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【精進をもって自分の人生を全うする】5618
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
生きるとは息をすることである。
息をするのをやめた時、人は死ぬ。
しかし、息は人間が意思し努力してするわけではない。
人間を超えた大きな力が働いて私たちは息をしている。
心臓が休みなく鼓動しているのも同じである。
人知人力の及ぶべくもない大きな力の間断のない働き、精進によって私たちの生がここにある。
即ち生命 と精進は一体なのである。
絶えざる精進のないところに生命はない。
「釈迦の人生観は精進の二字に尽きる」と言ったのは松原泰道師である。
百一歳まで求道精進に生きた人の言葉だけに心に残っている。
事実、釈迦は八十歳で亡くなるまで、熱砂の中を布教に歩いた。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にこう記されている。
「阿難(あなん)よ、私は老い衰えた。齢すでに八十に及ぶ。阿難よ、たとえば古い車は革紐の助けによってやっと動くことができるが、思うに、私の身は革紐の助けによってやっと動いているようなものだ」
そういう状態の自分を廃車寸前になぞらえながら、「心ある人の法は老ゆることなし」
・・・心に真理を具えている人は身体は老いても、心が老いることはない、と言っている。
「この釈尊の言葉を受け、私も一所懸命勉強している」と言っていた百歳の泰道師の声がいまも耳に残っている。
『遺教経(ゆいきょうぎょう)』のこの言葉も味わい深い。
「汝等比丘(なんじらびく)、もし勤めて精進すれば、則(すなわ)ち事として難き者なし。この故に汝等当(まさ)に勤めて精進すべし。たとえば少水の常に流れて則ち能(よ)く石を穿(うが)つが如し」
精進すれば必ず道を成就できる。
少ない水でも常に流れていれば石に穴を開けることができるようなものだ、というのである。
何度も読み返し、自分のものにしたい言葉である。
そして、臨終に際し弟子たちに語った言葉。
「では比丘たちよ、私はお前たちに告げよう。すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」
釈迦の人生はこの言葉に凝縮している。
私たちもまた、精進をもって自分の人生を全うしたい。
『小さな修養論5』致知出版社
https://amzn.to/4bxzRlf
産婦人科医・医学博士、池川明氏は著書『ぼくが生まれてきたわけ』(KADOKAWA)の中でこう語っている。
『人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。
臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。
1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?』
精進をするとは、まさに陰徳を積むということ。
人知れず、ひそかに行う徳を積む行為。
それは、「人に親切にする」「ゴミを拾う」「人知れず掃除をする」「人のために尽くす」等々の他に、「(どんなときも)愛語で話す」「いつも笑顔で接する」「人を許す」ということもある。
つまり、人の役にたつ生き方をすること。
まさに、それこそが精進。
そして、「自分の人生を楽しんだか」ということは、どんな困難なことが起きても、愚痴や泣き言、不平不満を言わず、不機嫌にならず、その中から楽しみを見出し、楽しんだか、ということ。
つまり、どんなことが起ころうと、いつも機嫌よくしているか、ということ。
これもまた、精進。
精進をもって自分の人生を全うする…
生きている限り精進する人でありたい。
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
生きるとは息をすることである。
息をするのをやめた時、人は死ぬ。
しかし、息は人間が意思し努力してするわけではない。
人間を超えた大きな力が働いて私たちは息をしている。
心臓が休みなく鼓動しているのも同じである。
人知人力の及ぶべくもない大きな力の間断のない働き、精進によって私たちの生がここにある。
即ち生命 と精進は一体なのである。
絶えざる精進のないところに生命はない。
「釈迦の人生観は精進の二字に尽きる」と言ったのは松原泰道師である。
百一歳まで求道精進に生きた人の言葉だけに心に残っている。
事実、釈迦は八十歳で亡くなるまで、熱砂の中を布教に歩いた。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にこう記されている。
「阿難(あなん)よ、私は老い衰えた。齢すでに八十に及ぶ。阿難よ、たとえば古い車は革紐の助けによってやっと動くことができるが、思うに、私の身は革紐の助けによってやっと動いているようなものだ」
そういう状態の自分を廃車寸前になぞらえながら、「心ある人の法は老ゆることなし」
・・・心に真理を具えている人は身体は老いても、心が老いることはない、と言っている。
「この釈尊の言葉を受け、私も一所懸命勉強している」と言っていた百歳の泰道師の声がいまも耳に残っている。
『遺教経(ゆいきょうぎょう)』のこの言葉も味わい深い。
「汝等比丘(なんじらびく)、もし勤めて精進すれば、則(すなわ)ち事として難き者なし。この故に汝等当(まさ)に勤めて精進すべし。たとえば少水の常に流れて則ち能(よ)く石を穿(うが)つが如し」
精進すれば必ず道を成就できる。
少ない水でも常に流れていれば石に穴を開けることができるようなものだ、というのである。
何度も読み返し、自分のものにしたい言葉である。
そして、臨終に際し弟子たちに語った言葉。
「では比丘たちよ、私はお前たちに告げよう。すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」
釈迦の人生はこの言葉に凝縮している。
私たちもまた、精進をもって自分の人生を全うしたい。
『小さな修養論5』致知出版社
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産婦人科医・医学博士、池川明氏は著書『ぼくが生まれてきたわけ』(KADOKAWA)の中でこう語っている。
『人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。
臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。
1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?』
精進をするとは、まさに陰徳を積むということ。
人知れず、ひそかに行う徳を積む行為。
それは、「人に親切にする」「ゴミを拾う」「人知れず掃除をする」「人のために尽くす」等々の他に、「(どんなときも)愛語で話す」「いつも笑顔で接する」「人を許す」ということもある。
つまり、人の役にたつ生き方をすること。
まさに、それこそが精進。
そして、「自分の人生を楽しんだか」ということは、どんな困難なことが起きても、愚痴や泣き言、不平不満を言わず、不機嫌にならず、その中から楽しみを見出し、楽しんだか、ということ。
つまり、どんなことが起ころうと、いつも機嫌よくしているか、ということ。
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