- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

今は無き裏御池(うらおいけ)ー一枚の古写真を巡る断想ー

2018年04月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
前稿に引き続き、裏御池の話題パート2だ。



裏御池が造成された場所は慶応期以前は海だったことが判る。中新涯の一部として埋め立てられ、その後掘りこまれて溜池に。


昭和8年に寺岡為次郎(神村出身の製塩業者で、一時期、今津の柳町に居住)が寄進した亀園橋が写っている。池畔の石の配列から作庭された跡が伺える。つまり裏御池は境内が公園(「今津公園」)化されその整備の過程で池として作られたのだ。近所の子供たちがよくフナ釣りをやった。わたしの記憶の中ではこの裏御池の池水を 脚が悪くヒョコタンヒョコタン歩く感じの柿渋屋三島(英夫)さんが足踏み水車で池の南隣の水田(Y)棒を支えにとても上手に水車を漕いでいた様子が遠い昔のこととしてとても印象に残っている。それと当該水車を置いた田んぼ側の直径6,70センチ程度の水たまりが出来そこに長さの割に異常に太ったジャンボウナギがややぐったりした感じで入っていて気持ち悪く驚いたことがあった(翌日その場所に行ってみたが、そのウナギはいなかった)
池の東側には池側に傾いた松の大木があった。これは近世に天然痘が収まったことに感謝して氏子が寄進した千本松並木の中のもっとも神社側の1本。戦時中、この1本だけ境内にあるということで祟りを畏れて伐採されなかった。 池のほとりの石の上に袴姿で立つのが明治5年生まれの平櫛又策、石に腰掛ているのが途中採用で役場勤めを始めた矢野天哉(明治27年生まれ)。

この写真が加わることによって今は無き裏御池は格段にイメージ(脳裏に像として思い浮かべたり)しやすくなろう。下駄を履いた平櫛さんが立つ巨岩の表面に水平の筋が入っているがこれは池の水の水位が増水(30センチ程度上昇)したとき(梅雨時など)のものだ。かつて裏御池から引水していた柿渋屋三島さんの田んぼの場所だが、そこはホームセンターユーホー松永店の、国道を隔てた向かい側、国道脇に埋め立てられた三角形の地所(延命地蔵の東)がそうだ。昔の水田面は現地表面の1.5メートル下。そこは結構、湿田だった。

老神主(婿養子)の嫁さんが御池を”みいけ”と呼んだので、裏御池のことも念頭に京都御所(御池庭)の例を引きながらこれは”おいけ”というものですよと話しておいた。東御池・西御池までは”みいけ”でよいかもしれないが、裏御池ではちょっとこまったことにもなりかねない。
剣大明神が「式内社高諸神社」に変更され、それが教部省によって編纂された『特選神明牒』に記載されこのことをもって社名が確定したわけだが、今津村役場資料によるとそれは明治7年9月のことであった。

京都御所・御池庭(おいけにわ)

コメント

αを追え!

2018年04月27日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



現在αには松はない。小さな石の標柱に「〇▽」と名称が記されている。

蓋された共同井戸の石井(井筒)の向こう側の建物あたりが近世の高札場


点滅する矢印の先に【α(削り残しの基盤岩の一部)】



コメント

石井謙治『図説 和船史話』 日本海事史話叢書一

2018年04月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



図中の伝馬船を引いた和船は船首部の反り具合から北前船それとも・・・・?



これからはちと神社に奉納された寄進物:帆船にも注目かな?!
矢野天哉(昭和15)の調査によれば高諸神社には粟村力蔵が寄進したクジラ髭に交じって塚本嘉一(大正元年)、矢野利助(昭和3)寄進の帆船模型というのがあった。古いものは大三島の大山祇神社や宮島、近くは鞆の祇園さんや尾道の●▽神社等、まあ結局はどこかの博物館でということになろう。。

これはなんという船なんだろう。神社境内の隣接地に碇泊する2隻の帆船と素人目には何となく形似

西町の老人にこの写真を見せたらの印象として東町の船着き場の写真だと・・・・。わたしはまだ確認中。一番手前の帆船が弁才船or 北前船(北前船型弁才船)?



コメント

史実と伝承

2018年04月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『村史』に寛政期の事として東川地蔵堂内で非人風の変死者発見の記事があったが・・・・ 。荒川神社脇の本郷川の堤防上とか今津沖の浜(火の見櫓脇の小さな辻堂:多分地蔵堂自体)には浮浪者が一時滞在できるような小屋(今は町内会集会所)・辻堂風の建物(現在はその場所に町内会の集会所、お堂は規模が縮小され、末広大橋の西詰に移動)があった。

こちらは


いわゆる通称「末広町(内小代の上)」のことだろう。元禄水帖(1700年)では五郎三郎の受地(石橋脇にあった屋舗+農地の面積はΣ5反3畝28歩)。ここは変死者云々という笑い話(要するに変死者が発見された村は経費面でも結構難儀を強いられることが多かったことから、その負担(責任)を近隣の村々が転嫁しあったことに尾鰭がついた形の笑い話)のような話ではなく、西町における簡易水道の取水口(古絵図中の「新井戸」)、千間悪水及び水道(荒川井)との関係で松永分になっていると考えるべきだ。

五郎三郎屋舗にあった場所の現住者(精米業→風呂屋+中学教師)は明治維新後、備中方面から来住。


松永村古図の字「内小代の上」を明治期今津村柳町・三藤町一帯の地籍図に力技ではめ込むとこんな感じになる。




コメント

沼隈郡今津村野取帳にみる土地丈量法

2018年04月12日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
野取帳に記載された一里塚を含んだ土地の図面だ。所有者は小川松蔵。小川恒松の親父の名前だ。赤点は測量箇所を表示。甲乙丙は面積の計算単位とした区画を示す。土地を直角三角形と長方形の集合体に還元をしつつ地積を求めたことが判る。


一里塚のサイズは長さ-幅共に「1〇5△」。図面から直径1〇5△の円形だったことが判る。1/2×{16〇2△×(3〇9△+2〇5△5タ(類似記号)}≑52坪2分(甲部分の面積)。ということから〇は間、△は尺、タ(類似記号)は寸という長さの単位名の略号だったことも判る。

甲乙丙の小計=91坪9合、279番地の田地の総面積260坪7合、内2坪3合。この2坪3合は一里塚部分の地積(正方形:1.5間×1.5間として計算)を指す。円周率の知識を持ち合わせなかったと見え、一里塚敷地面積をこのように計算する結果になったのだろう。

1228番→1230番地(場所的には字東坂の東村境)のいわゆる山畑。油屋(屋号)川本源五郎の所有だが,注記として荒左衛門とある。荒左衛門という名称は今津村野取帳では元禄検地帳に無記載の無主地をその所在地と共に架空の所有者名で登録するときに慣用したものだが、このケースの場合は所在地名は苗字としては無記載だ。不整形の土地だったのだろう。山畑内を直角三角形と長方形に区画した訳だが、イロハニホ・・・ヨタレソツまでの16に区分して地積計算をしている。こういう作業は村内の特定の住民の手で行われたもようだ。台帳上判明しているのは大久保平櫛氏とか三島治平らが村内に居住したそういう測量作業の専門家だった。


1352-1353番地の測量は測定箇所が多く結構手間のかかるものだったようだ。




コメント

新発山(しぼちやま)@沼隈郡西村

2018年03月13日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
本郷村の板屋佐藤民八家に西村分御免定写併反別納物帳(明治5)に「丁卯新涯」・・・・高須村・西村・今津村入会場所 反別7町1反4畝22歩、高21石4斗4升2合、貢米14石4升5合、免三ヶ村平均、6ツ5分5リ

西村・東村 
右両村副役 神原本八、戸長 佐藤民八

明治3年備後国沼隈郡東村書上帳(本郷・字大谷 佐藤家蔵)
神原渡守給 3斗3升
池守溝番給 4石2斗6升

明治3年11月 
庄屋石井與七郎 29歳
組頭 重太郎  31歳
   惣一郎  44歳

▽明治5年 御免定写
郷蔵(1畝18歩)・牢屋敷(8歩)引
但し、小林之内へ入込居り候につき文政より上納年貢銀1分
西村・東村 
右両村副役 神原本八、戸長 佐藤民八

明治5年段階に沼隈郡東村・西村の副戸長を務めていた今津の神原本八。今津宿の問屋場の役人をしていた関係で事務能力が買われたか。居宅は今津村714番地、通称寺坂(てらんさか)、今津宿の「札ノ辻」にあった。家の裏側にむかし倉庫のようなものがあったと記憶するが、もしかするとそれは江戸時代の牛馬舎だったかも(後日確認予定)。

沼隈郡西村に関して「新発山  年貢」云々という記載が目に入った。
新発(しぼち)とは「新たに発心して仏道に入った人。出家したばかりの人」の意味だがこの新発山とは一体どこの山を指していたのだろう。この語(新発 しんほつ)を新開発(しんかいほつ)・・・・新しい埋立地の意味で使ったケースが『松永村古地図』の湯屋が橋の西側部分で見かけたことがある。
コメント

「田盛庄司安邦考」をrewriteした

2018年03月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
最新の分析結果に基づき、旧稿を改めた。2017年度の松永史談会会報も随分の分量になっている。今後は史料を含んだ一冊の研究書としてまとめていく必要がありそうだ。

書法としては小説家神坂次郎『元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世』中公新書 (740)風のもの、もっと学術研究寄りにずらしてカルロ・ギンズブルクの「小さな歴史学(microstoria)」風のものにするか・・・・・
ミクロヒストリーと日常生活の歴史

どういう切り口で地域史情報を編成するか。腹案は在りだが、いまはいろいろ構想を巡らしている最中だということにしておこう。

【メモ】典型的な偽史言説事例(式内社・神主家のルーツを見栄え良く偽造)→馬部隆弘『椿井文書』、中公新書、2020。
菅茶山『福山志料』は剣大明神→式内社高諸神社を否定。ただ、河本(四郎左衛門)氏発の作り話(福島正則時代の鞆城代杉原氏の子を、福島氏改易後河本氏が養育)を不用意に記載し、茶山はその噓を見抜けなかった。
コメント

阿部氏入部後始まった「田盛大明神祭礼」

2018年02月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
田盛庄司神話を祭礼化した近世起源の村行事・・・・神主・河本家が田盛庄司の子孫だと規定し、そこに高須村・西村・東村といった周辺諸村の庄屋・神社関係者たちが集合し会食するというものだ。このとき初穂米(古来祭祀を主導した豪族がその費用や供物とするために支配民から徴収したものだが、ここでは神に献じるために収穫作業の前に予め穂苅された稲穂から取れた米)をつかって醸造された濁酒がふるまわれたようだ。河本四郎左衛門眉旨は教養もあり、親(幼名:弥八、1776年/18歳で庄屋となり、石井熊峰門下として字:士端、号:廣岡、22歳になる天明元年に四郎左衛門、天明7年に富太に改名した。寛政5年に藩に対し「時論12章」を献策し名字帯刀。寛政9年に家禄を得ることになる河本保平和義)の代から郷士(月3石or 在方扶持人)として福山藩の家中に組み入れられており、周辺の村々の庄屋からも一目置かれる存在だったのだろうか。18世紀といえば藤井川河口部左岸の高須・西村・今津三ヶ村入会干潟の干拓事業が進められた時期(宝暦5年築堤、明和3年補強工事、寛政元年修復工事、寛政2年補強工事、天明9年6月洪水発生に伴う災害復旧工事)に当たり、その難工事を円滑に進めるためには、関係諸村は協調して行かざるを得なかったはずだ。(やや穿った見方をするようだが、)そのために持たれた会食を伴う寄り合いを捉えて河本四郎左衛門は(『備後郡村誌』の例が正にそうであったように村民の目に触れないこの答書のような場の中では)自分に都合よく「田盛大明神祭礼」と言っていた可能性もある。後述することとも関連することだが、この人物(河本保平和義&四郎左衛門眉旨父子)たちならこのくらいのことはやってのけただろうと思えてならない。

文化15(1818)年旧暦1月27日夕方-28日は新暦に直すと1818年3月3日―4日にあたる。28日は仏滅だったようだ。



次の史料は阿部氏が福山領に入部したときに差し出されたデータに、文化12,3年ごろの調査データ(『福山志料』編纂時にあたる)が加えられて編纂されたもので文政元年(1818)に藩に提出された『備後郡村誌』だ。つまり、河本四郎左衛門によって作成された「今津村風俗問状答書」が作成されたまさに同じ時期にこの『備後郡村誌』が編纂されていたことになる。この郡村誌には剣大明神にかんして新羅国王と田盛(田盛庄司安邦)のことが朱書され、この部分が文化期の追記であることが判る。すでに白鳳期の村長田盛庄司(安邦)という文言を有する史料がすべて偽文書であることは論証済みだが、この文言は18世紀に再建された『蓮華寺由緒書』にも記載されていたようだ。
正徳元年(1711)ー文政元年(1818)期までの100年あまりの間に河本氏は蓮華寺を巻き込む形で過去の偽造を繰り返した。そうした中で剣大明神境内の「田盛之社」が神主河本氏によって建立され、それだけにとどまらず河本氏の祖先をまつった当該神社を近隣村を巻き込む形での今津村の村落行事化したことを河本四郎左衛門作成のこれら一連の史料は主張したもの。考えてみればたんなる作り話にしか過ぎない河本家(天正・慶長期の毛利氏による惣国検地上に安毛(弥介)在住の孫左衛門と記載された人物が河本氏の史料上明らかな祖先、庄司でもなく「中こやの惣兵衛」のような10町歩規模の田畠を有する在地領主級の大百姓でもなかった)の祖先神話に実体性を持たせるために藤井川河口部一帯の盟主を演じるなど随分と厚顔無恥な事を行ったものだ。今津宿の本陣、福山城の西の砦として位置づけられた剣大明神の神主そして今津村の庄屋職を近世を通じて独占的に兼帯してきたことがこうした腐敗体質を生み出す契機となったのかもしれない。河本保平和義の場合、自分の管理する剣大明神を式内社・高諸神社に変更しようとしたり、剣大明神を「当一国総鎮守」するなど過去の偽造に積極的に加担した

菅原守編纂『備後向嶋岩子島史』にも『御調郡誌』の説を引用しつつ島内産土神を「椙(杉)原別宮」からの分霊だとか和泉式部伝説を史実と主張したりする(208-209頁)一方、向島西八幡境内の石碑(昭和9年建立)に刻まれた本社が「備後国総社」だとの文言については嘘だと批判(157頁)。自分の村の神社を備後国の総鎮守だという偽史言説は備後国各地ではいろんな形で流布していたようだ。

河本和義の母親は豊田氏だが,これが沼隈郡高須村で帰農した水野浪人:豊田氏であったか否かいまのところころ未確認(確認予定なし)、

河本四郎左衛門らの執拗な過去偽造行為の痕跡:今津浦に漂着した新羅の王
コメント

新市町大字下安井の神縄

2018年02月25日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
この種の神縄吊りの習俗は京都府・滋賀県・奈良県・三重県辺りを中心に近畿地方(京都市立竹田小学校校門前の神縄)に多い。滋賀県に多い勧請縄
地( 虵?)斬峠(柏の蛇きり峠)のところに「七五三縄」と呼ばれる大繩を張っている。


「 虵斬(蛇きり)峠」と呼ばれている『福山志料・下巻』には秋になると柏の集落の人々がこの峠の左右の木に大蛇の形をしたしめなわをつくり、くくりつけていた様が描かれている。



地名から大繩で制作した大蛇を境界性を持った場所に布置したものだ。この種の神縄は河川に掛けたり、村の通路上にかけたり色々だが外部から侵入してくる悪疫・災厄を封じるための清跋装置であったり、各種の供物(形状をもした藁製品であることもある)などを神霊にお供えするための呪術宗教的装置であったりする。

勧請縄の色々

神縄

藁の大蛇

コメント

祓いと清めー旧暦6月に行われた「虫送り」ー

2018年02月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
虫送り団の行進(災厄を地域共同体の一方の端からもう一方の端としての海に流す形式で払うパフォーマンスだ。呪術としては期待する結果を模倣する形でパフォーマンスを行うという面では感染呪術[最悪の原因となっていると観念されたものを竹棒+幟につけそれを村堺から受け取り、それらを海へ流すことによって追い出す形の呪術的行為]的)


生活世界(life world・・・folkloreを含む日常的な知の世界)を支配したのは当時の日本人を支配していたあらゆる災厄を「清め」と「祓い」(清祓)という行為で解決出来ると考えた原始的というか前科学的な心性(論理・・・レヴィ・ブリュール『未開社会の思惟』、1910年と『原始的心性』、1922年)だったろう。河本四郎左衛門主導の迷信にどっぷりの江戸時代人の世界が透かし見えてくる。



御調郡原田村小原(広島藩領)から剣大明神境内から海へ。6㌔ほどの行程だった。氏神さん(本郷八幡)の祭祀圏の一方の端から別の一方の端に向けて厄を送る。






富士川游の「迷信の研究」・・・・参考になるかなと思って借り出してみたが・・・・

コメント

沼隈郡今津村の雨乞い神事で使われた近世末期の鬼面

2018年02月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
桐を使った鬼面。桐材なので軽い。オデコ部分には2本の角が着けられたのだろう。今津村の祭礼ではいろんな場面に此の種の鬼面が使われた。6月の雨乞い神事、7月15日の砂揚げ祭では鉦・太鼓・幟と共にこの鬼面が使われた。



コメント

漁業鑑札と山鑑札

2018年01月29日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
本日は西川國臣家のアルバムと高等小学校廃校記念アルバム(大正14)を見せてもらった。後者は既知のもの、前者は4男正名家中心の家族アルバムで史料としては使えないものだった。西川は雑誌「児童研究」においてわが子自慢をした人物だが、長男一郎(のちの芳渓、地方新聞の記者で、明治~大正期の童話作家)はよほど学力がなかったと見え小学校を出て大阪の本屋に丁稚奉公させられている。一郎のその後については別稿において言及済みにつき割愛。

西川一郎こと西川芳渓の婚礼写真。背後の老人夫婦が一郎の両親(西川國臣夫婦)。西川家を継いだ弟正名の子孫(甥)の口からは一郎に関する消息は語られなかった。昨日西川家付近を遠目に眺めたところ、撮影場所は西川家の裏庭だろうか。場所は旧松永高等小学校(県立松永高等学校)の隣接地だ。


西川芳渓の新聞社での先輩挌に前田三渓。こちらは高島平三郎の目に留まったのか、洛陽堂からの出版物あり。唐突に◆五郎(昭和4年生まれ)は昭和11年に高島平三郎が松永に訪れたときのことを覚えていて、高島の奥さん(正しくは娘と長男文雄の嫁の二人)は美人だったと1月22日に例会時に語っていた(わたしは笑いをこらえながら拝聴)。


小川政右衛門所有の山鑑札(明治21)。小川政右衛門は小川恒松の兄貴。小川喜三次(幕末期の松永村組頭)

  
焼き印の山+みマークは三成屋山本家のもの(明治大正期の当主は山本秀助、ひろしま平和の歌作曲者山本秀の祖父)

コメント

宗教的狂気ー作田高太郎が記録した祭礼形式の民衆のストレス発散行動=「ええじゃないか踊り」の文化政治譚ー

2018年01月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
作田高太郎の三部作のどこかに江戸末の民衆の意思表示の仕方として狂人の真似をして町を練り歩くという話があった。読んでるときもマークしたと思ったが、記載場所は見つからない。同様のことは堀慎吾郎『伝家録』にも長州藩兵が尾道に上陸した際も尾道町民の間でお蔭参り風の「ええじゃないか、ええじゃないか ええじゃないか、長州さんの御登り、ええじゃないか、長ト薩ト、ええじゃないか・・・」と唄いながら来る日も来る日も老若男女、晴れ着姿の商家の娘から歌奴、壮年男性、女装男装、俳優・侏儒(まさしく異類異形)までが市中を練り歩く者たちで溢れかえったこととどこの家の二階からは不明だが神符投げ落とし(⇔一種のお札降りの神事)の件を記述していた。当時はお咎めがないようにお蔭参りor「ええじゃないか」踊りなどの当たり障りのない形式をかりて住民たちが意思表示(長州藩兵たちの出現に対する尾道の人たちが言わば警戒警報発令行動)をしたわけだ。民衆のストレス発散方法を打ちこわし⇔ええじゃないか踊りの位相で捉えるならば、明治期の破壊行為を伴う農民騒乱(江戸時代の庄屋・御用商人・役人の居宅での略奪放火)は前者、非破壊的な示威行動がこの「ええじゃないか踊り」。

掘『伝家録』と森本『福山藩幕末維新史』。森本の著書は内容的に非常に具体的で、それだけに森本の記述を鵜呑みにしかねないような部分を多々含んでいるが基本的には歴史小説。『新修尾道市史』第二巻(近世篇、442-452頁が詳しい)




この件はわりとポピュラーな話題のようでネット上での言及も散見される。例えば、山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われたという。

作田の記事を探す必要があるが・・・・・そのうち見つかるだろう・・・・・作業開始5分後『日本権力史論』、347-351でめっけ!
お蔭参りに関連し「わたしたちが子供のとき語り伝えられた半狂的のもので、徳川幕府に対する一種の示威行動であった」。作田は徳川時代の民衆が不平不満を神詣・仏参に散じたとみられるとし、お伊勢参りに言及(丁卯12月5日以後~明治元年12月、慶応/明治の改元は丁卯12月6日,広島県年表によれば「12- 尾道にええじゃないか騒動起こる。竹原下市,広島にも波及し,翌年 1 月まで続く 〔頼永禧書簡〕。 」)。

伊豆地方の「お蔭参り、ええじゃないか」
参考文献
田村 貞雄 編 「ええじゃないか」の伝播、岩田書院ブックレット歴史考古学系⑤、2010年4月刊

「ええじゃないか」関西シンポジウムの経過
             * 田村 貞雄
南山城・京都への「ええじゃないか」の伝播
 南山城における「ええじゃないか」の発生/
 「ええじゃないか」発生以前の京都の状況/
 京都における「ええじゃないか」の発生/
 近畿地域における開始時期/
 幕末の臨時祭礼との関係 中川 博勝
「ええじゃないか」の諸段階と東西南北
 御鍬百年祭としての「ええじゃないか」/
 従来の「ええじゃないか」観の訂正/
 「ええじゃないか」の諸段階/
 「ええじゃないか」の東西南北 田村 貞雄
京都豊年踊りと大坂の砂持ち
 京都豊年踊りの絵画資料の補足/
 大坂の砂持ちの影響/
 豊年踊りへの大坂勢の参加/
 福沢諭吉の証言/
 南山城寺田村周辺への波及/
 京都での砂持ち/
 慶応元年稲荷踊り
             * 長谷川伸三
名古屋の「ええじゃないか」と流行的な祭礼 武藤  真
「ええじゃないか」再考 木村 直樹
「ええじゃないか」伝播の前提としての俳諧ネットワーク 伊藤  太
但馬国における「ええじゃないか」の展開 松井 良祐
「ええじゃないか」とは何か 和田  実
「ええじゃないか」関西シンポ2009年で考えたこと ひろた まさき

西垣晴次 著「ええじゃないか : 民衆運動の系譜」新人物往来社、1973
なっとくのいく「ええじゃないか」解明 和歌森太郎(跋文)

 明治維新とは、民衆にとって何であったのか。この問題につき語るとき、慶応3年末の「ええじゃないか」は軽視しがたい事象であり、幾たびか学者の考察対象となって来た。
 ところが、この書のように、近年の地方史研究の成果を吸収し、じつに広範に関係史料を掘りおこした上で、古代以来の宗教的民衆運動の系譜をたどりつつ、周到綿密な考究の末、その歴史的位置づけに成功した業績は、これまで全く無い。伊勢神宮史を新しい視角で研究し続けてきた著者が、その過程で磨いた史眼、歴史・民俗にわたる事象把握のゆたかさが、ここにみごとに結晶している。

 維新史を、日本の宗教社会史全体の中で見透す上でもだが、「ええじゃないか」現象の実態を正確に知る上でも、貴重な文献となっている。
  初めてなっとくのいく、「ええじゃないか」の解明書を得た思いである。
以下全文引用
目次

序章


 幕末の大坂で異国人の目にとまった派手な服装をした大衆の乱舞、彼らの発する「いいじゃないか えいじゃないか」の叫び声、それに伴う集団の熱狂状態、その起因とされる伊勢神宮の札の大量降下という一連の現象は、なにも大坂という一地域のみに、また12月の中旬という一時期に限られた局地的な現象ではなかった。-


 この現象は、群衆の発した叫び声から現在では「ええじゃないか」とよばれている。「ええじゃないか」は約300年にわたる長い間、民衆を支配してきた徳川幕府が、政権を京都の朝廷に奉還し、幕府最後の年となった慶応3(1867)年の夏ごろから翌年のはじめにかけて、江戸、横浜、名古屋、大坂を結ぶ地域を中心に、日本のかなりの地方で、われわれの祖先たちをまきこみ、とらえ、かつ彼らによりひきおこされた現象であった。日本の民衆が個人としてではなく、民衆それ自身として一つの運動を、しかも、一揆のようにある特定の地域にとどまることなく、この「ええじゃないか」のように広範囲にひきおこした事例は、日本の民衆史のうえでもあまり類例がない。さらに慶応3年という幕藩体制(封建支配の体制)が崩れるという、まさに歴史の転機にあたって、
 ひきおこされたこの民衆の「ええじゃないか」は、そのことのみでも明治維新を考えるときに忘れられない事実だといえる。ことに多くの民衆を、しかも慶応3三年という歴史の決定的瞬間に動員し、そのうちにまきこんだということは、日本の民衆が歴史の形成に果たしてきた役割を考えるうえに、またわれわれがどのように歴史に参加していくかを決定することを迫られている現在において、大いに注目しなくてはならない問題であるといえよう。


 このように「ええじゃないか」は、日本の民衆運動の一つとして注目されるものである。第一章以下に示すように、その形態や実情は実にさまざまな面をもっている。あたかもそれは民衆が単純な理論や概念、あるいは特定の政治的意図により簡単に処理することや、動かすことができないのと同様である。また「ええじゃないか」は、たんに同一時点における多様性だけでなく、民衆のおしすすめてきた歴史のうちにひそむ伝統による影響をも含んでいる。
 たとえば、今日のわれわれの日常的な、また合理的な感覚や感情からすれば、どこからともなく舞い降ってきた神符や仏像などをきっかけに、これを祀り、祝い、乱舞に数日をついやすなどということは、常識からみて考えられもしないことである。もし、われわれの家の庭先や屋根に、これらの神符などが発見されたとしても、それは人々の関心をひくこともなく、たとい多少の注意が払われたとしても、風のもたらしたものくらいのことで忘れられてしまうにちがいない。
 だが、慶応3年の時点ではちがっていた。神符の降下により、民衆はその日常的な生活のわくをこえ、猥雑さを伴う熱狂状態におちこんでいったのである。幕末の民衆が「ええじゃないか」の叫び声をあげたのは、なぜであろうか。神符の降下をもって瑞兆と感じた民衆の背後には、どのような歴史的な、また宗教的な感情が存在していたのであろうか。また動乱期の民衆を「ええじゃないか」にまきこんでいった社会的背景はどのようなものであったのだろうか。そうして、民衆はそこからなにを感じとり、またどのようなものをうみだしたのであろうか。

第一章

「ええじゃないか」とは


 この近江水口宿での状態から、われわれは「ええじゃないか」を構成するいくつかの要素を指摘することができる。8(1)神符の降下、(2)神符を祭壇を設けて祀る、(3)祝宴、(4)男子の女装、女子の男装、(5)ええじゃないかの歌と踊り、(6)領主の命令による平常化。だいたい、以上の六つの要素をあげることができよう。


 京都の「ええじゃないか」も、水口と同様、六つの要素によりなりたっている。さらに、ここでは、(7)こうした騒乱をひきおこしたと考えられる者のことが語られている。これもさきの要素に加えておこう。


 -もう一つ注目しておきたいことがある。それは12月(11月)に至り奉行所から禁令が出るのだが、当初においては、「近来の不景気時節直し」とて踊りがはじまり、「是は世直しとて奉行も見ぬふりして居る」とあるように、奉行所=支配者側も黙認していることである。そして、その黙認の理由は「世直し」であるからという。民衆はもちろんのこと、支配者側においてすらも、「ええじゃないか」のうちに「世直し」の意識を認めていたという点である。(8)民衆がわれを忘れ、踊り狂った背後に、「世直し」を期待する気持が大きく働いていたことは、のちに触れるように、前年は不作で、米価があがり、また政治情勢も混沌としていた当時にあっては当然であったといえよう。ここに「世直り」の意識、「世直し」への期待も、「ええじゃないか」の要素をなすものであった。

第二章

「ええじゃないか」の発生と展開/東海地区/名古屋とその周辺/信州/江戸・横浜とその周辺/伊勢・志摩/近江/京都とその周辺/大和・紀伊/大坂とその周辺/西国筋/淡路/阿波/土佐/讃岐


 さて、以上で各地の「ええじゃないか」について、その史料紹介をかねながら述べてきた。その内容上の問題は第六章で触れられるはずであるので、分布・時期などの点にかかわることを二、三みてこの章を終わることにしたい。


 まず、分布であるが、北は江戸まででその北には及んでいない。江戸から東海道の各宿場にはほぼみられる。東海道を西にのび名古屋、京に達し、大坂から山陽道は広島(ただこれは禁令のみで現実にその事実があったかは不明。降下の事実に限定するならば竹原下市)まで。この江戸から広島までの表日本がその中心であって、その他の地域での諸例はこの本流からの分岐であった。もっとも北に及んだのは緯度のうえからみれば、松本であり、日本海に近いということからすれば、丹後(京都府)与謝郡野田川町の岩屋の例である。南は四国の高知県下の室戸、吉良川である。


 この分布でひとつ気のつくことは、慶応3年の段階で、はっきりその政治的立場を討幕においた藩、それらの藩は西南雄藩と称せられるように、西南日本に多いわけではあるが、そうした藩の藩域(室戸や吉良川の例は土佐藩というかなり政治的立場の明確な藩における例外的なものであるが、その地域は藩境に位置していた)には、まずみられないということは、注目に価することであり、「ええじゃないか」の性格、ことにその背後にあった政治的作為を考えるときに大きなかかわりをもつものである。


 次に発生の時期であるが、いままでのところ降下・踊りといった諸要素を含むもので、史料的に確認できるもっとも早い事例は、東海道見付宿の8月15日の例である。つづいて美濃武儀郡上有知村の8月20日、遠州気賀の8月12日、名古屋の8月28日とみえ、京・大坂では9月になる。終末は翌4年4月20日の大坂鍛冶屋町、丹波中郡丹波村の4月、但馬美方郡和田村の3月。禁令の面では岡山藩が1月に、但馬豊岡の京極氏の2月20日ということになる。とびはなれて、大阪では10月に禁令が惣年寄あてに出されているが、これは一度おさまったものが、この頃再びおこったためであった。古老の記憶では、信州上伊郡の上辰野で、秋少し前から春3月頃まで降ったという例がみられる。

第三章

民衆運動の系譜


 さて、民衆運動とはなにか。明確な定義を下せないほど多様性をもつところにまず特色があるともいえるが、それには大きく分けて狭義のそれと、広義のそれとが認められる。狭義の民衆運動には、中世の土一揆、近世の百姓一揆、打毀し、近代の米騒動などを、そこに含ませることができよう。それらは運動の目的が年貢減免、徳政令の発布というように明らかであり、そのための組織がみられ、指導者が存在する。ただ目的があり、その目的を阻むものがあるため、かつ彼らの目的達成を阻止する勢力が既存の社会体制に密接していることが多いから、弾圧をうけることも少なくないし、敵対するためにかえって、その影響をうけ運動が変質してしまう場合もみられる。


 これに対し広義の民衆運動としては、古代の志多羅神や本書で扱っている「ええじゃないか」や、それの一つの前提ともなった「おかげ参り」などをあげることができる。これらは、運動自体の目的は狭義のそれに比べて明示されていない。また運動の形態も呪術、宗教、踊りなどの民衆の生活に密着した外被をまとうことが多い。運動の目的が民衆に自覚されてから発生する狭義のものとちがい、マートンに従っていうならば、社会構造と文化構造のひずみにより発生し、民衆自体、自覚することなく無意識ともいうべき状態のうちに、運動にまきこまれ、運動の担い手となるものである(『社会理論と社会構造』)。その運動には民衆のうちに伝えられた宗教、儀礼、芸能などさまざまな要因が動員され、運動のうちで再生し、それらが結集し、既存の社会体制にも影響を与える大きなエネルギーとなる。広義・狭義いずれの民衆運動にせよ、ともにそこには非日常的な側面が大きく存在していた点にも注意を払う必要がある。ハレとケ、聖と俗の定期的な繰返しにより維持される日常生活は、社会構造と文化構造のひずみ、対立の激化により維持不可能になる。ハレとケの均衡が破れ、非日常的な側面が表面にあらわれ、それにより均衡を欠いた生活の再生がはかられる。その意味では民衆運動には秘められた変革のエネルギーが認められるといえよう。


 以上のように民衆運動を位置づけ、その系譜を日本歴史に求めるとき、ここではまず広義のそれをさぐることにしたい。

常世神/志多羅神上洛/永長の大田楽/伊勢躍

小結


 これら広義の民衆運動を扱ってきたなかで常に問題となるのは、それらの事実を記録した史料の性格である。民衆運動の記録は、それに直接参加した民衆自身の手になるものであることは少ない。これまでみたように、それらは民衆運動を愚人(「山本豊久私記」)のなせるものとしてみる知識人や、体制をゆるがすものとして禁止しようとした支配者側の手になるものが大部分である。そのうえ、これらの民衆運動すべてに共通するのは、平常のきまりきった日常生活とは反対の極に位置する熱狂、むしろ狂乱ともよぶべき民衆の動きである。そうした熱狂状態にあっては、そこに参加した者のみに通ずる言語=論理を抜きにした行動や動作によってのみ通ずるところの意志の伝達がある。こうした性格を基本的にもつ民衆運動を、それに参加することなく、外部にいた観察者の記録を中心に評価していくことはかなり危険の多い作業である。こうしたことを念頭においたうえで、これまでふれてきた広義の民衆運動にみられる諸要素とそこに共通する性格についてふれ、この章を終わることにしたい。


 常世神、志多羅神、永長の田楽、伊勢踊(躍)りなど、これら広義の民衆運動すべてに共通するものは、歌舞によって示される民衆の熱狂、狂乱ともいうべき状態である。このような平常の日常生活を無視した熱狂状態は、一般に「オージー」という概念によってとらえられるものである。


 オージーとは、「古代ギリシア・ローマのDionysus。またはBacchusの秘密祭から出た語でOrgieともしるされ、仏語でオルジー、独語ではオルギュとよまれる。一般に人格転換、社会秩序や倫理的拘束の一時的破棄を伴う異常な集団的悦惚と興奮の状態を指す。粗野な音楽舞踏、暴飲暴食、喫煙飲酒その他の興奮性薬物の使用、肉体的暴力、血、エロティークな所作などがこの状態を集団的にかき立てる役割を演ずる」(堀一郎「日本の民族宗教にあらわれた祓浄儀礼と集団的オージーについて」『日本宗教史研究』Ⅲ)と規定されるもので、その社会的機能については、グラネは「オルジーは人々を突然その単調な生活から奪ひさるのであり、農業民族として持ちうる最も大きな希望を急激に湧き起こすのであり、心中の創造的活動を最高の所まで刺戟するのであった」(『支那人の宗教』)ともいっている。広義の民衆運動はオージーを伴うものであると、まず規定することができる。


 こうした集団的オージーが発生するのは、常世神にあっては、律令国家体制の形成、志多羅神にあっては、承平・天慶の乱による律令国家体制の解体、伊勢踊りにあっては、近世封建体制の確立に伴うところの、それぞれの社会不安の存在を前提としている。志多羅神の場合には-史料不足によるものであろうが-みられぬが、他の場合はこれらの現象は不吉なもの、凶兆として取締りの対象とされる。それは社会不安、現体制に対する不安を肌に感じとった民衆のまきおこした動きだけに、支配者からすれば、不可解、かつ無気味なものと感じられ、禁制されるわけである。


 民衆は不安を爆発させるものとして運動に身をまかせる。そこには民衆の不安からのがれたいという希望を反映して、常世神のときには「富と寿(いのち)」が、志多羅神のときには「富はゆすみきぬ、富は鏁懸けゆすみきぬ、宅儲けよ さて我等は千年」栄えてが、伊勢踊りでは「老若男女、貴賤都鄙、栄え栄うるめてたさよ、御伊勢踊りを踊り候てなくさみみれば、国も豊かに、千代も栄えて、めでたさよ」が、声を大にして唱和される。そこに共通して世直り、世直しへの民衆の意識を認めることは容易である。ただ、こうした世直し意識は広義の民衆運動にあっては、具体的な社会改革の運動に結実していかなかった点も共通していたのである。

第四章

伊勢信仰と民衆


 室町時代になり、足利将軍の参宮からそれに関係した各階層の間に伊勢信仰が一般化し、神明講や伊勢講も京都をはじめ各地に成立した。当初において講衆の参宮により解散した講も、共有財産である講田などをもつようになり、村落内で一つの社会集団としての地位をもつことになって、その組織は恒久化する。こうした各地の動向に対して、神宮側からは御師による廻国があった。講の恒久化にはおそらく、御師の側からの毎年の廻国やその際の土産の配布などの働きかけがあったのであろう。


 しかし、伊勢信仰の全国的普及には、以上の要因のほかにも原因があった。それは飛神明ということであった。もともと日本人の神信仰にあっては祀らるべき神は一定の場所に常住しているのではなく、祀られるときにあらわれるのが普通であったから、神が飛びきたって示現したという飛来神の信仰は、各地にひろくみられるものである。神宮の飛神明も、そうした一般の例のうちに含まれるものである。


 -神宮への信仰、神宮への関心の国民の広い範囲への普及・定着にあたって、飛神明の果たした役割は大きかった。民衆の側では伝統的な飛来神への信仰の存在、また神宮が炎上し、神体の所在が問題となったような時代的条件があったこと、さら京の粟田口神明が御霊を慰祀することを任とした唱門師の集団の手で祀られていたことにみられるように、飛神明を御霊的力ものとしてうけとめていた。このことにより神宮への信仰は、神宮の所領を中心とする地域講集団の成立した地域といった限定されたものから、よりひろい範囲の民衆の間にひろまり、定着していったのである。

第五章

おかげ参り

慶安のおかげ参り

宝永のおかげ参り


 宝永2(1705)年に至って大規模なおかげ参りが発生する。おかげ参りの語が定着するのもこのとき以降である。宝永2年のおかげ参りがなされるまでに、各地に伊勢参宮の慣行が普及していたことが、おかげ参り発生の背後にあった。


 宝永2年のおかげ参りは、従来にみない大規模な群参であったから、記録されることも多かった。人員、ことに参詣者の出身地域が広範囲であったこと、児童の非常に多かったこと、参詣者に対する沿道での施行、神札の降下をはじめとする神異などがあったことなど、これまでの群参にはみられない諸事象があらわれている。


-本居宣長の『玉勝間』はこのときの参宮人の数を、
凡閏4月9日より5月29日まで50日の間すべて362二万人なり
 としている。この362万人という数は『伊勢太神宮続神異記』の記すところとほぼ同じである。当時の全人口はほぼ3,000万人であったから、一ヵ月の間にその一割強が伊勢に向かったというのは、まことに異常な社会現象であったといえる。


 宝永のおかげ参りをそれ以前と大きくきわだたせているのは、この幼児・少年層の大量参加ということであった。


 宝永につづくおかげ参りは明和8(1771)年であるが、その間に平常の年より参詣者が多かったのが、享保3(1718)年と享保8(1723)年、享保15(1730)年の3回であった。
 宝永の全国規模のおかげ参り以後、小規模な特定の地域に限定された群参が流行現象として見られたと考えられる。

明和のおかげ参り


 明和8年のおかげ参りの前年は全国的な大旱で、稲にカチとよばれる虫がつき、江戸の町中でも虫が飛びかうという有様だった(『武江年表』『筆のすさび』)、百姓一揆も各地で激発した。こうした社会的背景のもとに大規模なおかげ参りが発生した。


 さて、この明和のおかげ参りの人員であるが、『明和続後神異記』は宮川の渡しを渡った人員を4月8日から8月9日までの五ヵ月間に総数207万7,450人としている。端数がなく、この数を実数とみることは当然できないが、松阪を通行した人数の増減とよく符合しているので、ある程度実体を示すものといえよう。ただ壼仙の記述にもあるように、関東・東海道筋の道者は、船で直接、河崎その他に着いて、宮川を渡らない者が多かったから、宝永のおかげ参りのときの362万人には及ばぬかもしれないが、207万よりはるかにうわ回ることは確かである。


 御祓の降下は抜参りが始まった当初からみられたものではない。丹後や山城の宇治郡といった最初の発生地では、降下をきっかけに抜参りが始まったのではなかった降下はやや遅れて登場する。おかげ参りの無料の接待所、施行の存在は貧しい道者にとっては欠くべからざるものであり、また各地の人々をおかげ参りにかりたてる呼び水の役割を果たした。しかし大体、施行開始後二ヵ月も経過すると施行主のほうでも経済的にもこれに応じきれなくなり、中止する場合が多くなる。ところが中止が予告されると、そこにしばしば御祓その他が降下するのである。

文政13年のおかげ参り


 明和のあとのおかげ参りは、文政13(1830)年であった。なお、この年、文政の年号は改められて天保となる。文政の場合は最初のおかげ参りである宝永2(1705)年から第二回の明和8(1771)年までの間がほぼ60年であったということが知識としてひろがっていたので、来る卯年こそ、明和の御蔭参りより61年に当れる事なれば、又其の事の有ぬべし(『御蔭耳目』)という期待が人々の間にあった。この期待のあったこととは-文字に親しんでいた知識人には一つの共通理解であった。


 民衆の側にも明和のおかげ参りについては、老人などからその体験談が伝承として伝えられていたことは疑えないが、民衆の場合、ただ昔の老人の体験談だけがあったわけではなかった。かつてのおかげ参りの記憶を再生産する働きかげと、その道具だてがあったようである。


-この史料は、観音堂の本尊までが、おかげ参りをしたという奇瑞を伝えているが、ここでは毎年やってくる神宮の御師の手により、神宮の神威がおかげ参りに結びつけられて語られており、しかも毎年廻檀してくるわけだから、おかげ参りの記憶が村の年中行事のうちで再生産されているといってよい。
-このような事情が知識人の文字による理解とは別に、民衆の間におかげ年到来の期待をいだかせることになったものであった。


 文政から天保にかけては云うまでもなく幕藩体制の全体的な危機到来の時点であり、それによりもたらされるさまざまな矛盾は民衆の生活をおびやかした。ここにおかげ年到来の期待はより一層ふくれあがり、行動に転化する。まず、支配体制からの規制の弱い子供が動きだす。一度動きだせばそれは子供だけに止まらない。これを制止する力は支配体制にはない。春三月、徳島からおかげ参りがおこった。


 さて、文政のおかげ参りの状況は参加人員が激増したことを除いては、全体として明和のおかげ参りと異なる面はなかったといえる。ただ、大和、河内、和泉、摂津あたりで、一村を単位とする「おかげ踊り」が流行したことが明和のときにはみられなかった新しい現象であった。のちにふれるように、この「おかげ踊り」は「ええじゃないか」の源流とも考えられるものであり、「おかげ踊り」の流行は文政のおかげ参りで注目すべき現象といえる。


 『文政神異記』では、宮川の渡しを渡った人数を閏3月から6月20日まで、427万6,500人としている。いずれにせよ明和のときをはるかにうわ回ることは確かである。

おかげ踊り


 これらの記録から、おかげ踊りは河内に発生し、大和、南山城、摂津と畿内の中心部に流布し、それはこの年の三月にはじまるおかげ参りにつづくもので、しかもおかげ参りの高まりが一時衰えたあとに発生・流布した。おかげ参りとおかげ踊りは一応、別のものであった。それは時期のみに関してではなく、おかげ参りが、他方で伝統的な抜参りという語でもよばれたように、日常の村落生活の場からの個人的、かつ一時的な脱出-それゆえに参宮中のさまざまな行動が非日常的な規模でなされる-であったのに対して、おかげ踊りは日常生活の場であり、機構でもある村落を単位としてなされた。おかげ参りを個人的・非日常的なものとするなら、おかげ踊りは集団的・日常的性格を色濃くもつものであった。


 とはいえ、おかげ踊りの日常性をあまり強調することは正しいとはいえない。それはあくまでも村外に出るおかげ参りとの対比のうえでのことであって、村落で毎年くりかえされる年中行事などのもつ日常性にくらべるならば、やはり非日常的性格が強いことを忘れることはできない。史料上の初見である河内半田村の場合、その発生はおかげ参りのときと同様、御祓の降下にあったことが、その非日常性を示している。


 最後に民衆運動としての「おかげ参り」についてまとめて、この章を終わることにしたい。まず、おかげ参りという言葉は、宝永2(1705)年の大量群参のときにはじめて成立する。大量の群参、施行の実施、御祓の降下などのいわゆる神異など、おかげ参りを構成する諸要素はすべてこの宝永のときにそろう。宝永以後の明和、文政のそれは大筋において、宝永にみられた諸要素をこえるものはなかった。おかげ参りは宝永、明和、文政の三回が大規模なものであったが、その間に多くの地域的かつ部分的な流行があったことに注意したい。それは民衆運動の伝統といったことに結びつく。文政のおかげ参りについては、その発生の前から宝永と明和の例から60年に一度のおかげ年の到来ということが知識人の間でいわれたことはよく知られている。民衆の間にあっては、淡路の例にみられるように、村の堂などに結びつけ、村の行事のたびごとにおかげ参りの記憶が再生産され維持され、一つの伝統として意識されていた。この村の行事による意識の維持と部分的・地域的流行現象は、民衆運動としてのおかげ参りを考える際に大きな意味をもつものといえよう。


 全国的な大規模なおかげ参りの中間にみられた地域的かつ部分的な流行は、文政以後はことに天災地変の多発、支配体制の衰退とあいまってはげしく民衆を動かし、最終的には幕末の「ええじゃないか」のうちに結実することになる。


 「おかげ参り」の伝統は「ええじゃないか」に結実して終わったわけではなかった。明治になってもその名ごりがみられた。明治22(1889)年に神宮では式年遷宮が行なわれた。翌23年は文政の「おかげ参り」から61年目だというので、伊勢の神宮教院は神風講社大参宮会を組織し、期間も一月から六月までとし、会員からは大々神楽その他の費用として三〇銭をとり会員票を交付した(『大神宮史要』)。


-23年の「おかげ参り」は江戸時代に慣例となっていた施行などはなかったから、施行をあてにした者にとっては予想外のことであった。
 この23年の「おかげ参り」は例年より多少多くの人々を伊勢路にあつめたが、かつてのようなにぎわいはみられなかった。大量群参としての「おかげ参り」はやはり文政13年をもって終わったといえよう。

第六章

「世直し」か「世直り」か


 「ええじゃないか」が発生・展開した慶応3年は、遡この年の10月に徳川幕府最後の将軍慶喜が大政を朝廷に奉還せざるを得なかった幕府最後の年であった。社会的には天明以来の飢饉があいつぎ、そのうえ、開国の結果として国内の伝統的な産業は大きな打撃を受け、米価を中心とする物価の上昇は著しいものがあり、民衆の生活は極度に苦しかった。この状況を民衆がどのように感じていたかは、前年の慶応2年には百姓一揆(72件)・打ちこわし(28件)が江戸時代を通じて最も激化し、大坂での打ちこわしに参加した民衆が尋問に答えて、打ちこわしの元凶は当御城内にありと叫んだという一事に明らかであろう。また当時流行した、ちょぼくれ節や数え唄の類からは、民衆の政治担当者である幕府や武士を全く不信の気持でみていたことがはっきりとうかがえる。


 畿内では第五章でみたように、文政12年のおかげ踊りの流行以来、天保年間の京都での豊年踊りをはじめ部分的・地域的に断続的な踊りの流行がみられた。畿内で「ええじゃないか」をおかげ踊りとよんでいることが多いことからも、「ええじゃないか」の盛行はそれまでの地域的・部分的な踊りが拡大、かつ大流行したものといえる。畿内以外の地での慶応以前の断続的な流行現象としては、天明年間葛飾あたりから江戸にひろまったおたすけ踊りはその一例であろう。また川路聖謹の『東洋金鴻』にみえる石塔洗いなどの流行も踊りとはちがうが、物価上昇、飢饉などに苦しんでいた民衆の不安な状態を語るものであり、民衆のおかれていた条件は基本的に変わらぬものであった。


 全般的な物価の上昇ではあったが、慶応3年は『感興漫筆』に、
  去年の飢饉に比すれば、当秋豊熟にして人心も穏になり
 とあるように、不安な状況のどん底に豊年ということで一筋の光がさしこんだ。豊年は米価に影響する。民衆はそこに希望を求めようとした。この小康状態を持続させ、さらに一挙によくなってほしいという願望が「近来の不景気時節直し」(『五十年の夢』)ということで、人々を踊りのうちにのめりこませていったのが、慶応3年における民衆の共通した感情であった。-


 しかし、こうした事実からある特定の政治的意図をもった人々の活動だけによって民衆が「ええじゃないか」の乱舞のうちにのめりこんでいったと結論づけるのは、甚だ危険であり、かつ民衆を軽視するものであろう。民衆はいつの時代でも決してひとにぎりの政治上の指導者の意志だけで行動するものではない。「ええじゃないか」発生の条件は、決してひとにぎりの煽動者による作為によるものではなかった。どんなものでも、燃えあがる状態になくては、いくら火をつけても大きく燃えあがるものではない。政治的意図をもった大部分の煽動者の行為は、民衆が「ええじゃないか」にふみきる発火点の役割を果たしたかもしれないが、これを「ええじゃないか」として、一つの社会的なひろがりをもった民衆運動にまで燃えあがらせたのは、なんといっても民衆自体であった。『丁卯雑拾録』の江戸からの書状に、横浜での降札を述べたあと、


此様子二而ハ当地江もふる御札の有らんと諸人相待申候、天降始り江戸中うかれ出し候ハヽ
賊乱も自然と相納世直し踊ニ而も相始り候ハヽ面白からんと今カラ楽しミ罷在候


 と、江戸での降札を期待していると記しているが、こうした近辺での降札、以後の踊り開始の情報は各地にもたらされ、期待のうちに開始される。このような降札を期待する民衆の気持は各地の史料に認められ、そこに民衆自体の自発的なものがうかがわれる。火をつけさえすれば、大きく燃えあがる状態であったことを示している。


 次に「ええじゃないか」の形態である。第一・二章でみたように、まず神符類の降下がある。神符類は小祠に祀られ、その前での数日にわたる無礼講的な祝宴がある。参加者は変装・仮装することが多く、それは日常性の否定に連なるものであり、その要素は歌と踊りに強く示される。ことに歌には当時の民衆の意識をうかがうにたるさまざまなものがみられる。この歌と踊りを伴う無礼講的なオルギー状態も領主・村役人らの指導と命令により平静化し、再び日常性が復活してくる。全体として「ええじゃないか」における人々の状況は、このように総括しても誤りはないのだが、第二章にあげた各地の事例は必ずしもこの規定のうちに止まるものではなく、さらに合地域ごとの特色をもつのである。さらにこれ加えておくと、「ええじゃないか」にあっては、


 表面的にはともかく基本的には当然のことながら村落生活を背後にもつ秩序が存在していたことを確認しておくことは、「ええじゃないか」の評価にかかわるものとして重要である。
 村落秩序の影が色濃くみられるのは、文政13年の「おかげ参り」のおりに「おかげ踊り」を展開させ、以後においても小規模な地域をかぎって踊りが流行した畿内の場合である。
 この五条村では、「ええじゃないか」が村役人の許可と村中の協力、つまり村落の秩序のもとになされているのである。降下のあった場合、支配の役所に届けることはひろくみられた。


-アーネスト・サトウが大坂で実見した、燃えるようなまっ赤な着物で、踊りながらイイジャナイカの繰りかえしを叫んでいる人々(『一外交官のみた明治維新』)
 は、「踊り狂っ」てはいたが、その背後にはそろってまっかな着物を人力に着させた組織の存在があったのである。さらに名古屋で、祭礼のときに出た馬のとうがこのときにみられたりした例も、村や町の従来からの伝統的な組織がなくしては不可能なことであった。


 さて、以上のように各地の例をいくつか検討してみると、一般に乱舞・狂乱などの形容詞を冠して称せられることの多い「ええじゃないか」が案外にも、伝統的な村落なり町なりの組織や機構に依存している面の少なからず存在していることに気がつくのである。さらに「ええじゃないか」は、民衆運動の系譜のうちにも位置づけられるように、そこでの民衆はオルギー状態にあったと規定することができるが、その非日常的なオルギー状態にしても日常の生活組織や機構を全面的に否定し破壊するところに成立するのではなく、それは日常生活を基礎において、それとの対応においての非日常的なものなのである。-


 しかし、このようにいったからといって「ええじゃないか」にみられる民衆のオルギー状態の非日常的な行為を、すべて日常的なもののうちにひきもどすわけではない。男子の女装、性の解放を示す諸事実などは、疑いもなく非日常的な行為である。それは日常的なもの、別のいいかたをすれば生活の秩序が前提として存在していて、はじめて非日常的なものとしての性格をもつ。


 日常性に対して、「ええじゃないか」にみられる非日常的といういいかたをしたが、その非日常性とは毎年、村で繰り返される生活のリズムのうちにあって正月、盆、祭礼などのいわばハレの日の行動の拡大したものにほかならないのである。「ええじゃないか」のうちにみられる性をめぐる問題は、なにもここにはじめて登場するものではない。古く風土記のときの歌垣の例に遡るまでもなく、毎年の盆踊りや祭礼の晩にも規模のちがいこそあれ、みられたものであることは、民衆の生活に多少とも関心をもつものであればよく知っていることである。さらに百姓一揆や打ちこわしに関連し、「ええじゃないか」の評価のときに問題にされる無銭飲食の強請・強要にしてみても、祭礼の神輿の巡行に伴って、ままみられることであり、飲食だけではなく神輿があれば器物の破損の生ずることも決して稀なことではなかった。こうして村落生活のレベルでみるならば、「ええじゃないか」のうちにみられる民衆の非日常的な行為や要素は、「ええじゃないか」にかぎって、とくにあらわれたものでは決してなかった。だがこう考えたからといって「ええじゃないか」のうちに認められる諸要素を村落の年中行事のうちにみられるハレの日の行事や行為のうちにすべてを還元してしまうつもりはない。それは全く非歴史的なことである。ことにここにあって、慶応3年という幕府最後の年という特殊性を無視してしまうことは、誤りである。


開港以後の物価の上昇はつづき、民衆の生活は楽ではない。しかも、300年近くつづいた江戸幕府は第二次の長州征伐すら満足に実施しえない。薩・長を中心とするグループは、討幕にまでもちこみたいらしい。時代は大きく変化しようとしていることだけは、民衆は肌で感じていた。しかし、時代の変化は民衆とは全く無関係のうちに着々と進行している。新しい政治が楽な生活を保証するとはかぎらない。自分たちの生活にもっとも影響するであろうことが全く知らされずに進行していく。慶応3年という時点で、民衆が老若男女ともに「ええじゃないか」に熱中したのは、そうした民衆の不安が背後にあったからにほかならない。「ええじゃないか」には確かに討幕派の連中を含むある人為的な要因により発生した側面が大きいが、それはおそらく討幕派の予想した以上に拡大し、かつ永続し、12月9日の王政復古、天皇親政のもとの新政権誕生以後も、火をつけた連中の思惑以上の事態を生じたのは、ここにみたような民衆の時代と社会の動きに対していだいていた不安が爆発したためであった。


 さて、これまで慣例にしたがって「ええじゃないか」という言葉で呼んできた。事実、今日では一つの学術用語として「ええじゃないか」は定着しているといえる。しかし、第二章でみたように、当時の資料でこの運動全体を「ええじゃないか」として一括し記述したものは少ない。


-とにかく当時の民衆は踊りにさいして「ええじゃないか」という文句をうたったが、それを全体の名称とはせず、おもにかつての文政の「おかげ踊り」の名称をもって呼び、かつ意識していたことは確かである。われわれはややともすると「ええじゃないか」のもつ投げやりな語感、意味合いに意識的あるいは無意識的にひきこまれて、その線に沿ってこの運動を理解し、かつ評価しがちである。確かに当時の民衆がこの時に「ええじゃないか」を大声で唱和したことの背後には、民衆のおかれたなんともしがたいそうして投げやりな雰囲気があった。しかし、それがすべてであれば、このような名称のあらわれ方はせず、もう少し「ええじゃないか」の名称が多くともよいはずである。この点は民衆の意識にかかわってくることである。


 民衆は「ええじゃないか」に、なにを求めたのだろうか。彼らの行動のうちにそれをさぐらなくてはならない。その行動にみられる民衆の意識は複雑でとらえがたいが、さいわいにして「ええじゃないか」で民衆の唱和した歌がある。その歌詞をよりどころにして、民衆の意識のうちにさぐりを入れてみようと思う。-


 このように「ええじゃないか」にみられる民衆の意識には、その基底に弥勒仏を世直し神として観念するもの、さらに空よりの降下物を神聖視する観念などの民衆の聞に潜在していたものがあった。それに慶応3年という政治的にも社会的にも不安な状況のうちで、米価の下落、豊年の到来という契機から、世直りへの期待が民衆のエネルギーをこめて爆発したことは、
  再びこの世に生まれても、またふる年は豊年だ オカゲサマ
 という数え唄に、よく示されているといえよう。ただ、「ええじゃないか」で、民衆の待ち望んだ世直り、弥勒の世は到来したのだろうか。「ええじゃないか」についやされた民衆のエネルギーは、民衆になにをもたらしたのだろうか。その答えは、民衆が「ええじゃないか」にこめた世直りとはほど遠い、明治国家の成立であった。それは世直りを期待し、自らの手による世直しをたたかいとることのできなかった民衆への、当然の答えでもあったといえよう。


 「ええじゃないか」に結集されたかにみえる日本の民衆運動の流れは、明治以降どうなったのであろうか。問題は近代日本全体にかかわることであり、かつ今日のわれわれの行動に関係することである。今後を期したいと思うが、この流れが決して消え去ったものではなかったことを示す資料をあげておこう。大正4年、京都で柳田国男の見聞したところである。


大正4年の御大典のさい京都に大礼事務官として赴いた折に、やヽ小型の「ええじゃない」か踊りが 市内に始まったことがあった。当時の警察部長で淡路出身の永田青嵐もその警備のため市内にお忍び姿で出たのだが、私が彼の肩をいからせた姿を認めたと同時に踊ってゐる群衆も彼を認め「部長さんもええじゃないか」と歌の文句が変ったので思はず苦笑した。(『故郷七十年』)


 あまり具体的ではないが、民衆の間に「ええじゃないか」が一つの難し言葉として定着していたこと、しかもの警察部長という為政者側の最先端にある者をも「部長さんもええぢゃないか」の難し言葉で包みこみ、自分たちのうちに引き込んでしまっているのは、やはり幕末の「ええじゃないか」の伝統が民衆の間に深く生きつづけていたことを語るものであろう。

付表

あとがき



 フランスの美術史家アンリ・フォションは「歴史上のひとつの時期というものは、たとえ短くとも、数多くの段階、いわば多くの成層をその中に含んでいるものである。歴史はヘーゲル流の生成ではない。歴史は同じ速さで同じ方向へ、事件やその残骸を運び去ってゆくひと条の河のようなものではない。われわれが本来歴史と名付けているところのものを形づくっているのは、まさに種々雑多で不規則な流れそのものなのである。われわれはむしろさまざまな方向に走り、時には断層によってとぎれている地層、同一の場所、同一の時点で、その地点が経てきたさまざまな時代を把握することができるような、そして流れ去った時代のどの部分も同時に過去であり、現在であり未来であるような地層の重なりを考えて見た方がよかろう。」(『至福千年』神沢栄三訳)と、歴史の成層的分析の視点について記している。「ええじゃないか」という歴史事象を、ただその発生・展開した時点に限定して理解するだけでなく、フォションの言う成層的分析の立場からみようと試みたのが本書である。副題を「民衆運動の系譜」としたのも、そうした意図に他ならない。ただ、私の意図がどの程度実現しえたか、甚だ心もとない。今後さらに問題を深めたいと思っている。



 本書の主題である「ええじゃないか」にはかなり前から関心はあったが、それは伊勢信仰の一端としてのものであった。より直接的には、まず先年、勤務先でいわゆる学園紛争を体験したことが大きい。二ヵ月余りの非日常的な人友の動き、異常な状況下におけるある種の解放感の存在といったものは、ハレとケあるいはアノミーといったことを考えさせ、「ええじゃないか」とのアナロジーを感じさせた。またそれと前後して藤谷俊雄氏の本が出版された。一読し教えられることが多かったが、そこでの「ええじゃないか」の歴史像と評価は、私の考えていたものとはかなり違っていたし、各地で地道に進められている地方史研究の成果が、全く無視されたかのように取上げられていないこともうなづけなかった。これらのことでこれまで蒐めた関係史料を検討している時に、立教大学に進んだ後藤芳子さんが林英夫教授の指導で卒業論文に、「ええじゃないか」を扱いたいと話しに来られた。その時、各市町村史にみえる史料をみたらどうか、ということを話した覚えがある。後藤さんは精力的に仕事をすすめ、立派な卒業論文を完成された。後藤さんの蒐められた史料には未見のものも多く、それにより再考する機会をあたえられた。



 こうした時に新人物往来社の内川千裕氏から依頼をうけた。もともと私は中世の神社史、ことに伊勢神宮について調べてきたので、「ええじゃないか」の展開した幕末についての知見は少なかったし、やたらとむずかしい学術用語が用いられる幕末を扱った論文とは縁があまりなかった。本来ならばこの話しを断わるべきであったのかもしれない。しかし、前に述べたようないくつかの事情と「ええじゃないか」に古代以来の日本の民衆の動きをみるというフォションの成層的分析の方法を適用することで幕末を専攻していない私なりの「ええじゃないか」像を示し、また知られていない各地の史料を学界の共通財産にすることができるかもしれないと考え、この執筆依頼を承諾した。しかし、意図のようには筆はなかなか進まない。史料も同質のものが多く、民衆の生活の内面にまで立入ったものがないという欠陥をもっていた。その上、私の怠惰もあって約束の期限に大幅に遅れ、また出版社の考えていたであろう内容よりも数等堅苦しいものになってしまった。この点、内川及び宮本久の両編集者に申し訳なく感じている次第である。

 本書がなるについては多くの方たの御厚意があった。神宮文庫、内閣文庫、明治大学刑事博物館、藤沢市史編纂室、徳島県立図書館では所蔵史料について便宜をいただいた。乾宏巳、市原輝士、大浜徹也、小谷俊彦、葛谷利春、児玉幸多、後藤芳子、圭室文雄、芳賀登、林英夫、萩原龍夫、古川真澄、宮田登、山田英雄の各氏からは史料の教示をえた。また相蘇一弘、岩井宏実、島田善博、牧村史陽、藤谷俊雄、藪重孝の各氏からはその論考から多くの学恩をうけた。なお、巻頭の口絵については前にあげた方々の他、反町茂雄氏はじめ所蔵者各位の御厚意により掲載することができた。なかには学界に未紹介のものも含まれている。さきにフォションにならい成層的分析といったが、歴史にたいするこうした見方への目をひらくことになった和歌森太郎、萩原龍夫、桜井徳太郎の三先生の学恩も忘れられない。また所収の史料を利用させていただいた各地の市町村史の編纂に従事された方々の地道な研究に深く感謝したいと思う。そうした研究がなかったら、恐らく私が本書をなすことはなかったであろうし、もし書いたとしてもその内容は空虚なものに加っていただろう。さらに教室で接している生徒諸君との交流が、どれほど本書をなすにあたって大きな支えになっていたかはかりしれないことも記しておきたい。1973年4月 以上全文引用


それから江戸時代の農民たちの霊場の廻国が生活苦から行われたケースに言及し、それは野垂れ死にを覚悟のことだったと作田は書いていた。四国88か所霊場巡りもそういう側面を持っていたし・・・・・。これらの話題は『世事見聞録』から引用されたことのようだが、おそらく作田自身も幼少期に沼隈郡藤江で見聞したことがあり思い当たるところがあったのだろう(『徳川権力史論』230-252頁)。

作田高太郎の著書で幼少期の思い出として語られた事項を神話学・民俗学的な側面から眺めてみることも必要となろう。例えば、神話上の事柄だと断りつつ「日本と朝鮮との貿易」に言及している。沼隈郡の臨海部に伝わるこの種の伝承は例えば草戸千軒での出土物などから類推して中世日明(高麗・李氏朝鮮を含む)貿易に従事していた祖先たちからの伝承だろうと思う。

田村貞雄編著 「ええじゃないか」の伝播、岩田書院、2010が最近の中部・近畿地方における幕末期の「ええじゃないか」研究の動向に言及。この中では広島市史からの事例は抑えられているが、尾道の一件は抜けている。「ええじゃないか」踊りという祭礼形式の民衆のストレス発散行動の論理化をヒロタマサキが試みている点が注目されるが、やはり不十分だ。



コメント

「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」に見る明治16年 江戸から東京西片町 

2018年01月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
江戸から明治へ
「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」に所収の36枚の地図を入手したが、これがこれはなのだ。
とりあえず、一枚の図面がA3サイズより小さい、連接する図面とのつながりが微妙に出来ない。ここでは力業でデジタル的合成してみた。いろいろ調整したがこれが限度。

よく見ると差し替え必要なくらいのズレあり

A地点(旧阿部邸)の一角には現在誠之舎がある。むかしは福山市の東京事務所がここにあって昭和40年代後半期にはたしか宿泊費がユースホステル並みだった。参考リンク
『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』(1912年刊)618コマ目/全647コマに「駒込西片町

作田高太郎『日本権力史論』(363-366頁)理解に必要な徳川家香華寺:増上寺の明治16年地域情報


「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」の復刻版(昭和59)は価格相応というかないよりましといった地図資料だった。
コメント

諌山里:備後国沼隈郡諫山郷or備後国御調郡諫山里

2018年01月17日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


諌山(いさやま)郷という沼隈郡の郷名を見たことがあるが、これがなんと備後国御調郡内には郷名は判らないが御調郡諌山里というのがあったようだ。
神石郡小畑あたりは志摩利or 志摩里だが、庄号で志摩里(利)庄。もしかすると志摩郷⇔志摩里?  この志摩利は『西備名区』の制作者馬屋原重帯のご先祖(城主)がいたところだと主張した場所。 
[勇山氏は山部の一種である膽狭山部・ 不知山(いさやま)部の後裔]らしいのだが、木簡に記載された不知山(いさやま)里は表記が異なるので備後国沼隈郡諫山(いさやま)郷のものでも備後国御調郡諌山里)のものでもなく、その他の地域のものだったのかもしれないが・・・・



調鉄、庸鉄というのもあったが沼隈郡では租庸調の調分としての「調鉄」だったようだ。



備後国沼隈郡赤坂郷中男黒葛十斤・□〔備ヵ〕〈〉□〔葛ヵ〕

その他
(大和国添上郡春日郷)・(美濃国池田郡春日郷)・(尾張国春部郡)・(丹波国氷上郡春部 郷)・(備後国沼隈郡春部郷)・(備後国恵蘇郡春部郷)

コメント