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【自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ】5418
明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ (茨木のり子)
詩人茨木のり子は、73歳のときに『倚(よ)りかからず』(筑摩書房)という詩集を出しました。
「もはやできあいの思想には倚りかかりたくない」から始まる詩「倚りかからず」を中心とした15編が掲載された本です。
これが詩集として異例の大ヒット。
15万部も売れたのですからすごい。
きっかけは朝日新聞の「天声人語」が取り上げたことですが、それだけ茨木さんが多くの人に愛されていたということでしょう。
みんな、なぜそんなに茨木さんの詩が好きなのか。
ひとつには、学校で習い、親しんでいたことがあると思います。
「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」といった詩を読んで、共感していたのです。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉は、詩の中のトドメの一言です。
「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」から始まり、「気難しくなってきた」こと、「苛立つ」こと、「初心消えかかる」こと、それから「駄目なことの一切」を自分以外の何かのせいにするなと言い、最後にバシッと「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と言うのです。
この詩には、人の考えそうな愚痴の、だいたいのことが書いてあります。
愚痴を言おうとしたら、もう先手を打たれているという感じです。
「こんなにハッキリ言うかな」というくらい、厳しいことをズバズバと言ってくれている。
これがまた、詩であることの良さです。
説教ではありません。
一つひとつの言葉がキラキラと際立っていて、美しさがあります。
フレーズの繰り返しのあとにトドメを刺すという、詩の形としても美しい。
「ばかものよ」は、茨木さん自身への喝でしょう。
読んでいてそれもわかります。
そして同時に、自分のこととして身の引き締まる思いがするのです。
感受性とは、自分で守るものだったのか。
やたらと傷つきやすいものだと思っていたけれど、自分で守ればよかったのか。
そういう感慨を持った人も多いのではないでしょうか。
凜として前を向いて生きていくという茨木さんの言葉に触れると、ああ、こういう強い精神を自分も持ちたいものだと素直に思えます。
感受性を自分で守るというとき、支えになるのはやはり精神です。
その精神には、「張り」が必要なのだと思います。
茨木さんの言葉、生き方そのものに「精神の張り」を感じます。
「張り」のある、 厳しいけれども美しい言葉が、背中を押してくれるのです。
『心が強い人はみな、「支える言葉」をもっている』アスコム
https://amzn.to/3QfpWZd
《自分の感受性ぐらい》(茨木のり子)
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
どんなことが起こっても、友人のせいにしないこと、親のせいにしないこと、時代のせいにしないこと…
すべては、自分に水やりを怠ってきたことのツケが回ってきたのだから。
だからこそ、自分の感受性や心は自分で守ること。
だれも、他人は守ってはくれない。
甘えるな!
人のせいにせず、自らの感受性を守っていきたい。
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明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ (茨木のり子)
詩人茨木のり子は、73歳のときに『倚(よ)りかからず』(筑摩書房)という詩集を出しました。
「もはやできあいの思想には倚りかかりたくない」から始まる詩「倚りかからず」を中心とした15編が掲載された本です。
これが詩集として異例の大ヒット。
15万部も売れたのですからすごい。
きっかけは朝日新聞の「天声人語」が取り上げたことですが、それだけ茨木さんが多くの人に愛されていたということでしょう。
みんな、なぜそんなに茨木さんの詩が好きなのか。
ひとつには、学校で習い、親しんでいたことがあると思います。
「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」といった詩を読んで、共感していたのです。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉は、詩の中のトドメの一言です。
「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」から始まり、「気難しくなってきた」こと、「苛立つ」こと、「初心消えかかる」こと、それから「駄目なことの一切」を自分以外の何かのせいにするなと言い、最後にバシッと「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と言うのです。
この詩には、人の考えそうな愚痴の、だいたいのことが書いてあります。
愚痴を言おうとしたら、もう先手を打たれているという感じです。
「こんなにハッキリ言うかな」というくらい、厳しいことをズバズバと言ってくれている。
これがまた、詩であることの良さです。
説教ではありません。
一つひとつの言葉がキラキラと際立っていて、美しさがあります。
フレーズの繰り返しのあとにトドメを刺すという、詩の形としても美しい。
「ばかものよ」は、茨木さん自身への喝でしょう。
読んでいてそれもわかります。
そして同時に、自分のこととして身の引き締まる思いがするのです。
感受性とは、自分で守るものだったのか。
やたらと傷つきやすいものだと思っていたけれど、自分で守ればよかったのか。
そういう感慨を持った人も多いのではないでしょうか。
凜として前を向いて生きていくという茨木さんの言葉に触れると、ああ、こういう強い精神を自分も持ちたいものだと素直に思えます。
感受性を自分で守るというとき、支えになるのはやはり精神です。
その精神には、「張り」が必要なのだと思います。
茨木さんの言葉、生き方そのものに「精神の張り」を感じます。
「張り」のある、 厳しいけれども美しい言葉が、背中を押してくれるのです。
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《自分の感受性ぐらい》(茨木のり子)
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
どんなことが起こっても、友人のせいにしないこと、親のせいにしないこと、時代のせいにしないこと…
すべては、自分に水やりを怠ってきたことのツケが回ってきたのだから。
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