これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その3)

2025-01-18 18:14:16 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しの最終稿です。

 このシリーズで、S氏との思い出話しを3回書いた事になります。 省略した楽しい思い出が沢山!沢山!有ります。 書いていると、私の故郷・龍神村の風景や田辺市の昔の街並みも思い出しました。 S氏は私にとって掛け替えのない『大切な友』だと痛感しました。

【太陽光発電事業】
 10年ほど前にS氏から、「太陽光発電事業を始めた」、「僕はこの事業に専念する」、「会社(SR社)は息子に譲った」と電話が有りました。

 傾斜の穏やかな山林を借りて→→ソーラーパネルを設置するのだそうです。S氏が山林所有者と借地交渉して→→パネルの設置や電気工事は専門業者に委託して→→S氏はパネル周りの草刈りをしていた様です。 3年ほど前から「長女が草刈りをしてくれる」と喜んでいました。

 既に数町歩(数ヘクタール)にパネルを設置している様ですが、まだ増やしたい様です。 10前から「完成までに3年掛かる」と言い続けています。 去年の年末にも同じ事を言うので、「いい加減にしないと、完成前に死んで→→家族に迷惑を掛ける事になる」とアドバイスしました。

【S氏が前立腺癌になりました】
 10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見付かりました。 二人の医師(D1医、D2医)に見て貰ってきた様です。 D1医は外科手術で前立腺の除去を、D2医は陽子線治療を推奨しています。

 外科手術をしたらセックス出来なくなり、陽子線治療だと前立腺に癌が再発した時→→外科手術が出来ない。 「僕の身体は、医者達より自分の方が分かる。僕の癌は成長しないし、転移もし無い。」と言い続けて来ました。 然し、少し尿が溜まると→→我慢出来なくなって→→頻繫にトイレに行っている様です。

 昨年(24年)末に、二人の医師の何方かが『高濃度ビタミンC点滴療法』を推奨したので、週に1回ほど通院している様です。 3月頃に、「癌が小さくなっているか?」MRIなどで検査する様です。 私は、奇跡が起こってS氏の癌が縮小する事を祈っています。

【大店の息子】
 2015年頃、S氏から例の通り突然電話が掛かって来て、「大阪に来ているので会いたい」、「飛行機で帰るので余り時間が無い」と言いました。 JR大阪駅で待ち合わせ→→例のごとく、安い定食屋で昼食を取って→→喫茶店で1時間以上話を聞きました。

 東京の有名な大学を卒業した青年(O氏)が、就職せずに自転車で旅をして回った様です。 持ち金が少なくなると→→旅を中断して、バイトして金を溜めて→→溜まると旅を続けていました。 二、三年後に、S氏の会社に来て、正直に「バイトさせて下さい」と言ったそうです。 S氏の会社は職人の集団ですから、S氏の奥さんと社員達は反対した様ですが、S氏はO氏が気に入って、「会社は黒字だから、一人ぐらい冷や飯食いがいても良いだろう!」と決断したそうです。

 10年ほどして、O氏の父親が訪ねて来て、「Oは一人息子なので、会社を継いでもらいたい!」、「是非とも返して欲しい!」と懇願されたそうです。 調べて見ると、O氏の父親が経営している大阪の会社は、S氏の会社とは比較にならない大規模な会社だったそうです。 それで、気持ち良くO氏を送り出しました。

 二、三年後に、O氏の結婚式に招待されて→→大阪に来て→→私と会った次第です。

【S氏の優しさの一例】
 新型コロナウイルスが問題になり始めた2020年に、S氏から超!超!豪華なマンゴーが届きました。 お礼の電話を入れたら、「新型コロナの影響で、知り合いのマンゴー農家が、売れなくて困っているので、沢山買って知り合いに送っている」と話しました。 我が家が、その第一弾だったのです。

 次男の娘(孫)はマンゴーが大好きなので→→御裾分け(おすそわけ)しました。トンデモナク美味しかった様です。

【S氏の子供と孫】
 S氏は結婚して直ぐに長男→→二、三年後に長女を授かりました。長男は”鳶(とんび)が鷹を生む”の如く、学校の成績は良かった様で→→「東大に進学するだろう」と期待していました。結局、東京の有名な私大を卒業して、SR社を引き継ぎました。

 長女の事はボロクソに言っていました。 「こんな女を貰ってくれる男はいない」、「結婚したら男がダメになる」・・・などと言っていました。 然し、長女は二十歳前半に結婚し→→長男を産んで→→もう一人生みました。 結婚されて3年程で離婚し→→実家に帰ってきた様です。 「孫と楽しく暮らしているのだろう」と想像していたのですが! 

 長女が結婚した相手は、東大の法学部卒で超有名な企業に勤めていました。 離婚する時、親権を父親が取って→→母親(長女)は年に二、三回、子供に会いに行っている様です。 子供が二、三年前に東大法学部卒を卒業し→→超優良企業で/高給で有名な会社に就職したそうです。長女は、今でも年に何回か子供に会いに行っている様ですが、S氏と奥さんは孫には会えない様です。

 最近になって、S氏が次女の話しをしました。次女も若くして結婚し→→子供を二人生んで→→離婚して→→S氏の家の近くで、子供と一緒に住んでいる様です。 然し、S氏は何故か?次女と孫の話しはしません。

【最近の将棋】
 2年ほど前にS氏から「今大阪に来ている、将棋会館出身の若者がプロ棋士になった祝いが有って→→スピーチを頼まれた」と嬉しそうに言いました。 24年末現在で、プロ棋士が二人育ったそうです。

 S氏は先日、「最近は中学生に負ける時が有って、忌々(いまいま)しいので、余り指さない!」と嘆いていました。 「他に趣味が無いんだから、将棋を楽しんだ方が良い」と話しました。

 「S氏にとっての将棋は単なる趣味では無い」と私には思えます。「最大の生き甲斐」だと思うのです。S氏がドン底から立ち直り→→造園会社(SR社)を起こして、大成功したのは→→信頼出来る人達に会社を任せて→→将棋三昧の日々を送った為だ!と私は見ています。

【S氏の最近の体調】
 S氏は前立腺癌の話しはしますが、心臓にも問題が有る様です。 「2年ほど前に道で意識不明になって救急車で運ばれた、もう少しで死ぬ所だった!」と昨年白状しました。 「それ以来、奥さんが優しくしてくれる様になった」、「通院する時等など、必ず車で送り迎えしてくれる」そうです。

 昨年(24年)、高校の同窓会が紀伊田辺市で有り、無理して出席した様です。 「今、田辺にいる、同窓会で、一番親しかった友人が亡くなったと聞いた」と元気の無い声で話しました

 今年の年賀状に、「会いにきてくれ! 二人分の飛行機代と宿泊費は持つから」と書いていました。

【棺を蓋いて事定まる】
 「棺を蓋いて事定まる」と言いますが、亡くなった後に遺産相続で親族が揉(も)めに揉めて→→バラバラになってしまった例を幾つか知っています。

 S氏が息子さんに会社(SR社)を譲った時点で、社員が70人ほどになっていました。 太陽光発電事業に失敗しないで、S氏が亡くなった後→→親族が仲良く出来たら→→「S氏は素晴らしい人間だった!」と評価されるでしょう! 私は祈っています。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その2)

2025-01-12 19:32:30 | 人生
【はじめに】
 今回も、私の幼馴染のS氏の話しです。 自動車事故を起こして→→経済的に窮地になりましたが→→メゲル事無く→→造園会社(SR社)を設立して→→SR社が順調に発展し→→S氏が将棋三昧の楽しい生活を始めた話しです。

 S氏は”おっちょこちょい”で”いい加減”な性格ですが、楽天家で、『近欲』では有りません! そして、社員を大切に思っている様に見えます。

【S氏と奥さんが屋台の商売】
 S氏は、27歳の時にホテルを止めて→→奥さんと”屋台の商売”を始めたと電話が有りました。 二人子供を授かったばかりだったので、「奥さんが体調を崩すのでは?」と私は心配しました。 足掛け3年ほどやった様でした。

【S氏が自動車事故】
 S氏は重大な人身事故を起こし→→相手の方が生きている限り、生活出来る金を渡さなくてはならなくなりました。 当初はS氏の所得が少なかったので→→毎月、六、七万円を除いた金を→→相手に渡していた様です。 奥さんの所得で、何とか食べていた様でした。

 私は心配になって、二、三ヶ月に一度電話を掛けてS氏を励まし、奥さんの様子を確認しました。

【S氏がひょっこり我が家に来ました】
 30歳になった頃、夜の9時ごろ、S氏が突然我が家にやって来ました。 頑丈な/大きなボストンバッグを二つ持っていました。 提げて見たら、二つとも非常に重かったです。 S氏は元気そうで、奥さんも「元気だ」と言うので安心しました。

 有る方が、プレミヤ価格で取引されているコインを教えてくれたので→→沢山の商店を車で回って→→「○○年発行の50円貨幣を60円で買い取る」などと言って置いたら→→沢山!沢山買えたのだそうです。 「明日、東京に行って売るんだ!」と言いました。

 数日後、電話が掛かって来て「数百万円儲かった!」と喜んでいました。 その金は造園業を始める資金の一部になった様でした。 (二つのボストンバッグにはコインが入っていたのです。)

 私の妻がS氏に会ったのは、この時一度きりです。 妻は、土産も着替えも持たずに→→突然来て→→一泊した事に呆れていました。 私は、コインが余りにも重かったので、「仕方が無い」、「私でもそうするだろう」と思いました。

【S氏との食事】
 S氏は関西にやって来ると、午前11時頃に「今、大阪にいるから、会いに来てほしい」と電話して来ます。 大抵、ウイクデーで仕事中なので、2回に1回程しか会いに行けません。 会うと昼食を奢(おご)ってくれるのですが、安い飯屋で秋刀魚や鯵や鯖の塩焼きの定食です。 S氏の安い定食屋を探す才能は大したものです。 梅田の近辺でも安い定食屋を見付けます!

 定食屋の後、喫茶店でコーヒーを飲みます。 1時間~2時間、S氏が近況を話してくれ→→伊丹空港から飛行機で帰ります。

 一度だけ、JR尼崎駅近くの会社に勤務していた時、尼崎駅まで来てくれました。尼崎駅の近くに美味しい”うどん屋”が有るのですが、「定食屋の方が良い」と言いました。

 S氏と酒を飲んだ事は全く有りません。 刺身、寿司、天婦羅、ステーキ、すき焼き等の話をした事が有りません。 食べ物の話をした事が無いのです!

【造園業を始めました】
 30歳の頃に九州の某県で、造園業(SR社)を始めました。 最初は若い社員を二人雇った様です。 直ぐに、一回り以上年上のベテランの職人さん(T氏)を雇う事が出来ました。 T氏は腕の良い職人さんで、若い社員の面倒見が良く、何よりも人格者だった様です。

 SR社は、経理を奥さんが担当し、T氏が若い社員達を指導しながら運営し→→直ぐに黒字体質の会社になりました。 そして、順調に若い社員が増えていった様です。

【将棋に熱中】
 会社が黒字体質になるまでの数年間、S氏は真面目に毎日フルタイムで出社していましたが→→午前中二、三時間だけ出社して→→将棋を指しに出掛ける様になりました。

 S氏の出社時間が少なくなると→→SR社の売上が増加して→→社員が15人程に増えました。 まさに『亭主元気で留守が良い!』だったのです。

《余談❶ :奥さんが実家に帰ってしまいました!》
 会社に出社しないで、三日間将棋を指し続け→→S氏がクタクタになって家に帰ったら→→奥さんが実家に帰っていたそうです。 「離婚されそうになった!」と言っていました。

 何日かして、奥さんは帰って来られましたが→→徹夜将棋は止められ無かった様です。 「会社は順調だし、浮気している訳でも無いから、マアいいか!」と諦めておられる様に思えます。

《余談❷ :全国大会に出場》
 S氏は腕を上げて→→某県の将棋大会に優勝して→→全国大会に出場した事も有ります。 アマチチュアの”四段”以上になっていると思われます。

《余談❸ :将棋会館を建設》
 S氏は会社(SR社)で得た金を、某県の将棋会館の建設に億単位の金を寄付した様です。 私の妻だと許してくれません。奥さんは”太っ腹”ですね! 感心しています。

【利益の配分と特別ボーナス】
 黒字体質が定着して→→S氏は思い切った事を始めました。 大学卒の社長や世襲の社長では思い付かない『素晴らしい経営方針だ!』と感心しました。S氏から「感想を聞きたい」と電話が有り→→「SR社の発展は間違いない」と絶賛しました。

(1) 会社の経営状況をガラス張りにしました。 ・・・「赤字なのか?」、「黒字なのか?」、「幾ら儲かったのか?」を社員が分かる様にしたのです。

(2) 利益の『1/3』を社長(S氏)の取り分、『1/3』を会社の設備投資や内部留保、残りの『1/3』を特別ボーナスとして→→3月に社員に支給するのです。

(3) 特別ボーナスは各社員の業績で配分し、誰に幾ら渡したか公表しました。

 SR社の社員達は、「社長は、日に二、三時間しか出社し無いのに、社員一人一人の仕事ぶりを見てくれており→→評価している。 社長は元気で留守が良い!」と思ったと推察します。

(余談 :ガラス張り) SR社は個人向けに商売しているので『ガラス張り』に出来ます。 然し、国、都道府県、市町村との取引をする為には→→領収書が貰えない『金(かね)』が必要になります。 民間企業との取引でも、「この注文が欲しかったら『金』をよこせ」と言う輩がいます。

 非上場の会社から、8,000万円の商談が纏まった後で→→「11,000万円支払うから、3,000万円フィードバックしてくれ!」と言われた事が有ります。オーナーは税金の掛からない『3,000万円』を得る事になります。 私の勤務していた会社は、あの手この手使って→→『3,000万円』分の領収書を搔き集める必要が有りました。

 輸出案件でも『裏金』を要求されるケースが多々有りました。『ガラス張り』にするのは難しいです!

《余談 :N社の話し》
 私は50歳の時に機械の設計/製造をする小企業(N社)に出向しました。 数年前から少し赤字で、債務超過に陥る寸前でした。 毎年、それなりに受注していたのですが、社長(N氏)が勘で見積金額を出していました。 どの案件が赤字か/黒字か把握していませんでした。 経理をN氏の奥さんと私と同い年の女性が担当し、パソコン(PC)を使っていました。 PCで作成したデーターを貰って→→見積計算ソフトを作成し→→引き合いが有ると→→私が適正な見積金額を計算して→→社長(N氏)の了解を得て→→見積書を作成しました。

 予算管理計算ソフトも作成して→→進行中の受注案件の予算/実績の差異が把握出来る様にしたので→→期末にどの程度利益が出るか?→→高精度で予想出来る様になりました。 私が出向して、一年もしない内に→→N社は黒字体質になりました。

 N社には、製造部長と設計部長がいて→→ボーナスの時期になると、二人が社長(N氏)に→→「今年は黒字になるから、(税金を減らして)社員のボーナスをアップして欲しい」と懇願しました。 然し、N氏の回答は何時も『ノー(NO)』でした!

 私は、「SR社が特別ボーナスを支給する制度にして、大成功した」話しをN氏にしましたが、N氏は何故か?税金を増やす事に固守しました。

【造園技能士】
 SR社では社員が造園技能士の国家試験を受けるのを積極的に支援しています。 国家試験は1級~3級まで有ります。3級に合格した社員は→→2級の資格を得て→→1級になりました。 社員の定着率が高かったので、アイディアの豊富な社員が増えて→→SR社の評判が高まり→→社員数が増えました。

 SR社の発展に寄与したT氏は一回り程年上でしたから、2005年頃にはリタイヤされていたのではと思われます。 SR社では、優秀な社員が育ちましたから、「T氏がリタイヤされても困らなかった」と推察します。

【造園コンテスト】
 SR社の社員達は何人かでチームを作って→→何組も→→全国造園デザインコンクールやLIXIL(リクシル)エクステリアコンテスト等に参加し→→毎年、毎年、優秀な成績を収めています。 勿論、旅費、宿泊費などを支給しています。

【陶器窯の廃レンガ】
 S氏が、岡山県の飯屋の広い駐車場に乗用車を止めると、陶器窯に使用していた耐火レンガを山積みしていました。 色がマチマチで、「これは面白い」と思い→→店の主人に話すと→→「廃棄する為に置いている。」、「欲しかったらタダで上げます。」と言ってくれたそうです。 乗用車に積めるだけ積んで会社に持ち帰ると→→社員達が大喜びして→→トラックで残りを取に行き→→受注していた住宅の花壇に使ったら→→顧客が気に入ってくれたそうです。

 S氏は余程嬉しかった様で、この話を何回もしました。 「僕が会社に貢献したのは、これぐらいだ」と言いましたが、「特別ボーナスを支給する様にしたり、社員の自主性を尊重したり、会社にあまり出社し無かったり、君は沢山!沢山!貢献している」と話しました。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その1)

2025-01-06 13:18:40 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しです。 S氏は、楽天家/おっちょこちょい/いい加減な性格ですが、人に好かれるタイプです。

 いい加減な人間は大成しないのが普通ですが、S氏の場合は真逆で、彼の欠点が幸いして→→S氏が設立した会社は現在従業員が70人もいて→→殆ど、赤字になった事が無い様です。

 去年の年末にS氏から電話が有り、「最近物忘れが激しく、いい加減な仕事しか出来ない」と嘆くので→→「昔から忘れ物が多かったし、いい加減な事をやっていた。年のせいでは無いよ!」と慰めました。

【S氏と私】
 S氏は、小学校と中学校の同級生です。小学校の同級生は22人で、中学校は36人しかいませんでした。S氏と私は、田辺市の別々の高校に進学しました。中学校から田辺市の高校に入ったのは二人だけでした。

 高校を卒業してからは、数年に一度会っており、二、三年に一度は電話で話しています。10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見つかってからは、毎年1回は電話しています。 S氏は、自分の近況を1時間以上話します。 その為に、私はS氏のことを良く知っていますが、S氏は私の事は殆ど知らない/覚えて無いと思います。

【小学生の頃のS氏】
 小学4年生から週に一回クラス会の時間が有りました。 「民主主義を体現する時間だったのでは?」と思います。(先生は立って見ているだけでした。) 持ち回りで議長になって、草引きの日等を決めるのです。 そして、遅刻や忘れ物をした生徒に罰を与えました。 S氏以外に罰せられた生徒はいませんでしたが、S氏は毎日の様に遅刻し、忘れ物をしました。

 S氏に与えられた罰は、漢字を書く事でした。中学校や高校で習う漢字まで書いていました。 その為に、S氏は漢字博士の様になりました。

 好天の日の休み時間に皆でキャッチボール、ドッチボール等を、雨の日は卓球等をしましたが、S氏は参加しませんでした。 小学5年生まで、私はS氏と遊んだ記憶が有りません。

【S氏に将棋を教えました】
 私は小学生になった頃、近くに住んでいた父の弟(MI叔父)に将棋を教えてもらいました。 毎週、一局以上指しました。 一年もすると結構上達しました。 MI叔父は強かったので、「今日は、この升で詰ませる」と宣言し→→私がドンナニ頑張っても→→私の『王』は指定された升に行かざるを得ませんでした。

 小学校6年生の担任の先生が末期癌だったので、一年間授業が全く無く→→毎日自習でした。 雨の日に教室でS氏に将棋を教えました。S氏の上達は早く→→直ぐに私と対等で指す様になりました。

《余談 :囲碁の思い出》  私が小学の高学年になった頃、父に囲碁を教えてもらいました。 一番上の姉は中学校の教師と結婚していて、夫(義兄)と子供を連れて良く帰省していました。 父と義兄が碁を打つのを観戦しました。 私が中学生になった頃、碁盤と碁石は義兄が持って帰りました。

 大学4年生の時に、同じゼミの友人(K氏)に囲碁を教えました。K氏は熟慮するタイプで、直ぐに上達して→→ほぼ互角で打てる様になりました。 ゼミには教授と助教授(現在の准教授)がおられ、二人に共通する趣味は囲碁でしたが、二人で打つことは有りませんでした。

 K氏と打っていると、教授と助教授が来られて→→K氏の後ろに教授が、私の後ろに助教授が立って→→次の手を指示するのです。 お二人ともかなりの腕前で→→素晴らしい指示だったので→→勉強になり→→卒業する頃には、私はアマチアの初段以上の力が有ったと思います。

 私の妻の兄(義兄)は、NHKの囲碁番組を今でも毎週録画しています。 彼は負けず嫌いです。 義兄と数局打ったのですが、何時も私が勝ったので→→二度と打とうとはしません。

 対戦相手がいなかったので、1990年頃に囲碁のパソコン・ソフトを買ったのですが、弱すぎたので楽しめませんでした。20024年に新しく出たソフトを買いました。「AIソフト」となっていますが、学習能力は有りません。 「こう打ったら勝てる」と言う手をわざと避けて→→次善の手を打って→→ソフトがドンナ手を打つのか?・・・楽しんでいます。 そろそろ、新しいソフトを買いたいと思っています。

【中学生の頃のS氏との思い出】
 小学5年生と6年生の時は、私は野球部で活躍したのですが、中学校に入って部活には参加しませんでした。 S氏と殆ど毎日一緒に下校し→→お互いの家に遊びに行く様になりました。

(思い出❶ :給食) 戦後、ユニセフが日本の子供達に食料品を支給してくれていました。 故郷(龍神村)では、外米と脱脂粉乳を支援してもらって→→小学校と中学校では給食が有りました。余裕の有る家の子供は、野菜と薪を持って来ました。 ご飯、脱脂粉乳を溶かした牛乳、味噌汁と言うヘンテコリンな給食でした!

 小学5年か6年の頃、外米の支援が無くなったので、農協(JA)が龍神村の全小中学校向けのパン工場を建設しました。 (パン工場は、龍神村・福井・横畑に有りましたが、現在は無くなっています。)

(思い出❷ :シュガーマーガリン・パン) 中学校下校時に、週に一、二回、S氏とパン工場に寄って、熱々のシュガーマーガリン・パンを買って食べました。 マーガリンに砂糖を練り込んだ物を→→職人さんが目の前で、コッペパンを割いて→→タップリ入れてくれました。 (スーパーでシュガーマーガリン・パンを見掛けたら、必ず買っています。)

(思い出❸ :補習授業と弁当) 現在は土曜日は休校すが、昔は”半ドン”でした。中学3年生になると、高校進学を目指している生徒には土曜日に補習授業が有り、給食は休みでしたので弁当持参でした。1ヶ月に一度、模擬試験を受けましたが、その時も弁当持参でした。S氏と私は補習授業を受けました。

 母が作ってくれる弁当は、白いご飯と梅干一個の”日の丸弁当”でした。鶏を沢山飼っていたのですが、卵焼きは作ってくれません→→その代わり、缶詰を買う金を渡してくれました。 鰯や鯖の缶詰を買いました。

 S氏の父親はキノコ採りの名人で、毎年沢山!沢山!採って来て→→塩漬けにしていました。 S氏の弁当には塩漬けにしたキノコの炒め物が沢山入っていました。 S氏と御菜(おかず)を半分ずつ交換しました。キノコの炒め物は美味しかったです!

【高校受験】
 S氏は田辺商業高校(田商、現在=神島高校)を、私は田辺高校(田高)を受験しました。 入学試験が終わって、校庭で父が友人と雑談している時、父の近くでボンヤリしていました。 S氏と彼の父親がやって来て、「答案用紙に氏名と受験番号を書かなかった、どうしよう?!」と言ううのです。 私に言っても、どうしようも無いですよね!

 そばで聞いていた父が、「義弟(母の弟=私の叔父)に頼んでみる」と言って出掛けました。 ラッキーな事に叔父が田辺商業高校の教頭だったのです。

 後で叔父から聞いた話しでは、S氏は全ての答案用紙に氏名と受験番号を書いていなかったそうです。 そして、他に氏名と受験番号を書き忘れた受験生がいなかったので→→S氏の答案用紙を見つけるのは簡単だった様です→→叔父が氏名と受験番号を書き加えて→→S氏は合格になりました。 多分、今だと許されない事だと思います。(叔父が、「S氏は字が上手だ」と言っていました。)

【高校生時代】
 S氏は、田商から田辺駅のほぼ中間に有った、共用の台所が付いた四畳半のアパートを借りて自炊していました。 実家から米、沢庵、味噌等を送って貰い→→部屋に置いた電気炊飯器でご飯を炊いていました。

 学校が終わると、同級生を五、六人引き連れてアパートに帰り→→将棋を指すのが日課になっていました。 S氏の将棋の腕はドンドン上がって、田商の生徒の間では無敵になりました。

《余談 :若草寮の夕食》
 私は間借りして、夕食は田高の寮(若草寮)に食べに行っていました。一年先輩に背の高い/ガッシリした体格のバスケットボール部の男性が二人、若草寮に入っていました。

 若草寮の夕食は、ご飯は少し大きめの飯茶碗一杯だけ(お代わり無し)、味噌汁、簡単な御数(おかず)だけの質素な物でした。 バスケットボール部の二人が、毎日他人の分を食べてしまいました。

 私の夕食も週に一回か二回は食べられました。そんな時、月に二、三回、S氏のアパートに行って、冷めたご飯と沢庵を貰って飢えを凌ぎました。

(余談の余談 :若草寮) 田高の前進の一つが田辺高等女学校です。若草寮は田辺高等女学校の寮でした。 母は5年間、私の一番上の姉は1年間・若草寮に住んでいた様です。若草寮は現在も田高の寮として存在しますが、私が高校生だった頃は、ボロボロの木造で、旧市街地に有りました。

(余談の余談 :チキンラーメン)  私は間借りだったので、電気ポットしか有りませんでした。 寮の夕食を食べられた時は、S氏の所に行くか、日清のチキンラーメンにお湯を掛けて食べる以外に手が有りませんでした。

 上から三番目の姉が内職して貯めた金を、時々・5,000円程送ってくれていました。 間借りしていた家の近所の店に、結婚したての二十歳過ぎの奥さんが店番をしていました。 私が貧しい事を知っていて、「チキンラーメンを段ボール箱で買ったら安くしてあげる」と言ってくれたのです。姉が送ってくれた金で買いました。 涙が出るほど嬉しかったです。

【マラソンの思い出】
 中学3年生になると男子は、往復で5km程の距離を走らされました。 一山を超える5kmですから、『箱根駅伝の5区』の様な物でした。 S氏と私が一着か二着でした。

 高校でもマラソン大会があり、3学年の男子生徒が一斉に走りました。S氏は3年間良い成績だった様で、3年生の時は『トップ』だったそうです。

 私は高校一年生の時は剣道部でした。 昔から、剣道部と柔道部は「マラソン大会では絶対に負けない」と競い合っていました。マラソン大会が近付くと、両部ともマラソンコースを走って練習しました。 私は三、四回走った様に記憶しています。 私は両部の一番になりました。

 私は、3年間三十番以内に入っていました。 特に3年生の時は学年で一番になりました。

【高校卒業後のS氏】
 S氏は高校卒業後、大阪の電気店に就職しましたが、2年ほどで辞めてしまいました。 その店のお得意さんは、芦屋などの超!金持ちの家が多かったそうです。 高級な電気製品を買ってくれると→→トラックに派手な”幟旗(のぼり)”を付けて配達するのが、仕事だった様です。

 その後、京都のミシン販売店に就職しました。 殆ど基本給は無く、歩合制だった様です。ミシン販売店で、女性を”千人切り”したと言う話は次のブログに書きました。

★ 不倫報道は禁止すべきです。 :投稿日=2024年11月16日

【S氏は九州の某県に転居しました】
 1971年にS氏は、九州の某県に有った大きな観光ホテルに就職しました。

 ミシンの販売店に勤務していた時、(S氏よりも数歳年上の)ホテルのオーナーの次男か三男(M氏)がいて、ホテルの経営に参加する事になりました。 M氏に誘われて、好条件でホテルに転職したのです。M氏は、父親や他の兄弟と考え方が違ったので、S氏が27歳になった頃→→ホテルを追放され→→S氏もホテルを辞めました。

【S氏が素晴らしい女性と結婚しました】
 25歳になった年にS氏は地元の女性と結婚しました。 当時、私は神戸市に勤務していて→→フェリーで結婚式に参列しました。 しっかりした女性に見えたので、安心しました。 S氏は”いい加減”な男ですから、「奥さんが支えてくれるだろう」と思ったのです。 その後、私の予想通りになりました。

 その後、S氏には色々辛い事が有りましたが、奥さんが頑張って→→立ち直り→→事業に成功して→→今日が有るのだと、私は思っています。 次回に、その後の出来事を書きます。

芹(せり)尽くし料理の思い出

2023-09-09 08:49:16 | 人生
【はじめに】
 9月に入っていますが、連日暑い日が続いています。 それでも、1週間ほど前に、赤トンボが2匹飛んでいました。

 先日、窓を開けて上半身だけ外に出して、タバコを吸いながら稲妻の走るのを見ていました。 何故か?ふと、大昔に『芹尽くし料理』を頂いた事を思い出しました。

【芹(せり)尽くし料理の思い出】
 仙台の大学に合格して、下宿を探す為に3月の末に仙台に行きました。駅前でタクシーの運転手に、「貧乏なので、安い宿に連れていって下さい」とお願いしたら→→榴岡公園の近くの料理旅館に連れていって→→女将を説得して→→素泊まりを条件に、格安の料金で泊めてくれる事になりました。

 当時、仙台にはワンルームマンションは勿論、共同の炊事場の付いた安アパートが無く、学生寮に入るか、下宿に入るかでした。学生寮は何カ所かに有ったので見に行きましたが、ボロボロで、学生運動の拠点になっていたので、論外でした。下宿は沢山有りましたが、私の予算内のは見当たらず、探し回りました。

 翌日の夕方・クタクタになって→→料理旅館に帰ると→→仲居さんが、「お客さんと食事をしてくれませんか?」と言うのです。願っても無い事だったので了解しました。電気炬燵を置いた六畳程の和室に通されました。炬燵に高価そう和服を着た老人と女将が座っていて、私が入室すると女将は出て行きました。 そして、老人は身の上話を始めました。

 老人は癌の末期で、余命が幾許(いくばく)も無く、病院に最後の外出を許可してもらって→→馴染みの料理旅館に、大好物の芹(せり)料理を食べに来ていたのです。 「悔いの無い素晴らしい人生だった!」と言う様な話をされました。

 暫くすると、芹の入った炊き込みご飯、芹の和え物、澄まし汁・・・などなどが運ばれて来ました。肉料理も魚料理も無かった様に記憶しています。私は若かったので、「イワシかアジを焼いてくれたら!」と思いましたが、タダですから贅沢は言えませんでした。

(質問 :最後に何を食べたいですか?) 私は、そろそろ鬼籍に入ってもおかしくない歳になりましたが、「最後に何を食べたいですか?」と問われても、今のところ思いつく料理は有りません。 その時になったら、多分、妻の得意な料理を選ぶと思います。

 私の故郷・紀州では毎年・どの家でも『秋刀魚の押し寿司』を作ります。 母は、病院で103歳で亡くなったのですが、亡くなる3か月ほど前に『秋刀魚の押し寿司』買って、病院に行き→→二人で食べました。 母は食欲が無くなり、味も分からなくなっていたのか?、少し食べましたが「美味しい」とは言いませんでした。

(質問 :最後の晩餐は誰と食べたいですか?) イエス・キリストには妻と子供が(一人か?二人)いたようですが、最後の晩餐に12人の使徒達を招いた様です。然し、最後の食事は妻と子供達と食べたのでは?と私は勝手に思っています。

 芹尽くし料理を御馳走してくれた老人は、裕福で幸せな家庭の主人の様に見えました。 最後の晩餐を、家族や親しい人では無く、何故?私と食べたのでしょうか?

コメント :榴岡公園) 榴岡(つつじがおか)公園は、楽天イーグルスの本拠地になっている宮城球場の近くの岡の上に有ります。 私が学生時代には、勿論、楽天イーグルスは有りませんでしたが、(田舎の球場と言う感じの)宮城球場は有りました。友人の家が球場の近くに有ったので、何回か行った事が有ります。 私が泊まった料理旅館は、木造の和風建築でした。現在は無くなっています。

 料理旅館の近くで、家庭教師の口を見付けて、食堂の一人っ子の娘さんを教えました。家庭教師をすると夕食が出る事になっていました。有り合わせの食材で、チョコチョコっと、賄い料理を作ってくれたのですが、何時も素晴らしく美味しかったです。

【子供の頃の思い出】
 私は紀州の山村で育ちました。水田の用水路に芹が沢山自生していて、青野菜の無い頃は芹を澄まし汁や味噌汁にタップリ入れていました。

 私が小学校に入る前から、芹を採って来るのは私の役目でした。 用水路の畦道(あぜみち)に時々蛇がいました。姉達は皆、蛇が怖かったのです。 芹を採る頃、蛇はまだ冬眠していましたが、姉達は畦道には近づきませんでした。

 紀州では朝食に『茶粥(ちゃがゆ)』を食べるためだったのか?、我が家では『七草粥』は作りませんでした。 なお、我が家では茶粥を『おかいさん』と呼んでいました。

 我が家の茶粥には、たいていサツマイモが入っていました。茶粥は直ぐにお腹が空いてしまうので→→腹持ちを良くするために、サツマイモを入れていたのだと思います。

【妻と芹】
 妻も紀州の生まれですが、茶粥は作りません。その代わり、毎年必ず、芹がチョッピリ入った七草粥は作ります。 然し、他には芹の入った料理は作りません。

【楽しい学生時代が始まりました!】
 月一万円の下宿を見付けました。日当たりの良い、南向きの部屋で、小母さんの料理が美味しかったので四年間過ごしました。

 下宿は大学からは遠かったのですが、北回り/南回りの有る循環バスの起点の近くでした。 循環経路には大学だけで無く、仙台駅と仙台市の繁華街(一番町)が含まれていたので、通学だけで無く、家庭教師等のアルバイト、古本を買ったりするのに便利でした。定期券を買うと、循環路線内の全ての停留所で昇降出来ました。 (榴岡公園の近くも通りました。)

 家から送って貰ったお金は『12,000円/月』でしたが、奇跡の様な事が幾つも起こったので、貧乏学生でしたが、色々工面してスキーを楽しむなど、楽しい学生時代を送る事は出来ました。 学生時代に起こった奇跡は、次のプログに書きました。

 『私の貧乏学生時代』 投稿日=2020年7月11日

正月に働いた事が有りますか?

2023-01-07 12:02:18 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の年末年始の記憶を書きます。

 私の管理している大阪の賃貸マンションに、30歳前後の男性が一人で住んでいます。入居する時「接客業です」と言っていました。9時頃に出掛けて→→22時頃に帰宅します。休みは木曜日だけで、年末年始は休み無しですから、年間310日以上働いています。

【正月の屋台】
 私は無神論者なので最近は初詣には行きません。子供が小さい頃は毎年行きました。子供にとっては、『屋台』は正月の楽しみの一つですね! 初詣の屋台は、宗教に関係なく楽しい/素晴らしい風習だと思います。

 ある屋台の前を通りかかると、「さっき一万円札を渡したのに、貴方は五千円札と間違えて釣りをくれた。僕が渡した一万円札には印が付いている。」と言う客がいました。私の目の前で、女性の店主が金を入れている木箱を開けて、印の付いた一万円札を探し始めました。木箱にビックリするほど沢山『札』が入っていました。屋台は儲かるんですね!

 印の付いた一万円札が見つかっても、釣り銭を間違えた証拠にはなりません。私は『詐欺』ではないのか?と疑ってしまいました。

【明治神宮→浅草→成田山】
 私は19歳頃に、東京の2室しか無い小さなアパートで、1年間ほど自炊した事が有ります。共同のトイレと炊事場が有りましたが、風呂は近くの銭湯に行く必要が有りました。出稼ぎ労働者達と肉体労働をしました。

 正月休みに何もする事が無かったので、大混雑すると言われていた東京の初詣を見に行く事にしました。31日の22時頃に出発して→→明治神宮の賽銭を投げ込む場所の前に0時頃に到達しました。

 当時、参道は一方通行でした。おぼろげな記憶ですが、原宿駅で下車して代々木駅の方に歩いたと思います。噂通り凄い人込みで、私の前に若い芸者と思われる着物姿の女性を二人連れた、和服の大店の旦那と思われる方が歩いていました。周りの人達が大きな声で旦那を冷やかすのです。旦那を目掛け蜜柑を投げる輩もいて、私の頭に当たった記憶が有ります。

 多分今でも同じだと思いますが、本殿の前に筵を敷いて、その手前に縄を張ったのが賽銭を投げ込む場所です。一番前まで行ける人は少なく、後ろの方から硬貨を投げていました。私は、どれだけ賽銭が集まるのか見たかったので、一番前まで無理して進みました。初詣が始まったばかりの時間でしたが、ビックリするほど沢山賽銭が入っていました。

 次に向かったのは浅草寺です→→その後、成田山新勝寺に行きました。途中、屋台で休憩して、朝食と昼食を頂きました。その後で川崎大師に向かう予定だったのですが、疲れてしまって帰路につきました。(雑踏の中を歩くのは疲れます!)

 アパートに帰って、牛乳を温めないでガブガブ飲みました。体が冷えていたので、酷い腹痛と下痢になって→→二日間寝て過ごしました。姉が、「お賽銭を入れなかったので罰が当たったのよ!」と言いました。

【藪入り(やぶいり)】
 私の父は1901年(明治34年)生まれです。尋常小学校を中退して、和歌山県・南部町の商店に丁稚奉公に入りました。その頃はまだ藪入り(やぶいり)が来るのを待っている子供や親がいたのです。藪入りは、『旧暦の1月16日』と『旧暦の7月16日』ですから、丁稚達は正月も働いたのでしょう!?

 藪入り以外に、月に何回か丁稚に休みが与えられた様です。休みの日、父は10kmほど歩いて田辺市の『辻の餅』と言う店に『おけし餅』を食べに行ったそうです。私が小さい頃、私を田辺市に連れて行くと、『辻の餅』に寄って『おけし餅』を御馳走してくれました。

 店の奥に10人程が座れる椅子が置いていて、何時も老齢の女将さんと父は世間話をしていました。女将さんが茶をだしてくれて、私は『おけし餅』を沢山食べました。私は今でも、田辺市に行ったら必ず『おけし餅』を買って帰ります。

(余談 :お盆) 浄土真宗では盆や法事にお餅を仏壇に供え、その餅を『おけそく』と呼ぶそうです。 田辺市では宗派に関係なく、盆に『おけし餅』を買って食べる様です。妻の実家が田辺市に有るので、私は盆には早起きして、『おけし餅』を買って来ました。未明から作ったら、追加は作らないので、早く行かないと売り切れてしまうのです。段々・この習慣は下火になって来たので、今は午後からでも買えるかも知れません。

(余談 :店は正月二日から) 私が子供の頃、故郷の龍神村には商店が20軒以上有ったと思います。現金商売では無くて『掛売』でしたから、12月の末には店主は集金で大忙しでした。疲れてしまって、多分どの店も元日は『寝正月』だったのだと思います。正月二日から店は開いていた様に記憶しています。

 街の丁稚を使っていた大きな店も、元日は休みだったと思います。丁稚達も『寝正月』だったのでしょう!

 父は山林労務者を10人以上雇っていました。賃金は盆前と12月の末に支払っていました。その金で商店の支払いをしたのです。

【年末年始の賃金】
 製鉄所や製紙工場は24時間の連続操業をしています。機械のメンテナンスや改造工事は、一般に運転を止める正月、お盆、ゴールデンウイークの時期に行います。

 正月工事の時は、昔から全国的に特別な日当が支払われました。31日~2日は3倍、30日と3日は2倍、29日と4日は1.5倍だったと思います。 工事費が嵩むので、正月工事は段々と少なくなって来ました。

 私は製紙機械の設計開発に通算9年間ほど携わりました。富士市の製紙工場で3回正月工事の現場監督をやった事が有ります。正月に営業しているビジネスホテルや安宿が少なくなっていました。現役か元か忘れましたが、市会議員が銭湯を相続して、隣接地にビジネスホテルを建てていました。ホテルのロビーから直接、銭湯の脱衣所に入れる様になっていました。

 このビジネスホテルは料理が美味しくて、リーズナブルな料金だったので、普通の時はなかなか予約出来ませんでしたが、年末年始はガラガラでした。そんな分けで、私は3回の正月工事の時、利用させてもらいました。

 年末年始は従業員の多くを休ませて、配膳を御主人がされました。31日~3日まで通常の2倍ほど高い料金でした。 但し、夕食には毎回大きな伊勢海老を一尾(いちび)焼いた料理が出ました。最初の二日は幸せな気分でしたが、4日目になると普通の料理が食べたくなりました。 ご主人は、何時も私の傍に座って、「大赤字です!」と言っていました。

 会社は12月29日~1月5日まで休みでした。1月2日か3日に社長が『10万円』入った紙袋を持って工事現場に来て、各自に渡しました。

 現場作業者は、休日手当、残業手当が貰えた上に『10万円』頂けるので喜んでいました。 設計担当者は、出勤した事になっていなかったので、休日手当も残業手当も出ないのです。通常の出張費は支給してもらいましたが、ビジネスホテル代は2倍以上もして、「間尺に合わない!」と思いました。 勿論、会社は設計の人件費を顧客に請求していました。

 正月休みが全く無いと、「区切りの無い、何か可笑しい!一年」の様に思えました。