私は同年代の人が介護を受ける様な年になりました。今のところは元気ですが、それでも色々考えてしまいます。私達の年代からは、「最後は在宅医療になる」と覚悟しておく必要が有ります。
私の身近の介護や在宅医療の例を、2回に分けて書きます。3回目は、在宅医療専門医になった甥についての話しです。
【昔は在宅医療が当たり前でした】
先日、友人が1965年頃に父親が脳溢血で亡くなった時の話しをし始めました。彼の実家は、人口数万人の町にありました。「あの頃は救急車は有ったのかな? 救急車を呼んだ記憶がない!」 お父さんは、倒れたその日に亡くなられたそうです。
私の実家は、その市からバスで2時間ほどかかる、山奥の山村にありました。人口は8,500人ほどで、医者は数人いましたが、面積が広い村で、まだ自家用車が普及しておらず、医者が往診する習慣が有りませんでした。
小学低学年の頃(1955年)まで、歩けない病人は雨戸を外して(戸板)、その上に病人を横たわらせて医者に運びました。 夜運ぶ時、私は提灯を持つ役を何回かした事があります。 1955年頃にやっと、二十軒ほどの集落で竹製の担架を購入しました。
実家の隣に、慶応年間に生まれた父の伯母が住んでいましたが、1970年頃に寝たっきりになっていました。その家の嫁さんと、私の母が二人で介護して、2年程して亡くなりました。当時は、”在宅医療”と言う言葉さえ無かったと思います。
(余談) 戸籍の届は明治5年(1871年)頃に始まったそうです。 何歳で届けるかは自由だったようで、父の伯母は少なくとも6才だったはずですが、「慶応生まれだけど”0才”で届けた」と本人は言っていました。近所の老人達は、「そろそろ嫁に行く年だったそうだ!あの婆さんは魔物だ」と陰口を叩いていました。
【昔はたいてい年の順に亡くなりました】
私は中学校を卒業するまで、田舎で育ちました。 その頃(1962年)、大抵の家に(別棟の)隠居部屋が有って、老人は寝込んでもその部屋で暮らしました。 まだ自給自足に近い暮らしをしていて、味噌、醬油、沢庵、豆腐、こんにゃく、きな粉、すり胡麻、草履、筵等々は自家製でした。 野良仕事が出来なくなっても、老人は貴重な労働力だったのです。
小さな集落でしたが、毎年一人か二人、その家の年の順に亡くなりました。 誰かが亡くなると、近所の奥さん達が集まって通夜の料理を作り始めました。 通夜では酒は少ししか出ませんでしたが、大人達は久しぶりの会話を楽しんでいました。
どんなに小さな家でも、葬儀は家で行われました。坊さんのお経が終わると、棺桶に縄紐を掛けて、二人で担いで墓に運びました。大きな穴に棺桶を入れて土を被せて、解散です。今の様に、喪主の挨拶も、葬儀の後の宴会も有りませんでした。 これで、一人の人生が終わったのです。 葬儀で泣いている人を、殆ど見たことが有りませんでした。
川向の集落に、何か不義理をして”村八分”になっている家で、葬儀がありました。 私は、どんな葬儀になるのか興味があって参列しましたが、村の人が沢山集まり、坊さんも来て、普通の葬儀でした。
【現在の故郷は】
時々故郷に帰っているのですが、人口は少しずつ減少し、老人だけの家が増えています。一人住いの家も結構有ります。一時期はどの家にも車が有りましたが、旦那さんが亡くなって廃車にした家も出てきています。
医者は往診してくれる様ですが、老人が増え過ぎて十分な対応は難しいと思われます。 近年、村に一台救急車が配備されましたが、山奥の家からだと病院まで1時間以上掛かります。 田舎の在宅医療は大変です。
棺桶を担げる人が殆どいなくなりましたが、隣村と共用の火葬場が出来て、棺桶は使われなくなりました。老人ばっかりになって、昔の様に賑やかに見送る事は出来なくなってしまいました。
【寝たきりの夫を抱えた奥さん】
ここからは近年の在宅医療の話しです。 近所に家内の友達で、子供二人が結婚して家を出て、夫婦二人で暮らしている家がありました。2007年頃に、まだ60才になっていない御主人が脳梗塞になられ、片方の手だけは動くのですが、話す事も、口から食べる事も、身体を動かすも出来ない状態になってしまいました。
目と耳の機能は失われていないため、テレビでヒイキ球団の野球観戦だけが楽しみで生きておられるようです。 昼間時々1時間ほど寝るので、奥さんはその間に急いで買い物をしなければなりません。
数年ほどして、御主人が肺炎になられました。奥さんが私の家に来られて、「普通に治療をしたら助からないと思います!」と先生が小声で仰ったと話されました。私は「もう十分尽くされたのだから、先生の好意に甘えたら!」とアドバイスしました。
結局、最善の治療をお願いした様です。 奥さんは旅行にも、孫の運動会にも、デパートにも、映画にも行けません。 最近は時々2時間ほどは外出できる様になり、その時は家内の車で少し遠いい店に買い物に行っています。それが奥さんの楽しみの様です!
奥さんとたまにあったら、私はバカ話をして笑わせています。 時々、真剣な顔でふっと「いつまで続くのかな?」と仰るので、言葉に窮してしまいます。
【奥さんが若くして、くも膜下出血になった】
親から莫大な遺産を貰った、40才くらいの公務員の方が近所におらました。奥さんが、くも膜下出血になられて、支えたらやっと散歩出来る様な状態になってしまいました。旦那さんは、直ぐに仕事を辞めて奥さんの介護を始めました。(1995年頃)
時々、二人で散歩しているを見かけましたが、10年程して2回目のくも膜下出血があり、奥さんは寝たきりになられた様です。料理、洗濯、掃除は旦那さんがやられているそうです。
旦那さんが在宅介護を始めて20年以上になります。2010年頃に20室以上の賃貸マンションを建てられ、広い駐車場や借家も多数所有されているので、収入は十分過ぎるほどあると推察します。然し、「旦那さんは楽しい人生では無かったのでは?」と私は思います。
【独身の男性】
母親と二人で暮らしている60才過ぎの男性がいました。2年ほど前から母親が3か月入院しては退院し、2~3か月在宅医療を受けて、また3か月入院する様な生活をしていました。
彼は中小企業の設計で、他の社員はCADを使っていましたが、彼だけは製図版を使っていました。プライドが高くて、設計部長のチェック・検印を拒否していました。
ある時、”大ポカ”をして数百万円もする製品を作り直す事になりました。彼は社長に一切謝ろうとしないため、社長が”キレ”てしまい「首だ!」と言い、彼は「辞めます!」と啖呵を切りました。
製造部長と私で、「謝ったら社長は許してくれる」と彼を説得したのですが、「貯金が数百万円あるから、これからは母親の看病に専念する」と言って辞めてしまいました。 その後、社長は時々「彼はどうしているか?」心配されていました。
私の身近の介護や在宅医療の例を、2回に分けて書きます。3回目は、在宅医療専門医になった甥についての話しです。
【昔は在宅医療が当たり前でした】
先日、友人が1965年頃に父親が脳溢血で亡くなった時の話しをし始めました。彼の実家は、人口数万人の町にありました。「あの頃は救急車は有ったのかな? 救急車を呼んだ記憶がない!」 お父さんは、倒れたその日に亡くなられたそうです。
私の実家は、その市からバスで2時間ほどかかる、山奥の山村にありました。人口は8,500人ほどで、医者は数人いましたが、面積が広い村で、まだ自家用車が普及しておらず、医者が往診する習慣が有りませんでした。
小学低学年の頃(1955年)まで、歩けない病人は雨戸を外して(戸板)、その上に病人を横たわらせて医者に運びました。 夜運ぶ時、私は提灯を持つ役を何回かした事があります。 1955年頃にやっと、二十軒ほどの集落で竹製の担架を購入しました。
実家の隣に、慶応年間に生まれた父の伯母が住んでいましたが、1970年頃に寝たっきりになっていました。その家の嫁さんと、私の母が二人で介護して、2年程して亡くなりました。当時は、”在宅医療”と言う言葉さえ無かったと思います。
(余談) 戸籍の届は明治5年(1871年)頃に始まったそうです。 何歳で届けるかは自由だったようで、父の伯母は少なくとも6才だったはずですが、「慶応生まれだけど”0才”で届けた」と本人は言っていました。近所の老人達は、「そろそろ嫁に行く年だったそうだ!あの婆さんは魔物だ」と陰口を叩いていました。
【昔はたいてい年の順に亡くなりました】
私は中学校を卒業するまで、田舎で育ちました。 その頃(1962年)、大抵の家に(別棟の)隠居部屋が有って、老人は寝込んでもその部屋で暮らしました。 まだ自給自足に近い暮らしをしていて、味噌、醬油、沢庵、豆腐、こんにゃく、きな粉、すり胡麻、草履、筵等々は自家製でした。 野良仕事が出来なくなっても、老人は貴重な労働力だったのです。
小さな集落でしたが、毎年一人か二人、その家の年の順に亡くなりました。 誰かが亡くなると、近所の奥さん達が集まって通夜の料理を作り始めました。 通夜では酒は少ししか出ませんでしたが、大人達は久しぶりの会話を楽しんでいました。
どんなに小さな家でも、葬儀は家で行われました。坊さんのお経が終わると、棺桶に縄紐を掛けて、二人で担いで墓に運びました。大きな穴に棺桶を入れて土を被せて、解散です。今の様に、喪主の挨拶も、葬儀の後の宴会も有りませんでした。 これで、一人の人生が終わったのです。 葬儀で泣いている人を、殆ど見たことが有りませんでした。
川向の集落に、何か不義理をして”村八分”になっている家で、葬儀がありました。 私は、どんな葬儀になるのか興味があって参列しましたが、村の人が沢山集まり、坊さんも来て、普通の葬儀でした。
【現在の故郷は】
時々故郷に帰っているのですが、人口は少しずつ減少し、老人だけの家が増えています。一人住いの家も結構有ります。一時期はどの家にも車が有りましたが、旦那さんが亡くなって廃車にした家も出てきています。
医者は往診してくれる様ですが、老人が増え過ぎて十分な対応は難しいと思われます。 近年、村に一台救急車が配備されましたが、山奥の家からだと病院まで1時間以上掛かります。 田舎の在宅医療は大変です。
棺桶を担げる人が殆どいなくなりましたが、隣村と共用の火葬場が出来て、棺桶は使われなくなりました。老人ばっかりになって、昔の様に賑やかに見送る事は出来なくなってしまいました。
【寝たきりの夫を抱えた奥さん】
ここからは近年の在宅医療の話しです。 近所に家内の友達で、子供二人が結婚して家を出て、夫婦二人で暮らしている家がありました。2007年頃に、まだ60才になっていない御主人が脳梗塞になられ、片方の手だけは動くのですが、話す事も、口から食べる事も、身体を動かすも出来ない状態になってしまいました。
目と耳の機能は失われていないため、テレビでヒイキ球団の野球観戦だけが楽しみで生きておられるようです。 昼間時々1時間ほど寝るので、奥さんはその間に急いで買い物をしなければなりません。
数年ほどして、御主人が肺炎になられました。奥さんが私の家に来られて、「普通に治療をしたら助からないと思います!」と先生が小声で仰ったと話されました。私は「もう十分尽くされたのだから、先生の好意に甘えたら!」とアドバイスしました。
結局、最善の治療をお願いした様です。 奥さんは旅行にも、孫の運動会にも、デパートにも、映画にも行けません。 最近は時々2時間ほどは外出できる様になり、その時は家内の車で少し遠いい店に買い物に行っています。それが奥さんの楽しみの様です!
奥さんとたまにあったら、私はバカ話をして笑わせています。 時々、真剣な顔でふっと「いつまで続くのかな?」と仰るので、言葉に窮してしまいます。
【奥さんが若くして、くも膜下出血になった】
親から莫大な遺産を貰った、40才くらいの公務員の方が近所におらました。奥さんが、くも膜下出血になられて、支えたらやっと散歩出来る様な状態になってしまいました。旦那さんは、直ぐに仕事を辞めて奥さんの介護を始めました。(1995年頃)
時々、二人で散歩しているを見かけましたが、10年程して2回目のくも膜下出血があり、奥さんは寝たきりになられた様です。料理、洗濯、掃除は旦那さんがやられているそうです。
旦那さんが在宅介護を始めて20年以上になります。2010年頃に20室以上の賃貸マンションを建てられ、広い駐車場や借家も多数所有されているので、収入は十分過ぎるほどあると推察します。然し、「旦那さんは楽しい人生では無かったのでは?」と私は思います。
【独身の男性】
母親と二人で暮らしている60才過ぎの男性がいました。2年ほど前から母親が3か月入院しては退院し、2~3か月在宅医療を受けて、また3か月入院する様な生活をしていました。
彼は中小企業の設計で、他の社員はCADを使っていましたが、彼だけは製図版を使っていました。プライドが高くて、設計部長のチェック・検印を拒否していました。
ある時、”大ポカ”をして数百万円もする製品を作り直す事になりました。彼は社長に一切謝ろうとしないため、社長が”キレ”てしまい「首だ!」と言い、彼は「辞めます!」と啖呵を切りました。
製造部長と私で、「謝ったら社長は許してくれる」と彼を説得したのですが、「貯金が数百万円あるから、これからは母親の看病に専念する」と言って辞めてしまいました。 その後、社長は時々「彼はどうしているか?」心配されていました。