
嬉しい楽しい幸せな役に立つ興味深い話○略して『うたしやきの話』の収集家・松本一円さん♪の愛読しているメールマガジンよりお福分けさせていただきます…(^人^)
写真は…言玉ひかりさん♪からいただいた『伊勢神宮さんで見かけた神馬(しんめ)さん♪』だそうです☆(^人^)☆
ありがとう☆ありがとう☆(^人^)☆
--------------
vol.1817[かっこいい男]
ゆうです
今日も絶好調にわくわく♪
行きます!
~~~
カッコイイ男がいるので紹介させて頂きます。
その名も
「徳川慶喜」15代将軍です
そう。
「大政奉還」を行った人物です
大政奉還が行われたのは、1867年(慶応3年)陰暦10月です。
翌年2月12日、朝敵の汚名を着せられた慶喜は
江戸城を出て恭順謹慎の態度を示しました。
何も語らず貝のように口を閉ざし、その態度をずっと貫き通したのです。
ちょうどそのころ東海道を東下中だった官軍はますます強大化していました。
しかし、だからといって幕府軍(徳川)の軍事力が衰退していったわけではありません。
十分に対抗できる実力は備えていたのです。
慶喜が謹慎しているさなかの4月11日
ついに江戸城無血開城となり
江戸の街は戦火から免れることができました。
そのとき慶喜はすぐさま江戸を離れて水戸に赴きます。
しかしそこでも彼は謹慎し続けました。
のちに水戸から静岡に移りますが、それでも謹慎を貫き口を閉ざしました・・・
貝のように・・・
もし慶喜が一声号令を発すれば、幕府軍や諸藩はその旗の下に集まったに違いないのですが、
彼は決してそうしようとはしませんでした。
実は、慶喜は早い段階から日本の分裂をねらう外国勢力の存在に気づいていたと言われます。
慶喜が京都から江戸に帰ってきたとき、フランス公使のロッシュが訪ねてきて
「フランスが軍事的にも経済的にも協力するから、薩長をやっつけろ」
とけしかけますが、慶喜はそれをきっぱりと拒否しています。
そのほかにも将軍職に就いてから、
数多くの外国要人たちと会っていろいろな折衝にあたっていました。
慶喜はすでに、上手いことを言って漁夫の利をねらっている者たちの気配を感じ取っていたのです。
ですから、慶喜の頭にあったのは
幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく
「日本の存立」
ただ一念だったのです。
そして、日本人同士が争うという最悪な行為だけは何が何でも避けたかったのです。
そうして、明治維新を迎え、やがて大日本帝国憲法ができあがったときには、
彼はそのことを大変に喜んだといいます。
・・・━━━☆・
今日の1歩
・・・━━━☆・
歴史は色々な見方・意見があるので面白いですね☆
徳川慶喜の生き方
僕はかっこいいと思いました☆
~~~
[魂が震える話]
~人がひとを想うということ~
ゆう けい 著
出版社 エイチエス
お近くの書店さん又は
↓ ↓ ↓
アマゾンにて
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903707415/yu200732-22/
~~~
「魂が震える話×100人の1歩」HPはこちら♪
↓ ↓ ↓
http://www.tama100.com/
講演情報が載ってます☆
~~~
【100人の1歩】のfacebookページはこちら♪
↓ ↓ ↓
http://www.facebook.com/100.1po
*-*-*-*-*-*-
最後までお読みいただきありがとうございます
みなさまと一緒に学ばせていただいております
このメルマガを
「友達に教えたい!」という方
100人の1歩
空メール登録は
こちら
↓
00551553s@merumo.ne.jp
↑
登録解除もこちらです
ご意見、ご感想、質問などある時にはこのメールに返信して下されば私(ゆう)に届きます!
また、ブログ・メルマガなどに載せたい内容がありましたらご自由にどうぞ!
※但し、下記の文章を必ず明記してください
-----
メルマガ「100人の1歩」より
登録はこちらから
↓
http://merumo.ne.jp/00551553.html
-----
ちょっと宣伝してね♪
仲間・同志、が繋がっていったら素敵です♪
百人・千人・一万人・・・
Powered by メルモ
http://merumo.ne.jp/
スマートフォンの方はこちら
写真は…言玉ひかりさん♪からいただいた『伊勢神宮さんで見かけた神馬(しんめ)さん♪』だそうです☆(^人^)☆
ありがとう☆ありがとう☆(^人^)☆
--------------
vol.1817[かっこいい男]
ゆうです
今日も絶好調にわくわく♪
行きます!
~~~
カッコイイ男がいるので紹介させて頂きます。
その名も
「徳川慶喜」15代将軍です
そう。
「大政奉還」を行った人物です
大政奉還が行われたのは、1867年(慶応3年)陰暦10月です。
翌年2月12日、朝敵の汚名を着せられた慶喜は
江戸城を出て恭順謹慎の態度を示しました。
何も語らず貝のように口を閉ざし、その態度をずっと貫き通したのです。
ちょうどそのころ東海道を東下中だった官軍はますます強大化していました。
しかし、だからといって幕府軍(徳川)の軍事力が衰退していったわけではありません。
十分に対抗できる実力は備えていたのです。
慶喜が謹慎しているさなかの4月11日
ついに江戸城無血開城となり
江戸の街は戦火から免れることができました。
そのとき慶喜はすぐさま江戸を離れて水戸に赴きます。
しかしそこでも彼は謹慎し続けました。
のちに水戸から静岡に移りますが、それでも謹慎を貫き口を閉ざしました・・・
貝のように・・・
もし慶喜が一声号令を発すれば、幕府軍や諸藩はその旗の下に集まったに違いないのですが、
彼は決してそうしようとはしませんでした。
実は、慶喜は早い段階から日本の分裂をねらう外国勢力の存在に気づいていたと言われます。
慶喜が京都から江戸に帰ってきたとき、フランス公使のロッシュが訪ねてきて
「フランスが軍事的にも経済的にも協力するから、薩長をやっつけろ」
とけしかけますが、慶喜はそれをきっぱりと拒否しています。
そのほかにも将軍職に就いてから、
数多くの外国要人たちと会っていろいろな折衝にあたっていました。
慶喜はすでに、上手いことを言って漁夫の利をねらっている者たちの気配を感じ取っていたのです。
ですから、慶喜の頭にあったのは
幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく
「日本の存立」
ただ一念だったのです。
そして、日本人同士が争うという最悪な行為だけは何が何でも避けたかったのです。
そうして、明治維新を迎え、やがて大日本帝国憲法ができあがったときには、
彼はそのことを大変に喜んだといいます。
・・・━━━☆・
今日の1歩
・・・━━━☆・
歴史は色々な見方・意見があるので面白いですね☆
徳川慶喜の生き方
僕はかっこいいと思いました☆
~~~
[魂が震える話]
~人がひとを想うということ~
ゆう けい 著
出版社 エイチエス
お近くの書店さん又は
↓ ↓ ↓
アマゾンにて
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903707415/yu200732-22/
~~~
「魂が震える話×100人の1歩」HPはこちら♪
↓ ↓ ↓
http://www.tama100.com/
講演情報が載ってます☆
~~~
【100人の1歩】のfacebookページはこちら♪
↓ ↓ ↓
http://www.facebook.com/100.1po
*-*-*-*-*-*-
最後までお読みいただきありがとうございます
みなさまと一緒に学ばせていただいております
このメルマガを
「友達に教えたい!」という方
100人の1歩
空メール登録は
こちら
↓
00551553s@merumo.ne.jp
↑
登録解除もこちらです
ご意見、ご感想、質問などある時にはこのメールに返信して下されば私(ゆう)に届きます!
また、ブログ・メルマガなどに載せたい内容がありましたらご自由にどうぞ!
※但し、下記の文章を必ず明記してください
-----
メルマガ「100人の1歩」より
登録はこちらから
↓
http://merumo.ne.jp/00551553.html
-----
ちょっと宣伝してね♪
仲間・同志、が繋がっていったら素敵です♪
百人・千人・一万人・・・
Powered by メルモ
http://merumo.ne.jp/
スマートフォンの方はこちら