- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

西川芳渓(西川國臣の長男)の著書:「少年少女お伽花たば」明治45

2017年09月20日 | 断想および雑談
西川芳渓(一郎、1883-1925)、28歳時の作品だ。新聞記者・ジャーナリスト兼業で宮沢賢治のように童話作品を書いていたのだろうか。明治17年生まれだから丸山鶴吉の年子の弟:憲吉と同級生のはずだが当時親父の西川國臣(1858-1939)が校長をしていた松永高等小学校には進学しなかったようだ。國臣は極めつけの教育パパだったが・・・
長男一郎は明治31年に小学校を卒業し、大坂の書肆宝文館に奉公に出され、独学で文筆家としての腕を磨こうとしたが、3年後の明治34年には辛抱できなかったのか早くも帰省。『松永町誌』には80歳で亡くなった國臣の奥さんは身寄りのない家の娘で、何時のころからか松永高女の隣なので文具屋を始めたと。結局家は長男一郎ではなく4男正名が継いだらしい。一郎は岩谷小波との文通をしながら郷里へ帰り地方新聞の記者(明治44年に現在の中国新聞の編集長)の道に進む。地方文壇などでは有名だったらしく菅原守編『備後向島岩子島史』昭和13年、420頁には向島・古江浜の和泉式部手植松を詠んだ和歌「来てみれば千蔵古江の下り松、株一つだになきぞかなしき」を紹介している。
西川芳渓の婚礼写真






序文に岩谷小波・荒川五郎。西川は終生岩谷小波の影響下にあったようだ。
タイトル:少年少女お伽花たば
著者:西川芳渓 著
出版者:誠文館
出版年月日:明45.2



國臣さんの長男:一郎(芳渓)さんはこの婚礼写真の花婿さんでした。嫁さんはシゲノ屋河本英三郎の娘。


ここで紹介した西川の童話集。夏井いつき先生流に評価すれば才能あり、それとも・・・・・
児童教育運動に関わり、晩年は広島県内で児童の自由画・児童劇の奨励などに県下を奔走したジャーナリストだった(『松永町誌』、448-449頁)。

昨夜、西川家のご当主(4男正名の子孫,昭和4年生まれ)に電話したが國臣の俳句類は誠之館高校の同窓会組織に寄贈したとか。昔のものは今は何も残っていないとのことだった。
コメント