今回と次回は、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 まだ70年しか経っていませんが、日本はすっかり変わってしまいました!
【1950年の田舎】
1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。この年、私は4歳で、山村の田舎はまだまだ貧しかったです。 この年から朝鮮特需が始まりましたが、田舎の現金収入は山林の伐採、植林、下刈り、枝打ち、間伐などと木材の輸送が主でした。
木材はトラックでも運びましたが、筏に組んで川を下るのがまだ主流だったと思います。 真冬以外、結構寒くなっても筏下りが行われていました。
戦争の傷跡が色濃く残っていました。 幼い子を残して戦死された家や、戦争で負傷したり、病気になって満足に働けない人もいました。 どの家にも、昭和天皇と皇后の写真を飾っていました。
中学校を卒業すると大阪などに就職し、盆・正月と秋の祭りの時に帰省する様になっていました。 都会の生活に馴染めない男達が帰って来たので、村には青年がまだ沢山いました。 女は辛抱強いのか? 辞めて村に帰った女性は少なかったと思います。
【行商人】
年末になると、背中に大きな荷物を背負った行商人達が、別々の日にやって来ました。男性が二人、女性(Aさん)一人が田舎の店で売っていない、少し高価な洋服や化粧品などを売って回ったのです。私は、紙風船を毎年買って貰いました。 田舎に旅館が有りましたが、行商人はお金を節約するために、何がしかの金を払って普通の家に泊まりました。
1960年頃には、男性二人は来なくなりましたが、Aさんは1965年頃まで行商を続けていました。
【Aさんの話し】
Aさんは,ほとんど隣家(B家)に泊まっていました。 B家は、病床の夫、年老いた姑、二人の息子を、女性(Cさん)一人で養っている貧しい家でした。 満足な食事が出せ無かったと思いますが、Cさんは立派な女性だったので、AさんはB家を選んだのだと思います。
Cさんの旦那さんの病気は段々悪化して、Aさんを泊める事が出来なくなりました。 その間、Aさんは別の家(D家)に泊まっていました。 Cさんの旦那さんは1960年頃に亡くなられ、その後はまた、AさんはB家に泊まる様になりました。
その後、D家は事業に失敗して困窮する様になりました。 一方、Aさんは、全国紙に『闇の高利貸しをして逮捕された』と言う記事が出て、地方紙には貸した総額(数百万円)まで報じられ、村中大騒ぎになりました。 執行猶予になったのか、Aさんはその後も行商を続けていました。
後で知ったのですが、Aさんは天涯孤独だった様です。 ある日、Aさんが”ひょっこり”B家にやって来て、そのまま寝込んでしまいました。 死期が近づいた事を悟って、B家で最後を迎えたいと思ったのでしょう!
10日ほど経って、D家の夫婦が来て、Aさんを無理やり連れて帰りました。 二三か月後に、Aさんは亡くなられました。 その後少し経って、D家は事業を再開したので、「Aさんは沢山お金を持っていたのだろう!」と言う噂が村中に広まりました。 世の中は『花咲か爺さん』の様にはならないものです。 ただし、D家の夫婦は決して悪い人では有りませんでした。
【堀炬燵】
1950年頃まで、我が家には炉端が有ったそうです。炉端を潰して、板の間に畳を敷いて、炭火炬燵(こたつ)になりました。 その後すぐに、家族8人が座れる大きな堀炬燵に直して、練炭コンロを足元に置いていました。 父の横には、火鉢も置いていました。
練炭コンロは火力を調節すると、10時間以上暖かかったです。 昼前に点火しても、夜寝る前まで、炬燵は”ぬくぬく”でした。
食事をする部屋が別にあったのですが、堀炬燵に火を入れると、その上で食べました。 土鍋料理やすき焼きは、別のコンロを炬燵の上に置いて頂きました。
年末年始は、ほとんどの時間、家族は炬燵の周りで過ごしました。 昔は、今より寒かった様で、炬燵から出るのが辛かったです。
【盆暮れの支払い】
少し高い買い物は”付け(掛け売り)”で買い、盆と暮れ(年末)に支払いました。 父は山林と木材の商売をしていましたので、年末には町に集金に行き、おせち料理の材料を沢山買って来てくれました。
集金して来た金で、村の人達に労賃を払い、店の支払いをしました。 当時、田舎にあった金融機関は郵便局と農協だけで、父は現金で集金して来たのです。 大きな風呂敷包みに百円札を入れて持ち運んでいました。
(余談) 1950年頃の大学卒の初任給は3,000円ほどだった様です。 1950年に聖徳太子の千円札が発行されましたが、当時としては余りにも高額だったので、旧紙幣(A券)の百円札が主として使用されていました。 1953年に板垣退助の百円紙幣(B券)が発行されて使用される様になりました。 聖徳太子の一万円札は、1958年に発行されたのです。
【大掃除】
母か父が、「明日、大掃除をする」と言うと、誰が何をするか決まっていませんでしたが、皆が適当にやったら午前中には家の中が綺麗になりました。 私は、小さいころから、毎年、朝早くに川岸から笹を数本取ってきました。
年末の大掃除は、家族総出で,天井、壁など手の届かない所のホコリを葉の付いた笹で落とすことから始めました。 お盆の前にも大掃除をしましたが、その時は畳をあげて干したり、障子の張替えもしました。
五右衛門風呂と竈の煙突の掃除は、父と私でやりました。 煤が付くので、母も姉達も手伝ってくれず、小学校3年頃からは私一人の仕事になってしまいました。
(余談:掃除道具) 部屋の掃除に使う草箒は田舎の店で売っており、大抵の家に大小・2本ありました。 庭や土間を掃く竹箒は自家製か近所の器用な人に作ってもらっていました。 ”ちりとり”は木製で、大抵は旦那さんの手作りでした。 棒の先に細く切った布を付けた”布はたき”は、奥さんが作りました。
【1950年の田舎】
1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。この年、私は4歳で、山村の田舎はまだまだ貧しかったです。 この年から朝鮮特需が始まりましたが、田舎の現金収入は山林の伐採、植林、下刈り、枝打ち、間伐などと木材の輸送が主でした。
木材はトラックでも運びましたが、筏に組んで川を下るのがまだ主流だったと思います。 真冬以外、結構寒くなっても筏下りが行われていました。
戦争の傷跡が色濃く残っていました。 幼い子を残して戦死された家や、戦争で負傷したり、病気になって満足に働けない人もいました。 どの家にも、昭和天皇と皇后の写真を飾っていました。
中学校を卒業すると大阪などに就職し、盆・正月と秋の祭りの時に帰省する様になっていました。 都会の生活に馴染めない男達が帰って来たので、村には青年がまだ沢山いました。 女は辛抱強いのか? 辞めて村に帰った女性は少なかったと思います。
【行商人】
年末になると、背中に大きな荷物を背負った行商人達が、別々の日にやって来ました。男性が二人、女性(Aさん)一人が田舎の店で売っていない、少し高価な洋服や化粧品などを売って回ったのです。私は、紙風船を毎年買って貰いました。 田舎に旅館が有りましたが、行商人はお金を節約するために、何がしかの金を払って普通の家に泊まりました。
1960年頃には、男性二人は来なくなりましたが、Aさんは1965年頃まで行商を続けていました。
【Aさんの話し】
Aさんは,ほとんど隣家(B家)に泊まっていました。 B家は、病床の夫、年老いた姑、二人の息子を、女性(Cさん)一人で養っている貧しい家でした。 満足な食事が出せ無かったと思いますが、Cさんは立派な女性だったので、AさんはB家を選んだのだと思います。
Cさんの旦那さんの病気は段々悪化して、Aさんを泊める事が出来なくなりました。 その間、Aさんは別の家(D家)に泊まっていました。 Cさんの旦那さんは1960年頃に亡くなられ、その後はまた、AさんはB家に泊まる様になりました。
その後、D家は事業に失敗して困窮する様になりました。 一方、Aさんは、全国紙に『闇の高利貸しをして逮捕された』と言う記事が出て、地方紙には貸した総額(数百万円)まで報じられ、村中大騒ぎになりました。 執行猶予になったのか、Aさんはその後も行商を続けていました。
後で知ったのですが、Aさんは天涯孤独だった様です。 ある日、Aさんが”ひょっこり”B家にやって来て、そのまま寝込んでしまいました。 死期が近づいた事を悟って、B家で最後を迎えたいと思ったのでしょう!
10日ほど経って、D家の夫婦が来て、Aさんを無理やり連れて帰りました。 二三か月後に、Aさんは亡くなられました。 その後少し経って、D家は事業を再開したので、「Aさんは沢山お金を持っていたのだろう!」と言う噂が村中に広まりました。 世の中は『花咲か爺さん』の様にはならないものです。 ただし、D家の夫婦は決して悪い人では有りませんでした。
【堀炬燵】
1950年頃まで、我が家には炉端が有ったそうです。炉端を潰して、板の間に畳を敷いて、炭火炬燵(こたつ)になりました。 その後すぐに、家族8人が座れる大きな堀炬燵に直して、練炭コンロを足元に置いていました。 父の横には、火鉢も置いていました。
練炭コンロは火力を調節すると、10時間以上暖かかったです。 昼前に点火しても、夜寝る前まで、炬燵は”ぬくぬく”でした。
食事をする部屋が別にあったのですが、堀炬燵に火を入れると、その上で食べました。 土鍋料理やすき焼きは、別のコンロを炬燵の上に置いて頂きました。
年末年始は、ほとんどの時間、家族は炬燵の周りで過ごしました。 昔は、今より寒かった様で、炬燵から出るのが辛かったです。
【盆暮れの支払い】
少し高い買い物は”付け(掛け売り)”で買い、盆と暮れ(年末)に支払いました。 父は山林と木材の商売をしていましたので、年末には町に集金に行き、おせち料理の材料を沢山買って来てくれました。
集金して来た金で、村の人達に労賃を払い、店の支払いをしました。 当時、田舎にあった金融機関は郵便局と農協だけで、父は現金で集金して来たのです。 大きな風呂敷包みに百円札を入れて持ち運んでいました。
(余談) 1950年頃の大学卒の初任給は3,000円ほどだった様です。 1950年に聖徳太子の千円札が発行されましたが、当時としては余りにも高額だったので、旧紙幣(A券)の百円札が主として使用されていました。 1953年に板垣退助の百円紙幣(B券)が発行されて使用される様になりました。 聖徳太子の一万円札は、1958年に発行されたのです。
【大掃除】
母か父が、「明日、大掃除をする」と言うと、誰が何をするか決まっていませんでしたが、皆が適当にやったら午前中には家の中が綺麗になりました。 私は、小さいころから、毎年、朝早くに川岸から笹を数本取ってきました。
年末の大掃除は、家族総出で,天井、壁など手の届かない所のホコリを葉の付いた笹で落とすことから始めました。 お盆の前にも大掃除をしましたが、その時は畳をあげて干したり、障子の張替えもしました。
五右衛門風呂と竈の煙突の掃除は、父と私でやりました。 煤が付くので、母も姉達も手伝ってくれず、小学校3年頃からは私一人の仕事になってしまいました。
(余談:掃除道具) 部屋の掃除に使う草箒は田舎の店で売っており、大抵の家に大小・2本ありました。 庭や土間を掃く竹箒は自家製か近所の器用な人に作ってもらっていました。 ”ちりとり”は木製で、大抵は旦那さんの手作りでした。 棒の先に細く切った布を付けた”布はたき”は、奥さんが作りました。