これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

田舎の昔の正月 (その1)

2018-12-29 00:31:33 | 昔の日本
 今回と次回は、1950年~60年頃の田舎の年末から正月の話しです。 まだ70年しか経っていませんが、日本はすっかり変わってしまいました!

【1950年の田舎】
 1950年6月に朝鮮戦争が勃発しました。この年、私は4歳で、山村の田舎はまだまだ貧しかったです。 この年から朝鮮特需が始まりましたが、田舎の現金収入は山林の伐採、植林、下刈り、枝打ち、間伐などと木材の輸送が主でした。
 木材はトラックでも運びましたが、筏に組んで川を下るのがまだ主流だったと思います。 真冬以外、結構寒くなっても筏下りが行われていました。

 戦争の傷跡が色濃く残っていました。 幼い子を残して戦死された家や、戦争で負傷したり、病気になって満足に働けない人もいました。 どの家にも、昭和天皇と皇后の写真を飾っていました。

 中学校を卒業すると大阪などに就職し、盆・正月と秋の祭りの時に帰省する様になっていました。 都会の生活に馴染めない男達が帰って来たので、村には青年がまだ沢山いました。 女は辛抱強いのか? 辞めて村に帰った女性は少なかったと思います。

【行商人】
 年末になると、背中に大きな荷物を背負った行商人達が、別々の日にやって来ました。男性が二人、女性(Aさん)一人が田舎の店で売っていない、少し高価な洋服や化粧品などを売って回ったのです。私は、紙風船を毎年買って貰いました。 田舎に旅館が有りましたが、行商人はお金を節約するために、何がしかの金を払って普通の家に泊まりました。

 1960年頃には、男性二人は来なくなりましたが、Aさんは1965年頃まで行商を続けていました。

【Aさんの話し】
 Aさんは,ほとんど隣家(B家)に泊まっていました。 B家は、病床の夫、年老いた姑、二人の息子を、女性(Cさん)一人で養っている貧しい家でした。 満足な食事が出せ無かったと思いますが、Cさんは立派な女性だったので、AさんはB家を選んだのだと思います。

 Cさんの旦那さんの病気は段々悪化して、Aさんを泊める事が出来なくなりました。 その間、Aさんは別の家(D家)に泊まっていました。 Cさんの旦那さんは1960年頃に亡くなられ、その後はまた、AさんはB家に泊まる様になりました。

 その後、D家は事業に失敗して困窮する様になりました。 一方、Aさんは、全国紙に『闇の高利貸しをして逮捕された』と言う記事が出て、地方紙には貸した総額(数百万円)まで報じられ、村中大騒ぎになりました。 執行猶予になったのか、Aさんはその後も行商を続けていました。

 後で知ったのですが、Aさんは天涯孤独だった様です。 ある日、Aさんが”ひょっこり”B家にやって来て、そのまま寝込んでしまいました。 死期が近づいた事を悟って、B家で最後を迎えたいと思ったのでしょう!

 10日ほど経って、D家の夫婦が来て、Aさんを無理やり連れて帰りました。 二三か月後に、Aさんは亡くなられました。 その後少し経って、D家は事業を再開したので、「Aさんは沢山お金を持っていたのだろう!」と言う噂が村中に広まりました。 世の中は『花咲か爺さん』の様にはならないものです。 ただし、D家の夫婦は決して悪い人では有りませんでした。

【堀炬燵】
 1950年頃まで、我が家には炉端が有ったそうです。炉端を潰して、板の間に畳を敷いて、炭火炬燵(こたつ)になりました。 その後すぐに、家族8人が座れる大きな堀炬燵に直して、練炭コンロを足元に置いていました。 父の横には、火鉢も置いていました。

 練炭コンロは火力を調節すると、10時間以上暖かかったです。 昼前に点火しても、夜寝る前まで、炬燵は”ぬくぬく”でした。

 食事をする部屋が別にあったのですが、堀炬燵に火を入れると、その上で食べました。 土鍋料理やすき焼きは、別のコンロを炬燵の上に置いて頂きました。

 年末年始は、ほとんどの時間、家族は炬燵の周りで過ごしました。 昔は、今より寒かった様で、炬燵から出るのが辛かったです。

【盆暮れの支払い】
 少し高い買い物は”付け(掛け売り)”で買い、盆と暮れ(年末)に支払いました。 父は山林と木材の商売をしていましたので、年末には町に集金に行き、おせち料理の材料を沢山買って来てくれました。

 集金して来た金で、村の人達に労賃を払い、店の支払いをしました。 当時、田舎にあった金融機関は郵便局と農協だけで、父は現金で集金して来たのです。 大きな風呂敷包みに百円札を入れて持ち運んでいました。

(余談) 1950年頃の大学卒の初任給は3,000円ほどだった様です。 1950年に聖徳太子の千円札が発行されましたが、当時としては余りにも高額だったので、旧紙幣(A券)の百円札が主として使用されていました。 1953年に板垣退助の百円紙幣(B券)が発行されて使用される様になりました。 聖徳太子の一万円札は、1958年に発行されたのです。

【大掃除】
 母か父が、「明日、大掃除をする」と言うと、誰が何をするか決まっていませんでしたが、皆が適当にやったら午前中には家の中が綺麗になりました。 私は、小さいころから、毎年、朝早くに川岸から笹を数本取ってきました。

 年末の大掃除は、家族総出で,天井、壁など手の届かない所のホコリを葉の付いた笹で落とすことから始めました。 お盆の前にも大掃除をしましたが、その時は畳をあげて干したり、障子の張替えもしました。

 五右衛門風呂と竈の煙突の掃除は、父と私でやりました。 煤が付くので、母も姉達も手伝ってくれず、小学校3年頃からは私一人の仕事になってしまいました。

(余談:掃除道具) 部屋の掃除に使う草箒は田舎の店で売っており、大抵の家に大小・2本ありました。 庭や土間を掃く竹箒は自家製か近所の器用な人に作ってもらっていました。 ”ちりとり”は木製で、大抵は旦那さんの手作りでした。 棒の先に細く切った布を付けた”布はたき”は、奥さんが作りました。

痴ほう症 (その2)

2018-12-22 20:56:40 | 社会問題
 私は、中学を卒業するまで山村の20軒ほどの集落で育ちました。 今でも、ほぼ全ての家の家族構成を記憶していますが、痴ほう症になった人はいませんでした。 叔父・伯母も沢山いましたが、皆さん死ぬまで頭はしっかりしていました。 昔は痴ほう症は少なかったのでしょうか?

【家の前の道路で助けを求めているお婆さん】
 私の散歩コースだったのですが、向い合せの家で大きな犬を飼っている家があり、その前を通ると二匹が”けたたましく”吠えるので、その道は通らないことにしていました。二匹とも死んだと聞いたので、久しぶりにその道を通ることにしました。

 お婆さんが道で、「助けて! 助けて!」と悲しそうな顔をして叫んでいるので、どうしたか尋ねると、「息子が、私を置いて出て行った!」と言いました。 とりあえず家の中に入れましたが、私から離れようとしません。 隣の家のインターホーンを押すと、若い奥さんが出て来られて、赤ちゃんを“あやす“様に、慣れた手付きでお婆さんを家の中に入れました。

 奥さんの話しでは、息子と二人住まいで、息子さんは毎日仕事に出掛けていて、このお婆さんは時々「息子がいなくなった!」と言って外に出てくるのだそうです。

 それからは、その道は避けていたのですが、二か月程して”うっかり”通ってしまいました。 目の前に、例のお婆さんがいて「助けて!」と叫んでいました。 隣の奥さんを煩わせる訳にはいかないので、お婆さんのズック靴を脱がして、部屋まで連れて行き、逃げる様に玄関のドアを閉めて帰りました。 あれから1年以上たちますが、施設に入ったと言う話を聞きません。

 ここまで痴ほう症が進んだら、公共の施設が面倒を見てくれるのなら、介護保険料が少し高くなっても、国民は納得するのでは? 息子さんが会社を辞め無くても良い、福祉社会になることを期待しています。

【木の棒を持って殴る痴ほう症のお爺さん】
 2メートルほどの木の棒を左右に振りながら、道路の中央を歩くお爺さんがいました。 棒が届く範囲内に人が入ると、思い切り殴るのです。私も一回足を殴られて、青あざが出来たことがあります。 近所の奥さん達は「痴ほう症だ」と言っていましたが、気が触れていたのかも知れません。

 客の多いいスーパーの前の道を、毎日一回以上徘徊するのです。私は、殴られるのを何回も見ました。 子供は賢いですね、彼の近くは避けていました。子供が殴られるのは見たことがありませんでした。

 二三年後に、そのお爺さんを見掛けなくなり、「亡くなったか、施設に入ったんだろう」と近所では話していました。

【奥さんの痴ほう症が進んできました】
 息子一人の三人家族で、奥さんが60歳頃に痴ほう症の気が出てきました。 最初の症状は、旦那さんを信じられなくなったことです。 旦那さんは今でも働いていて、高額な所得があります。 奥さんの年金は、私の1.5倍ほども有ります。 奥さんの年金は全て貯金していたのですが、「旦那さんが、取った!」と言うのです。 一年間ほど言い続けていましたが、病状が進んで言わなくなりました。 旦那さんは辛かったと思います。 通帳を見せて説明しても、何日かすると、「取った!」と言われるのですから。

 奥さんが70歳になった頃に、一人息子が立派な結婚式を挙げました。 その頃の出来事の一部は、今でも記憶にある様ですが、息子の結婚式の事は全く覚えていません。 息子は独身だと今でも思い続けています。

 息子は嫁さんを連れて、毎年二三回帰省していますが、嫁さんの顔を覚えることが出来ません。 知らない女性が「何故かいる」くらいにしか思えない様です。 「正月に息子さんが帰省されました?」と聞かれても、「帰ってこなかった」と答えるそうです。

 一年ほど前から、買い物は旦那さんと一緒にされる様になりました。 時々、旦那さんがいない時、奥さんが一人で買い物に出掛けます。 必ずキャベツを一玉買ってきて、千切りにして、大きなボールに入れ、冷蔵庫に保管します。 二週間もすると、大きな冷蔵庫の中が千切りキャベツで一杯になるようです。

 部屋が沢山有る大きな家に住んでいるのですが、痴ほう症の人が、物を置いた場所を本人が思い出すのはほぼ不可能ですが、正常な人が見付けるのも難しいです。 常識では考えられない所に置くからです。 この前の秋の衣替えの頃、沢山有った奥さんの秋の洋服が殆ど無くなっていて、デパートで十着ほど買って来たそうです。

 奥さんは田舎の家庭料理が大変上手で、私が行ったら必ず作ってくれました。 一年ほど前から、塩加減があやしくなり、塩辛くて食べられない時がある様です。 料理を作る家政婦さんを雇う様になりました。 最近、家政婦さんの作った料理を、「私が作ったのよ!」と言う時があります。

 今年のお盆過ぎから、病状が悪化して、数分前の記憶が完全に無くなってしまいました。 旦那さんが休みの日に固定電話に掛けると、奥さんが出られ、「主人は昨日から帰って無いのよ!」と言われました。 携帯に掛けると、旦那さんは隣の部屋にいました。

 最近、知人がその家に行った時、1時間ほど前に奥さんがバイクで買い物に出ていたらしいのですが、3時間経っても帰られません。 探しに行こうとしたら、帰って来られて、「バイクのキーが見つからなかったのよ!」と言われたそうです。ハンドバックに入れたキーを2時間以上探していた様です。

 先日、会った時、さりげなく「お金さえ出せば良い施設が有る様ですね!」と言ったら、「帰って来た時、家に誰もいなかったら寂しいから」と言われました。 夫婦の会話は難しくなっていますが、奥さんを大切に思っているのだと感じました。

【姉の痴ほう症】
 私の一番上の姉は、相思相愛で結婚し、仲の良い夫婦でした。 姉が80才頃に、義理の兄が亡くなったのですが、葬儀のあと少し物忘れが酷くなって来ました。 私の家からは遠いいので、一年に一度しか様子を見に行っていません。 3年ほどすると、「明日、遊びに行く」と電話しても、直ぐに忘れてしまい、玄関にはいると、「電話してくれたら良かったのに!」と言う程になりました。

 幸いな事に、姉には息子が二人いて、同じ市に住んでいます。 毎日、交代で、家で作った料理を持って様子を見に行き、買い物もしてくれています。 至る所に、息子達が書いたメモ紙が貼ってあります。 姉の年齢まで書いた紙が有りました。 近年、私は行く前に、息子(甥)の一人に電話する事にしていますが、何日に私が来ると書いたメモを貼っています。 私の為に用意してくれた、「お菓子をどこに置いている」と書いたメモが必ず貼ってあり、家内が読んで、家内がコーヒーを作って三人で頂きます。

 姉は痴ほう症が進むと外出したがらなくなり、殆ど一日家にいます。 皆で勧めても、散歩しません。 運動しなくても足腰は今の所、異常がない様です。 幸いな事に、最近三年間程は病状は膠着状態になりました。

 昔の事は良く覚えていますが、義理の兄が最後を迎えた頃の記憶には、間違っている記憶が幾つかあります。 不思議なことに、会うと必ず間違った話をします。 最初の頃私は、「それは違うよ!」と言っていましたが、最近は「そうだったね!」と言う事にしています。

 姉はもうすぐ90歳になります。 家は、2所帯が十分暮らせる広さなので、甥夫婦が同居してくれたらと、(私は勝手に)祈っています。

痴ほう症 (その1)

2018-12-15 10:57:01 | 社会問題
 私のまわりでも、痴ほう症の人が少しずつ増えて来ている様に思います。 他の病気とは違って、患者は苦しむ事も無く、悩む事も有りませんから、幸福かも知れません。 家族の悲惨さは、その家の事情によって”まちまち”ですね!
 私が考えさせられた痴ほう症の例を、二回に分けて書きます。 世の中には、痴ほう症の家族を抱えて苦労している方が沢山おられる事を知って頂きたいのです。

【痴ほう症の人と仕事をしました】
 私は暗礁に乗り上げてしまった重要な開発を引き継いだ事が数回あります。 全て(他部署への)応援でした、つまり、人事異動は無く、幽霊社員が仕事をするわけです。 開発に成功しても、幽霊社員の成果にはなりませんでした。 開発に成功したら、別の中断した重要な開発の応援の話しが待っていました。 ボーナスは出世コースに乗った同期よりも多かったので文句は言えません。 この話も、そんな仕事の一つをした時の経験談です。

 年間数万個売れそうな製品でした。 「1年間で開発目標仕様を満足し、1台二万円で売れる製造方法を確立したら、派遣元の部署に帰ってよい」との口約束をしてもらいました。開発の前任者は(何時ものことでしたが)既に退職されていました。

 私の開発チームは、たいてい人事的には無茶苦茶でした。 この時は特に酷く、十数人のチームでしたが、チームリーダーの私は平社員でしたが、部長1人、次長1人、課長1人も私の指示で動く事になりました。

 一番困ったのは、派遣社員の製図工が”若年性認知症”だった事です。 この方は、国立大学の機械工学科を卒業され、大手企業に勤務されていましたが、40才になる前に大病で長期入院され、退社されていました。 退院された後から、認知症が進みはじめ、奥さんが娘さんを残して家を出られたそうです。 私と仕事を始めた時は、まだ45才ほどだったと思います。娘さんは国立大学の学生でした。

 最初の頃は、毎朝、その日にしてもらう仕事の内容を書いたメモを渡し、説明しました。 2か月ほど経つと、昼食後に仕事をしないでジッと瞑想している様になりました。 仕方がないので、朝と昼食後の2回、打合せをする事にしました。

 さらに2か月ほどすると、打合せの後でも仕事をしなくなりました。 期限の厳しい開発だったので、ぼーっとしている彼に近づくと、「今日は打合せが無かった」と言いました。 彼の製図版の上には、さっき渡したメモを置いていました。 そのメモを見た彼は、「君は人が悪い、私が席を外した間にこのメモを置いておいて、私を責める」と言い出しました。

 次の日から、打合せ時に彼にメモを作成してもらう事にしました。私は乱筆ですが、彼は綺麗な字を書きましたので、自分が書いたメモだと分かると思ったのです。 打合せの後、仕事をしない日が有りましたが、彼の机の上のメモで再度説明しました、「何時書いたのかなあ?」と言って、不思議そうにしていました。

 ”ハサミ”は指を萎めると先端も閉じますが、逆の動きをする組み立て用の道具(冶具)が必要になり、計画図を作って渡しました。 私の説明をじっと聞いていましたが、「そんな動きは絶対にしない。僕は国立大学の機械工学科を出ている。そんな図面は絶対に書かない」と言い張りました。 その日、何回も説明しましたが、「僕は国立大学の機械工学科卒だ!」の一点張りでした。 次の日に、「チームリーダー命令だ!」と言って強引に図面を作成してもらいました。

 認知症がドンドン進んできたので、派遣元の会社に代わりを出してもらう様に話に行きました。 「彼は他に行く所が無い、首にしたら娘さんは大学を辞めなければならない」と言われ、開発の目途がほぼ立っていましたので、我慢する事にしました。

 目標製造コストを半額にされて、量産製造方法を大幅に再検討しましたので、結局、1年と2か月ほど彼と一緒に仕事をしました。 「娘さんが大学を卒業出来たとしても、認知症の父親を抱えて就職は難しい」と言う人もいました。 私もそう考えましたが、娘さんはこれから大変な人生を歩むことになると思うので、せめて大学は出してあげたかったのです。

 あれから、もうすぐ30年になります。 その間、我が国の社会福祉は良くなっていますから、娘さんは、お父さんから解放されて幸せな生活をされていると信じています。

【健忘症の人と仕事をしました】
 2005年頃の話しですが、当時、私は中規模の会社に出向していました。 三階の小さな居室に四人が机を並べて、別々の仕事をしていました。 その会社に40年以上勤められている、65歳くらいの男性社員(A氏)がいました。

 A氏は、日に2~3回は下の階に用事で降りて行くのですが、毎回、すぐ上がって来て、「○○君、僕は何しに降りたのか?」と私に尋ねるのです。「分かりません」と答えると、しばらく机に向かって考えて、降りて行きました。

 A氏は、社内会議ではノートにメモを取っていましたので、「下に降りる時、用件をメモされては」と何回もアドバイスしましたが、実行されませんでした。

 この会社には、若手の設計者以外には、殆どパソコンが導入されていなかったのですが、老人の私がパソコンで仕事をするのを見て、会社のトップが全員にパソコンを支給し、社内メールシステムの導入を決定しました。 「3か月後からは、報告書、行動予定などなどの書類は全てパソコンで作成せよ、出来ない社員は辞めてもらう」と言う社長命令が出ました。 社長も含め、皆さん必死でパソコンに取り組みました。

 A氏には、隣の部屋の若手社員(B君)が教える事になりました。 毎日数回、B君を呼んでパソコンの操作を教えてもらっていましたが、なかなか使える様になりません。 二か月もすると、B君が”切れ”てきて、大きな声で「さっき教えたでしょう!」と嫌な顔をして言う様になりました。 私は、「教えてもらった事をメモしたらどうですか」とアドバイスししてみましたが、A氏は「うん、うん」言うだけでした。

 A氏は、古い顧客・数社の設備の修理や改良工事の見積と設計を担当されていました。 一件が数百万円の仕事で、毎回10%以上の赤字を出していました。 「何故、毎回赤字になるのか調べて欲しい」と依頼されました。 原因は直ぐに分かりました。A氏が設計図と呼んでいるのは、A4のコピー用紙に、フリーハンドで書いたメモの様な物でした。 見積積算資料に、沢山購入部品が漏れていて、工事中に緊急手配していたのです。

 「物忘れが酷くなった人に、設計や見積の仕事をさせる会社の方が問題だ」と私は思いました。 その後、2年ほどして私は別の会社に出向しましたが、A氏はまだパソコンを十分使いこなしておらず、赤字を出し続けていました。

【奥さんが痴ほう症で施設に入られた】 
 近所に子供さんのいない老夫婦が住んでいました。2005年頃から奥さんの様子がおかしくなりました。数年して御夫婦で家から東へ十数キロの所に遊びに出掛けられたのですが、数分目を離した隙に奥さんが見当たらなくなってしまったそうです。

 旦那さんが警察に届けた様ですが、警察は多忙ですから期待は出来ません。次の日から近所の人達数人で探しました。一週間ほど探しましたが見つかりませんでした。

 行方不明になって10日ほどたって、近所の方が車を走らせていたら、国道の路肩にボンヤリ座った奥さんを見付け、連れて帰ってくれました。 家から西の方向へ十数キロの所だったそうです。痴ほう症の奥さんが30キロ以上歩いた事になります。

 奥さんは元気で、お腹が空いた様子でも無かったそうです。10日間、誰かに食べさせて貰っていたのでしょう。 私は、「食べ物を与えるくらい親切な方なら、どうして警察に通報してくれなかたのだろう?」と不思議に思いました。

 家から徒歩数分の所にある、特別養護老人ホームに空きができ、1年程で奥さんを入れました。 旦那さんは、私の家の横の道を通て、毎日のように奥さんを見舞いにいっていました。その後、旦那さんも年老いて外に出なくなりました。 最近、その家の前にホームステイの迎えの車が止まる様になり、「旦那さんが先に逝ったらどうなるんだろう?」と町内では心配しています。

イガミ(ブダイ)

2018-12-08 00:12:10 | グルメ
 和歌山県では”ブダイ”のことを”イガミ”と呼びます。 今回は、私の大好きな”イガミ”の話しです。

【イガミは年末の御馳走でした!】
 昔は、取引の決算を盆暮れにしていましたので、父は年末には必ず町(田辺市)に出掛けました。 沢山お土産を買って来てくれ、その中に必ず大きな”イガミ”が有りました。
 イガミは少しグロテスクな魚で、姿形と色を見たら食欲が無くなるかも知れませんが、美味しい魚です。

 イガミは雑食性の魚ですが、秋から冬にかけては海藻を主に食べる様で、磯臭さが少なくなり、美味しくなります。それを”寒ブダイ”と呼ぶそうです。

【イガミの煮凝り】
 母はイガミを煮付けにしてくれました。 ”身”はもちろん美味しいですが、煮凝りはプリプリして絶品です。 煮凝りが嫌いな方でも、イガミの煮凝りなら食べられるかも知れません。

 子供の頃、冷蔵庫はまだ有りませんでしたが、イガミの煮汁には沢山ゼラチンが含まれますから12月の寒さで、煮凝りになりました。

【イガミの刺身】
 私が30歳の時、仕事で沖永良部に出張して、民宿に一週間ほど滞在した事があります。 夕食に、御主人が釣って来た、40センチほどの”イガミ”の姿造りが出ました。 御主人は自分で部屋に運んできて、「大サービスです!」と言っていました。

 11月でしたので、紀州では美味しい”寒ブダイ”の季節でしたが、”クセ”があって、同僚は殆ど食べませんでした。

(嬉しい出来事) 地元の黒糖焼酎と”イガミ”を楽しんでいる時に、家内から電話があり、待望の「子供が出来た!」と知らせてきました。 民宿の近くにサンゴの装飾品を作る職人さんの家が有りましたので、大金をはたいて赤サンゴのネックレスを買いました。 家内は時々、今でも付けています。 この時に出来た子供が私の長男で、もう40歳を過ぎました。

【友人の奥さんとイガミ】
 友人、その奥さんと私は紀州の出です。 もう50年以上の付き合いで、三人で時々会うのですが、奥さんが痴ほう症になられ、病状が段々悪化して来ています。 数年前の今頃に、友人が「正月に食べた煮凝りの美味しい魚は何と言うのだったか?」と言いました。 思い出せずにいたら、奥さんが自信たっぷりに、「イガミよ!」と言われました。

 それ以来、三人で会ったら、友人か私が、「正月に食べた魚・・・?」と言い、奥さんが「イガミよ!」と言われます。 「何時までイガミを思い出せるか?」私は寂しくなって来ます。 今では数分前の記憶が無くなって、友人と奥さんは会話を楽しむ事が出来なくなり、私と会う口実を作って連絡して来ます。

★★沖見★★
 父がイガミを買っていた魚屋さん(沖見)は、JR紀伊田辺駅のすぐ近くに有りましたが、二年程前に店仕舞いした様です。 私は田辺に帰った時は、必ず沖見に寄って魚の干物を買っていました。 帰省の楽しみが、また一つ減ってしまいました。

 沖見の干物の中で、我が家で一番の人気は、『あい(あいご、バリコ)』の干物でした。 ”あい”は紀州以外ではあまり食べない様です。 少し”くせ”が有りますので、初めての方は食べられないかも知れません。 息子の嫁さん達も、好きになったので、沖見で沢山買って宅急便で送っていました。

 沖見のアジの干物も絶品でした。 魚は季節によって”脂ののり”が違いますので、普通は干物にしても美味しい時期は限られますが、沖見の干物は何時買っても美味しかったです。「旬の時に多量に仕入れて、マイナス40℃の冷凍倉庫に保管して、少しずつ出して干物にしている会社から仕入れている」と言っていました。

 沖見の”うるめの干物”は、薄塩で、これも絶品でした。 同じ様な物が無いか、方々で探していますが、まだ見つかっていません。 つくね芋で作った”とろろ汁”と沖見の”うるめ”の相性は抜群でした!

(余談) あい(あいご)のヒレには、強烈な毒が有るそうですが、魚屋に並べる前にヒレは除去されていますので、安心です。

ゴーン氏の事件報道

2018-12-01 11:23:29 | 報道の問題
 日産のゴーン氏に関する報道を見ていると、日本のマスコミの問題をさらけ出している様に思えます。 読者や視聴者が誤解するかも知れない内容で、日産や検察の発表をそのまま報道しています。 私は、松本サリン事件の報道を思い出しました。

【有価証券報告書の偽装】
 日産の有価証券報告書に、ゴーン氏への支払いが毎年10億円少なく記載していたと報じられています。 然し、”脱税“の有無については、どの報道機関も何も言っていません。

 「2010年からの在職年数×10億円を、ゴーン氏が退職した後に、毎年10億円ずつの分割で支払う契約になっている」と報じていました。 会社に功績のあった人に、退職後も(勤務実態が無くなっても)お金を支給するのは違法ではありません。 ただし、毎年の有価証券報告書に、「今年の10億円を退職後支払う」と記載する必要があるようです。

 有価証券報告書は大口の投資家が、株の売買をする時、参考にする資料です。 日産の2018年3月決算の純利益は7,400億円以上ありましたが、10億円はその0.1%ほどにしかなりません。 この程度の記載漏れを投資家が問題にするでしょうか? 検察は起訴はするでしょうが、有罪判決は出ない様に思います。

【私的な投資損失を日産に付け替えていた】
 報道から類推すると、ゴーン氏は”外国為替保証金取引(FX)”をしていた様です。 FXは博打の様な取引です。 円とドルのFXだとします。 二つの通貨の金利がどちらの方が高くなるかを賭けるわけです。 ”円の金利の方が高い”に賭けていて、その通りなら毎日通帳にお金が振り込まれますが、逆だと通帳から振り落とされます。

 2008年時点で、ゴーン氏の通帳残高が”マイナス約17億円”になっていました。 この負債を日産に肩代わりさせたようです。 これは犯罪で”特別背任”に該当しそうです。罰は”懲役10年以下”です。

 然し、刑事事件としての時効は7年ですから、既に時効は成立しています。 日産が民事で損害賠償を請求出来るのは、10年以内ですから、これも時効です。 時効が成立している事件を、実名を挙げて報道するのはフェアでしょうか?

【6か国に豪華な住居を提供させた】
 日産グループが豪華な住居を6か国に用意したのは、我々庶民から見ると犯罪の様に思えます。 元の所有者に儲けさせるために、ゴーン氏が時価よりも大幅に高い金額で、それらの住居を日産に購入させたケースなら犯罪と思います。 そういう報道はありません。

 東京の練馬区に住んでいた姉の家のすぐ近くに、欅の大木が数本植わっている豪邸が有りましたが、○○省の幹部の住む官舎だと言われていました。 この官舎の土地は、現在の価格で10億円以上すると思われます。 公僕のはずの役人が、駅から徒歩で数分の豪邸に住んで、朝夕・車で送り迎えのサービスを受けても違法では有りません。

【家族旅行の費用を日産に払わせた】
 大企業の重役や中小企業の社長が、家族旅行や飲食の費用を会社の金で処理するのは、我が国では日常的に行われています。 多分、マスコミ各社でも行われているのでは? もし問題にするのなら、「自分の会社がどうなっているか?」調べてからにして下さい。

 大企業で会長や社長になられた方は、退職後死ぬまでこの種の特典を与えられるのは珍しくありません。 もうヨボヨボなのに、会社に秘書を付けさせて、外食費はもちろん会社負担で、家や庭のメンテナンスもさせていた人を知っています。

【姉さんに顧問料を支払わせた】
 普通、勤務実態が無い実在の人物に給料を支払っていた場合は、”架空経費”、すなわち脱税と見なされる可能性があります。 然し、日産は ゴーン氏の姉さんを”アドバイザー”として雇っている様に報じられていますから、出勤しなかったから勤務実態が無かったとは言い切れない様に思います。 電話でもアドバイスは出来ます。

 我が国の中小企業では、家族や親族を重役に登記して、実際には全く働いていないのに給与賞与を支給しているケースは、沢山あります。 私はそんな会社を数社知っていますが、税務署が問題にしたと言う話を聞いた事が有りません。

 タイムカードを押さなければならない職種で、勤務実態の無い親族を雇った事にしていて、税務署から脱税と指摘された話は聞いた事があります。 然し、検察が関わる問題ではありません。

【娘の通う海外の大学への寄付】
ケース1 :日産として、ゴーン氏の娘さんが通っている大学に寄付したのであれば合法です。
ケース2 :日産が金を出したのに、ゴーン氏個人が寄付した様にしていたら犯罪と思います。

 各社の報道は、『ケース2』と誤解させる様な内容になっていす。 実際は『ケース1』だったとしたら、”報道の暴力”と言われても致し方無いと思います。

【私からみたゴーン氏の問題】
問題 1: 2018年現在で、ゴーン氏が日産のトップに君臨して19年にもなります。 ゴーン氏はまだ64歳ですから、さらに10年以上居座り続けたかも知れません。 日産の上層部の人達にとっては、耐えられ無い存在になっていたと思われます。

問題 2: ゴーン氏は2万人をリストラし、購入部品の価格を下げさせた様です。 こういう事をしたら、我が国では”鬼のような人”だと陰口を叩かれます。 倒産寸前の時は”鬼”は必要だったと思いますが、順調になった現在では”鬼”は邪魔な存在だったと想像します。

問題 3: ゴーン氏は2005年にルノーの取締役会長兼CEOに就任したために、日産のトップとしてのゴーン氏を解雇出来るのは、ゴーン氏自身しかいない事になってしまいました。 日産は東証一部上場会社ですが、ルノーが日産株の44%を保有していますから、ゴーン氏は日産の株主の事を考える必要が無かったのです。 ゴーン氏が去っても、ルノーの会長がまた日産の会長を兼務したら、また同じ様になりそうです。 日産の自浄能力回復は、日産労組に期待出来るかも知れません。 昔、塩路一郎が率いる日産労組は強烈でした。 日産労組よ頑張って下さい!

私の感想 : 組織のトップに長く居座ると、公私混同を日常的に行う様になるのが普通です。 19年も君臨していたのに、叩かれて出た”ホコリ”は意外に少なかたと思いました。

【反省と教訓】
 日本は工業製品を輸出して生きている国です。 国家として重要な工業分野があり、その分野を担う重要な企業があります。国として、国際ルールすれすれの事をしてでも、それらを守る必要があります。

 ゴーン氏が日産に派遣されたのは1999月年6月でしたが、不幸なことに、1998年から2000年まで政権基盤の弱い小渕内閣でした。 「日産が倒産しそうだ」と言う情報を聞いても、小渕氏は日産問題に関わる余裕は無かったのではと思います。 ある日本の企業が、世界に誇れる重要な技術を持っているとします。 その企業を、中国の国営企業が買いに来た時、政府は傍観すべきだと思いますか?

 グローバル企業の受け入れを各国に要求して来たのはアメリカですが、トランプ大統領はグローバル化を否定しています。グローバル化が行き過ぎて、弊害が許容出来なくなって来ているのも事実だと思います。 フランス政府はルノーの株を15%所有していますから、日産はフランスの企業と言えるかも知れません。 「日産の電気自動車の技術を、フランス政府は中国に売る恐れがある」とコメントしている方がおられました。 これが事実なら、我が国の国益に反すると思いますが、現状では、日本政府はどうする事も出来ないでしょう。

 大企業が倒産しそうになったら、日産のように外国の企業に株を持ってもらったあと、辣腕の(鬼の様な)人を派遣してもらうのでなく、辣腕の人をスカウトしてレコンストラクション(再建)を委ねるべきだと思いました。