
【究極のお人よしとは】5236
筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
ものごとを単純に考えて、あまりむずかしくとらえない。
こういう人も神に祝福されやすい人だといえます。
たとえば、いつも周囲の人に感謝しなさい、何に対しても、「ありがとう」の思いをもちなさい。
そうすれば必ずいいことがある。
そんなふうに人から諭されて、「はい、そうしましょう」と素直に応じる人は少ないでしょう。
たいていの人は、それなら自分の悪口をいう人間にも感謝しなくてはならないのか、病気になってもありがとうといえというのかといった疑問を抱くはずです。
自分に向けられた悪意にたいしても感謝できるか――これは人間にとって、いわば宗教性を帯びた重要な命題ともいえるものですが、この問いを突きつけられたとき、私は一人の人物の逸話を思い出します。
良寛です。
いうまでもなく、江戸時代の僧侶でありながら生涯寺をもたず、酒を愛し、多くの詩歌を残した、あの良寛和尚です。
その良寛が舟に乗ったとき、船頭が意地悪をしてわざと舟を揺らして良寛を水中に落としてしまう。
溺(おぼ)れそうになっている良寛の姿をさんざんあざ笑ったあとで、ようやく舟に引き上げる―そんな悪質ないやがらせを良寛は船頭から受けるのです。
ところが良寛は、その船頭をとがめるどころか、「おかげさまで命を助けていただきました」とていねいに礼を述べる。
そういうエピソードです。
このとき良寛の心のうちを占めていたのは、どんな心情だったのでしょうか。
屈辱感を抑えて相手の愚行を許そうとする大きな寛容の心か。
それとも、そもそも人間の心に悪意というものを認めない、したがって、ただ助けてもらったことへの十全な感謝の思いか。
私はその両方であったような気がします。
子どもの心こそ仏の心といって、実際に子どもとよくかくれんぼをしたり、手まりをして遊んだという良寛はほんとうに子どものような単純な心で、何にたいしてもありがとうと感謝する。
そういう鈍な生き方を貫いた人物であったようです。
人間は悪行、善行、どちらも行える、天使でもあれば悪魔でもある存在ですが、良寛はおそらく、人間の本質を悪よりも善に見いだす。
そういう心境にまでなっていたので、自分にたいする悪意に感謝で報いたのだと思うのです。
それは「お人よしの極み」であり、見方によっては「究極のアホ」ともいえる生き方ですが、一つのたしかな幸せな人間の生き方でもあったと思います。
こういう例を見ると、良寛がみずからを「大愚」と称したように、いいときはもちろん、悪いときも、とにかく「ありがとう」という感謝の念を抱く、単純素直でスケールの大きな愚かさにかなうものはないと思えてきます。
意地悪をした船頭と、その意地悪に感謝でこたえた良寛。
どちらが天の意や理(ことわり)にかなうものかはいうまでもありません。
病気になっても、ほんとうにありがとうといえるのか?
けっしてむずかしいことではないはずです。
なぜなら、大きな病気をした人ほど命の大切さに気づき、生きている生かされていることへの感謝の念がわいてくるからです。
健康なときには、その当たり前のことがわからない。
病気がそれに気づかせてくれる。
だから病気にもありがとう、なのです。
単純とは力のことだと私は思っています。
複雑な思考能力やものごとを疑う力は万物の霊長である人間の特徴で、人間を進化させてきた源でもありますが、それは人間に苦しみや生きにくさをもたらしました。
ですから、腹が減ったら飯を食い、家に帰りたくなったら帰り、眠くなったら眠る。
ときには、そんな動物みたいな単純明快で、「大愚」な生き方をすることが人間を生きにくさから解放し、私たちに生きる強いエネルギーを充填してもくれるはず。
生き方上手な人とは、単純であることの効用をよく知っている人のことなのです。
《病気にも「ありがとう」といえるお人よし》
『アホは神の望み』サンマーク出版
https://amzn.to/3ZSdDo4
良寛和尚の「戒語(心良からぬ言葉への戒め)二十」という一文がある。
1. 言葉の多いこと
2. あわただしくモノを言う
3. モノ言いがくどい
4. “俺がこうした”などの自慢話
5. 人がモノを言い切らぬうちに言い出す
6. 我がことを強いて押しつける
7. 他人の話を鼻であしらう
8. 過ちをつくろい飾る
9. 好んで唐言葉を使う
10. 酒酔いして理屈を言う
11. 憎き心をもちて人を叱る
12. 人をあなどる話
13. 減らず口
14. たやすく約束する
15. 筋なき長話
16. いささかなことを言い立てる
17. 言うても詮なきこと
18. おかしくもないのに笑う
19. 人のことを暴く話
20. もめ事やけんかの話
以上、(眼からウロコを落とす本 /PHP文庫)より
「愛語(あいご)」という言葉は、良寛和尚が好んで使っていたと言われている。
それは、「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。 だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。 それならいくらでもあげることができるから」、と。
「戒語」もまた、「愛語」と同じく、言葉を大事にした良寛和尚の真髄が詰まっている。
まさに、良寛和尚の「戒語」は、現代でも立派に通じる戒めの言葉だ。
それは、単純明快で、大愚な生き方でもある。
病気にも「ありがとう」といえるお人よしでありたい。
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筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
ものごとを単純に考えて、あまりむずかしくとらえない。
こういう人も神に祝福されやすい人だといえます。
たとえば、いつも周囲の人に感謝しなさい、何に対しても、「ありがとう」の思いをもちなさい。
そうすれば必ずいいことがある。
そんなふうに人から諭されて、「はい、そうしましょう」と素直に応じる人は少ないでしょう。
たいていの人は、それなら自分の悪口をいう人間にも感謝しなくてはならないのか、病気になってもありがとうといえというのかといった疑問を抱くはずです。
自分に向けられた悪意にたいしても感謝できるか――これは人間にとって、いわば宗教性を帯びた重要な命題ともいえるものですが、この問いを突きつけられたとき、私は一人の人物の逸話を思い出します。
良寛です。
いうまでもなく、江戸時代の僧侶でありながら生涯寺をもたず、酒を愛し、多くの詩歌を残した、あの良寛和尚です。
その良寛が舟に乗ったとき、船頭が意地悪をしてわざと舟を揺らして良寛を水中に落としてしまう。
溺(おぼ)れそうになっている良寛の姿をさんざんあざ笑ったあとで、ようやく舟に引き上げる―そんな悪質ないやがらせを良寛は船頭から受けるのです。
ところが良寛は、その船頭をとがめるどころか、「おかげさまで命を助けていただきました」とていねいに礼を述べる。
そういうエピソードです。
このとき良寛の心のうちを占めていたのは、どんな心情だったのでしょうか。
屈辱感を抑えて相手の愚行を許そうとする大きな寛容の心か。
それとも、そもそも人間の心に悪意というものを認めない、したがって、ただ助けてもらったことへの十全な感謝の思いか。
私はその両方であったような気がします。
子どもの心こそ仏の心といって、実際に子どもとよくかくれんぼをしたり、手まりをして遊んだという良寛はほんとうに子どものような単純な心で、何にたいしてもありがとうと感謝する。
そういう鈍な生き方を貫いた人物であったようです。
人間は悪行、善行、どちらも行える、天使でもあれば悪魔でもある存在ですが、良寛はおそらく、人間の本質を悪よりも善に見いだす。
そういう心境にまでなっていたので、自分にたいする悪意に感謝で報いたのだと思うのです。
それは「お人よしの極み」であり、見方によっては「究極のアホ」ともいえる生き方ですが、一つのたしかな幸せな人間の生き方でもあったと思います。
こういう例を見ると、良寛がみずからを「大愚」と称したように、いいときはもちろん、悪いときも、とにかく「ありがとう」という感謝の念を抱く、単純素直でスケールの大きな愚かさにかなうものはないと思えてきます。
意地悪をした船頭と、その意地悪に感謝でこたえた良寛。
どちらが天の意や理(ことわり)にかなうものかはいうまでもありません。
病気になっても、ほんとうにありがとうといえるのか?
けっしてむずかしいことではないはずです。
なぜなら、大きな病気をした人ほど命の大切さに気づき、生きている生かされていることへの感謝の念がわいてくるからです。
健康なときには、その当たり前のことがわからない。
病気がそれに気づかせてくれる。
だから病気にもありがとう、なのです。
単純とは力のことだと私は思っています。
複雑な思考能力やものごとを疑う力は万物の霊長である人間の特徴で、人間を進化させてきた源でもありますが、それは人間に苦しみや生きにくさをもたらしました。
ですから、腹が減ったら飯を食い、家に帰りたくなったら帰り、眠くなったら眠る。
ときには、そんな動物みたいな単純明快で、「大愚」な生き方をすることが人間を生きにくさから解放し、私たちに生きる強いエネルギーを充填してもくれるはず。
生き方上手な人とは、単純であることの効用をよく知っている人のことなのです。
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『アホは神の望み』サンマーク出版
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良寛和尚の「戒語(心良からぬ言葉への戒め)二十」という一文がある。
1. 言葉の多いこと
2. あわただしくモノを言う
3. モノ言いがくどい
4. “俺がこうした”などの自慢話
5. 人がモノを言い切らぬうちに言い出す
6. 我がことを強いて押しつける
7. 他人の話を鼻であしらう
8. 過ちをつくろい飾る
9. 好んで唐言葉を使う
10. 酒酔いして理屈を言う
11. 憎き心をもちて人を叱る
12. 人をあなどる話
13. 減らず口
14. たやすく約束する
15. 筋なき長話
16. いささかなことを言い立てる
17. 言うても詮なきこと
18. おかしくもないのに笑う
19. 人のことを暴く話
20. もめ事やけんかの話
以上、(眼からウロコを落とす本 /PHP文庫)より
「愛語(あいご)」という言葉は、良寛和尚が好んで使っていたと言われている。
それは、「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。 だからせめて、心をあたたかくするような、心を安らげるような『言葉』をあげたい。 それならいくらでもあげることができるから」、と。
「戒語」もまた、「愛語」と同じく、言葉を大事にした良寛和尚の真髄が詰まっている。
まさに、良寛和尚の「戒語」は、現代でも立派に通じる戒めの言葉だ。
それは、単純明快で、大愚な生き方でもある。
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