- 松永史談会 -

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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2021年05月19日 | repostシリーズ
永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは房州某発の情報だったか。あるいは鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に救貧施設「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを墓地のある台東区瑞輪寺あたりが把握しているかも(娘カネ及びその婿鶴林の子孫:令和元年10月6日没の曾孫東京都江東区の大沼千早さん)。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊

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