
【死ぬまでに、自分の使命に気づく】5248
元東京大学医学部救急分野教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より…
使命というのは、正確には誰もわからないと思います。
もちろん自分で天命を受けたと理解して芸術家のように、良い意味でなすがままに生きられる人もいるでしょうけれど、大方の人はそうではないと思います。
死ぬまで、何が自分の天命だったのかがわからないのが実際かと思います。
でも、自分が取り組んだ仕事、事業、プロジェクト、あるいは家庭における夫婦や親子関係、友人関係などに至るまで、何か一生懸命になったものは天命と言えば天命なのでしょう。
なぜなら、自分が一生懸命になれるだけの時間とエネルギーをそこに「与えてくださった」のは天(のおかげ)だからです。
一生懸命になれるもの、きっとどなたもお持ちだと思います。
私はそれこそが、私たちひとりひとりに与えられた天命だと思います。
自分でしっかりと感じてみてください。
もし天命という言葉に抵抗があるのなら、それを「夢中になれること」と単に言い換えて構わないと思います。
それこそが自分のお役目ではないでしょうか。
何かに夢中になっている時間はほかのことをいっさい考えません。
だから「夢中」と呼ばれるわけですが、そのことを自分と一体になって感じてください。
そしてそれは 「中今(なかいま)」という言葉と密接な関係があります。
中今は神道の歴史観を体現している言葉ですが、時間の中心点に相当します。
中今は 「今ここにいるのだ」という感覚であり、それは過去でも未来でもない、現在の自分が大事、現在の振る舞いが大事、現在の気持ちが大事という、あくまでも現在の重要性を表わす言葉です。
今現在を生き切ること、つまり中今を感じながら楽しむことこそ、私たちに与えられた天命であり、ひとりひとりがどういう価値観でそれを具現化するかというのが個人の使命だと私は感じます。
仏教、中でも禅宗では「刹那」という言葉がよく使われます。
ネガティブな意味で解釈されている向きもありますが、刹那は今この瞬間を体現する中今と同義。
中今や刹那は、いわば「一期一会」ということです。
どんな宗教や宗派の教えであれ、私たちがこの世界で生きる上で必要なことは同じなのです。
『ご縁とお役目』ワニブックスPLUS新書
https://amzn.to/3WNk2yf
小林正観さんは、「頼まれたことがあったら、それをできるだけ全部引き受ける」ことが大事だという。
そして…
『頼まれごととは、PTAや町内会、あるいは公的なボランティアのようなものから、会社や家庭の仕事も含まれる。
今、目の前に与えられた頼まれごとのこと。
ときには、自分の苦手なことも頼まれたりする。
しかし意外に、自分の苦手なことや、不得意なことの中に、人生の転機のキッカケやチャンスになることがあったりする。
だからこそ、「頼まれごと」は、文句を言わず、面白がって、淡々と引き受けることが必要だ。
頼まれごとを何年にもわたって、淡々とやっていくと、自分の使命が見えてくる。
どんな方向に自分が動かされているのか、という神の意志のようなものをそこに感じるからだ。
自分に与えられた目の前の仕事を、淡々と一所懸命にやっている人のところにしか、次のステップはやってこない。
今の生き方がチャランポランな人に、次の飛躍につながる大きなチャンスなどはこないからだ。』
中今とは、「今この一瞬」のこと。
昨日でもなければ、明日でもない。
今日ただ今を一所懸命に生きるということ。
すると、その姿をまわりが見ていて、「頼まれごと」がやってくる。
森信三先生は、「人はこの世に生まれ落ちた瞬間、全員が天から封書をもらって生まれてくる」と言っている。
「その封書を開いたら、あなたはこういう生き方をしなさい、と書いてある。しかし、せっかく天からもらった封書を一回も開かないままで死んでいく人が多い」と。
天からの封書を開き…
死ぬまでに、自分の使命に気づくことができる人でありたい。
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元東京大学医学部救急分野教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より…
使命というのは、正確には誰もわからないと思います。
もちろん自分で天命を受けたと理解して芸術家のように、良い意味でなすがままに生きられる人もいるでしょうけれど、大方の人はそうではないと思います。
死ぬまで、何が自分の天命だったのかがわからないのが実際かと思います。
でも、自分が取り組んだ仕事、事業、プロジェクト、あるいは家庭における夫婦や親子関係、友人関係などに至るまで、何か一生懸命になったものは天命と言えば天命なのでしょう。
なぜなら、自分が一生懸命になれるだけの時間とエネルギーをそこに「与えてくださった」のは天(のおかげ)だからです。
一生懸命になれるもの、きっとどなたもお持ちだと思います。
私はそれこそが、私たちひとりひとりに与えられた天命だと思います。
自分でしっかりと感じてみてください。
もし天命という言葉に抵抗があるのなら、それを「夢中になれること」と単に言い換えて構わないと思います。
それこそが自分のお役目ではないでしょうか。
何かに夢中になっている時間はほかのことをいっさい考えません。
だから「夢中」と呼ばれるわけですが、そのことを自分と一体になって感じてください。
そしてそれは 「中今(なかいま)」という言葉と密接な関係があります。
中今は神道の歴史観を体現している言葉ですが、時間の中心点に相当します。
中今は 「今ここにいるのだ」という感覚であり、それは過去でも未来でもない、現在の自分が大事、現在の振る舞いが大事、現在の気持ちが大事という、あくまでも現在の重要性を表わす言葉です。
今現在を生き切ること、つまり中今を感じながら楽しむことこそ、私たちに与えられた天命であり、ひとりひとりがどういう価値観でそれを具現化するかというのが個人の使命だと私は感じます。
仏教、中でも禅宗では「刹那」という言葉がよく使われます。
ネガティブな意味で解釈されている向きもありますが、刹那は今この瞬間を体現する中今と同義。
中今や刹那は、いわば「一期一会」ということです。
どんな宗教や宗派の教えであれ、私たちがこの世界で生きる上で必要なことは同じなのです。
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小林正観さんは、「頼まれたことがあったら、それをできるだけ全部引き受ける」ことが大事だという。
そして…
『頼まれごととは、PTAや町内会、あるいは公的なボランティアのようなものから、会社や家庭の仕事も含まれる。
今、目の前に与えられた頼まれごとのこと。
ときには、自分の苦手なことも頼まれたりする。
しかし意外に、自分の苦手なことや、不得意なことの中に、人生の転機のキッカケやチャンスになることがあったりする。
だからこそ、「頼まれごと」は、文句を言わず、面白がって、淡々と引き受けることが必要だ。
頼まれごとを何年にもわたって、淡々とやっていくと、自分の使命が見えてくる。
どんな方向に自分が動かされているのか、という神の意志のようなものをそこに感じるからだ。
自分に与えられた目の前の仕事を、淡々と一所懸命にやっている人のところにしか、次のステップはやってこない。
今の生き方がチャランポランな人に、次の飛躍につながる大きなチャンスなどはこないからだ。』
中今とは、「今この一瞬」のこと。
昨日でもなければ、明日でもない。
今日ただ今を一所懸命に生きるということ。
すると、その姿をまわりが見ていて、「頼まれごと」がやってくる。
森信三先生は、「人はこの世に生まれ落ちた瞬間、全員が天から封書をもらって生まれてくる」と言っている。
「その封書を開いたら、あなたはこういう生き方をしなさい、と書いてある。しかし、せっかく天からもらった封書を一回も開かないままで死んでいく人が多い」と。
天からの封書を開き…
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