- 松永史談会 -

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山路熊太郎:山路機谷のもう一つの顔

2017年08月10日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
矢野天哉には山路熊太郎に関する小論考がある。山路は郷土の偉人として形象化され、昭和10年ごろは官位追贈運動さかんな時代だった。郷土史家矢野天哉の素晴らしいところは山路機谷一人の功績としてされた部分には親の代に行われたもの含まれているとその間違いを指摘し山路機谷神話の問題点に対して一石を投じた点だ。


古書店で見つけた「某大学図書館廃棄本」の中に中山富広「近世の経済発展と地方社会-芸備の都市と農村-」、清文堂、2005,380頁という書籍があった。ずいぶん前に郷土史関係の参考書として土井作治「幕藩制国家の展開」、渓水社、1985と共に購入していたものだ。
昨日それを見ていて面白い記事を見つけた。それは山路熊太郎の商魂の逞しさを伝えるエピソードを記した次のような文章だ。


現在の呉市域の「広」というところの新田開発に芸備地方の富豪たちが群がり、不在地主制のネットを張っていった中に、尾道在住の備前屋林蔵名義の土地が幕末期にはなんと20町歩もあったという。地方(じかた)史料(@浦)によると備前屋林蔵は名義上そうなっているだけで、実際の持ち主は備後国沼隈郡の山路熊太郎だと山路の抜け目のないやり口(大手遊郭経営への進出)を記録しているようなのだ(後日確認予定///確認済み)。こうしたことは中山さんが指摘するほど大問題なのかな?!参考までに芸州領への進出に関しては池田春美編『山路機谷先生伝』、70-71頁にも言及あり。

中山富広さんが紹介している話はこうだ。


山路の親戚の備前屋(広島藩領内の尾道、尾道の代表的な娼家と言えば新地や新開を拠点とした、この備前屋・明里屋・枡平楼・・『尾道市史』中巻、548㌻)が絶家没落状態にあったので、広島藩領安芸・高田郡・高田屋祐四郎の子を熊太郎の養子にして、備前屋の跡継ぎに据え、尾道会所に備前屋再興を申し出た。これを知った「広」在住の宇都宮某は以前経験した備前屋との金銭問題でのこじれから、備前屋を背後で操っていた山路家に対して不満を持っていたらしく、こうした山路のやり口は広島藩領での経済取引(反則行為)を支障なく行うための布石にしか過ぎないとの不信感を口にしていたらしい。山路の金銭的な野心は土地取得だけに留まらず、備前屋の名跡を使って「広」の某酒造メーカーを買収し、地元の住民:麻吉にその経営を任せていたことからも明白なのだと。

山路は「心如水(こころは水のごとし)」という言葉を好み、とても質素でそこらの農夫のような感じで農作業を楽しむ人だったとされている。しかし、バリバリのやり手事業家といえば聞こえはよいが、ときおり他者から失笑を買うような、普通に欲深で、自己顕示欲旺盛な別の顔も持ちあわせていたようだ。
安政3年に山路機谷編『未開牡丹詩』(頼三樹三郎・森田節斎ら幕府から思想犯・政治犯としてにらまれている人物らの漢詩も掲載)の序文の中で江木鰐水曰く「器機を製造して、以て戦備を成す。是 之を養うの術なり。機谷 此の集を梓するの寓意此に在るか。若(も)し果然(かぜん)ならば 何ぞ更に金を献じ、艦を造り砲を鋳して 以て海防の佐(たすけ)とせざらんや。」と、皮肉交じり。

「余曰く機谷の風流 猶ほ故あるか、余則ち暇あらざるなり」・・・・江木の目から見るとこんな国難に直面している時期に、「宇宙第一の花を詠い、雅筵(がえん)を日東第一の楼に開くは、分けて甚(はなはだ) 快に過ぐるなり」と言い放ってご満悦の機谷に対して何をノー天気なことをという思いが強かっただろうが、当初はしぶっていた江木だったが山路の催促を最終的には断りきれなかったようだ。
すなわち、江木は機谷を評して曰く「官の事有る毎に金を献じ、費(ついえ)を佐(たす)くるの志は国の為に在り」と。

富豪山路家としても持ちつ持たれつの関係を構築していた福山藩からの度重なる献金要請(or山路家としても藩側からの献金要請に対して 御国恩)に答えるためにはお金儲けに関してなりふりには構っておれなかったというところがあったのか、否か・・・
福山藩側からの無心については池田『山路機谷先生伝』70-71頁参照。

郷土では偉人として尊敬されてきた山路だが、やはり熊太郎と機谷という表の顔と裏の顔とをうまく使い分けていたというべきだろう。
今津宿の西のはずれにある陰陽石大明神境内が右衛門七:山路熊太郎家のものであることを最近突き止めたが、人を使って信仰とビジネスとをうまく結びつけた、その抜け目なさ、いや何もない宿駅にホットスポット(名所)を新造して魅力ある町づくりに貢献したその着想力にはある種感服させられたものだ。ここは江戸時代のいつの頃からか諸侯が通過するときには参拝するのが通例となっていた(福山学生会雑誌記事)。

ご神体の「陰陽石」、大正期にはこの井戸水が御霊水とされた・・・他愛もない「陰陽石」・「御霊水」話ではある。ちなみに境内地の所有権は山路氏没落後、大久保平櫛(又四郎)氏に譲渡されている。

わたしの山路関連の記事

〇『未開牡丹詩』編纂から判ることは幕末期の沼隈郡内の豪農層の思想傾向は薩長において典型的だった「武芸稽古」型ではなく、それとは対極にある「詩文書画」型だったことを示唆する。
柴田一「播磨における尊皇思想家の存在形態」、有元編『近世瀬戸内農村の研究』、渓水社、1988、475-495頁
は「詩文書画」型の典型として河野鉄兜を取り上げている。河野は討幕派(武闘派)からみれば裏切り者視されたようで、尊皇(攘夷ー開国)、尊皇討幕➡大政奉還での路線面で「詩文書画」派の連中は武闘を回避する方向で傍観者を決め込んでいったか(。柴田一自身は河野鉄兜の尊攘激派から決別した大政奉還論者であった側面に注目)。なお、森田節斎も天誅組に加担した自分の弟子を跳ね上がりもの視していたようだ。『節齊遺稿上』中の上中川親王あての一文の中で森田は刀剣殉国ではなく文筆殉国を推奨するなど勤王志士との路線の違いは明白だった。



山路機谷の遺著(実質的には森田節斎の著書か?全26巻)書籍はこんな感じ
何種類か見かけたが、このような学習書や教養書(寄贈物リスト中〇印のないものは尾道市立中央図書館蔵外)だった白雪楼版の印刷物表紙はこんな感じ。白雪楼版は数点見たが、論語に関するもの、文字・作文に関するものいずれをとっても初学者向け教科書(往来物)限定。
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