の娘さんは優しくて、綺麗な方でした。休日に紙漉き屋に行くと、先生がもんぺ姿で紙漉きをされていました。黙々と作業されて、話をした記憶は有りませんが、それから時々行きました。
1960年頃、私の田舎の民家にはガラスはまだ殆ど普及していませんでした。玄関は障子と雨戸でした。少々の雨でも雨戸は閉めませんでした。(まだ、民家には電気が来ていなかったので、雨戸を閉めたら家の中が真っ暗になってしまいます。) 和紙は丈夫ですから、少しくらいなら雨に濡れても破れる事は無かったのです。 私の集落は北向きでしたが、家の”軒天井(のきてんじょう)”は1メートル以上も張り出していました。陽光が部屋に差し込まない為で無く、雨が障子に当たり難くする為だったと思います。
近所に慶応年間生まれのお婆さんが住んでいて、近所の人達は”化け物”だと言っていましたが、優しい働き者のお婆さんでした。1960年頃まで、お婆さんは機織りをしていて、私は時々見学しました。機織りをしながら、昔の話をして貰ったのですが、「昔は、紙の着物が有った」と言っていました。半信半疑でしたが、インターネット上で今でも和紙製の着物が販売されています。
妻の実家は40年ほど前まで、団扇(うちわ)を作っていました。和紙に柿渋を塗ると極めて丈夫になります。50年以上前に作った”渋団扇”を記念に持ってきていますが、(さっき見てみましたが、)びくともしていません。
【和紙の原料】
和紙の原料は樹木の『皮』で、洋紙の原料は樹木の『幹』です。但し、麻からも和紙が作られる様です。和紙の主な原料は次の3種類です。
楮(こうぞ) :楮は人口栽培が出来て、繊維が長いので、今でも和紙の原料の主流です。現在は、海外から楮を輸入している様です。
三椏(みつまた) :子供の頃、三椏を栽培している家が有りました。その家の方から聞いた話ですが、「クリーム色の和紙に仕上がって、卒業証書や表彰状に使用する」そうです。
雁皮(がんぴ) :雁皮は栽培が難しいので、自生している木を切って樹皮を剥がし、乾燥させておくと、毎年業者が来て買ってくれました。私の故郷では、雁皮が自生している場所は非常に少なかったで、雁皮を採集するのは子供の小遣い稼ぎでした。
【紙を発明したのは?】
歴史の教科書では、中国の蔡倫が105年に紙を発明したと書いていましたが、近年、中国でそれよりも300年ほど前に作られた麻の繊維で作った紙が発掘されました。蔡倫は木の皮を用いて、和紙の様な紙を作ったのです。
私の好きな本の一つは、司馬遷の史記です。史記が完成したのは紀元前91年頃と言われています。司馬遷は、木簡か竹簡に書きました。後に司馬遷は裕福になり、絹布(けんぷ)が購入出来る様になって、絹布にも書いた様です。既に、麻紙は有ったと思いますが、司馬遷は、史記を永遠に残したいと考えていた様ですから、まだ実績の乏しい麻紙は使用しなかったのではと、私は思います。
日本には、4世紀~5世紀頃に紙に書かれた「論語」などが伝わったそうですが、紙が作られる様になった時期は諸説あって分かりません。
【紙を作る技術の伝搬】
紙の製造技術は中国から→中東→ヨーロッパに伝わりました。中東とヨーロッパでは木の皮からではなく、麻や木綿の繊維が主だった様です。
ドイツ人のグーテンベルクが金属製活字を考案したのは、1445年頃です。それ以降、紙の需要は急激に増加したと思われますが、ヨーロッパでは中国発の従来通りの技術で紙を製造していました。
【抄紙機(製紙機械)】
フランスのレオミュールが、蜂の巣が木の繊維を集めて作られている事に気付き、1719年に「木の幹の繊維から紙が作れる」という論文を発表しましたが、実用化には至りませんでした。 ドイツ人のケラーが、1840年に木材パルプの開発に成功しました。
1798年にフランスで、手動でエンドレスの金網を回転させる抄紙機が発明され、イギリスで水車動力を利用した抄紙機が実用化して、1800年頃から多量に紙が製造される様になったのです。
1872年に元広島藩主(浅野長勲)が有恒社と言う製紙会社を日本で最初に設立しましたが、操業は1984年です。1873年に、(24年発行予定の10,000円札の)渋沢栄一が中心になって、製紙会社が設立され、1874年に操業を開始した様です。この会社は、後に王子製紙と社名を変更しました。王子製紙は三井家の資本も入り日本一の製紙会社に成長しました。
1945年から始まった財閥解体時に、王子製紙は幾つもの会社に分割され、そのご分割された会社は合併をして、王子製紙と日本製紙になりました。(その為に、2社は競合企業ですが三井住友銀行の資本が入っているのです。)
(余談) 間違った記事を時々見掛けるので、老婆心ながら敢えて書きます。戦前の王子製紙は渋沢家や三井家などの資本が入っていましたから、(厳密には)財閥では無かったのです。 製紙業界の巨人でしたから、GHQは財閥の定義を拡大して、王子製紙を無理やり解散させたのだと私は見ています。
【製紙機械メーカ】
1996年に私が製紙機械のメーカーに出向した時は、世界の製紙機械(抄紙機)業界は大変革中でした。そして二大企業、フィンランドのバルメット社とドイツのフォイト社に集約されました。
私が製紙機械を手掛けている間に、日本では、バルメット社と提携していた三菱重工と住友重機械工業が、相次いで抄紙機から撤退しました。中堅の日立造船富岡機械が会社を整理しました。現在抄紙機を手掛けているのは、フォイト社と提携しているIHIと、中堅の川之江造機と小林製作所だけになっています。
製紙設備の周辺機器を手掛けていた中小企業の多くが、転業したり倒産したりしていました。私は、製紙会社から依頼されて残っている(まだやっている)会社を探す仕事もしました。
【製紙機械の思い出】
私は製紙機械メーカーに出向して直ぐに、振動や騒音の周波数を分析する(高価な)FFT(高速フーリエ変換)を買ってもらって、問題の発生している製紙機械を診断する為に走り回りました。製紙機械は少しづつ改良して、生産量アップや紙質の向上を図るのですが、古い小規模の機械が多数稼動していました。少量の需要しか無い紙は、古い機械を”騙し騙し”使って生産しています。多分、現在も古い機械が稼働していると思われます。動く博物館の様です。
私が出向した会社は、昔は抄紙機も手掛けていた様ですが、リール(Reel)とワインダー(Winder)、スリッター(Slitter)等に特化していました。製紙会社からのアドバイス依頼は、抄紙機全体に対して有りましたので、出張したら種々の設備を見学させて頂いて、勉強しました。
(思い出 :1) 私が1996年に出向した会社から、自転車で行ける製紙工場が4か所有りました。1工場は、アドバイス依頼は時々有りましたが、工場に立ち入らせて貰えず、注文も頂けませんでした。他の3工場は、出入り自由の特別許可を頂いたので、時間を作って週に2回は勉強に行きました。私が製紙機械を手掛けたのは8年程でしたが、製紙会社に40年間務めた人よりも、新旧、大小、種々の方式の製紙機械を見る事が出来ました。
(思い出 :2) 1920年頃に北海道に納入された機械を、2000年頃に富士市の某工場で診断した事が有ります。お客さん(A社)も、もう臨終に近い事をよく承知されていて、「あと何カ月持つでしょうか?」が問題でいた。手の施しようの無い状態でした。「抄紙機も含め設備全体を、最新の仕様で更新したい」と言われるので、私の会社はワインダーの見積を出しました。
「こんな古い機械を使っている会社だから、金が無いのでは?」と心配しながら、かなり高めの金額を提示しました。なんと!ネゴ無しで即決してくれました。沢山儲かる事になり、社長が温めていたアイディアを何点も盛り込んで、仕様に無い機能を付きの機械にしました。引き渡しの時に、「こんな事も出来ます、・・・」と社長は得意そうに説明したら、「そんな機能は必要有りません」と言われ、面目まる潰れでした。
この時試した社長のアイディアは、その後、各社の改造に必要になり、会社として貴重な財産になったのです。A社は競合する製紙会社に、私達が納入した機械の見学を許してくれたので、デモ機の様にさせて頂き、営業活動が楽になりました。
(思い出 :3) 私が出向する何年か前から、工場の隅にチョットした実験装置を置いて、省力化や製品の品質向上の実験をしていました。特許を取得していましたが、まだ、新しい技術の実績は殆ど有りませんでした。某工場のメインの抄紙機を大改造して、大幅に生産量を増やす計画が進められていました。ワインダーも巻き取り速度を大幅にアップする必要があり、出向先の会社に引き合いが入りました。
私は、見積積算して、顧客を説得する役を担当しました。「単に速度アップだけで無く、製品の品質向上と省力化」を提案しました。製紙会社の重役が私達の提案を受け入れてくれて、話はとんとん拍子に進みました。ワインダーは4人×4直(16人)で操業していましたが、2人×4直(8人)で十分な自動化を提案したのです。
現場の作業者達は大反対でした。巻き取り時間(作業時間)が大幅に短縮出来ても、『いちゃもんが付く』と予想されたので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の状況を詳細に撮影して置きました。改造は大成功でしたが、現場の責任者は「時間は短縮されていない」と言うのです。ビデオカメラの映像で、時間が分かりますから、責任者は渋々納得しました。
(思い出 :4) 出向先に、元は機械技術者でしたが、独学でシーケンサーを勉強していた優秀な社員がいました。ワインダーの改造を依頼された時に、彼と私は、操作盤をタッチパネルにする提案をしました。当時は、製紙会社では殆どタッチパネルは採用されていませんでした。スタッフも、現場の熟練社員も大反対でしたが、この会社の上層部に技術の進歩を勉強されている方がおられ、採用して頂く事が出来ました。
完成後、タッチパネルの操作方法を教え、試運転する事になりました。現場の責任者が(多分、失敗を期待して)、それまでは馬鹿にしていた一番若い作業者に操作させました。なんと!何の問題も無く操作したのです。
(思い出 :5) 某製紙会社から振動が激しい抄紙機の診断を依頼され、FFT等の計測器を持って出張しました。設備全体が強烈に振動していて、原因解明に二日も掛かってしまいました。抄紙機に使用されるモータは速度制御が必要なため、古い設備では電圧で速度調節が出来る直流モータが採用されています。
戦前に製作された古い直流モータの回転部品が、(経年変化で)変形してバランスが狂っていたのです。原因を究明したのに、一銭も払ってもらえず、帰社後社長に嫌味を言われました。日本では技術料を支払う習慣が殆ど無かったのです。他でも、同様のケースが沢山有りました!「技術はサービスだ!」・・・これでは技術者は育てられません。
(思い出 :6) 遠方の会社から、「あるワインダーで特定の紙を巻き取ると断紙(紙が破れるトラブル)が頻繁に起こるので、原因を解明して欲しい」と依頼されました。前述の重いFFT等の測定計器を持って、指定された日時に出張したら、担当者が平気な顔で「計画変更で今日は問題の紙は製造しない」と言うのです。その代わり、私は工場の設備を勝手に見させて頂きました。その後、また電話があり、行ったのですが、「計画変更」でした。
3回目に行った時は問題の紙を製造していました。紙を乾燥させる設備をドライヤーと呼びますが、ドライヤーの出口に必ず紙の湿度を計測して表示する計器が付いています。表示が「5%以下」になっていたので、運転員に「これでは、断紙しますね」と言うと、「そうなんです! この抄紙機では、この紙は製造出来無いと何回もスタッフに言ったのですが」と言いました。念のために、「異常振動が発生していないか?」データを採取しました。スタッフに、「異常振動は無く、原因は乾燥し過ぎで、紙の強度が低下している為でしょう」と報告したら、「あ、そうですか」と言っただけでした。
日本は、年功序列・終身雇用の会社が今でも多いいですから、勉強はしない、他人の助言は無視する、仕事は駄目な社員が大抵の会社に結構沢山います。私が務めていた会社では、そんな部下を抱えた課長が、「○○を移動させて欲しい」と部長に言うと、「その課長に能力が無いので○○を使いこなせ無い、無能な課長だ」と評価する様でした。
(余談) 私が勤務した会社では、苦労無しで専務になられた様な方が、「会社を活性化させる為には事業部間の人事交流が必要だ!就いては、優秀な人材を出せ」とか「研究所に新しい研究室を設けるので、経験豊富な人材を出せ」とか言って来ます。「○○と言う、打って付けの社員を出します」と回答するのです。やっと、○○氏をお払い箱に出来たわけですが、他にも沢山同類の社員が残っていました。
【私と和紙】
私が生まれた山奥の村には、1960年頃まで、紙漉き屋が一軒ありました。半数程の家で、原料になる楮(こうぞ)を栽培していました。原料を紙漉き屋に持って行くと、障子紙と交換して貰えたのです。
私が小学2年生になった時に、町の新制高校を卒業された紙漉き屋の娘さんが帰ってこられて、1年生の担任になられました。私の担任は中年の女性で厳しい方でしたが、紙漉き屋の娘さんは優しくて、綺麗な方でした。休日に紙漉き屋に行くと、先生がもんぺ姿で紙漉きをされていました。黙々と作業されて、話をした記憶は有りませんが、それから時々行きました。
1960年頃、私の田舎の民家にはガラスはまだ殆ど普及していませんでした。玄関は障子と雨戸でした。少々の雨でも雨戸は閉めませんでした。(まだ、民家には電気が来ていなかったので、雨戸を閉めたら家の中が真っ暗になってしまいます。) 和紙は丈夫ですから、少しくらいなら雨に濡れても破れる事は無かったのです。 私の集落は北向きでしたが、家の”軒天井(のきてんじょう)”は1メートル以上も張り出していました。陽光が部屋に差し込まない為で無く、雨が障子に当たり難くする為だったと思います。
近所に慶応年間生まれのお婆さんが住んでいて、近所の人達は”化け物”だと言っていましたが、優しい働き者のお婆さんでした。1960年頃まで、お婆さんは機織りをしていて、私は時々見学しました。機織りをしながら、昔の話をして貰ったのですが、「昔は、紙の着物が有った」と言っていました。半信半疑でしたが、インターネット上で今でも和紙製の着物が販売されています。
妻の実家は40年ほど前まで、団扇(うちわ)を作っていました。和紙に柿渋を塗ると極めて丈夫になります。50年以上前に作った”渋団扇”を記念に持ってきていますが、(さっき見てみましたが、)びくともしていません。
【和紙の原料】
和紙の原料は樹木の『皮』で、洋紙の原料は樹木の『幹』です。但し、麻からも和紙が作られる様です。和紙の主な原料は次の3種類です。
楮(こうぞ) :楮は人口栽培が出来て、繊維が長いので、今でも和紙の原料の主流です。現在は、海外から楮を輸入している様です。
三椏(みつまた) :子供の頃、三椏を栽培している家が有りました。その家の方から聞いた話ですが、「クリーム色の和紙に仕上がって、卒業証書や表彰状に使用する」そうです。
雁皮(がんぴ) :雁皮は栽培が難しいので、自生している木を切って樹皮を剥がし、乾燥させておくと、毎年業者が来て買ってくれました。私の故郷では、雁皮が自生している場所は非常に少なかったで、雁皮を採集するのは子供の小遣い稼ぎでした。
【紙を発明したのは?】
歴史の教科書では、中国の蔡倫が105年に紙を発明したと書いていましたが、近年、中国でそれよりも300年ほど前に作られた麻の繊維で作った紙が発掘されました。蔡倫は木の皮を用いて、和紙の様な紙を作ったのです。
私の好きな本の一つは、司馬遷の史記です。史記が完成したのは紀元前91年頃と言われています。司馬遷は、木簡か竹簡に書きました。後に司馬遷は裕福になり、絹布(けんぷ)が購入出来る様になって、絹布にも書いた様です。既に、麻紙は有ったと思いますが、司馬遷は、史記を永遠に残したいと考えていた様ですから、まだ実績の乏しい麻紙は使用しなかったのではと、私は思います。
日本には、4世紀~5世紀頃に紙に書かれた「論語」などが伝わったそうですが、紙が作られる様になった時期は諸説あって分かりません。
【紙を作る技術の伝搬】
紙の製造技術は中国から→中東→ヨーロッパに伝わりました。中東とヨーロッパでは木の皮からではなく、麻や木綿の繊維が主だった様です。
ドイツ人のグーテンベルクが金属製活字を考案したのは、1445年頃です。それ以降、紙の需要は急激に増加したと思われますが、ヨーロッパでは中国発の従来通りの技術で紙を製造していました。
【抄紙機(製紙機械)】
フランスのレオミュールが、蜂の巣が木の繊維を集めて作られている事に気付き、1719年に「木の幹の繊維から紙が作れる」という論文を発表しましたが、実用化には至りませんでした。 ドイツ人のケラーが、1840年に木材パルプの開発に成功しました。
1798年にフランスで、手動でエンドレスの金網を回転させる抄紙機が発明され、イギリスで水車動力を利用した抄紙機が実用化して、1800年頃から多量に紙が製造される様になったのです。
1872年に元広島藩主(浅野長勲)が有恒社と言う製紙会社を日本で最初に設立しましたが、操業は1984年です。1873年に、(24年発行予定の10,000円札の)渋沢栄一が中心になって、製紙会社が設立され、1874年に操業を開始した様です。この会社は、後に王子製紙と社名を変更しました。王子製紙は三井家の資本も入り日本一の製紙会社に成長しました。
1945年から始まった財閥解体時に、王子製紙は幾つもの会社に分割され、そのご分割された会社は合併をして、王子製紙と日本製紙になりました。(その為に、2社は競合企業ですが三井住友銀行の資本が入っているのです。)
(余談) 間違った記事を時々見掛けるので、老婆心ながら敢えて書きます。戦前の王子製紙は渋沢家や三井家などの資本が入っていましたから、(厳密には)財閥では無かったのです。 製紙業界の巨人でしたから、GHQは財閥の定義を拡大して、王子製紙を無理やり解散させたのだと私は見ています。
【製紙機械メーカ】
1996年に私が製紙機械のメーカーに出向した時は、世界の製紙機械(抄紙機)業界は大変革中でした。そして二大企業、フィンランドのバルメット社とドイツのフォイト社に集約されました。
私が製紙機械を手掛けている間に、日本では、バルメット社と提携していた三菱重工と住友重機械工業が、相次いで抄紙機から撤退しました。中堅の日立造船富岡機械が会社を整理しました。現在抄紙機を手掛けているのは、フォイト社と提携しているIHIと、中堅の川之江造機と小林製作所だけになっています。
製紙設備の周辺機器を手掛けていた中小企業の多くが、転業したり倒産したりしていました。私は、製紙会社から依頼されて残っている(まだやっている)会社を探す仕事もしました。
【製紙機械の思い出】
私は製紙機械メーカーに出向して直ぐに、振動や騒音の周波数を分析する(高価な)FFT(高速フーリエ変換)を買ってもらって、問題の発生している製紙機械を診断する為に走り回りました。製紙機械は少しづつ改良して、生産量アップや紙質の向上を図るのですが、古い小規模の機械が多数稼動していました。少量の需要しか無い紙は、古い機械を”騙し騙し”使って生産しています。多分、現在も古い機械が稼働していると思われます。動く博物館の様です。
私が出向した会社は、昔は抄紙機も手掛けていた様ですが、リール(Reel)とワインダー(Winder)、スリッター(Slitter)等に特化していました。製紙会社からのアドバイス依頼は、抄紙機全体に対して有りましたので、出張したら種々の設備を見学させて頂いて、勉強しました。
(思い出 :1) 私が1996年に出向した会社から、自転車で行ける製紙工場が4か所有りました。1工場は、アドバイス依頼は時々有りましたが、工場に立ち入らせて貰えず、注文も頂けませんでした。他の3工場は、出入り自由の特別許可を頂いたので、時間を作って週に2回は勉強に行きました。私が製紙機械を手掛けたのは8年程でしたが、製紙会社に40年間務めた人よりも、新旧、大小、種々の方式の製紙機械を見る事が出来ました。
(思い出 :2) 1920年頃に北海道に納入された機械を、2000年頃に富士市の某工場で診断した事が有ります。お客さん(A社)も、もう臨終に近い事をよく承知されていて、「あと何カ月持つでしょうか?」が問題でいた。手の施しようの無い状態でした。「抄紙機も含め設備全体を、最新の仕様で更新したい」と言われるので、私の会社はワインダーの見積を出しました。
「こんな古い機械を使っている会社だから、金が無いのでは?」と心配しながら、かなり高めの金額を提示しました。なんと!ネゴ無しで即決してくれました。沢山儲かる事になり、社長が温めていたアイディアを何点も盛り込んで、仕様に無い機能を付きの機械にしました。引き渡しの時に、「こんな事も出来ます、・・・」と社長は得意そうに説明したら、「そんな機能は必要有りません」と言われ、面目まる潰れでした。
この時試した社長のアイディアは、その後、各社の改造に必要になり、会社として貴重な財産になったのです。A社は競合する製紙会社に、私達が納入した機械の見学を許してくれたので、デモ機の様にさせて頂き、営業活動が楽になりました。
(思い出 :3) 私が出向する何年か前から、工場の隅にチョットした実験装置を置いて、省力化や製品の品質向上の実験をしていました。特許を取得していましたが、まだ、新しい技術の実績は殆ど有りませんでした。某工場のメインの抄紙機を大改造して、大幅に生産量を増やす計画が進められていました。ワインダーも巻き取り速度を大幅にアップする必要があり、出向先の会社に引き合いが入りました。
私は、見積積算して、顧客を説得する役を担当しました。「単に速度アップだけで無く、製品の品質向上と省力化」を提案しました。製紙会社の重役が私達の提案を受け入れてくれて、話はとんとん拍子に進みました。ワインダーは4人×4直(16人)で操業していましたが、2人×4直(8人)で十分な自動化を提案したのです。
現場の作業者達は大反対でした。巻き取り時間(作業時間)が大幅に短縮出来ても、『いちゃもんが付く』と予想されたので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の状況を詳細に撮影して置きました。改造は大成功でしたが、現場の責任者は「時間は短縮されていない」と言うのです。ビデオカメラの映像で、時間が分かりますから、責任者は渋々納得しました。
(思い出 :4) 出向先に、元は機械技術者でしたが、独学でシーケンサーを勉強していた優秀な社員がいました。ワインダーの改造を依頼された時に、彼と私は、操作盤をタッチパネルにする提案をしました。当時は、製紙会社では殆どタッチパネルは採用されていませんでした。スタッフも、現場の熟練社員も大反対でしたが、この会社の上層部に技術の進歩を勉強されている方がおられ、採用して頂く事が出来ました。
完成後、タッチパネルの操作方法を教え、試運転する事になりました。現場の責任者が(多分、失敗を期待して)、それまでは馬鹿にしていた一番若い作業者に操作させました。なんと!何の問題も無く操作したのです。
(思い出 :5) 某製紙会社から振動が激しい抄紙機の診断を依頼され、FFT等の計測器を持って出張しました。設備全体が強烈に振動していて、原因解明に二日も掛かってしまいました。抄紙機に使用されるモータは速度制御が必要なため、古い設備では電圧で速度調節が出来る直流モータが採用されています。
戦前に製作された古い直流モータの回転部品が、(経年変化で)変形してバランスが狂っていたのです。原因を究明したのに、一銭も払ってもらえず、帰社後社長に嫌味を言われました。日本では技術料を支払う習慣が殆ど無かったのです。他でも、同様のケースが沢山有りました!「技術はサービスだ!」・・・これでは技術者は育てられません。
(思い出 :6) 遠方の会社から、「あるワインダーで特定の紙を巻き取ると断紙(紙が破れるトラブル)が頻繁に起こるので、原因を解明して欲しい」と依頼されました。前述の重いFFT等の測定計器を持って、指定された日時に出張したら、担当者が平気な顔で「計画変更で今日は問題の紙は製造しない」と言うのです。その代わり、私は工場の設備を勝手に見させて頂きました。その後、また電話があり、行ったのですが、「計画変更」でした。
3回目に行った時は問題の紙を製造していました。紙を乾燥させる設備をドライヤーと呼びますが、ドライヤーの出口に必ず紙の湿度を計測して表示する計器が付いています。表示が「5%以下」になっていたので、運転員に「これでは、断紙しますね」と言うと、「そうなんです! この抄紙機では、この紙は製造出来無いと何回もスタッフに言ったのですが」と言いました。念のために、「異常振動が発生していないか?」データを採取しました。スタッフに、「異常振動は無く、原因は乾燥し過ぎで、紙の強度が低下している為でしょう」と報告したら、「あ、そうですか」と言っただけでした。
日本は、年功序列・終身雇用の会社が今でも多いいですから、勉強はしない、他人の助言は無視する、仕事は駄目な社員が大抵の会社に結構沢山います。私が務めていた会社では、そんな部下を抱えた課長が、「○○を移動させて欲しい」と部長に言うと、「その課長に能力が無いので○○を使いこなせ無い、無能な課長だ」と評価する様でした。
(余談) 私が勤務した会社では、苦労無しで専務になられた様な方が、「会社を活性化させる為には事業部間の人事交流が必要だ!就いては、優秀な人材を出せ」とか「研究所に新しい研究室を設けるので、経験豊富な人材を出せ」とか言って来ます。「○○と言う、打って付けの社員を出します」と回答するのです。やっと、○○氏をお払い箱に出来たわけですが、他にも沢山同類の社員が残っていました。