- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

尾道・旧荒神堂(住吉)浜界隈

2019年02月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


今朝市史編纂室の方から富吉屋関係の情報をもらい、その確認を兼ねてしばらくぶりに尾道行



写真中央、赤ワイン色日よけのある一階が若い女性のたまり場cafe「やまねこ」(広島県尾道市土堂2-9-33)になっている豊田ビルが旧富吉屋跡(むかって右側の横断歩道奥の三階建ての建物一帯)。その右方に尾道ロイヤルホテル、その辺りは旧油屋分。右端(海べり)に尾道住吉神社 『葛原勾当日記』では出稽古時の尾道での稽古場はほぼ富吉屋、松永では高須屋麻生家だった。


しまずい」は住屋島居氏ゆかりの名称


一昨日はカープチケット購入に半日待ち。
ここでも・・・・


住吉神社境内にあるジャンボ常夜灯を寄進した富吉屋嘉助&小林宣雄」(あるいは富吉屋嘉助こと小林宣雄かもしれないし最初の石灯籠は富吉屋だが、これがある時期壊れ、その後小林宜雄が再建したのかもしれない)。
【メモ】その後の調査で吉富屋=山田氏が判明。
『第20回・日本全国諸会社役員録、明治45』に記載された尾道商業会議所役員で、土堂の小林・島居。小林良人は広島県議会議員経験者だ。

常夜灯基礎部分の文字、海側の「常夜灯」と富吉屋のロゴマーク「L+富」の彫刻部分の異なる字体、しかも彫刻が異質、かつ風化度合がかなりことなり後者は寛政9年以後の再建時に彫り加えられた可能性もある。やはり全体は過去に倒壊し、落下して壊れた中台・基壇部分の石材は新しいか・・・・検討中


梁川 星巌の弟子が今津宿で寛塾を営んだ武井節庵。荒神堂(住吉)浜には雁木が復元されてる。




石工は川崎清吉と藤原貞之。藤原貞之は川﨑清三郎貞之・貞皆 と同一人物だろ。


荒神堂浜の一角には現在尾道ロイヤルホテルや商工会議所の建物が立っている。

この丸山茂助は浜口雄幸内閣時代の警視総監:丸山鶴吉の親父。茂助は北海道の木材を移入していた木履業者。






岩子島の「三坂幸助」(婿養子は沼隈郡神村の小林松太郎、菅原守編纂『備後向島岩子島史』にご本人は岩子島出身で、家業は瀬戸物屋とある)は大正3年10月22日に沼隈郡神村字「宮ノ下」にあった石井四郎三郎の田畑をかなり買得した土堂居住の尾道商人。明治10年(紀元2537年)尾道・住吉神社に石塀を奉納した有志の中に加わっていた。





この富吉屋は寛延期には松永に塩田を5浜所有していた。



観光客をときどき見かける。客入りがよいのはクレープ屋とかラーメン店。貸店舗を利用した町おこしショップが散見されるがどこも顧客を引き付けているようには見えない。〇〇フェスタ風のストリートパフォーマンスの要素を取り入れた町の賑わい感不在で旧市街は店主の老齢化で一段と閉店数増えた感じ。
2月10日連休最初の日曜日の来街者・・・・尾道駅プラットホームは終日かなり賑わっていた。


いささかインパクトに欠ける文化観光資源頼みの尾道市の地域振興策はやはり考え直すべきだ。しかし、それにすがり続けようとするのなら市民参加型のイベントや日替わり観光大使(有名人)を大動員しながらでも徹底的に都市全体を劇場化していくべきだ。

広島県に於ける政界の分野(大正8年)・・・・県会議員選挙関連  小林良人

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この水路表現は

2018年12月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
松永村古図に描かれた悪水に接続した水路表現の断片(β)。その正体を突き止めた。
結論的にいえば神村羽祢尾池(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/212382.pdf#search=%27%E7%A5%9E%E6%9D%91%E7%BE%BD%E7%A5%A2%E5%B0%BE%E6%B1%A0%27)方面から流れてくる余水が悪水に流れ込む流水路だった。



東島地区では千間悪水の北側と南側とでは写真に示したように、コンクリートブロック2,3段分(50センチ)程度高低差があることが判ろう。


羽原川にある千間悪水の取水口。河床に汐留用に長石が置かれている。この地点一帯が本庄重政が湾岸干拓を行った近世初期からの潮汐限界点に当たる。国道2号線下の河床はコンクリートの壊れ方から判断して若干低下が見られる。

国道二号線脇の古い民家の集積地、ここが「おややの鬼火伝説」に登場する三原(小早川以後、入部してきた福島氏の一族福島丹波の居城のあった当時の三原ヵ)から連れ戻されたおやや達の上陸地:地福地(ちふくじ・・・鬼火伝説では「血吹く地」として流布?)。当時の海岸線のあった辺りだ。そのすぐ陸地側に千間悪水の取水口があった訳だから地形学的には理屈は通る。
β一帯は悪水の南北で地面高に50センチ程度の高低差があるので、微高地を形成するβ一帯と例の斜交地割との関係性は今のところ不明。この種の斜交地割あるいは斜め通路はすでに言及済みのことだが西町(元禄検地帳上では字「悪水賈上」)にもあった。



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借金問題でもめていた麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門

2018年10月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

ことの発端は江戸後期の不安定な金融経済の下で、角灰屋橋本氏はあくまでも返済金を正銀建てで要求したことだった。橋本氏としては借り手有利となる、(暴落を続けていた)藩札での支払いは到底受け入れ難かった訳だ。





西向宏介「近世後期尾道商人の経営と地域経済-橋本家の分析をもとに-」(地方史研究協議会編『海と風土』雄山閣、2002、p.158-188)


「借金問題でもめていた麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門」というタイトルだが、姻戚関係にあった麻生吉兵衛と高橋七郎右衛門との間にはもめごとはなく、もめごとはご両人と債権者:角灰屋との間の話。高橋七郎右衛門は嘉永2(1849)年に尾道町町年寄り上席(『新編尾道市史』6、689頁)。麻生吉兵衛は今津村などの年貢米を福山に輸送する海運業者だった。
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沼隈郡今津村にみる「城主信仰」

2018年10月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今日は夕方から90分ほどお見舞いがてら〇〇で読書をした。持参したのは昨日までは単行本(勝矢の著書は読む必要なし)だったが、すこし重いので、たまたま目に入った歴史学研究会編「歴史研究 増刊号」820(2006、10)、青木書店を持って行った。以前、通読したことのある近世部会「歴史意識から見える近世」内の2つの論考に目通すことが出来た。
岸本覚「近世後期における大名家の由緒」と引野亨輔「近世後期の地域社会における藩主信仰と民衆意識」だ。
前者は毛利家の一連の藩祖顕彰事業を進めていく中で、毛利氏が摂関家鷹司家や有栖川宮との姻戚関係を構築し、このことが歴代藩主の「神霊化」に+側に作用したと同時に「勤王の家」としての歴史認識の醸成に深く関わったという(ホンマカイナ)。後者は広島藩と福山藩の例を引き合いに出しながら文化文政期の広島藩では藩主信仰が国持大名を神と崇める城下町人らの動きを初発として領国内に普及したが、山県郡の場合神職主導の国恩祭が農民一般にとっては五穀豊穣・国家太平といった慣れ親しんだ農耕儀礼の延長線のようなものとして受容されると共に、かかる祭祀を主導した地域神職たちは農村内部から経済援助を引き出し、藩権力側からは自らの宗教者としての特権性を認めさせる(地位の向上を図る)ことになったという。一方、福山藩では藩主水野氏に対する崇拝心が醸成されていたが、これは現藩主阿部氏の苛政を非難するという民衆の秘められた感情に支えられたものだと指摘。
文化15年作成の「今津村風俗問状答書」(河本四郎左衛門眉旨記述)を見ると、正月元旦の行事として供物を捧げるべき八百万の神たちの一角に「当村御水帳」と並んで「御当国御城主様」というのがあった。後者は例えば阿部正福筆の梅鷹図のようなものは殿様から拝領のある種「聖遺物」として藩主信仰の一翼を担っていたのだろう。
ってことは・・・・・。
引野が指摘したような城主信仰がすべてではなかったということだ。岸本にしろ引野にしろ自分の小さな脳みその中で組み立てた読者の関心をひきそうなやや刺激的なストリーにそって史料をつまみ食いした感じがする。一つの例を全体化せず、じっくりと腰を据えてテーマと向き合い、もっと手堅さの感じられる事柄の分析を心掛けてほしいものだ
天保期に在方扶持人となった御用商人たちは御国恩に報いる形で、藩からことあるごとに献金を強いられたようだ。


【備忘録】
羽賀祥二『古蹟論』を改めて読んで見た。近世の臆断まみれの歴史(民俗)学⇒英語で言えばHistorical loreを扱ったものだが、クリティカルな論説でないので退屈した。
これも・・・・
相良英輔『近代瀬戸内塩業史研究』、清文堂、1992を〇〇に持参して2時間ほど一部の論文を精読。松永塩田における浜の寄生地主(藤井与一右衛門)とそれを借り受ける製塩業者(相良は「小作人」と認識)とを捉え、特に後者が資本蓄積によって浜地主となった事例:岡田虎次郎にスポット当てつつ論述しているが、やはり研究が予め予想できるシナリオに沿って分析し、やはりそうだったというまことに安直な結論の導き出し方・・・・研究自体の意義の小ささもさることながら、考察が浅い。小作人:岡田虎次郎・石井保次郎を云々するより、この地方の社会の底辺を形成した「浜子」たちの問題の方が社会的に意義が大きいだろと思う。

高橋淡水『偉人と言行』、 楽山堂書店、明治43で高橋は福沢諭吉が藩主奥平氏の氏名の入った文書を踏み、兄貴から忠君の大義を説教され、天罰の報いがあると叱責されている(254頁)。


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引用され続ける誤謬ー三吉傾山の場合ー

2018年10月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津宿に大成館という漢学塾を開いた三吉傾山に関して『沼隈郡誌』の誤りが、そっくりそのまま村上正名『福山の歴史』上下、昭和53、歴史図書社に受け継がれていた。

菅茶山は江戸時代後期の儒学者・漢詩人で、1748-1827年までの80年の人生であった。しかるに三吉傾山の生涯は1836-1879年。従って三吉と菅茶山との間には時代的な接点はなく「幼くして菅茶山に学ぶ」といったことはなかったのだ。この辺(史料批判が不在といった面で)の脇の甘さが村上正名にはあったかな~
『福山の歴史』、筆者のこれまでいろんなところに執筆した文を集成した教養書だが、その教養書という性格を配慮した結果なのか集成される段階にオリジナルな論考段階に依拠したはずの参考文献リストなどがすべて抜け落ちている。先行する研究成果に依拠しているのが明白なのに・・・・、この辺がまことに惜しまれる。村上辺りは今津宿に寛塾を開いていた江戸人で漢詩人・書家:武井節庵の存在には気づかなかったようだ。

沼隈郡誌の三吉傾山の紹介記事(A)には傾山が菅茶山に師事したと記述。(B)は同書が所収した三吉傾山の墓誌。この中では「読書は神辺の菅氏塾」で学んだとあるだけ。


鴎外:備後人名録@東大図書館・鴎外文庫
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無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態-

2018年10月13日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
ここでは「無知と貪欲との狭間で-近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」といったやや冷笑的なタイトルにしたが、久留島浩「村が『由緒』を語るとき‐『村の由緒』についての研究ノート‐」(久留島・吉田伸之『近世の社会集団-由緒と言説-』、山川、1995)では18世紀後半以後、19世紀にかけて村が自己主張を強め、主観的な(=歪んだ)歴史制作が横行していたようだ。

【参考】唐突だが用語解説をしておこう。
現代において「実際には決して起こっていないのに、事実として語られる話 (story which never happened told for true)」を意味するのが「都市伝説」。もうひとつ、ジェームズ・スティーヴンスとの論争の中で生み出されたのがいわゆる「フェイクロア(fakelore)」(本物として提示されたものだが、実際には捏造された民間伝承を指す言葉)。ここで再論する「近世沼隈郡今津村にみる歴史制作の歪んだ実態」というのはこのフェイクロアに関わる事柄。

ところで、近世を通じて庄屋・神主(今津宿本陣を含む)を一元的に世襲してきた河本氏は自身が神主を務める神社の由緒づくりに際し、貴種(新羅王)流離譚を創作し、自己のルーツをこれに関連付け、白鳳期の今津のムラオサ・田盛庄司安邦の子孫だと主張。また四郎左衛門の時代(天明期)には当該神社を「村史」(庄屋役用記録)の中で「当一ヶ(備後)国惣鎮守」だとしたり、薩摩藩に対する3000両貸付要請(実際に薩摩藩に提出されたか書面の控えか否かは不明)時には「私家の儀は白鳳年中より当所に居住にて、御太守様御通行の節、往古より相変わらずこれ相勤め来たり(後略)」といった誠に時代錯誤も甚だしい理屈を持ち出す始末(河本家文書研究会編『今津宿本陣 河本家文書解読集』、2018、18頁)。さらには折角伝十郎の時代に伊藤梅宇の撰文を得て完成した神社縁起を子や孫の時代には反故にするかのごとく、剣大明神の社名すら放棄し、安永8(1779)年には沼隈郡式内3社の内の「高諸神社」へと変更しようとした

注)『備後郡村誌』によると「備後一国惣鎮守」とは吉備津彦大明神(備後一宮)のこと(356頁).自分が神主をつとめる「剣大明神」が当一ヶ国総鎮守だと『村史』収録の書上帳に記載した河本四郎左衛門の心の<闇>の一端が透かし見えてきそうだ。



【解説】『福山志料』の論調は沼隈郡今津村の剣大明神を式内社高諸神社に変更したしたことを批判しているわけで、その点は正しいのだが、論理展開には問題があり、沼隈郡式内3座とは何の関係もない延喜式神名帳中の剣神社の有無を冒頭に持ち出し、その結果『式内社調査報告(第22巻、山陽道、)』、544-547頁(金指正三執筆「高諸神社」)、皇学館大学出版から上げ足を取られ、無用な剣大明神=式内社高諸神社説の肯定論を持ち出す余地を与えてしまっている。


馬屋原重帯『西備名区』(文化元年)や菅茶山ら『福山志料』(文化6、1809年)の編纂者たちからこの点について批判がだされると、一旦、その主張を引っ込めるそぶりは見せた(明治期に入り社名を延喜式に記載された「高諸社」と置換)が、(四郎左衛門の時代には)剣大明神境内に縁起の中で形象化された新羅国の王族関係者のならともかく、河本氏の祖先だと主張する田盛庄司安邦を祭神とする境内摂社まで造営し、そこでの祭礼を文化期には村落行事化したとの記録(文化15、1818)年「当村風俗問状答書」)を残す始末。この村落行事では神主河本家(今津宿本陣を兼ねる)屋敷に、近隣の村々(高須村・西村・東村)の村役人や社人ら関係者を招待し初穂米で造ったお神酒と精進料理を振る舞っている。こういう歴史の流れの中で、役得を最大限に利用する形で利益誘導をはかった結果が河本氏の家系と今津村鎮守・剣大明神(式内社高諸社)の二者に対する「格上げ」工作と「権威付けの承認取り付け」工作であった。


西国街道筋では福山城の西側にあって浅野芸州藩に対峙する位置に沼隈郡神村の今伊勢さんと共に同今津村のお剣さんが立地したことの戦略的重要性に言及した後代の記録(『西備遠藤実記』)もあることや藩領内3か所に限定された(祭礼時の)興行場の一つが剣大明神界隈に形成されたことからも伺えるように、恐らく、地政学的な要地として把握するするためには沼隈郡今津村に対して何らかの優遇策や支援策を講じる必要があったのだろう。そういう状況と近世沼隈郡今津村、就中、江戸期を通じて長らく庄屋・神主及び今津宿本陣を独占的に世襲した河本氏(特に、江戸中期の伝十郎~四郎左衛門までの3代)による慢心&傲慢さとが複雑に絡み合って、歴史制作面での逸脱(=腐敗堕落)したやり方の下地が作り出されていったのだろ。


「田盛庄司安邦61世孫」と言い出した河本四郎左衛門眉旨が村差出帳の中に書き加えた「創作=偽造された剣大明神に関する由緒」。四郎左衛門はこのような差出帳とか風俗問状答書のような公的な報告書のような場を活用して歴史制作を行っていた。四郎左衛門は当該差出帳の朱書された追記部分でわざわざ(自分たちがその作成に関与したはずの)「蓮花寺由緒書」なるものを意図的に持ち出し「田盛之社は剣社の境内にあり」と語らせている。こういう一連のやり方は誇るべき証文不在の中で創作した白鳳時代とか田盛庄司安邦なる架空の人物や単なる(新たに創建した)田盛之社の存在に、歴史的実体性を与えるための河本四郎左衛門眉旨が常用した巧妙な印象操作に他ならなかった。こうした江戸時代後期の日本人の生活倫理に則していえば道義を弁えぬ逸脱した行為、換言すれば自分に都合の良い形で行われる歴史制作が近世後半期には、数は多くはなかったにせよ、結構横行していたようだ(久留島浩「村が『由緒』を語るとき」、久留島浩・吉田伸之編『近世の社会集団』、山川出版、1995,3-38頁所収)。


次の書籍は出版されてからかなり時間が経過しているがこうした問題をアカデミズムの中で論じた画期的なものだった。



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佐々木龍三郎『ギンギンギラギラ夕日が沈む-童謡詩人 葛原しげる』、文芸社

2018年10月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
高島平三郎・葛原𦱳御両人の写った写真を探していて本書(佐々木龍三郎『ギンギンギラギラ夕日が沈む-童謡詩人 葛原𦱳』、文芸社)でよいのを見つけた。機会があったら写真原版を探してみたい。

この本の中に広島県新市町至誠女子高校内創立25周年記念会編『わが郷土 備南文集』の紹介記事があった。わたしは目下のところ地域史研究の最終段階としてGeosophie(生活環境をデザインする時代的知や社会的知の在り方) を再構成(整理〉し直して見たいと考え始めているところだが、これは参考になるかもしれない。本書の寄稿者中には井伏鱒二・福原麟太郎・木下夕爾・森戸辰男・小倉豊文・徳永豊・大妻コタカ・宮沢喜一・久留島武彦ら17人の名前が上がっている。昔読んだ福原の随筆集だけではものたらなかったのでこれに期待。とはいえ、実際問題どの程度役立つかはこの『わが郷土 備南文集』を見てのお楽しみ、まあダメモトで取り寄せてみよう(ほとんど役立たない代物だった)。


これ一冊で事足りるということはないだろう。


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「男児志を決して郷関を出づる」の巻ー亀之助が後事を託した4人の人々ー

2018年09月11日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

家紋は「丸に四方剣花菱」・・・・東村の石井一族の家紋だ。屋号は亀居。これが石井豊太家の屋号だった(東村。大石井家当主談)。【メモ】屋号の付け方が東村の大石井(屋号:満井)と同形。松永に出た分家の益田屋石井氏とはこの点が異なる。


河本亀之助(1866-1920)は上京するときに亀之助一家の将来のことを依頼がてら石井憲吉(1850-1921)・石井一郎(1866-1926)大前・小川恒松(1832-1892)とこの石井豊太(大正1-5年草戸・佐波・神島組合立佐戸島尋常小学校校長、大正7-12年出身地の沼隈郡東村村長)の方へ挨拶廻りをしている。石井豊太は石井一郎ともども亀之助とは、おそらく私塾大成館時代の、友人だろうか。小川恒松と石井憲吉とはいづれも年の離れた年長者だ。とくに恒松の場合は息子・竹野豊八(大成館を出て後年今津尋常小学校校長)が亀之助と同じ世代だった。なお、亀之助を見送った「林・村上・河本諸氏」とあるうちの、「林」は今津村在住の医師林昌造(石井亮吉『松永塩業史/文化史の研究』、昭和48、279頁)だろうか。
今回の調査で河本亀之助が後事を託した4人の人々の消息確認が一応完了した。かれらの墓石は今津薬師寺墓地の半径50メートルの範囲にまとまった形で立地。





この一族は関西方面に転居したと聞いたが、法事はきっちり励行しているようだ。塔婆が・・・・ブロックの穴を利用して立てかける方法もありだな~。わたしの所では今年5月に3人分の法事をまとめてしたが、早くもその時の塔婆が朽ちてきた。



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旧沼隈郡役所敷地(本郷島)の埋立土

2018年08月31日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



工事現場の土砂観察


地境のブロック敷設現場の土層断面。7,80センチの掘り込み箇所で最下層はかつての製塩業の産業廃棄物:石炭燃焼滓が埋立土として利用されていることが判明。わたしはこれまで柳津・松永境の妙蔵寺境内や今津島小代島で同様の例を観察してきた。この「埋立土としての石炭燃焼滓と環境問題」に関しては今後起きないことを願いうばかりだが、かつてはこの地方では海陸を問わず普通にそういう形で処理(廃棄)されてきた訳だ。



石炭燃焼滓(石炭には微量成分として重金属が含まれる・・・土壌汚染法が規定する9重金属



ファミール平田は旧沼隈郡役所跡(X)・・・ファミール平田の床の高さは道路面より7,80センチ高。
写真左端の道路の先には高度差2m程度の下り坂があって、その段差部分に福山商工会議所・松永支所が立地。
  

旧沼隈郡役所跡(X) 




海洋投棄とは塩田傍の海に投棄したり、柳津方面の沖合に投棄するパターンで、安永浜は石炭燃焼滓の捨て場を干拓したもの。天保山もしかり(炭ガラ埋立島)。用地転用に伴う埋立土とは農地を宅地にする場合とか例えば木履工場などを建設する場合に工場用地の埋め立て用土として石炭燃焼滓が利用されたケースを指す。
幼少期家族で貝拾いによく出かけたが、松永湾の沖合の土砂は真っ黒で、すこしへ泥臭さがあった。幼少期のわたしは親父が教えてくれなかったので、それが普通のことだと思っていたが、それは今にして思えば、明らかに異常なことであり、塩田からの石炭殻を大量に海洋投棄してきた結果だったのだ。
石炭灰の環境に及ぼす影響

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石工 藤原亦三郎

2018年07月14日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


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7月4日の史料調査

2018年07月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


油屋(亀山)本助が町年寄り時代に制作された「文政4(1821)年尾道町全図」・・・・この古地図はいわゆる藩・町方の権力装置及び比較的少数の家主(寺院を含む豪商)たちによって寡占状態にあった町屋群の配置図(類型的には支配図)で、その中より透かし見えてくる生活する民衆の息遣いなどごく限定的だ。
浄泉寺に葬られた播磨屋松之助生前の居宅を探すのが本日の調査のテーマの一つだったが、松之助は借地人だったのだろう、本史料には無記載だった(黄線で囲んだ区域は灰屋(橋本)吉兵衛抱の歓楽地区:新地。このあたりが播磨屋松之助の活動拠点だった可能性もあるが今のところ確証は得られていない)。また機会があったら橋本家史料の中に茶屋関係の記事の有無や播磨屋松之助の名前を探してみよう。

森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017、34頁))曰く、「 文政四年(一八二一)の『尾道町絵図』を見ると、 右の橋本町の場所に、大型の家屋が五棟東西に軒を 連ねている。おそらく遊廓の建物と思われるが、「灰 屋吉兵衛抱」とのみ表示されている。その南側は 「灰屋吉兵衛畠」とあり、その中に「芝居小屋」が 経っている。海岸沿いには二十棟ほどの家屋がある が、ほとんどすべてが「灰屋吉兵衛抱」であり、そ れらは料理茶屋や別荘として使われていたのではな いか。そして、その中のどれかが、芸長両藩の用談 場所となった「竹亭」だったと思われる」(要確認事項)。

厳島社ー尾道八幡さんの参道周辺は「新開」と呼ばれる歓楽街だった。「新開」の海側に拡がるより新しい埋め立て地=「新地」。


厳島社の背後の段差。低いところがより新しい埋め立て地(新地)、一帯は豪商灰屋(=橋本)吉兵衛抱、その一角に芝居小屋があった。幕末期長州藩兵たちが屯した料亭の「胡半」(帆影楼)や何処?


高札場の隣は「役方抱」とあるが現在の橋本家別邸「爽籟軒(そうらいけん)」の一角。
文政7年より灰屋吉兵衛抱になった地所の海辺側に「庭」が立地。


暗渠化された防地川とその上を通行する乗用車

突き当りに制札場があった。文政期には写真に写った界隈を大宮崎町と呼んだ。


尾道町の外に置かれた浄土寺・海龍寺とその門前に布置された漁師家地区:尾崎。吉和町の漁師たちは2年に一度浄土寺に太鼓祭りを奉納する。




前掲した森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017)によれば「文政4(1821)年尾道町全図」をみて当時の尾道町が
「最も所有家屋が多かったのは灰屋(橋本氏)で百十一戸、つ いで住屋(葛西氏)の六十六、島屋(島居氏)の四十八、油屋(亀山氏)と富吉屋 の四十六、伊予屋三十四、金光屋三十二、金屋の 二十四戸とつづいている。それはそのまま当時の尾 道商人の資産家順位と考えていいのだろう。驚く のは、それら上位八家の所有する家屋数は四百六戸 にのぼり、絵図に描かれた総数千二十四戸の実に四 割を占めるのだ。富の寡占状態である。そうした豪 商たちは問屋業のほかに不動産投資で持ち家を増や し、貸家にしたり、商人仲間に金融をして担保とし てとった家屋が、相手の破産などで所有権が移って「抱」物件が増加したのであろう」とし、一部町方による富の寡占化に言及。この点は正しい。同様のことは阿部藩領(少数の在方扶持人による農村経済の支配)でも言えそうだ。その場合税制面での芸備両藩における「受(請)」(請負のこと)「」制自体がそういう富の寡占化を生み出す温床になっていたわけだ。受所の典型が栄華を極めた藤江山路氏

荒神堂浜脇に「年預会所」

ニシテラ小路(尾道久保町は西国寺参道入口付近)に医者山口須的が居住。医者の家系に生まれた山口玄洞の親族だろうか。



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松永塩業における石炭滓の処分方法

2018年06月27日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

安毛川(神島/徳島の間を流れる立入川)河口を出ていく俵満載の小舟。同型の舟が3艘ばかり沖合の砂山状のところに碇泊中だ。この砂山状のものは現在の天保山。安政4年のこの屏風絵では当時すでにここが石炭滓の廃棄場だったことが判る。


製塩業で使われた石炭滓が宅地の埋め立て用土として広範に利用されていた。



次の写真の注記「埋立土」の「立」の文字地点で撮影した。


小代古堤」と呼ばれる3間幅の地片

不等沈下の結果、石炭の燃焼クズで埋め立てられた部分は石垣面より10数㎝程度大きく地盤沈下


住宅が撤去され、更地になった土地が今回の調査地点。場所は松永中学・旧松永測候所の北隣


更地になる直前

豊洲新市場の予定地は、東京ガス工場跡地に当たり、石炭から都市ガスを製造する過程において生成された副産物(ここでいう石炭滓)などで、土壌及び地下水の汚染が確認されていたらしい。松永ではこの種の汚染問題は議論されてこなかったが、フランス・ゲランド地方やインドネシアのクサンバ地方に見られるような風と太陽に依存する(零細)天日製塩ではなく19世紀初頭段階には石炭火力依存型の製塩業を開始していた。この点は瀬戸内塩業の発展が本来的に環境への負荷を大きくする方式(ビジネスモデル)を自ら選択してきたことを物語ろう。
松永・潮崎神社の玉垣親柱(東町石炭仲仕寄進)



石炭灰の処理方法

【メモ】日本の代表的な禿げ山県とは愛知県、岡山県、滋賀県。言うまでも無く岡山県は瀬戸内製塩地帯と言い換えても良かろう。愛知は岐阜県を加えた尾張・東濃地域の窯業、そして滋賀県は都周辺に位置する関係で古来神社仏閣用の建築用材の伐採が行われてきたところだ。瀬戸内塩業が江戸時代中期より石炭火力依存だったのは塩付き山の薪炭の枯渇(禿げ山化)が原因だった(千葉徳爾『はげ山の研究』1956、農林協会、1991年に出版社そしえてより増補改訂版)。

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表と裏ー変わりゆく今津宿の町屋ー

2018年06月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



草葺屋根時代の面影を残す、隣家の間隔。奥にある石垣(急崖)は山裾を削って町場を造成した痕跡。崖下には井戸が掘られている。湧水を処理するための溝


向かって左側の源五郎家は境界いっぱいに屋根を出している。松四郎家は3尺さげて軒下を通路として活用。

奥行が14間4尺(26m)。山裾を削って町場を造成したことが判る。


往還に沿った主屋と裏の離れに付属屋(各世帯の事情によって借家/家畜小屋/倉庫・土蔵など)


急崖下の井戸(計測はしていないが深さ壱丈程度あるらしい)。側面には石組が施してある。ここに井戸を掘リ、屋敷の両側に溝を通すことによって屋敷地は湿気からは大いに救われてきたはず。



穴があるので「牛繋ぎ石」かと思って調べてみたら・・・・

そこが平たい漬物石だった。重量は30㌔はあっただろうか。かなり大きな石だ。松四郎家は代が変わり一家のご当主は令和に入って土地建物を売り払い広島市方面に転居。



 

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樋守の小屋

2018年05月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
稲荷社横の「樋門」と「樋守」というのはその居宅or番小屋を含めた表記だろうか。


中新涯の突端に樋門があり、そこに樋守の家族(佐藤さん)が生活していた。佐藤一家が住んでいた2階建ての番小屋が写っている。長男は昭和21年生まれ位だったろうか、一家には女の子を含め子供が何人かいた。生活はいずこも同じで普通に貧しく母親が家計を支えるため下駄工場で働いていた。人里離れた一軒家だったため永くカンテラ生活を余儀なくされていた。長男が中学を終えるころには樋門が近代化され、一家はどこかに転居した。

天保新開の番小屋だった思われる小さな家に山中君(昭和25年生まれ)という子供がいた。下駄工場勤めの若いお母さんと二人連れで家路につく姿がいまでも不思議に思い出される。夫婦の年齢差があった感じで、ほとんど戸外に出ない感じの父親は当時すでに50歳ちかい初老者ではなかったろうか。

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町前・西田以南の新涯地景観ーαを考えるヒントを求めてー

2018年05月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
干潟を干拓し、そこに陸水(淡水)を注ぎ、同時に潮汐作用下にある海水がそこに侵入しない処置(干拓堤防の築造、潮廻し川・樋門を敷設し、汐溜池=貯水池を準備)を講じつつ、その基本パターンの繰り返しを景観の中に樹木の年輪を数える要領で探っていく訳だ。あるいはそういう仮説を設定し、空中写真を眺めているとこれまで沈黙状態にあったか、忘れ去られていたこの「土地に刻まれた歴史」が浮かび上がってくるのだ。


字前新涯については考古学的な発掘(トレンチで土層断面)データがあればより確実な議論が可能になろうかと思うが、数次にわたる新田開発の結果であり、おそらく字前新涯はその広さと道路(旧堤防の可能性)の配置及び土地の起伏が一様ではない点から考えてその方向で考えていくのが良いだろうと考え始めたところだ。

もう一つ留意点がある。
それは不可解地名の問題なのだが、野取帳に「潮廻し」という地名or注記が村内2か所(字前新開・字西田)にあって、そのうちの一つがこれ(字前新涯)
いささか意味不明のこれをどう解釈するかだ。

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