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   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

松永史談会11月例会のご案内

2024年10月28日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会11月例会のご案内

開催日時 11月29日 午前10-12時
場所    蔵
話題  備中国の国司/備中介だった、延喜期の代表的学者官僚三善清行(842-918)『善家秘記』中の例えば(A)「(買官によって備前小目/しょうさかん=備前国司の下級官吏となっていた)良藤の話」とそれを説話文学化した『今昔物語集』巻16の第17話(B)「備中國賀陽良藤、為狐夫得観音助語」)等を手掛かりにPolitics-Poetics(文化政治論:「元禄赤穂事件」⇔文化詩論:人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』と)の両面及び「三善清行意見封事十二箇条」/『結眼文』/『藤原保則伝』より三善清行(平安中期の漢学者/日本人)の思惟の在り方を探る。

これまでの研究では大曾根章介が(A)/(B)に関してはA=歴史性(記録性)、B=(勧懲教訓の色彩の強い)文芸性という機軸(次元)の中でテクスト解釈してきた(大曾根章介❾、1974)。
これまで松永史談会で言及してきた備中平野の主な史跡↓ 備中国府は893-897年三善清行(御年47-51歳)がそこのトップ(=官長、肩書きは備中介)として勤務したところ。
平安期には「おこ絵」(平安時代以降盛んに行われた滑稽味のある題材を風刺的に描いた戯画→『鳥獣戯画』など)やヲコ(嗚滸=滑稽,馬鹿)表現を動員して人を笑わせ楽しませる文学(柳田国男のいう「嗚滸の文学」、ex.『今昔物語集』)が流行。川口久雄の表現を借りると『将門記』の登場に見られるように、これらの作品群の中からは、中国古典から受容した「古風な儒教主義のモラルにしばられた凝固した人間」やそうした枠内からはみ出すような自由な文学的感性への共鳴/共感が伺えるようだ。『藤原保則伝』では受領階級のこの人物の行政手腕[強権的な住民に過重な負担を強いるやり方:苛政を排して、仁政・義にかなった方策採用→「百姓和ぎ楽しべる(61頁)」形で民心掌握、東北地方の蝦夷反乱を鎮定するには硬軟両様の方法を駆使;「義方をもてし、示すに威信をもてして、わが徳音を幡し、(反乱軍側の)野心を変ぜば尺兵を用いずとも」66頁かれらの平定が可能。以後陸奥権守として民夷雑居を実現し、この地方を田地膏腴に、土産の生ずる、珍貨多端、68頁)なところにした]という形で高く評価。学者官僚三善清行の意識の根底には「官位の階段」という物差しが準備されていて、官人の業績はそれに報いる形でその階段の中で適正に処理されるべきだと考えていた。こういうところに三善清行における思惟の在り方の一端が顔を覗かせていた訳だ。


【引用参考文献】

矢作武「三善清行の方法 -藤原保則伝考-」、早稲田大学国文学研究巻 50, p. 50-57, 発行日 1973-06-01⇒大曽根章介氏(「街談巷説と才学」、『国文学-解釈と教材研究-』17 (11), 102-109頁、學燈社、1972)等と同様に日中比較文学研究の立場から我が国王朝前期漢文学作品の漢籍に典拠を持つ事例紹介。この種の研究は枚挙にいとまが無いようだが、例えば井黒佳穂子氏は前述の『善家秘記』や『今昔物語集』巻16の第17話(「備中國賀陽良藤、為狐夫得観音助語」)等も漢籍の影響を少なからず受けていると指摘(井黒「『日本霊異記』上巻第二縁と『任氏伝』」、専修国文 (76) 1-20頁、 2005年1月 )。
なお、矢作武「三善清行「詰眼文」考 (上/下)」上:国文学研究 44, p. 92-98, 1971-06-25、下:早稲田大学・国文学研究 45 18-24, 1971-10。
『詰眼文』(心と眼とが擬人化され,心の神と目の神とが問答する対話体の興味深い戯文、ここでは心の神が老衰して低下した視力の眼の神=処世術が劣り貧乏暮らしを強いられた学究型の人間/三善清行自身を詰める、ある程度自嘲じみた諧謔的小話。『本朝文粋』所収詩文自体にもそういう傾向が指摘されているが、本書所収の平安中期の代表的学者官僚の一人藤原明衡の文章などには長年の沈淪した境遇を嘆く暗い色調が強いとされる)の筆者名は善居逸(三善清行の筆名)。
❿延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書:三善清行意見封事十二箇条(所功『三善清行』、吉川弘文館、人物叢書、平成元年、41-70頁(第四 備中転出)・・「備中介としての経験を踏まえて、崩れつつある律令制の実態を述べ、主に地方政治と官人・学生処遇の改善を求めたが、もはや朝廷に国政改革の意志はなく、意見の大部分は採用されなかった」)→⑫所功『三善清行の遺文集成 』、2018、方丈堂出版(三善清行の略歴、及び所収された本文・訓読及び全体的な要旨)及び所功『三善清行』(155-186)頁が「三善清行意見封事十二箇条」の紹介/解説。後者については山岸徳平 [ほか] 校注『古代政治社會思想』、岩波、59-101頁(藤原保則伝/三善清行 [著] ;大曽根章介校注、及び意見十二箇条 / 三善清行 [著] ; 竹内理三校注)が便利。
川口久雄『三善清行の文学と意見封事』、金沢大学法文学部論集. 文学篇巻 5, p. 1-15, 発行日 1958-01-20。川口には大著『平安朝日本漢文学史の研究 上・中・下』三訂版、明治書院など。
平安期の漢文学研究者(大曾根章介・矢作武ら)や比較文学者(川口久雄ら)は『本朝文粋』所載の平安時代の漢文学作品の中にある種の剽窃(ひょうせつ=パクリ)ものを含めて、中国の古典の翻案もの(adapted novel)化した多数の事例を抽出。前掲『古代政治社会思想』中の大曾根章介分担分補注は同氏の最大の関心事であった類似表現の中国書からの発見作業結果中心。
以下、ネット上で「三善清行 論文」を検索し、ヒットした論攷類。
藤原時平の陰謀政治に加担し、菅原道真の左遷の口実を作ったとの説もある三善清行だが、三善清行研究者だった所功の菅原道真考
小林健彦「『今昔物語集』に見る霊鬼 ―学識と道理」、融合 (33) 21-28 2022年3月31日
菅近晋平「〈稲生物怪〉譚の受容と創造」(広島大学大学院二十七年度修士論文)の第一部第二章「〈稲生物怪〉譚の生成」論叢 国語教育学 12 号、2016-07-31 発行


森幸安『寛延3/1750年中古京師内外地図』(歴史考証図)中に記載された平安中期の三善清行邸第2箇所(五条堀川東入、五条天神西隣の「三善清行亭」&所功氏の考証による「岡崎の善法三昧院」)
神護寺領足守庄延寿寺(政所)
神護寺領足守庄延寿寺(政所)遺構‥発掘データは後掲C)「岡山県埋蔵文化財調査報告222、2009、9-46頁」

 なお、近世の国学と系譜的につながった明治の地理歴史研究さながらに読史地図作成を目標におき、口を開けば「自然と人間の関係」という時代遅れの自然主義的お題目を唱え続ける素朴な歴史地理学談義にならないよう心掛けたい。

説話の舞台となった備中国足守郷一帯の環境・歴史局面の参考資料;
A)平安末期(1169年)の京都神護寺領足守庄絵図(荘園発足時の古絵図)
〔裱背押紙〕
  嘉応元年十二月 日
       庄官
       田所
              (臣)
       案主散位賀陽朝□
       下司散位藤原朝臣
      国使
       田所橘朝臣(花押)
       案主散位弓削(花押)
             (朝臣)
       官人散位藤原□□(花押)
      御使
       左弁官史生紀(花押)

B) 足守庄(足守幼稚園)関連遺跡発掘調査報告,1994
C)足守庄関連(延寿寺跡・倉ヶ市遺跡・下土田遺跡)の文化財発掘調査報告2009
D)備中国賀陽郡服部郷における条里坪付(松永史談会作成図)
E)権勢を誇った賀陽吉藤一族の氏寺であったと思われる栢(かや)寺廃寺跡@総社市南溝手、古郡里にあったと推定されている賀夜郡家は吉藤の兄がそこの大領/役所のトップの座を占めていた。条里坪付状況から見た「服部郷図」中の「畠寺」と栢寺廃寺跡との位置関係(松永史談会作成図)
F) 高重進『古代・中世の耕地と集落』、大明堂、1975、213-249頁(初出「中世農村の復原-服部郷図による農業経営の分析-」史学研究73、1959に一部加筆し、「平野部『遺制郷』における中世村落の実態-備中国服部郷の場合-」と改題)・・・備中国服部郷研究の古典
G)前田徹「備中国賀夜郡服部郷の開発」、地方史研究281(49巻5号)、1999、71-90頁。備中国庁膝下での話題だが、前田論文の当否はここでは一端保留。とりあえず筆者指摘の郷図記載の名呼称が室町中期の在庁官人の「吉久」氏という苗字の形で確認できるという点、つまり苗字や小字としての福留・延広等が古代中世における仮名起源らしいということの具体的な手がかりが提示されたこの部分限定で参照(注29)。
H)十二ヶ郷用水の建設者としても地元民から崇められる『平家物語』登場の悲運な武将:妹尾兼康供養塔。ここより東方へ徒歩15-20分程度(1.5キロ)のところに位置する吉備中山の一角に大納言藤原成親(鹿ケ谷の謀議で有木別所に配流となった公卿、途中で暗殺され、そ)の供養塔がある
I)大阪適塾・緒方洪庵生誕地@足守藩士
ネット上にころがっている文献類
段煕麟 (タン・ヒリン)『渡来人の遺跡を歩く 2 (山陽編)』、六興出版、1986 第七章に福山市山南地区の新良貴氏を上げているが、これは明らかな間違い。わたしの理解ではこの家はもともとは毛利氏家臣白木氏で、後年同族神を祀った天王社神主だという意識から苗字の漢字表記を白木→新良貴へ変更しただけのもの。豪族賀陽(かや)氏は朝鮮・加耶国出身の渡来人系氏族。三善氏自身も公卿にまで登り詰めるがその出自は百済系&漢族系渡来人(所功『三善清行』1-3頁)。
②岡山県/広島県などの鉄地名についてはこちら(慎重に吟味が必要な?な情報も含まれているがある程度参考にはなる)。例えば足守村大字上足守の金床山、大井村鍜治屋山・・・。
郷土史家永山卯三郎氏による岡山県の条里遺跡調査報告(昭和3年)についてはこちら
『栢寺廃寺緊急発掘調査報告』、岡山県教育委員会、1979
永山氏作成賀陽郡条里図は正しく『服部郷図』中の条里情報を現地比定(松永史談会作成図)
④その他、備中国賀陽郡足守郷関係@国会図書館の文献類に関してはこちら

新納泉, 久野修義ほか『「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討』、2003-2007年度文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「地理情報システムを用いた歴史的地域景観復元のための技術的検討」研究成果中間報告書 備中国賀陽郡服部郷図の再検討 「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討 : 科学研究費補助金特定領域研究研究成果中間報告、2007
歴史・文化局面の参考資料;
関連記事a
関連記事b
関連記事c

メモ)
〇国学者契沖(1640-1701)『万葉代匠記』:実証的学問法を確立した『万葉集』の注釈書。『名所研究』は学習不要。歴史考証法は大学者・契沖の場合は馬屋原重帯(1762- 1836)辺りよりもこじ付け感が少なく説得的。本居宣長・契沖の学問の作法は大家らしく、頭のてっぺんから指先まで手抜きなし⇒『万葉代匠記』巻4に関し、楊静芳、2014東芸大博士論文、151頁脚注。〇本居宣長(1730-1801)全集1(『玉勝間』)、本居宣長全集別巻1(17,8歳時の『都考抜書』・『事彙覚書』、『万葉集』と『源氏物語』関係の答問集、青年期の国書の写し:学習法と学習態度)⇒考証学のスタイル把握

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松永史談会10月例会のご案内

2024年10月01日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会10月例会のご案内

開催日時及び場所:10月25日 午前10-12時。「蔵」二階
話題「沼隈郡今津村式内社高諸神社考-由来記の創作とその時代背景-



「偽史言説(0r fakelore)としての「式内高諸神社」@福山市今津町」(2021-12-07 執筆)を市民雑誌掲載論攷用に更新する。これまでは➊剣大明神については松永潮崎神社(旧松永・剣大明神)同様、本来中世の新庄つるぎ浦(現在の福山市柳津町内)の産土神を勧請したものであること(市民雑誌『尾道文化』41、2023に「毛利氏の『海の御用商人』尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つるぎ浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描-」として掲載済)、➋今津村の剣大明神の境内地はもともとは中世寺院金剛寺(本尊:如意輪観音)及びこれと習合する形で存在した厳島弁財天社地であり、元禄検地以前のある段階(おそらくは毛利輝元~福島正則時代)に金剛寺を廃寺化し、これらを上書きする形で「剣大明神」境内地が前掲の新庄つるぎ浦の産土神を勧請する形で新造されたらしいことを明らかにしてきた(松永史談会2022年5月例会)。❸10月例会では1718年以後備後福山藩内に京都・堀川学派(伊藤仁斎/1627-1705の次男:伊藤梅宇が福山藩儒として着任)流の古学が興隆していたことを念頭に、伊藤梅宇(1683-1745)とは同門の並河誠所(1668-1738)の畿内における式内社号標識建立活動に着目し、そういう江戸時代中期の時代思潮の中で制作された伊藤梅宇撰文「今津剣大明神縁起」(『福山志料』・『沼隈郡誌』)や宮原直倁(1702-1776)『備陽六郡志』所収関連史料の追加検討を試みる
参考文献
関連記事
参考まで
重森三玲(1896-1975)『日本庭園歴覧辞典』、東京堂、1974内の高諸神社の記事(一部石垣用に利用されているが、重森はなんでもない社寺境内の巨石にたいても安直に磐座と断定する傾向がみられる人だが、高諸神社境内を捉えて、「日本有数の巨大な磐境」だと:基本的に牽強付会・こじつけ談義)。
【メモ】『福山志料』は並河誠所の編纂書(『大和志』)を引用/参考文献に入れている。
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お墓参り-福山市寺町界隈編-

2024年09月14日 | 断想および雑談
数日後に予定している史料調査の予備作業として福山寺町界隈(洞林寺・賢忠寺大念寺一心寺)で罰が当らぬように掃苔家よろしく謹んでお墓参りをしてきた。


鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹

北条霞亭の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。

賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら

福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。




一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。

「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)


写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。



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久々に『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社

2024年09月07日 | 断想および雑談
馬部隆弘さんの対談を掲載していたので、ふと昔懐かし青土社の雑誌をみかけ図書館より借りだして見た。

これまでは高島平三郎『心理漫筆』、開発社、明治31年を通じて沼隈郡神村の鬼火伝説(「ややの火」)を、同様の話題は得能正通編纂『備後叢書』所収の馬屋原重帯編著『西備名区』にも収録されている。この手の話題は相も変わらず面白おかしく庶民の読書空間の中で飛び交っている(。一応断っておくが、この鬼火伝説(「ややの火」)は得能正通が『西備名区』を『備後叢書』編集刊行する段階にわざわざ記載ヵ所を変更し沼隈郡神村・和田屋石井又兵衛+関係の妖怪伝説としてハイライト化している。それを『沼隈郡誌』は踏襲。それに対して、妖怪を迷信として処理した高島の場合はそういう扱い方をしていない)。
嘯雲嶋業調製 万延元(1860)年「備後国名勝巡覧大絵図」記載の妖怪屋敷(『稲生物怪録』)などは江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、折口信夫が、そして最近では漫画家水木しげるらが作品化。
この大絵図には三原沖に出現するという「タクロウ火」も記載している。今川了俊『道行きぶり』にも鵜飼いの燈火のように見えると言う形で、三原ー本郷辺りの話題として深夜兵士達のもつ松明なのか否かは不明だが、水面に浮かぶ火の言及をしていた。宮原直倁は海辺の村の慣行として「イサリ」(漁り火のイサリヵ:深夜燈火をもって魚・カニを取る)に言及していた。これと関係するかどうかはわからぬが、私の幼少期には明治生まれの老人が行う夜中にカーバイドランプをもって魚取りに行く「風習」(風習ではなく伝統漁法?)が干潟の発達した松永湾岸には残っていた(『福山志料』上巻、巻1風俗に鯛網・イサリの記事、イサリは端午の早朝に神様にお供えするということで干潟の発達した海浜の村々で手火をもって行う漁法、この手火は幾千となく離合集散して動くさまを遠望していると”スコブル壮観”だと)。
わたしがGeosophie研究の一環としてこのところ取り組んでいるのが虚実混淆居士馬屋原重帯の人文学の在り方についてだ。『西備名区』は偽書ではないが、彼が生きた時代特有のドクサを相当に含んでいる。生活世界次元で言えば、馬屋原重帯は平田篤胤-椿井政隆らとは地続きのところに位置づけられると思うが、私の場合は勿論馬屋原に対して馬部隆弘氏が試みたような思想史的背景を視野に入れながらの椿井政隆=偽書・偽文書制作業者論(付随的に並河誠所の式内社考証批判など)や坂田聡氏らに学びつつも、それとは違った位相で捉え直していくことになろう。


これから『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社を専門分野に関係なくざっと目を通してみるが、執筆者達の学問的境地の違い、学問研究上のセンスや研究の進展度の違いからか中身は玉石混淆だ。この手の雑誌類には昔ほど期待してないが参考になる部分があればラッキーだと思う。


関連ブログ①
関連記事②
偽史言説(非公開)→「創られた由緒」という形では例えば坂田聡 『古文書の伝来と歴史の創造-由緒論から読み解く山国文書の世界』2020
向村九音(サキムラ チカネ )『創られた由緒 : 近世大和国諸社と在地神道家』、勉誠社、2021など。同傾向の研究事例としては近年は枚挙にいとまがない。
【メモ】粗雑な歴史考証結果を一切合切取り込んだ形のと言う面では馬屋原の『西備名区』と共通する教部省編『特選神名牒』
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松永史談会8月/9月例会のご案内-第3報-

2024年08月01日 | 松永史談会関係 告知板
9月例会は9月27日開催 場所・開催時刻は8月例会に準じる。 話題は来年度市民雑誌投稿予定論攷を念頭に宮原直倁(なおゆき、1702~1776年、『備陽六郡志』内篇に限っていえば、藩領を統計数値的に把握可能な形で過不足なく再構成した宝永8年村明細帳集成(宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』の類本)。研究篇でもある外篇は当時の歴史考証の在り方を反映して『西備名区』に負けず劣らず概ね近世文学風に虚実混交)及び『福山藩風俗問状答書』同様に、外形的には『大明一統志』の体裁や儒教的規範意識を注入しつつ、藩領の地歷的全体像をコンパクトにスケッチすることを心掛けた菅茶山(1748-1827、時代的知の限界を内包した作品でもある『福山志料』の歴史考証の在り方について言及予定)らの古地誌研究らの特徴やその学知的水準について引き続き検討していく。なお、9月例会は本年3月例会:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯(1762-1836)の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)の続編という位置づけのもので、そこを基点とする。これまでも部分的には触れてきた事柄だが①長州藩の「地下上申」・「防長風土注進案」、藝州藩の『芸藩通志』及びその元資料となった各種国郡志下調べ帳、②福山藩士宮原直倁(なおゆき、1702~1776年)が元文末年(1740年頃)より30余年に亘り記した『備陽六郡志』、福山藩の『備後郡村誌』などを射程に入れたGeosophy(インドネシア・フローレス島民の生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知・・・無論、問題は社会人類学領域ではなく、近世国学の流布領域)面からの解説を試みていく。
関連記事➊:松永史談会7月例会村明細帳類の構築主義的吟味
関連記事➋・・・原論的部分(昨今は、個別具体例の例示中心で、自らのよって立つ場の認識論的な地平)の論理化に関しては無自覚な研究者が多い訳だが、そういう中でそれへ向けて一歩踏み出しつつある(未確認)書物史料学者若尾政希さんの論攷
馬屋原重帯『西備名区』については松永史談会令和6年3月例会において論評済み。 【参考文献】
和田英松(1865-1937)『芸備の学者』、東京明治書院、1929。
伊藤梅宇(1683-1745)『見聞談叢』、岩波文庫、1996。1738年 梅宇56歳頃に執筆か。この梅宇の名前は『備陽六郡志』にも何カ所か登場。宮原の古学のセンスは新任の藩儒伊藤梅宇(1718年に来福)らによって磨かれたのかも・・・。『見聞談叢』294話「楠公碑」・・明から亡命した朱舜水(1600-1682)を寛文(1665)5年水戸藩主徳川光圀が自藩に招聘、大日本史編纂や水戸学に影響を与えたとされる。梅宇はこの元禄4(1691)年に建立された本碑の碑文を詳細に紹介し、その撰文が舜水によったと。尊王思想家菅茶山が後年この碑文を漢詩に詠んでいる。なお、伊藤梅宇の墓誌は『福山志料』巻⒒所収。梅宇の兄:伊藤東涯『制度通』は日中の比較政治論書。
浜本鶴賓(1883-1950)『福山藩の文人誌』、児島書店、1988。本書は昭和7-9年度の福山学生会雑誌掲載論攷「弘道館と誠之館」などをまとめて一書としたもの。伊藤梅宇・宮原直倁らの概略を記す。
並河誠所(1668-1738)『五畿内志』1736。並河は伊藤梅宇の父・伊藤仁斎門下。『五畿内志』に関しては白井哲哉『日本地誌編纂史研究』第三章が言及(関連史料の紹介分析に終始)。なお、井上智勝馬部隆弘らによると、古代中国の皇帝の日本での等価物として古代の天皇を措定し、「法」と「制」とが混乱する契機となった保元の乱(1156-1159)以前の古代日本における「制」の中で機能していた式内社の祭祀こそが当時実現されていた我が国の理想社会を復活させるに当たっての必要条件として捉え、並河は研究上の重要課題として式内社の特定作業を推進。こうした動きの中での副産物として彼自身の手による式内社を巡る偽史言説が大量生産された。宮原『備陽六郡志』には式内社に関する言及は不在だが、分郡下岩成村庄屋久五郎家伝来文書の中で、高須杉原氏の「萬暦12(1584)年朝鮮渡海之節船印」(正しくはいわゆる日明貿易船旗)とか山鹿遠忠宛「備後国高洲庄地頭職」補任状写や山鹿孫三郎宛備後国高諸社地頭職補任状写などを発見し、それらを『備陽六郡志』の中で紹介している。
天保10(1839)年「芸備郡要集」(『廿日市町史』史料編Ⅱ、47-103頁) 菅茶山『福山志料』は若き藩主阿部正桓用教科書中の一冊(分類では政治書)であったが、『備陽六郡志』の方は地方書(じかたしょ=地方役人あるいは村役人などによる農民支配のための規範書,総合手引書という性格をもつ文献)としての要件性をどの程度持っているのか、その辺りの吟味が必要(勝矢倫生『福山藩地方書の研究』、清文堂、2015。貴重な成果だが、参考にならず)。

【メモ】菅茶山編『福山藩風俗問状答書』は一見するとよく出来た風俗調査集成だが、ここでは宝永8年村明細帳[この集成版が宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』、これを要領よく再構成したのが宮原『備陽6郡志』内篇)記載の「六郡山田畑一升積」に記載された藩政村の地理的立地環境の差異(例えば芦田郡藤尾村:山9合・田畑1合に対して沼隈郡山波村:山3合・海6合・田畑1合)、沼隈郡柳津村の場合は明和3年村明細帳に山3合、田畑2合、海5合程]などを活用する形での今日の民俗学が注目するような住民の生業に着目した藩領内の風俗を俯瞰したものではない(ならば菅茶山の編集方針は?物珍しい風習/特化係数の大なものを中心につまみ食い的にピックアップ)。『芸藩通志』の編者:菅杏坪の場合も芸藩の風俗はなべて同じようなものだという感覚で捉えていた。

松永史談会8月例会のご案内

開催日時 8月30日→9月06日 午前10-12
場所 蔵2階
 台風10号の県内上陸が予想されるため8月例会は1週間後の9月06日(金曜日)に順延
話題:続『早熟型の文化人武井節庵(1821-1859)のその後』
次年度の市民雑誌投稿を念頭においた話題提供となる。
【メモ】「武井節庵」で検索すれば松永史談会のこれまでの研究成果(公表版)に辿り着ける。


武井節庵に部分的に言及しかつ松永史談会が除外した観点(日本漢文学)については、 ①参考資料:合山 林太郎( 慶應義塾大学)「集団形成と古典知の継承を視座とする近代日本漢文学の研究―政治家の作品を中心に―」幕末・明治期の漢文学の研究(合山 林太郎)・・・。明治期に入ると急速に旧態依然の典型として衰退の一途を辿る日本漢文学であったが、そういう現実にめもくれず合山は武井節案と交流の在った河野鉄兜(時事に触れたり、亡児を悼むなどの内容を持つ、変化に富んだ遊仙詩を制作)・阪谷朗蘆(西洋文明の流入を感じながらも阪谷の官僚としての世俗的営為と近接する風流文事に言及)の漢詩文学の特質にも言及。 ②参考資料:管説日本漢文學史略~授業用備忘録~(大東文化大学) ❸河野夢吉・武井節庵(ともに松永に滞在経験のある漢詩人)を含め大沼枕山との交友関係については『枕山詩鈔』が参考になるが、そこからもれた情報については以下の文献(第三部「天保十四年大沼枕山詩稿翻刻」合山林太郎編 下写真書 255-292頁)が若干補ってくれる。

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松永史談会から近所の幼稚園への夏の贈り物

2024年07月27日 | 松永史談会関係 告知板
タキイ種苗の「紅まくら」というスイカを今年は本日近所の幼稚園(140人分)へプレゼント。平均14キロ程度のジャンボスイカで総重量はどのくらいになるのか・・・。


令和6年度スイカ収穫期間は7月19日~10月4&10日。最後のスイカはいずれもラグビーボール大(タキイ種苗:秀山種@沖)、少し、旱魃の影響受けていたが、普通に甘かった。この日サツマイモ(紅はるか種、5月1日定植)を試堀(10月12日収穫)。
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松永史談会7月例会のご案内

2024年06月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内

開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所    蔵2階

話題  宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について



松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には野村兼太郎編著『村明細帳の研究』, 昭和二十四年七月, 有斐閣發行とは異なり、中山氏の場合は村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相を懇切丁寧にうきぼりにしたもの(それ自体は有用)。ただ、中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想≠歴史意識が色濃く反映されているという『芸藩通志』は対象=藩領を)どういう切り口で構築(再構成or 再編成)するツールだったのかといった構築主義的な側面からの掘り下げ(=切り返し)、最後の一踏み込みが不足・・・『芸藩通志』中の「革田」の扱い方が賴杏坪の思想の反映だと中山氏は考えているが、彼らに対する差別的扱い方に関しては(五代藩主浅野)吉長公御代記巻22下、享保11年/『新修広島市史・第七巻 資料編2』、200頁の「革田に対する触書」を見れば明らかなように、朱子学的racistであったとしても、賴の場合広島藩の従来方針を単に踏襲しただけ)の在り方や菅茶山『福山志料』(藩主用政治書)を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
【メモ】
参考文献 野村兼太郎編著『村明細帳の研究』、有斐閣、昭和24→見かけ上は千頁を超える厚冊だが、大半は関東地方の村明細帳を翻刻した史料編で本文編は151頁。この方面の研究の古典。
書評:三橋時雄が雑誌「社会経済史」16(1) 1950、141~143頁に書いたもの
野村の視点は村落住民の身分的区別、村の負担、肥料問題、山野入会権の問題、農村人口、農間稼と農間余業、農民の食糧などの諸側面から村落生活の実態や貨幣経済の浸透度合いをチェックする。村明細帳自体は領主側が各村々の貢租その他の公課・村高・家数人口・牛馬数・普請場・米印地などを報告させたもので、農村の負担能力を判定する意図があって、それに対して村々側の答申は「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったと野村は指摘。
村明細帳を近世地誌の一種として捉える有元正雄・中山富広の場合はそういった深読みはなし。中山氏の場合はこれらは領主側からの指示で提出された村の概要報告(村勢調査)であって、今日の市町村要覧のような自発性のある資料との違いを指摘するも「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったといった類いの支配者ー被支配者間の「立場性(positonality)の差異」を強調するような視点は不在(これは暫定的記述→慎重な検討予定)。中山氏の場合頼 祺一の学説(『近世後期朱子学派の研究 』、渓水社、1986、237-283頁,本書は600頁のうち論攷部分は前半300頁、残余は賴春水の在阪期書簡の翻刻もの)を受容する形で『芸藩通志』についてやや安直に賴杏坪流朱子学思想に紐付けた説明を行っている。
古文書調査記録40集「宝永8年 差出帳の用語解説 上巻」、福山城博物館友の会、2023.ここでの差出帳理解は有元正雄によるもの。
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文政期の賀茂郡吉川村絵図

2024年06月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
村を流れる古河(ふるこう)川を見ると丸木橋・土橋・飛渡の区別がなされ、住民達の日常生活上の感覚や意識(地域的社会感情)がよく汲取れる素朴な村絵図だ。「田所(中世の村役場)」「国松内正尺(しょうじゃく=領主の手作地)」と言った地名や呼称には1820年当時この地域に残っていた中世村落の面影が感じられる。新開・楮畑は広島藩の専売制度の反映。

割庄屋亮平宅とあるが、亮平とは竹内氏、 のち亮左衛門のこと。

吉川地区全体の地形を立体的に見ることが出来る。↓



現在は東広島市八本松町吉川・・黒瀬川支流の古河(ふるこう)川流域。吉川村は台地上に立地。古河川河岸には河岸段丘が発達。


広島県立文書館は簡単に済ませたが、これからもいろいろ史料の原本調査が続きそうだ。

参考文献(服部英雄氏)

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岸田文雄邸とは目と鼻の先にある広島賴家比治山周辺墓巡り

2024年06月02日 | 断想および雑談
慌ただしく出かけたので、地図を忘れて出かけ、帰りを急ぐ余りにカバンに常備している巻尺での墓石の計測もし忘れた



比治山公園界隈は幼少期以来の訪問だった。正面に真言宗・多聞院。



最新のものは令和元年95才で没した頼 惟勤(1922-1999、山陽の長男:頼 聿庵/いつあんの子孫)夫人尹(ただ)子さんのもの。罰(ばち)があたらないように『芸藩通志』編者・賴杏坪墓によく手を合わせておいた。

ジャンボな毘沙門天本堂の背後に賴家墓地(googlemap上の「賴家の墓」表示場所は誤り)がある。そこは開析谷底の奥まったところに当たり、寺の人の話では原爆の影響は殆ど無かったらしい。比治山・多聞院周辺には賴山陽の記念施設(例えば賴山陽文徳殿)や時代遅れの楠公追慕塔などが立地する。率直な印象として、花こそ供えられていたが、広島県史跡「賴家之墓」(賴山陽・賴三樹三郎などの墓は不在)の現在は奥側の木立の中には放置された原爆被災建物と思しき木造の廃屋(下の写真では廃屋そのものは毘沙門堂の建物の背後に隠れて見えない)があったりして美観的には些か気の毒な状況にある。


安芸本郷で途中下車して中世・沼田庄辺りの探訪を考えていたが、通過時刻が16時近くになっていたので他日を期すことにした。
「賴家之墓」のご近所、広島市まんが図書館西側、長性院霊園崖下に岸田首相の実家(ポリボックス有り)がある。
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松永史談会6月例会のご案内

2024年05月31日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会6月例会のご案内

開催日時6月28日 午前10-12時
場所 蔵

話題:『国立公文書蔵版芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンスについて


なお、先月予告の通り、松永史談会の活動報告をかねて引き続き①令和6年度市民雑誌『文化財ふくやま』第59号投稿論攷(無査読)ついては雑誌本体を6月例会時に配布、②『福山城博物館友の会だより』№54(無査読)分については抜刷形式で7月例会時に配付予定。

関連記事
➊(亀山士綱)➋(古川古松軒、馬屋原重帯)
参考資料及び文献:
広島藩の地方(ぢかた、=地域)情報及び地方支配に関する諸規則を集めた役用マニュアル本=『吹寄青枯集』(広島県立文書館資料集 1、1991 地域情報なし)・『芸備郡要集』や国郡志編纂用佐伯郡辻書出帳など(『廿日市町史』資料編2/付図付き,1975.に所収)。勝矢倫生「享和期における広島藩諸郡の経済状況-『芸備郡要集』の分析を中心として-」、尾道短期大学研究紀要 32 (1), 1-40, 1983(「広島藩における農政に関する基礎的研究-2『芸備郡要集』にみる享和期農政の動向-」,尾道短期大学『研究紀要』第30集の1の続編とある)。勝矢は地方書研究の専門家だが、『芸備郡要集』自体の理解に関していえば本史料を直接参照することで事足りよう。



『芸藩通志』・『防長注進案』に関しては羽賀祥二「記録の意図と方法-19世紀日本地誌と民俗記述-」(若尾祐司・羽賀祥二『記録と記憶の比較文化史』、名古屋大学出版、2005、57-88頁)・・・ユニークな問題意識に動機づけられた論攷
西村晃「世羅郡の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の編集について」、広島県立文書館紀要13号、2015、p193-217・・・【「国郡志御編集」の中身をチェックするために宇津戸で行った作業を世羅郡全体でも行う予定同様に『尾道志』と33/34巻との比較も】。
広島県内の自治体史には域内の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の紹介やその郡単位での編纂過程について説明したものが各種存在する。例えば『東城町史・古代中世・近世資料編』、1994.『呉市史』近世Ⅱ、1999など。
最近では広島県立文書館が西向宏介「近世芸備地方の地誌」で史料紹介など、ほか多数。


賴杏坪論関係では
頼 祺一「朱子学者の政治思想とその実践-賴杏坪の場合-」(上・下)、芸備地方史研究64(1-14頁)、および65/66合併号(20-29頁)、1967参照のこと(近世後期朱子学派の研究 、渓水社 1986年に転載・・・基本文献)。
頼 祺一や重田定一(『賴杏坪先生伝』、明治四一年の著者)らによると、賴杏坪の場合は29才時に藩儒(朱子学、陽明学を否定)として登用され、70才過ぎには三次町奉行になった人物で、いわゆる朱子学の教説を信奉した教養ある吏員ではあった。『芸藩通志』編纂を見る限り『防長風土注進案』(時局的に実現を見なかった『防長国郡志』の現存する草案)(→研究書:『防長風土注進案別冊付録』)を編纂する長州藩の長州藩家老村田清風や国学者近藤芳樹ららに比べ、逼迫した財政状況下での広島藩の取り組みはどの程度のものだったかはちょっと気になるところ(。。。。論理化中)。なお福山藩の場合は『備後郡村誌国文研の国書データベースへ』と菅茶山ら編纂の藩主用政治書・教養書『福山志料』。
【メモ】貝原益軒『筑前国続風土記
巻2ー河内地名(山間一谷内にある村々、例えば筑前国那珂郡岩戸河内 12ヶ村構成)、世羅郡宇津戸村や沼隈郡山南村ー谷中
貝原益軒はGeosophie(生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知)研究の対象者として把握予定。


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松永史談会5月例会のご案内

2024年04月26日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会5月例会のご案内

開催日時と場所
5月31日(金曜日)午前10-12時、『蔵』
話題 今川了俊『道ゆきぶり』の内容分析。


先月予告の話題[佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)]は6/7月例会に順延。
テキストとして稲田利徳執筆の『中世日記紀行集』小学館、1994、389-425頁に所収版を使用予定。この詳述版が後掲の基本文献①/稲田利徳論文1~5。

松永史談会の活動報告を兼ねた市民雑誌(中近世移行期に於ける松永湾北岸域の風景点描②を扱った『文化財ふくやま・59号』と幕末期沼隈郡内豪農層の思想傾向と関連付けながら行った安政4年「松永湾岸風景図屛風」の絵画史料分析物を『福山城博物館友の会だより・54号』)掲載論攷(学会誌では「短報」)の抜刷2冊(『文化財ふくやま・59号』は抜刷及び雑誌本体)は6月例会時に配付。

紀行文研究に関する松永史談会の関連記事①松永史談会2024年2月例会:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について
関連記事②松永史談会2017年5月例会:賴山陽『東遊漫録』に言及した「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」

参考記事
基本文献)
ネット上に公開されたテクストとしては国文学者稲田利徳「今川了俊『道行きぶり』注釈1-5」、岡山大学教育学部研究集録、1992。
この小学館版には稲田利徳校注・木下勝俊(長嘯子/ちょうしょうし)『九州の道の記』、571-586頁もある。4月例会では広島県立博物館のメイン展示物草戸千軒遺跡と福山城下の中に再編された「神島 上中下市」に言及したが、実は後者のみが『九州の道の記』には登場し、ここに居住した人物と木下は暫し蹴鞠を楽しんだ場所として登場(珍しい蹴鞠に付近の住民が多数参集し見物・・・出兵時の武将:木下勝俊がどういう精神状況だったかは不明だが、現在の神島橋付近のしかるべき場所で、ここ住まいの都会育ちの人物某(足利義昭の近習)らと長時間蹴鞠を楽しんだ)。なお、4月例会では広島県歷博発「神島(地字「古市」あり)不在の草戸千軒論」には不自然さがあることを指摘。5月例会では今川了俊『道ゆきぶり』には無記載だが、この朝鮮出兵(1585年)当時の旧沼隈郡域の記述に関しては『中世日記紀行集』小学館版細川幽斎『九州道の記』(伊藤敬校注に言う、秀吉の滞在先=備後津郷にあった公儀御座所、郷土史家の間では足利義昭がらみの言説として流布する場所)など他の古記録についても紹介予定。
単行本)中世史家川添昭二『今川了俊』、人物叢書、吉川弘文館、2023(初版は1964)。

雑誌論文)地名考証関係では渡邊世祐「足利時代の山陽道」1-3、歴史地理4-8/9/10、1902.


角重始「道行きぶり」の世界、広島文教女子大・文教國文學25,2023、10-27頁。....既往の研究を川添(歴史)>稲田(文学史)に(九州地方平定作戦を推進させる中での紀行文制作という文脈に焦点=)比重を置きながら今川了俊の九州行を要領よく再整理したもの(謂わば、国文学者による歴史学的研究もの)。
小沢富夫『家訓』、講談社学術文庫683 今川了俊の「今川状」(弟仲秋に残した人生訓・・・江戸時代の庶民道徳にも影響を与えたもので、利欲を廃し公正を尊び、神仏を敬うと言った道徳観に支えられた武家道徳を説いたもの)
今川了俊『難太平記』

[福岡県・みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」]よりとりあえず参考までと言うことで、全文引用
「今川了俊は、九州進発にあたって、前の大将軍渋川義行の失敗にかんがみて慎重に作戦計画を立てた。すなわち、一族の者を豊後と肥前に上陸させ、その地の武士を糾合(きゅうごう)して太宰府へ向かい、了俊自らは少し遅れて正面から門司へ渡り、豊前・筑前を経て、太宰府で一族の者たちと合流し、懐良親王方を壊滅させるというものであった。
 了俊は京都出発にあたって、備後・安芸の守護職を兼任して、両国の軍勢を動員し、更に、周防・長門の守護大内弘世と婚姻関係を結んでその協力を得て、その強大な軍事力に頼るところ大なるものがあった。
 応安四年(一三七一)六月、了俊は子息義範(よしのり)を備後尾道から、船で豊後高崎城に向かわせた。
 豊後では、このころ大友氏継(うじつぐ)から親世(ちかよ)へ家督が移り、氏継が南朝方へ走るという事件があった。足利義満―細川頼之ラインが守護クラスの大名家の家督問題に介入したらしい。今川了俊は「京都の御さたのおもむきをしり候ハぬ人々」が、これを不満に思って、氏継とともに南朝側へ走ったと述べている(『入江文書』卯月十五日付)。
 菊池武光は、高崎城の今川義範軍を包囲して、翌応安五年(一三七二)正月までの半年間に、一〇〇余度も合戦を繰り返した。
 今川義範が豊後へ向かった翌月、了俊の弟仲秋(国泰・頼泰・入道仲高)も尾道を船出し、十一月、肥前松浦に上陸し、松浦党の支援を得て、肥前の各地で戦い、応安五年二月、烏帽子(えぼし)岳で戦って、菊池次郎武政を破り、軍を筑前に進めた。
 今川了俊は、応安四年十月に入って長門国に到着し、十二月、門司へ渡海した。これを聞いた菊池武光は高崎城の包囲を解いて、軍を太宰府へ返し、肥後との連絡路を確保して、太宰府の維持に努めた。
 応安五年二月、今川了俊の軍は、筑前麻生山の多良倉・鷹見岳(八幡西区カ)攻めにかかり、少弐冬資や大内弘世の奮戦によって、両城を抜き、太宰府に近い高宮に陣をしき、肥前長島庄から蜷(にな)打へ進出してきた弟仲秋の来陣を待った。同年八月、菊池肥前守武安を筑後酒見城で退けた仲秋軍は、菊池武安を追って筑前に入り、了俊の軍と合流して、両者は一挙に太宰府攻撃に移った。
 応安五年八月十二日、太宰府は陥落し、懐良親王・菊池武光らは、筑後高良山へ移った。このあと、大内弘世ら中国勢は帰国した。」

ネット上で見つけた参考文献
川添昭二・朱雀信城共編「九州探題関係文献目録-今川了俊-」、年報太宰府学第五号、74-60頁→今川了俊の研究文献リスト
太宰府市史・中世資料編(未見)

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松永史談会2024年4月例会のご案内

2024年04月16日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2024年4月例会のご案内

日時 4月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵
話題 松永史談会2023-12月例会提供話題の続編として今回は青木茂「中世港町における航運活動-高野山領備後尾道を中心にして-」(『魚澄先生古希記念論集-国史学論叢』、1959)及び柴垣勇夫編『中世瀬戸内海の流通と交流』、2005、塙書房所収(兵庫・岡山・広島の県立博物館・考古学主導)の矢田俊文・藤田裕嗣(ここでは掲載論文ではなく、同氏の「安芸国沼田庄の市場と瀬戸内流通網」、歴史地理学136,1987を取り上げる)・松井輝昭氏らの論攷を検討しながら、中世瀬戸内海における経済(物流/交通)圏域論の現状とその問題点(具体的には史料の歪みや研究者自身の抱える歪みの所産、及び歴史研究者が陥りやすいパレイドリア現象の兆候)を洗い出しながら、松永史談会が実践してきた環境-歴史-文化という<思考の三角形>(⇒博物誌的)側面から中世備南地方に於ける新たな地域史研究の在り方を探って行く。

パレイドリア( Pareidolia)現象:視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる現象、こうした現象はThomas Gilovich流に言えば「わずかなこと(=史料断片)から肯定的な(=自分の仮説に合致する)情報を探し求めたり、信じている(=自分の立てた仮説が動機付けとなって)と、そのように物事は(=なんでもない史料なのに当該仮説に合致した証拠資料のように)見えてくる。そして自分が信じたいもの(例えば自分が取り組んできた尾道・厳島)(=それらの港が瀬戸内交通の要衝であったと思えてくるといった風に)信じようとする」傾向とでも言い換えることが出来よう。
従って今回は網野善彦・宮本常一氏や予てより注目の中世瀬戸内海域史研究の第一人者山内譲氏にはちょっと失礼という感じの話題提供となる。なお、4月例会の話題は5月例会予定の佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)の紹介のつなぎとして提供するものである。

これまで関連記事
①歌西金寺境内の伝「和泉式部供養塔」から見た松永湾
②続「中世歌島荘研究の成果と課題」
③松永史談会2023年11月例会のご案内-第一報-  杉原保
④2023-6例会「庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-」
⑤2022-11例会: 毛利氏の「海の御用商人」尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)-
⑥2022-5 「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」

❽松永史談会11月例会のご案内-第一報-網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。
❾伊予-備後の田頭氏と「因島中庄田頭氏家伝」(全面的にrewrite予定)、松永史談会会報2021-1/2(号外)//非表示
❿松永史談会2023-12例会:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく
など多数。
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松永史談会 2月/3月例会のご案内

2024年02月05日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2月例会のご案内
2月例会(2月の最終金曜日が天皇誕生日のため、開催日を一週間後ろへずらす
3月1日 午前10-12時 蔵2階
話題:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について

その他、例えば古川古松軒『東遊雑記』平凡社・東洋文庫版、「四国道之記」翻刻版 岡山県立博物館研究報告10…国会図書館は利用登録をすれば簡単にデジタルコレクション内の書籍閲覧が可能。古松軒の年譜は岡山県立博物館研究紀要1(古川古松軒史料--日記・雑記 / 竹林栄一/p23~46)、1978が掲載。

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関連記事➋「偽史言説(0r fakelore)としての「高諸神社」@福山市今津町」(論文化予定のため非公開)
これまでの古松軒に関する研究上の論点を抑えたうえで、本年度公開の市民雑誌投稿論攷に続編という位置づけでの話題提供となる。古松軒を京都帝国大学の経済学者黒正巌(1922年)は江戸時代の「地理学者(geographer/geographical-lorist)」だとしたが、正確にいえば当時としてはgeographical-loristとしての傑出した「地理学者」だった。学術的には地理学者野間三郎辻田左右男の業績等も一応頭の片隅には置いたものとはなるが、ここで今回注目するのは新井白石/貝原益軒-長久保赤水/林子平/古川古松軒→・→(我が国の読史地図研究=今日の読史地図派歴史地理学や地名考証学に道筋をつけた)吉田東伍・河田 羆(高橋淡水の地理学の先生)へと繋がる(和漢混淆/和洋折衷ということにはなるが)我が国に根付いていた、一昔前の”Historiography”の水脈にも光を当ててみる。

3月例会
開催日時 3月29日 午前10-12 開催場所 蔵 
話題:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)
<要旨は2025年度の市民雑誌(無査読)投稿予定>
西備名区』@国会図書館(簡単な利用者登録が必要)。
岩橋清美『近世日本の歴史意識と情報空間』、名著出版、2010。佐竹昭「地誌編さんと民衆の歴史意識」、広島大学・地誌研年報5,1996、59-76頁など一応視野に入れておくが「空間認識」「歴史意識」ではなくknowledge(知→geosophy:前近代的地理思想)上の問題として定式化していく。なお、副次的な問題に過ぎないのだが、佐竹論文はlocal historyがnational historyに包摂される過程を構想した論攷だが、わたしの理解では事柄の本質は佐竹論文の真逆、すなわちnationalなもの(例えば尊王思想、瀟湘八景といった類の「思考の鋳型」)がどのような形で「地元化」=regional/localなもの中に拡散/浸透(=定着)して行っていたのかという側面の見極めにあると考えており、その方面からの言及予定。

参考文献:西向宏介「近世芸備地方の地誌」広島県文書館収蔵文書の紹介
国土地理院・地形陰影起伏図
等高線図(一〇メートル~一〇〇メートル間隔)
色別標高図
表層地質図@国土地理院
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下迫貝塚と馬取貝塚の今昔

2024年01月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

柳津町馬取貝塚は、今まで謎だった松永町・山本新さんという人物が大正15年8月段階に発見し、その後昭和7年1月に至って沼隈郡教育会によって実地調査が行われた。大正15年5月6日~9日の太田貝塚調査で面識が出来たのか山本新さんはその3か月後には京都帝大教授清野謙次(医学)に対して、太田貝塚から言えば、松永湾の対岸に当たる沼隈郡柳津で見つけた馬取貝塚の情報を伝えていた。すなわち清野氏は著書『日本石器時代人研究』 、1928の中では、山本新さん発大正15年8月25日付私信から得られた伝聞情報をそのまま紹介している。参考までに「太田貝塚は尾道市の東郊に して、本邦先 史考古學、人類學の最 も重要なる遺跡である備中津雲貝塚 を西に去る直線距離約8里 の所に位する瀬戸内海 に南面 した緩斜地である。最初大正十五年四月十二 日當時長崎考古學會々員たりし佐藤翼穗氏が試掘 し體 を獲、その報 に島田貞彦 氏急行 して同月十五 日には更に5髄 の古人骨が發掘 5された(但 し人骨番號に第8號 迄)。越 えて翌五月六 日より九日に亘る清野謙次、平井隆、金關丈夫3氏の發掘は更に58例 の古人骨を追加 し合計66例 となつた。」という。 露頭部分は花崗岩の風化土(原地形を一部残す。頂部に柿の木、大正15年当時一帯は桑畑)。地形的には低平な丘陵端の上に貝塚層が乗っている。金江・藤江あたりの海岸部は多数の円礫(古い地層の場合は風化し腐り礫化。これはなし)の露頭が目立つ洪積台地。写真中の水路は人工河川の新川で、新川筋の潮汐限界点はこの地点より若干上流側にある。従って、水路の側面石垣の見られる変色位置は満潮時の水位探る有力な手掛かりとなろう。興味のある人は現場で確認してみるとよい。この貝塚での縄文時代の遺物包含層は満潮時の潮位よりたかだか3㍍程度上位に位置するにすぎない(要確認)。  

『福山市史・上巻』に言及が見られるが、倉敷考古館蔵の土偶(福田貝塚 縄文後期)

解説文によれば「(前略)土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の(後略)」。

 


下迫貝塚一帯の現在(水路は新川

柳津町下迫貝塚 。縄文時代後期の地形面は新川筋の堤防道路面の1メートル上位。 地元の人に場所を訪ねたが、下迫貝塚を馬取貝塚と混同する人がいたが、ほとんどが馬取貝塚すら不知だった。あらかじめネット情報と住宅地図で見当をつけていたお宅(坂本順助さんの昭和25年生まれのお孫さんがご当主)を訪問し、それが正解だった。むかし、郷土史家I@神村が訪れたことがあるということだったので、わたしの訪問はそれ以来のことだったのだろう。場所的にはわたしが以前からよく訪れていたところ(柳津町市場組・fake史蹟:「神武天皇上陸碑」「磐井」, 村鎮守:清平大明神の「清平」は地名だが、これを祭神光孝天皇皇子一品式部卿清平親王(要確認)の「清平」と解釈し、ここから虚偽言説の大迷走が始まり、明治初年以後は実在が定かでない祭神「清平親王」/「橘清平」とはせず、一挙に著名な祭神「橘諸兄」へと跳躍。この人を祭神とした橘神社に移項させていく。柳津はそういう支離滅裂のFakeloreがまかり通る愛すべき土地柄・・・『沼隈郡誌』515-516頁参照)の数十メートル南方に当たった。縄文後期の土偶は馬取貝塚発見者でもある松永町在住の山本新さんが、昭和14年に考古学研究者村上正名さんらが訪れる1ヶ月ほど前に、坂本さんの屋敷地内で発見したということに菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が言及していた。当該土偶は現在、東京国立博物館に所蔵されている。下迫貝塚は宅地だったため坂本さんの屋敷地の北西隅のわずかな面積を掘り下げただけだったようだ。


島田貞彦「備後國沼隈郡高須村太田貝塚に就いて / 島田貞彥/p23~33」、歴史と地理、26-4,1930.

   

太田貝塚の立地環境は、隆起海岸低地(松永湾岸での貝塚はこの地形面上、山陽本線線路以東は干拓地で海抜0m地帯、西国街道は海岸低地上、この地形面の2m上位に隆起海岸低地が拡あり、その地形面上に貝塚が立地)(潮汐限界点よりも2m弱上位・、満潮時の海水位よりも3メートル程度上位・・。この太田貝塚が立地する地形面は松永湾岸の干拓地の背後に形成されていた海岸低地の山側で縁取る形で分布。近世の西国街道の地形面と太田貝塚立地の地形面の高度差=a+b) 場所 

追加調査:明徳4年(1393)の年紀をもつ、『延寿院殿佐藤左馬頭治信大居士』という珍しい戒名の墓石。一見してFake(インチキ)なのだが・・・。家のルーツ関して深い思い(この点が唯一の事実)が込められているこの地方ではまま見かけるものだ。この形式の墓石はこの地方では江戸前半期のもの。数年前から注目してきた史料なのだが、本日はご子孫の消息確認ができた。半歩前進! 懇意にしていた仏壇屋のお婆さんは平成30年没で、2才年上の主人はその三週間後に亡くなっていた。

戒名

室町~戦国期の稲村城主田坂家の戒名@備後・三原 三原市文化課
松永・山本新という人物は実を言うといまだに謎のままなのだ。 『洗谷遺跡』1976、福山市教育員会 水呑町洗谷、洗谷橋南200m、芦田川河口部右岸 占部徳十郎屋敷前、海抜3-7m。馬取貝塚と同じような地形の場所(地山海抜2.4m)。 本谷遺跡は不知だが、その他の貝塚は松永湾岸と同様の地形環境に立地するようだ。 木ノ庄貝塚@木ノ庄町中央時計台の向(城北中学と樹徳小学校の間の道を北上した高校の立地する台地の端(海抜5-6㍍)
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慶賀光春

2023年12月30日 | 「okey dokey(オキドキ)」へのgate

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