
【目的地主義ではなく、旅の道中を楽しもう】5520
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
最近の日本人は、旅を目的地主義的に考えているようです。
目的地に着いてから旅が始まると思っているのです。
とんでもない。
昔の旅は、道中が楽しかったのです。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にしても、あれは弥次郎兵衛と喜多八、すなわち弥次喜多の二人が東海道を旅するものでしたが、さて二人には目的地があったでしょうか。
もともとの目的地は伊勢詣りだったと思いますが、その後、京都、大坂にまで足を伸ばしています。
ともかく京都に着いて以後よりも、京都に到る前の道中が楽しいのです。
ところが、最近の小学生のバス旅行にしても、目的地に着くまでのあいだは、小学生たちがカラオケ大会をやっているそうです。
なるほど、新幹線の中の時間は退屈です。車窓の外の景色を楽しむには、あまりにもスピードが出すぎです。
飛行機の窓から外を見たって、雲しか見えません。
いや、窓のある座席に坐れる人は少ないのです。
そうすると、目的地に着いてからしか旅を楽しめない。
そこに着く前の時間は無駄な時間で、できるだけ短くしたいと考えるようになります。
それが目的地主義です。
でも、人生を目的地主義にしてはいけません。
フランスのノーベル賞作家のアナトール・フランスの随想録で ある『エピクロスの園』に、こんな話があります。
《九年級の受け持ちのグレピネ先生が、教室で、「人と精(精霊)」という寓話をわたくしたちに 読んで聞かせられた時、わたくしはまだ十歳にもなっていなかった。
とはいえわたくしは あの寓話を昨日聞いたよりもはっきりと思い出す。
ある精が一人の子供に一つの糸毯(いとだま)を与えていう。
「この糸はお前の一生の日々の糸だ。
これを取るがよい。
時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸を引っぱるのだ。
糸毯を早く繰るか永くかかって繰るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。
糸に手を触れない限りは、お前は生涯の同じ時刻にとどまっているだろう。」
子供はその糸を取った。
そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入れたり、心配事から早く解放されたり、悲しみや、年齢とともにやって来た病気を避けたりするために、そして最後に、かなしいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っぱった。
その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという≫ (大塚幸男訳、岩波文庫)
人生を目的地主義で生きると、六十年、七十年の生涯が、たった四か月と六日になってしまいます。
だとすると、わたしたちは、人生に目的を設定してはいけません。
意味を持たせてはいけません。
生き甲斐なんてないのです。
かりにあなたが病気になれば、病気のうちでもがんになったとすれば、あなたはがん患者なんですから、がん患者として生きればいいのです。
もしもあなたが仕事を生き甲斐にしていたら、あなたががんになったことはマイナス価値になります。
そこでがんを早く治して仕事ができるようになりたいと思うでしょう。
するとあなたは糸毯の糸をさっと引っ張ってしまいます。
それじゃあ、あなたの人生は四か月と六日になる。
そんなことをしてはいけません。
あなたは立派ながん患者として生きればいいのです。
立派なというのは、別段、がんと闘う必要はないのです。
がんに勝つのではありません。
がんに負けたっていい。
悲観しながら、うじうじしながら、泣きながら生きたっていい。
どういう生き方をしても、それが立派なんです。
がんをマイナス価値にして、がんを克服して元気になろうと思わなければいいのです。
がんをそのまま生きればいい。それが立派ながん患者です。
ラテン語に、 カルペ・ディエム(carpe diem) という言葉があります。
これは、「今日を楽しめ」という意味。
古代ローマの叙情詩人・諷刺詩人のホラティウスの言葉です。
わたしたちはいつだって「今日」「現在」を生きているのです。
その「現在」を楽しむのが最高の生き方です。
でもね、何度も念を押して言っておきますが、楽しむといっても、うはうは、おもしろおかしく、笑いころげることではありませんよ。
笑えるときは笑っていいのですが、泣いて苦しむときは泣き苦しめばいいのです。
苦しみを楽しむことができれば、あなたの人生はすばらしい人生になります。
それが「現在」を楽しむことです。
『「狂い」のすすめ』集英社新書
https://amzn.to/3QIg8XB
仕事も、趣味や様々なボランティアも、あまり好きすぎると、人生を楽しむことができない。
たとえば、仕事が大好きで、これこそが自分の生き甲斐だという人が、定年などで、その仕事を続けられなくなったとしたら、他にやることがなくなり、魂の抜けた夢遊病者のようになってしまう。
人生は、好きなことも、嫌なことも、面倒なことも、全部一緒くた、にやってくる。
だからこそ、雨の日は雨を、晴れの日は晴れを、曇りの日は曇りを、楽しむ。
今ここを生きるとは、今ここを楽しむということ。
笑えるときは笑い、悲しいときは泣く。
苦しみさえも、それを楽しむことができたら人生は面白くなる。
目的地主義ではなく、旅の道中を楽しめる人でありたい。
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
最近の日本人は、旅を目的地主義的に考えているようです。
目的地に着いてから旅が始まると思っているのです。
とんでもない。
昔の旅は、道中が楽しかったのです。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にしても、あれは弥次郎兵衛と喜多八、すなわち弥次喜多の二人が東海道を旅するものでしたが、さて二人には目的地があったでしょうか。
もともとの目的地は伊勢詣りだったと思いますが、その後、京都、大坂にまで足を伸ばしています。
ともかく京都に着いて以後よりも、京都に到る前の道中が楽しいのです。
ところが、最近の小学生のバス旅行にしても、目的地に着くまでのあいだは、小学生たちがカラオケ大会をやっているそうです。
なるほど、新幹線の中の時間は退屈です。車窓の外の景色を楽しむには、あまりにもスピードが出すぎです。
飛行機の窓から外を見たって、雲しか見えません。
いや、窓のある座席に坐れる人は少ないのです。
そうすると、目的地に着いてからしか旅を楽しめない。
そこに着く前の時間は無駄な時間で、できるだけ短くしたいと考えるようになります。
それが目的地主義です。
でも、人生を目的地主義にしてはいけません。
フランスのノーベル賞作家のアナトール・フランスの随想録で ある『エピクロスの園』に、こんな話があります。
《九年級の受け持ちのグレピネ先生が、教室で、「人と精(精霊)」という寓話をわたくしたちに 読んで聞かせられた時、わたくしはまだ十歳にもなっていなかった。
とはいえわたくしは あの寓話を昨日聞いたよりもはっきりと思い出す。
ある精が一人の子供に一つの糸毯(いとだま)を与えていう。
「この糸はお前の一生の日々の糸だ。
これを取るがよい。
時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸を引っぱるのだ。
糸毯を早く繰るか永くかかって繰るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。
糸に手を触れない限りは、お前は生涯の同じ時刻にとどまっているだろう。」
子供はその糸を取った。
そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入れたり、心配事から早く解放されたり、悲しみや、年齢とともにやって来た病気を避けたりするために、そして最後に、かなしいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っぱった。
その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという≫ (大塚幸男訳、岩波文庫)
人生を目的地主義で生きると、六十年、七十年の生涯が、たった四か月と六日になってしまいます。
だとすると、わたしたちは、人生に目的を設定してはいけません。
意味を持たせてはいけません。
生き甲斐なんてないのです。
かりにあなたが病気になれば、病気のうちでもがんになったとすれば、あなたはがん患者なんですから、がん患者として生きればいいのです。
もしもあなたが仕事を生き甲斐にしていたら、あなたががんになったことはマイナス価値になります。
そこでがんを早く治して仕事ができるようになりたいと思うでしょう。
するとあなたは糸毯の糸をさっと引っ張ってしまいます。
それじゃあ、あなたの人生は四か月と六日になる。
そんなことをしてはいけません。
あなたは立派ながん患者として生きればいいのです。
立派なというのは、別段、がんと闘う必要はないのです。
がんに勝つのではありません。
がんに負けたっていい。
悲観しながら、うじうじしながら、泣きながら生きたっていい。
どういう生き方をしても、それが立派なんです。
がんをマイナス価値にして、がんを克服して元気になろうと思わなければいいのです。
がんをそのまま生きればいい。それが立派ながん患者です。
ラテン語に、 カルペ・ディエム(carpe diem) という言葉があります。
これは、「今日を楽しめ」という意味。
古代ローマの叙情詩人・諷刺詩人のホラティウスの言葉です。
わたしたちはいつだって「今日」「現在」を生きているのです。
その「現在」を楽しむのが最高の生き方です。
でもね、何度も念を押して言っておきますが、楽しむといっても、うはうは、おもしろおかしく、笑いころげることではありませんよ。
笑えるときは笑っていいのですが、泣いて苦しむときは泣き苦しめばいいのです。
苦しみを楽しむことができれば、あなたの人生はすばらしい人生になります。
それが「現在」を楽しむことです。
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仕事も、趣味や様々なボランティアも、あまり好きすぎると、人生を楽しむことができない。
たとえば、仕事が大好きで、これこそが自分の生き甲斐だという人が、定年などで、その仕事を続けられなくなったとしたら、他にやることがなくなり、魂の抜けた夢遊病者のようになってしまう。
人生は、好きなことも、嫌なことも、面倒なことも、全部一緒くた、にやってくる。
だからこそ、雨の日は雨を、晴れの日は晴れを、曇りの日は曇りを、楽しむ。
今ここを生きるとは、今ここを楽しむということ。
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