- 松永史談会 -

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2024年12月31日 | 「okey dokey(オキドキ)」へのgate
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菅茶山のお墓参りを兼ねて、神辺へ

2024年12月14日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


天別豊姫(あまわけとよひめ)神社(菅茶山はこの海の神は穴の海と関係があると・・・菅茶山の「穴海経」の聖地、広島県福山市神辺町大字川北142-2・・・菅茶山らが制作した嘘情報:天別豊姫神社)、茶山は地元では饅頭(旧廉塾の東隣に慶応元年創業の「茶山饅頭本舗」)の名前になるくらいの有名人で、同時に地元神道家の役目も担っていた。お陰でいろんな僻説を地元に振り撒いてきた。小丘・碇山(いかりやま)を中国華南の大山名から借りて「猫児山(ねこじやま/ねこやま?・・びょうじさん→確認中)」とするなどこういう趣味は「遺芳湾」の命名だけではなかった。


下の写真は碇山(いかりやま)観音・皇子神社@王子山、菅茶山の漢詩の中では「猫児(ねこじ)山」。風化花崗岩の小丘。井上という苗字が目立った。川南地区。イカリ山山麓の民家(1.5~2.0㍍ほど水田面より高く浸水被害を受けない)


菅茶山の「廉塾」跡。茶山屋敷前の山陽道筋。現在家屋の工事中。楠木の巨樹の背後は高屋川堤防(高屋川堤防側から見た工事中の旧廉塾)。


菅茶山一家の墓地(ちょっと荒廃感‥県史跡なのでうっかり手が出せないか・・・北条霞亭夫人・敬の墓、土葬のため墓石は傾く)、建屋の中に置かれているために明治13年没の人の墓石(シンさん、菅普賢夫人)がピカピカで驚いた。すっかり紅葉。茶山の墓誌は頼杏坪撰文。埋葬形式は頼春水墓と同じ
儒者墓についての研究論文:吾妻重二「日本における『家礼』式儒墓について : 東アジア文化交渉の視点から(一)」、関西大学東西学術研究所紀要 53 3-39, 2020-04-01、関西大学東西学術研究所→「儒葬とは朱子の『家礼』に基づいた葬礼」:大塚先儒墓所

 菅茶山一家の墓地の下の段には土塀で囲まれた立派な裁判官菅波鶴雄家墓地(1957年)。落ち葉で埋め尽くされていた。
松浦さんの庭先に茶山の漢詩碑「五月の農事はたいへん忙しい。大麦を収穫したかと思うとすぐに田植えが始まる。一夜園林を雨が洗うと、猫児山のまわりの田は水を張り空を写している。」 元藤沼では菅茶山の時代には二毛作してたようだ。特段水防対策など住居にも田畑にも見かけなかった。菅茶山屋敷の前庭の一角にある湧水池も時々水が枯れるらしい。菅茶山は元藤沼の梅雨時の大雨で海のようになると書いていたが、これは宮原直倁同様の指摘で、当時は今日とは事情が異なっていたのか
千田村辺りは芦田川の増水時には冠水したようだが、宮原直倁によるとここは丈の低い越流堤が建造されており明らかに福山城下を洪水から守るために遊水地として機能させられた場所だった。そういう類のことを藩主水野氏時代以後の藩は色々と治水工事の中で行っていたはずだ(普請関係の史料で要確認)。

説明員さんから頂いたパンフレット表側//裏側
神辺本陣跡(旧廉塾から500m西)


6㌔徒歩。3時間。電車での往復に3時間。
本陣の立地する旧山陽道の街並みはこんな感じ。旧山陽道の200m北側には高屋川。

この辺りの山陽道は高屋川沿いにあるため時折冠水したのか道路面より2尺ほど宅地を嵩上げした民家も散見されたが、ここではこういう方がむしろ例外的。
神辺小学校・中国銀行神辺支店近くの旧山陽道沿いの旧家の嵩上げ状態(土蔵の石垣高115㌢)
本日のフィールドワークの目的はこちら背後の山が片山(いわゆる片山病\日本住血吸虫病の片山)、手前の叢林が碇(菅茶山命名の猫児山)山/猫児山/王子山を訪れる事だった。かつて菅茶山が主張した「穴海」のあった一帯だ。

菅茶山が指摘の元藤沼(上図中のWet land部分)は福山城下を洪水から守る遊水地としての機能を果たした。藤井好直『片山記』1847は片山一帯の低湿地で増殖した淡水性巻き貝起因の風土病(片山病)をルポしたもの。彼の云う「海」は穴の海を念頭においたものだが、ただしくは一帯に形成されていた湧水池(低湿地)に片山貝が繁殖。
高屋川左岸堤防沿いを歩きながら見つけた巨木(早田荒神の椋木)とひときわ目立つ蛇円山、山頂付近の雨乞い用の高龗社立地
水害対策例

元藤沼と呼ばれた菅茶山主張の古代「穴の海」の一帯には身を守るための建築構造物類
水屋・水塚(木曽三川、庄内川、荒川、利根川)
段蔵(淀川)
城構えの家(吉野川)
石囲いの家(吉野川)
畳堤(揖保川)
助命壇(木曽三川)
舟形屋敷(大井川)
サブタ(大野川)
助磊(江の川)
一文上がり(斐伊川)
の類はなし。
比治山にある頼家墓地
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