ここのとこしばらく尾道調査を行った。そのなかのチェック項目の一つが明治24年頃尾道で漢学塾:瓊浦(けいほ)学館を開いた片山辰之助の消息確認。だが残念ながら失敗に終わった。松永在住の片山さん(むかし養魚場経営)には予てより「片山虎之助」(間違って幾度となく辰之助とすべきところを国会議員片山虎之助と混同)さんのことを息子で画家だった片山牧羊の名前を挙げて問い合わせてきたが自分の一族内ではその心当たりがないということだった。
ところでその片山辰之助だが旧福山藩学生会の草創期の会員で誠之舎の入寮していた確か松永村出身の御仁だ。学生会発足時には入寮生をを代表して演説していたから、当時はリーダー的存在(旧福山藩学生会雑誌3号)だったのだろ。人物評では高島平三郎は「文学家」、片山は「滑稽家」、井上角五郎は「能弁家」、平沢道次は「熱心家」だったようだ。
片山『広島県新地誌』訂正再版(2020年10月13日大阪の古書店にて入手)
中身は高等小学校1年の郷土地理の教科書を念頭に編集されたもののようだが、県内の山川、名物・名勝名所などを特集した名勝図誌風の旧態依然。明治23年2月現在の片山の住所は御調郡尾道町1850番地(奥書にあるのは寄留先として東京市本郷区西片町10番地=旧福山藩邸内)、出版人の三木半兵衛(三木文明堂):尾道町311番地。
明治24年に帰省し、尾道で私塾「瓊浦(けいほ)学館」を始めたようだ。漢詩が得意だった。辰之助の息子に片山牧羊(夫人は松永町出身)という日本画家がいた。片山芳湾が片山辰之助の号。参考までに遺芳湾(松永湾の雅号)の遺芳は丸山鶴吉の号。芳湾は遺芳湾に由来する名称だろうから、こんな愛郷心あふれた号を付けたくらいだから、おそらく松永村出身者だろう(要確認)。参考までに芳渓は西川国臣の長男一郎(ジャーナリストで児童文学作家)の号。
高島蜻蛉は高島平三郎のこと。
片山が行った明治23年の誠之舎生総代祝詞原稿(旧福山藩学生会雑誌3号)・・・・一昔前の漢文調
武勇節操が弛緩気味なことを憂慮し、小田勝太郎・高島平三郎・川崎寿太郎・川崎虎之進らは誠之舎修武場で演武会開催を企画という記事。明治24年に高島を頼って上京した河本亀之助、二番目のバイトが川崎虎之進の書生だった。かなりプライドを傷つけられた感じで長続きはしなかったようだ。このバイトは高島の紹介であったことはもはや説明を要すまい。
何年か前に尾道山路家が中央図書館に寄託した史料類の中に明治期の漢詩愛好家の薄っぺらな回覧ノート風の綴じ本(蒸芋会 『五句集』、鶉ノ巻)を見たことがある。走り書き風のもので、そのときは関心がそちらになく内容のチェックはしなかった。この中に片山芳湾の名前があったかなかったか・・・・・(2021年12月に確認したところ明治12年段階のもので、当然片山とは関係なかった。同人は石井竹雨・亀山則々・石屋町大石病院内の松本梧葉・藤本索残・辻本越水・平岡錦村・久米悟柳・岡田鱶州・村上百声・土居次郎ら)。
大正10年段階の片山辰之助の消息についてだが、なんど60才近い年齢だったと思われるが東京市麹町区5番町18在住で、日本国勢調査記念出版協会主事に収まっていた。
『広島県新地誌』を見るに付け、明治20年代段階に於いてさえ、漢詩漢文にご執心だった片山辰之助は時流を読み違え、先見の明には些か欠けるところがあったように思われるが、河本亀之助と同年代の向学心旺盛な向都離村型旧備後福山藩領民(青年)というカテゴリーの中には定位できるだろう。この人物については以上でリサーチ一時保留(or 終了)。
令和5年ペルー大使の片山和之の出自は福山市松永町の片山氏。
ところでその片山辰之助だが旧福山藩学生会の草創期の会員で誠之舎の入寮していた確か松永村出身の御仁だ。学生会発足時には入寮生をを代表して演説していたから、当時はリーダー的存在(旧福山藩学生会雑誌3号)だったのだろ。人物評では高島平三郎は「文学家」、片山は「滑稽家」、井上角五郎は「能弁家」、平沢道次は「熱心家」だったようだ。
片山『広島県新地誌』訂正再版(2020年10月13日大阪の古書店にて入手)
中身は高等小学校1年の郷土地理の教科書を念頭に編集されたもののようだが、県内の山川、名物・名勝名所などを特集した名勝図誌風の旧態依然。明治23年2月現在の片山の住所は御調郡尾道町1850番地(奥書にあるのは寄留先として東京市本郷区西片町10番地=旧福山藩邸内)、出版人の三木半兵衛(三木文明堂):尾道町311番地。
明治24年に帰省し、尾道で私塾「瓊浦(けいほ)学館」を始めたようだ。漢詩が得意だった。辰之助の息子に片山牧羊(夫人は松永町出身)という日本画家がいた。片山芳湾が片山辰之助の号。参考までに遺芳湾(松永湾の雅号)の遺芳は丸山鶴吉の号。芳湾は遺芳湾に由来する名称だろうから、こんな愛郷心あふれた号を付けたくらいだから、おそらく松永村出身者だろう(要確認)。参考までに芳渓は西川国臣の長男一郎(ジャーナリストで児童文学作家)の号。
高島蜻蛉は高島平三郎のこと。
片山が行った明治23年の誠之舎生総代祝詞原稿(旧福山藩学生会雑誌3号)・・・・一昔前の漢文調
武勇節操が弛緩気味なことを憂慮し、小田勝太郎・高島平三郎・川崎寿太郎・川崎虎之進らは誠之舎修武場で演武会開催を企画という記事。明治24年に高島を頼って上京した河本亀之助、二番目のバイトが川崎虎之進の書生だった。かなりプライドを傷つけられた感じで長続きはしなかったようだ。このバイトは高島の紹介であったことはもはや説明を要すまい。
何年か前に尾道山路家が中央図書館に寄託した史料類の中に明治期の漢詩愛好家の薄っぺらな回覧ノート風の綴じ本(蒸芋会 『五句集』、鶉ノ巻)を見たことがある。走り書き風のもので、そのときは関心がそちらになく内容のチェックはしなかった。この中に片山芳湾の名前があったかなかったか・・・・・(2021年12月に確認したところ明治12年段階のもので、当然片山とは関係なかった。同人は石井竹雨・亀山則々・石屋町大石病院内の松本梧葉・藤本索残・辻本越水・平岡錦村・久米悟柳・岡田鱶州・村上百声・土居次郎ら)。
大正10年段階の片山辰之助の消息についてだが、なんど60才近い年齢だったと思われるが東京市麹町区5番町18在住で、日本国勢調査記念出版協会主事に収まっていた。
『広島県新地誌』を見るに付け、明治20年代段階に於いてさえ、漢詩漢文にご執心だった片山辰之助は時流を読み違え、先見の明には些か欠けるところがあったように思われるが、河本亀之助と同年代の向学心旺盛な向都離村型旧備後福山藩領民(青年)というカテゴリーの中には定位できるだろう。この人物については以上でリサーチ一時保留(or 終了)。
令和5年ペルー大使の片山和之の出自は福山市松永町の片山氏。