- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

メモ:「はばら」&「ホノケ」

2025年03月16日 | 断想および雑談
〇小学館刊『国語大辞典』の「はばら」を調べると熊本・福岡県の事例で小石・砂利の意味で出てくる。福山藩『郷中覚書』ではこの「はばら」の語が福山藩起こし鍬下年季関係の史料の中で頻出
「はばら(羽原)入之田畑」「砂入之田畑」「羽原捨所壱丁有之候」
勝矢倫生『福山藩地方書の研究』、清文堂、2015、313-316頁。
福山藩『郷中覚書』の慶応期の写本は鏡櫓文書館・鶴賓文庫蔵
羽原川の「羽原」だ⇒論文にまとめる時には『郷中覚書』中の語「羽原」を捉えて、簡単に羽原川の地名の語源に結び付けず、間に一段の証拠固め(中四国地方スケールでの徹底来な類例集め・・・角川・平凡社の巻末の小字地名編も含め地名辞書が使える)を挟むことが必要(A)。興味のある方には是非挑戦してみて欲しい。もっと研究水準をUPさせるには既刊の地名大辞典にある収録漏れを逐一補正したデータに基づき研究を進めていく(B)。


いまのところ未チェック『浜本鶴賓編『大正8年福山災害誌』』(芦田川洪水の記録で「はばら」関係の記述なし//確認済、付録部分(248頁以後)は浜本の穴海説だが、内容は普通にダメ)・『芦田川改修史』

〇「アサ又はホノケ」・・・「観音寺」という寺跡ホノケ(『備後叢書』1,431頁)
防長地方では「穂木(ほのき)」、土佐では「ほのぎ」

川村博忠「羽山久男著『知行絵図と村落空間 徳島 佐賀 萩 尾張藩と河内国古市郡の比較研究』、古今書院、2015」の書評、49-52頁。小村絵図に関する記述で「防長全域の一村内の小村(こむら)単位の詳細な耕地絵図であって、屋敷・耕地一筆ごとに朱番はつけられ、田畑面積と石高及び最小単位である穂木(ほのき)数が端書にて集計されている」(52頁)とある。「小村」の下位単位として「小名(こな)」という小字風のものがある(要確認)。川村は田畑の一団地=「ほのき」と説明。
▼郷土史家のもの:『改訂 周防大島町地名(穂ノ木)考』、『改訂 周防大島町地名(穂ノ木)考 付図 穂ノ木分布図』(藤谷和彦 編 日良居タイムス社 2005-2006 Y231/N 5)
周防大島の穂ノ木(ほのぎ)とその読みを列記し、その由来についても考察したもの。別冊『穂ノ木分布図』には、穂ノ木(ほのぎ)を記入した周防大島の地図が収録されているのだと


〇土佐は『長宗我部地検帳』:
長宗我部地検帳のホノギをデータベース化
「長宗我部地検帳の内、四万十町分をデータベース化しました。大字毎に編集し、大字毎の解説に、検地の順にホノギ名のみを掲載しました。現在の小字の地番順とホノギの検地順を比較できるようにしています。現在の小字とホノギが一致、比定できたものについては、太字・青字にしました。順次訂正を加えますが、間違いに気づいた方は一報をお願いします。」(全文引用)
「ほのぎの神々へ」というタイトルも写真集だ。中身はこの地域の失われようとするふるさとの思い出の小さな断片を写真・詩・イラストと編者の文章で簡単に再構成したものだが、編者は元診療所医師(1945~2024、京都府立医科大学卒、診療所は2024年3月をもって廃止。52才時のもの)の方。ただし、平成3年46才時に大津市滋賀里病院(精神病院)を退職し、故郷の高知市郊外の無医村で開業した編者が正しいかどうかは別として、この方がどういうものを「ほのぎ」として認識していたかは十分汲み取れた(学術的には何の意味もないことだが・・・)。

愛媛県
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした」(全文引用)
松山市伊台のほのぎ

▼福岡県の事例
「字の同義語として、山口県や福岡県では「ほのぎ」「ほのげ」ということばを使っている



服部英雄さんによる「しこ名(「生活地名」(しこ名))」調査報告@佐賀県



地名研究のあるべき姿は、下記の文献からヒントが得られよう。ちょっと難解な本だが、この辺が地名研究の目指すべき王道。
コメント

松永史談会3月例会のご案内

2025年03月01日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会3月例会のご案内

開催日時と場所
3月28日 午前10-12時、喫茶「蔵」
話題「萩藩の『防長地下上申』『防長風土注進案』について」



福山藩の『備後郡村誌』(宮内庁書陵部蔵・・・これを『府中市史』の中で紹介した有元正雄氏はこれと阿部正精時代の、文治主義寄りの、福山藩の藩政改革との関連性に言及せず)に対応する地方支配用の郡村誌(村明細帳集成)ものとして本気度全/半開の藩府編纂物たる萩藩の『防長地下上申』『防長風土注進案』の性格・内容を考えていく。その目的は『福山志料』[名作の誉れ高い『福山藩風俗問状答書』をまとめ上げた(藩から儒教的倫理観を領民に注入することを託された御仁だが、文化人として国学にも食指を伸ばしつつも四書五経的教説から一歩も出れなかった)菅茶山の学力判定]など含めた福山藩の郡村誌(村明細帳集成、宮原『備陽六郡志』も同様の性格を持つ)ものの評価のための手掛かりを探すため(菅茶山や馬屋原重帯はそれとして、『国富論』(1776)を書いたアダム・スミスやマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』905(風土と起業家マインドとの関係を問題とする)に比べるとまことに情けないヨチヨチ歩き水準のものだが、同時代の、儒教的惑溺(福澤諭吉が賴山陽らを揶揄/批判するときに常用した用語)を脱した感じの我が国の国富(『西薇事情』中に於いて備後国豊饒化プランを答申)志向のユニークな「実証主義的経世家」本多利明(1743-1821)『西薇事情』寛政7年(1795)。。。。本多利明については先学の研究成果に導かれながらのことではあるが松永史談会4月/5月例会で取り上げる
史料解説:『防長地下上申(享保11~宝暦期)』/『防長風土注進案(天保末年に企画編纂し、明治期に完成)、今回は取り上げないが近藤清石 編『山口県風土誌』明治34年-37年完成』⇒国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

関連記事・・・・広島藩の検討は終了

【参考文献】例えば
▽田村哲夫「防長風土注進案の成立とその構成について」(『防長風土注進案』付録:各巻の月報中の巻頭論文21編を所収1、1-5頁 1960)。その他三坂圭治「防長の地誌編修事業について」、関順也「天保改革と注進案」、岩根保重「江戸時代における幕府・諸藩の地誌編纂事業と長州」など。
▽広田暢久「長州藩編纂事業史」1-6、山口県文書館研究紀要9~14、1982-1987。『萩藩閥閲録』など各種藩府編纂ものを取り上げる。
▽影山純夫「『防長国郡志』・『防長風土注進案』と近藤芳樹」(『山口県地方史研究』94、37-47頁、2005)。近藤は国学者。

参考文献①
コメント

松永史談会2月例会のご案内

2025年01月28日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2月例会のご案内

開催日時・場所
2月28日(金曜日)、午前10-12時 喫茶「蔵」
話題 国土地理院空中写真の地域史研究活用法について(松永湾岸域に関する基本常識の確認に重点を置く


哲学(geosophy)的には生命地域主義(bio-regionalism)の感性を養っていただく。
こういう考え方は大正デモクラシーの時代(御木本隆三「ラスキン研究 彼の美と徳と経済」、厚生閣、大正13 なお、実はラスキンの考え方をもっともうまく取り込んでいたのは無論『貧乏物語』河上肇だが、それを外せば例えば福沢諭吉の弟子田尻稲次郎『地下水利用論』洛陽堂刊辺りやこちら)にその片鱗が見られたが、主として1960代の欧米社会で登場してきたもの。この思想の中にはEco-feminism(人間による自然の搾取が引き起こす環境破壊と、男性優位の社会の中で女性を取り巻く不平等の根本の構造は同じで、この価値観をオルタナティブなものに変えていかなければどちらの問題も解決しないという考え方)/人間の利益(特に先進国の人々の健康と豊かさの向上)のために環境の保護を主張する立場を批判していう言葉であるShallow-ecologyに対するDeep-ecology(Shallow-ecologyと異なり、自然と人間は切り離せない関係にあり、人間は自然の一部であるという考え方)/Antholopcenticism(人間中心主義…総理大臣福田 赳夫氏の詭弁「人の命は地球より重い」的思考)に対するGeo-centricism(地球中心主義・・・地球温暖化問題でその大切さが自覚されてきた思考様式)といった想いが反映される。松永史談会がこれまで心掛けてきたことは、自分たちの足元の自然を考える感性の延長線上で、自分たちが歩んできた(or 歩んでいる)足跡をちょっと立ち止まって見つめなおす作業の一環として松永湾岸(生命地域/Bio-regionとしての最小単位として措定)に軸足を置いた地域史研究を実践している訳だが二月例会では改めてその辺りの理解に役立つ話題の提供となる。

昭和30年代まで松永湾岸の水田地帯では藺草栽培(写真は『柳津村誌』掲載写真だが背景山地の迫り具合から見て山南地区の写真であった可能性有り)が行われていた。
藺草栽培地の判別作業は1961年5月撮影分を使う。同年7月撮影分には刈取後の水田の状況が撮影されている。5月撮影画像で黒っぽく写っていた場所が藺草(例えばここに示したアニメ画像中の矢印部分)においてそこが逆に収穫後は水稲の苗が植え付けられるため一際白っぽく変化するという特徴が読み取れる。松永高女生徒による今津中新涯での藺草収穫作業・隣の水田では田植え済み・・・本郷川の土手下の倉庫は前田(旧前田組、現在の松栄建設)さんのもの。手前の田植え済みの田は山陽本線線路敷脇の田、子守をする少女の立つのは剣川堤(↓)。

本郷町での藺草栽培(福山大学↓)



備後地方最大の前方後円墳(間壁忠彦・間壁葭子『古代吉備王国の謎』、新人物往来社、1974)といえば尾道市高須町の黒崎山古墳だが、昭和40年代にボーリング場が建設され、現在は完全にその面影はないが1947-48年米軍撮影の空中写真にはかすかに墳墓の面影をとどめている。
裸眼で実体視可能な3D画像(PC画面を適度に縮小し、左右2画面を両眼視すると黒崎山が立体的に見える・・・ちょっと訓練が必要だが簡単、手法についてはネットで調べてください


松永湾岸についての常識1:流入河川ごとの潮汐限界点
松永湾岸の干拓地(オランダのポルダーと同類)は潮汐限界点よりも海側に形成された干潟地形を堤防で囲ったもの。
松永湾岸についての常識2:新涯地名


備後国高須庄の故地
(とにかくここは萩藩閥閲録中の高須氏関係の記事や宮原『備陽六郡志』高須村条及び分郡下岩成村条(「当村名主久五郎は沼隈郡高須村十兵衛が一類にて苗字を杉原と」)辺りを見かけたが、何分にも文字史料が不足→【渋谷・細川】)

阿草・下組(岡田家墓地:上画像中で赤マーク点滅)から見た柳津龍王山・熊ヶ峰方面の展望
柳津龍王山から高須・山波方面の展望。


福山市園芸センター最上部から見た松永湾(風景写真風にショット)・・・画像中のXは戸崎、最遠部に四国山脈。
本郷奥山中国電力第十高圧鉄塔付近のピーク(いつの間にか禿山状態の場所)からとった松永湾の景色
【関連事項】
村上正名『備後松永湾岸』、平成元年、芦田川文庫14 環境/歴史/文化という古典的な自然主義と博物誌を標ぼうした書⇒Place-based bioregional culture→アメリカでは「流域」紀行とか、「長江」文明/「黄河」文明の場合とはニュアンスは異なるが「流域」(watershed)に軸足をおいた考え方。

関連記事:中世の製塩
関連記事:中世塩浜考-「文安3(1446)年備後国藁江庄社家分塩浜帳」を巡る比較文化論-
関連記事幕末期における松永港沖合の北前船停泊地-続「安政4年松永湾岸風景図屏風」の研究- 
⑤関連記事:寺岡千代蔵『漁村教育』、洛陽堂、大正6
機織屋庄助(1726-1788、安永浜の造成)神仏混交思想(龍神信仰+殺生禁断)の中に生命主義の萌芽が認められる。
なお、北条霞亭の後継者(娘由嘉の婿養子)が北条悔堂(1808-1865)だが、悔堂の異父兄が機織屋岩井昌吉(松永・機織屋要助の子)とその後妻(悔堂の実母:福山高橋孫右衛門の娘)との間に生まれた女子で、この女子(1815-1876)は高橋要平(1813-1869)の夫人となる。北条悔堂が松永きっての文化人一族・医師竹原屋高橋西山(圭介、1817-1876、養浩の息子)と懇意にしたのはその辺りのつながりが関係していたのだろう。ちなみに高橋碧山(1849-1905)は本家の竹原屋高橋西山家を継いだ高橋要平の子。→『松永町誌』1952刊参照
高橋西山の父親張(1782-1856)は菅茶山の弟子、和歌は香川樹門下。(高橋景張一家墓地の隣に機織屋要助家墓地)。北条悔堂の夫人・由嘉は菅茶山の一族。菅茶山の後継者は門田朴斎家からの養子・自牧斎。廉塾を経営した神辺・菅家は門田家からよく婿養子を迎えた。


【メモ】
松永湾岸北岸域の現在・・・
南松永(S)・柳津(Y)地区と東尾道(H)地区とを連坦(共通の都市圏として連携)させることがこの地域での干拓地創生政策の基本。

余談-松永史談会が頭の片隅に置いている2月例会とは無関係な話題-
地方自治体の取り組み(準備段階・・駅北再開発構想かYSH湾岸域連坦構想)・・・頓珍漢な駅北賑わい取り戻し作戦。 駅北が駅前商業地区として繁華街(大正町・日の出町などは民間開発、中身は貸店舗+裏長借家)化したのは駅裏が塩田地帯だったから。昭和40年代以後、新幹線・道路建設に伴う廃土で旧塩田の埋め立てと地域開発がすすめられ、そちらへ商業業務施設の移転が進み、平成期に入ると駅南に松永地区の中心性が移動し、その結果駅北がマイカー利用への傾斜/通勤者による鉄道利用の減少も相まって、空洞化。顧客吸引力が大きな、いわゆる繁華街は、外形的にも、かつての場外/境外(街路上、すなわち商店街)型から入場料金の徴取が容易で入場者の管理が容易な場内/境内(ショッピングセンター内・競技場内、統合型リゾート施設内)型へと大変容し今時の繁華街はショッピングセンター内に現出するだけ。そういう類の事業所となると松永地区の場合用地面でゆとりのある柳津・松永の湾岸道路沿い(B)ということにならざるを得まい。そういう方向で(中長期的な視野で、いな、今のうちに手を打っておくべきことなのだが)松永地区の再開発を考えていくと、ネックになるのがこの(B)と尾道市の新都心ともいえる東尾道との連坦を妨げている地方自治体の壁だけだ。
松永駅北の旧繁華街(貸店舗によって形成された見かけ上の繁華街だったが、その裏は借家街)の再開発上のポイントはまず、たかだか数千人程度の商圏内人口(高齢者が多い、Jr松永駅の乗降客数は駅北・駅南合算で3000人/日で、減少傾向)を念頭に入れながら開発提案をすべきで、顧客吸引力のUPを狙うなら、現状では細分化された地所の、錯綜した所有権を証券化するなどして大胆に整理統合することだ。そこがこの区域の再開発の一丁目一番地(虫食い的に空き地/空閑地が存在だけなので実現は絶望的)。今治市はサッカーの岡田武史氏の尽力でスポーツビジネスを梃に地方都市として新たに離陸した感じだが、はきもの資料館自体を含め、そこに間借り状態の宮沢喜一記念館にしてこんな調子(飼い殺し状態、地域発展の起爆剤として活かしきれない状態)だから・・・。道の駅・ロードサイドビジネスの時代に都市計画道路というもう一つの松永‐府中道(市道、並行して県道”福大通り”が別途に存在)を建設し昭和30年代ではあるまいしJR駅前中心の街づくりを構想するトンチンカンぶりもトンチカンぶりだが、短期的に駅前地区の賑わいが必要なのは旧駅北繁華街から転住してきたけれど、いまではすっかりさびれ、顧客吸引力ほぼゼロ状態の殺風景な駅南口ロータリー広場周辺地区だけであり、無人駅である松永駅前北に商店街を復活させてそこの賑わいを取り戻すというのはそもそも目標の立て方として時代錯誤でありかつ二兎追うものにもなりかねないのでその点はよく考えることだ。
仮に福山大学の存立といった埒外の問題を振りかざして駅北(旧日の出通りなど)地区のリニューアルをしても投資対効果面で不安が付きまとうし、そこが再び貸店舗形式で昭和40年以前のような感じで商店街化できる可能性は上述のような理由でほぼゼロだろう。
JR駅の一日乗降客数(2021);松永3000,東尾道・赤坂1500+、尾道4500,三原5000+,福山15000,東福山3800(人)、府中駅1000-,神辺駅1000,下線は新幹線駅あり。建設省の国土数値情報では無人駅松永の乗降客は8000/日(往復利用の数値だが、通学生が主体だとしても人口の2割というのは明らかに過大)。福山駅も45000/日で数値が盛られている。
Jackson, P. (1988). Street Life: The Politics of Carnival. Environment and Planning D: Society and Space, 6(2), 213-227.

【メモ】4代藩主阿部正倫時代には福山藩の寛政の改革の中で国家豊饒策に関する答申書:本多利明『西薇事情』が出されているが、これまで行ってきた文化文政期(阿部正精時代)の古地誌類の研究以上にこの分析が必要。
『西薇事情』では最初に府中市の上山町の話題が登場。ここは地域調査のため何度か訪れたことがある府中高校の上方に位置するちょっとした高原台地性集落だ。本多の巡検先は神辺-府中平野・福山城下と結構驚くほど広範囲だが、どうもその辺に案内者がいた印象だ。

宮田 純【著】『近世日本の開発経済論と国際化構想―本多利明の経済政策思想』、御茶ノ水書房、2016.
宮田純 博士論文要旨
西岡幹雄「本多利明の『自然治道』論と開発経済モデル、同志社・経済学論叢51,2000
など。

コメント

研究テーマ設定に関する雑感-沼隈郡柳津村関係の歴史民俗-

2025年01月25日 | 断想および雑談
松永史談1月例会は菅茶山の『福山志料』が有する文化政治性を念頭に置いたテーマに限定した話題とした。こういうアプローチの必要性を痛感したのは、例えば巻15・安那郡条部分で、自分が1783-85年に制作した漢詩「農功五月・・・」で使った造語(元禄検地帳では「碇山」とある小丘に対して中国桂林近くの霊峰”猫児山”からとった些か世間離れした中国風の創作名称)を付与し、それを『福山志料』では公称でもあるかのごとく意図的に繰り返して使っている→「八王子権現」参照ことを突き止めてからだ(その他の用例)・・・こういう公私混同や節度の無さは菅茶山の『福山志料』にはいろんな形で様々見え隠れする。ややシニカルな言い方にはなるが菅茶山の賢いところは神辺平野の水文環境が激変した本当の原因を百も承知(or うすうす感じながら)の上で、それを藩側に対しては敢て口には出さず、神辺平野上古海面説=「穴海」論(湿地=遊水池化の原因を記紀神話に登場する穴の海の故地だからだということ)を声高に主張し、穴海言説を使って当たり障りがないように神辺平野の治水対策請願用のキャッチフレーズ(惹句)化したこと。1780年代の漢詩の中で表現されたこととその当時のことを20年後『福山志料』中で言及した際には『福山志料』の中の言述編制法に準拠した形で扱っていたために同一対象が矛盾はしないが、まったく異質な意味づけがなされ誠に奇異である。
いろいろ神辺調査をしてみると菅茶山が制作した歴史民俗学的言説が他にも多々あることを知った。


1月24日開催の松永史談会1月例会に一人の女性が途中顔を出されたが、聞けば柳津(沼隈郡柳津)のことに関心があること事だった。わたしの印象では自分でも明確な研究テーマを絞り切れていないようだったが、一定水準以上の研究をしようと思えば、基底にすえるべき新出のオリジナルな史資料乃至はオリジナルでなくても既出の史資料の独自のアプローチがなければ、失敗に終わり勝ちとなる。柳津村には分郡山手村の三谷家や沼隈郡東村の満井石井家のような圧倒的な旧家がなく、庄屋も今津・松永・藤江のそれが入れ代わり立ち代わりしながら状況にあった印象なので、地方史料(村田露月さんら調査済み)は残っていたとしても部分的だろうか。
➊柳津に関しては地方史料はほぼ村田露月編『柳津村誌』が紹介し、神道民俗学的なことについては
菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が柳津竜王山関係の共同体祭祀に言及している。ここがスタート地点で、ここから何を積み上げていくかということになろう。高島宮関係のものはこの地区の歴史を決定的に虚妄の世界に引きずり込んだ印象が強いので「偽文書」研究の領域の研究対象との腑分けが不可欠だ。参与観察や聞き取り中心の民俗学的な調査はこの地域の場合、社会学的な研究は可能かもしれないが、歴史民俗学的研究となるとこの地区にはしっかりとした物知りがすでに不在の為、fakeな情報しか入手できないはずだ(「神武天皇上陸地」とか記紀神話から引かれた「磐井」だとかいろんな説明版とが石碑があるがすべてFake(fakelore,簡単にいえば嘘)神社関係の社伝もすべて(支離滅滅の)作り話こういう部分を直ちに削除(delete)することだ。中世の柳津町域は沼隈郡神村&沼隈郡新庄が入り組み状態の地域だったところで藩政村柳津は中世の市場+柳井津を中心に編成されたためにそこの村鎮守は清平にあった土地神を核として清平大明神=現在の橘神社の前身を新造。藩政村柳津村は全体としては旧庄鎮守神村八幡宮の氏子圏に編入されていた。そういう関係でわけの分からない社伝を清平大明神→橘神社は偽造することになった。明和期の入会山は神村・今津村との三ヶ村入会形態を成していた。)まとまった形で古文書ということになると、松永市長をした塩田地主山本長市家(製塩では藤江岡本山路家ゆかりの岡本組組合長)がそうだったが、昭和50年代以後家屋の建て替えをした際に、昔のものは整理したとか代替わりで、孫の代になると昔のことはわからないという旧家が多いだろうと思う(要確認)。
福山市歴史資料室・・・役場関係(現在整理中)

柳津龍王山山頂を占拠した男に有罪判決(20230322)
「広島県福山市と柳津町財産区が、市と財産区が所有する土地を長年無許可で占有しているとして、「高澪(たかつゆ)龍王神社」と代表者の男性に土地の明け渡しや損害賠償を求めた訴訟の判決が22日、広島地裁福山支部であった。森実将人裁判長は土地を使う権利は認められないと認め、「神社」側に土地の明け渡しと52万5千円の支払いを命じた。(引用先)」

一定水準の研究を目指すなら旧藤江村や旧神村の方が成功確率が高まる。例えば➍藤江村出身の弁護士で政治家(国会議員)だった作田高太郎の著作物(中身は相当に粗雑でオリジナルな歴史研究書ではないがこの書物の中には明治-大正・昭和前半期を生きた沼隈郡藤江村出身の人物の人生後期の思考が判明)が使えるし、神村の場合は英文学者福原(大正10年代頃は松永高等小学校教員)のものが使える。研究法としてはかれらの著作物の中から自分の研究テーマに使えそうなもの(普通、砂金取りのような作業=労多くして報酬は僅少、まともな研究者はこういう作業が普通に苦痛なく嬉々として出来る)を抽象する形でのものとなろう。
その他、視点を沼隈郡域に拡大すると➎雑誌「まこと」(福山城博物館櫓文書or山南の村田露月家蔵本)を使った研究とか寺岡千代蔵の文献をベースとした沼隈郡走島・❼一流の文筆家であり民俗誌家でもあった山本瀧之助をベースとした故郷沼隈郡千年村の研究などいろいろ可能。郷土史家による書籍いろいろ。❽福山市金江町誌については普通に郷土史家水準だがこちら。郷土史家の書籍は無いよりも益し程度で力作『沼隈郡誌』で間に合うことも多い。
コメント

近世の淡水性巻貝起因の風土病(片山病)関係記事

2025年01月16日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
菅茶山の『福山志料』(1809)と藤井好直『片山記』(1847)

このデータを見れば菅茶山という人の重要な2つの側面が分かってこよう。さてさてそれはどういうところだろうか。ヒントはこちら。一つはこの人の素晴らしいところ、今ひとつはちょっと・・・・という辺りのこと。
藤井好直のいう「西備穴海」という表現は『西備名区』を編纂した馬屋原重帯譲りにものと判るが、井戸を掘っていて数丈下から船の帆柱(帆檣/はんしょう)と思える枯木が出土したといった話は何となく菅茶山からの受け売りのような感じもしてくる。それこそ穴海が実在した証拠だと藤井は確信したらしい。ただ仲間(家族?)内には当時から西備穴海言説に懐疑的な人もいたことはいたらしい。
片山病と福山市のゆかりのもの達。日本住血吸虫の中間宿主であった淡水性の巻き貝:片山貝は長さが5ミリ、直系が2-3ミリ程度の小さな巻き貝で一個の貝の中に様々な成長段階の2-3千もの日本住血吸虫がいるらしい。この生息する田んぼに入ると知らぬ間にセルカリア(有尾幼虫)という状態の日本住血吸虫が皮膚から人体(犬猫を含め牛馬等の家畜など)に入り込ん(経皮感染)で、最悪の場合は肝硬変で死に至るという病だったらしい。藤井は漢方薬を処方したが効き目がなかったと書いている。

典拠:中山正真編『漢方医藤井好直 : 片山病先覚者の人と業績』、1981、巻末付図。

日本住血吸虫病(片山病)の終息と広島県の取り組み
― 白馬・吹雪号の昭和天皇と片山病 ―


橋本秀夫†(広島大学名誉教授・広島県獣医師会会員)

1 日本住血吸虫病(片山病)
 広島県では片山病,山梨県では水腫腸満とも呼ばれ,古くから汚染地域の住民に多大な被害をもたらしていた原因不明の風土病は,1904年5月26日,岡山医専の桂田富士郎教授が解剖した猫から発見した住血吸虫が原因と判明し,日本住血吸虫(Schistosoma japonicum)と命名された.それからわずか4日後に,京都大学の藤浪 鑑教授は,病理解剖した片山病の患者から虫体を発見して本症の感染を確認した.
 さらに1913年,九州大学の宮入慶之助教授と鈴木稔助手は流行地のひとつであった佐賀県で,日本住血吸虫の中間宿主である小さな巻き貝(約1cm)を発見した.この巻き貝は発見者にちなんで宮入貝と命名されたが,別名,片山貝とも呼ばれている.
 日本住血吸虫病は,片山貝から出て来た感染仔虫(セルカリア)が遊泳している水中に入ると,皮膚を通して感染する.このように中間宿主の巻き貝が発見され,片山貝の生息する地域の湿地帯で患者が発生する全貌が明らかになってきたことから,やっと各地で対策が進むこととなった.
 なお,日本住血吸虫病は犬や猫を始め,牛や馬にも被害をもたらす人と動物の共通感染症の一つでもある.
 この原因不明の風土病あるいは地方病として長い間,人畜に被害を及ぼしていた日本住血吸虫病の流行地は,次の5地方が中心であった.

利根川流域(埼玉県,千葉県,茨城県).
甲府盆地(山梨県).
富士川流域(静岡県).
広島県深安郡神辺町を中心とする片山地方.
筑後川流域(福岡県,佐賀県).
 発生各地では官民が一致して予防,絶滅対策に取り組んだものの,効果は中々あがらなかった.1957年にいたって厚生省は,改正された寄生虫予防法に基づき,日本住血吸虫予防撲滅対策10カ年計画を策定し,水田水路のコンクリート化,殺貝剤の散布,患者の調査と治療などの予防,撲滅対策を強力に推し進めることとなった.
 その結果,広島県では1980年に絶滅が確認されて撲滅組合は解散し,最後まで残っていた山梨県でも1996年に終息宣言を行ったことから,わが国における本病発生の恐れはなくなった.
 日本寄生虫学会では,2004年が本病発見の100周年に当たるのを記念し,発生地の一つの筑後川流域で長年にわたって研究を続けて来た久留米大学において,2003年3月,「日本住血吸虫発見100年 記念国際シンポジウム」を開催した.開催案内のポスターには,周辺に住宅の建ち並ぶ現在の片山の写真が大きく載っている.
 こうしてわが国では日本住血吸虫病の心配はなくなったものの(ただし,片山貝は山梨県の1部にまだ残存する),海外では中国を始め,東南アジア,その他,何千万という人々がいまだに感染の恐怖にさらされている.

 

2 藤井好直医師の片山記
 日本住血吸虫病,別名片山病とも呼ばれている風土病についての最初の学術的な記録が,福山市出身の藤井
好直医師によって著された片山記(1847:弘化4年)である.
 記録の概略は「備後の国,川南村(現在の広島県深安郡神辺町川南)に片山(別名,漆山)という小高い山がある.昔はこの辺は海であった.あるとき漆を積んだ船が大風のため片山の近くで転覆した.そのためか,この辺りの水田地帯に入ると皮膚が漆かぶれのようになり,下痢をして手足がやせ細り,顔色が黄色くなったり,さらに腹が膨れ上がってやがては死んでしまう病気が多発している.人だけではなく,牛も馬も同じように何十頭も死んでいる.何が原因か分からないので,全国の同業の医師に聞いて見たい」というものである.
 それから30年後にふたたび筆をとり,「片山病は依然として発生し,死者が出ているが,いまだに原因は不明である」との付記も残している.

 

3 吉田龍蔵医師の活躍
 片山の周辺では原因不明のまま相変わらず患者が発生していた.神辺町川南に隣接する中津原村(現福山市御幸町中津原)で開業し,多数の片山病患者を診療していた吉田医師は,片山記が記されて60年近くにもなるのに,いまだに原因も治療法も解決されていないことを苦慮していた.自ら多数の患者を解剖して原因の究明をしていた吉田医師は,前述のように京大の藤浪教授に病理解剖を依頼して剖見した結果,ついに1904年,患者の門脈から日本住血吸虫が発見されたものである.

 

4 片山病に対する広島県の取り組みと動物実験
 広島県は1882年(明治15年),「片山病調査委員会」を組織して研究,対策に乗り出したが,そのころはまだ,原因が不明であったため,成果は見られなかった.
 1907年(明治40年),吉田医師を中心に「地方病研究会」が組織され,研究活動が始まった.
 1909年に藤浪教授らは片山の汚染地域で,牛17頭を4グループに分けて感染実験を行い,水中からの経皮感染を証明している.同じ年に桂田教授らも,神辺町に隣接する岡山県高屋町(現井原市高屋町)の汚染地域で,犬と猫を水田に浸漬する実験を行い,経皮感染を確認した.
 1918年(大正7年)になり,それまでの地方病研究会は解散し,新たに有病地区9カ村からなる「広島県地方病撲滅組合」が組織され,生石灰による殺貝事業が開始された.
 戦後の1948年(昭和23年),後述するような理由で「広島県地方病撲滅組合」を「御下問奉答片山病撲滅組合」と改め,また,殺貝剤を生石灰から石灰窒素に変更して駆除を進めた.さらに翌年の1949年には,広島県衛生研究所の支所として,片山病予防研究所と付属診療所が神辺町に設置され,研究調査,予防対策とともに,患者の診療も開始された.
 広島県の終息報告書(1991)によると,集計されるようになった1920~1988年の患者数の合計は11,784人,1918~1988年の死者数の合計は415人と記されており,その被害の大きさに驚かざるを得ない.
 また,1971年,牛347頭について行った血清学的検査の結果では,50頭(14.4%)が陽性を示したとある.


インドネシア(アジア・アフリカ、とくに中国など)では住血吸虫が繁殖しており、現地民の真似をして川などで不用意に沐浴/水浴びしたり、素足(熱帯なので特に要注意)で田んぼの中に入ったりしないことが大切。
若いときは島嶼部アジアの現地調査に出かけていたわたしだが、しばしば田んぼに入ったり、川や水路で沐浴をしていた。いちど川岸近くでザリガニ取りをはじめたところ川岸の木の枝には毒蛇が沢山いると子供に注意されたことがある。本州には8種類の蛇がいてそのうち2種類が毒蛇だがそちらは20種類の内12種類毒をもっているということだった。
コメント

謹賀新年

2024年12月31日 | 「okey dokey(オキドキ)」へのgate
コメント

菅茶山のお墓参りを兼ねて、神辺へ

2024年12月14日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


天別豊姫(あまわけとよひめ)神社(菅茶山はこの海の神は穴の海と関係があると・・・菅茶山の「穴海経」の聖地、広島県福山市神辺町大字川北142-2・・・菅茶山らが制作した嘘情報:天別豊姫神社)、茶山は地元では饅頭(旧廉塾の東隣に慶応元年創業の「茶山饅頭本舗」)の名前になるくらいの有名人で、同時に地元神道家の役目も担っていた。お陰でいろんな僻説を地元に振り撒いてきた。小丘・碇山(いかりやま)を中国華南の大山名から借りて「猫児山(ねこじやま/ねこやま?・・びょうじさん→確認中)」とするなどこういう趣味は「遺芳湾」の命名だけではなかった。


下の写真は碇山(いかりやま)観音・皇子神社@王子山、菅茶山の漢詩の中では「猫児(ねこじ)山」。風化花崗岩の小丘。井上という苗字が目立った。川南地区。イカリ山山麓の民家(1.5~2.0㍍ほど水田面より高く浸水被害を受けない)


菅茶山の「廉塾」跡。茶山屋敷前の山陽道筋。現在家屋の工事中。楠木の巨樹の背後は高屋川堤防(高屋川堤防側から見た工事中の旧廉塾)。


網付谷(新市の「網引(あびき)」と酷似・・・いずれも菅茶山発の「穴海」言説の中で引き合いに出されていた、菅茶山特有の創作神話,例えば天別豊姫神社の社伝(当該神社の前身を網付谷筋の高台にあったという「磯神社」)と紐付け譚)にある菅茶山一家の墓地(ちょっと荒廃感‥県史跡なのでうっかり手が出せないか・・・北条霞亭夫人・敬の墓、土葬のため墓石は傾く)、建屋の中に置かれているために明治13年没の人の墓石(シンさん、菅普賢夫人)がピカピカで驚いた。すっかり紅葉。茶山の墓誌は頼杏坪撰文。埋葬形式は頼春水墓と同じ
儒者墓についての研究論文:吾妻重二「日本における『家礼』式儒墓について : 東アジア文化交渉の視点から(一)」、関西大学東西学術研究所紀要 53 3-39, 2020-04-01、関西大学東西学術研究所→「儒葬とは朱子の『家礼』に基づいた葬礼」:大塚先儒墓所

 菅茶山一家の墓地の下の段には土塀で囲まれた立派な裁判官菅波鶴雄家墓地(1957年)。落ち葉で埋め尽くされていた。
松浦さんの庭先に茶山の漢詩碑「五月の農事はたいへん忙しい。大麦を収穫したかと思うとすぐに田植えが始まる。一夜園林を雨が洗うと、猫児山のまわりの田は水を張り空を写している。」 元藤沼では菅茶山の時代には二毛作してたようだ。特段水防対策など住居にも田畑にも見かけなかった。菅茶山屋敷の前庭の一角にある湧水池も時々水が枯れるらしい。菅茶山は元藤沼の梅雨時の大雨で海のようになると書いていたが、これは宮原直倁同様の指摘で、当時は今日とは事情が異なっていたのか
千田村辺りは芦田川の増水時には冠水したようだが、宮原直倁によるとここは丈の低い越流堤が建造されており明らかに福山城下を洪水から守るために遊水地として機能させられた場所だった。そういう類のことを藩主水野氏時代以後の藩は色々と治水工事の中で行っていたはずだ(普請関係の史料で要確認)。

説明員さんから頂いたパンフレット表側//裏側
神辺本陣跡(旧廉塾から500m西)


6㌔徒歩。3時間。電車での往復に3時間。
本陣の立地する旧山陽道の街並みはこんな感じ。旧山陽道の200m北側には高屋川。

この辺りの山陽道は高屋川沿いにあるため時折冠水したのか道路面より2尺ほど宅地を嵩上げした民家も散見されたが、ここではこういう方がむしろ例外的。
神辺小学校・中国銀行神辺支店近くの旧山陽道沿いの旧家の嵩上げ状態(土蔵の石垣高115㌢)
本日のフィールドワークの目的はこちら背後の山が片山(いわゆる片山病\日本住血吸虫病の片山)、手前の叢林が碇(菅茶山命名の猫児山)山/猫児山/王子山を訪れる事だった。かつて菅茶山が主張した「穴海」のあった一帯だ。

菅茶山が指摘の元藤沼(上図中のWet land部分)は福山城下を洪水から守る遊水地としての機能を果たした。藤井好直『片山記』1847は片山一帯の低湿地で増殖した淡水性巻き貝起因の風土病(片山病)をルポしたもの。彼の云う「海」は穴の海を念頭においたものだが、ただしくは一帯に形成されていた湧水池(低湿地)に片山貝が繁殖。
高屋川左岸堤防沿いを歩きながら見つけた巨木(早田荒神の椋木)とひときわ目立つ蛇円山、山頂付近の雨乞い用の高龗社立地
水害対策例

元藤沼と呼ばれた菅茶山主張の古代「穴の海」の一帯には身を守るための建築構造物類
水屋・水塚(木曽三川、庄内川、荒川、利根川)
段蔵(淀川)
城構えの家(吉野川)
石囲いの家(吉野川)
畳堤(揖保川)
助命壇(木曽三川)
舟形屋敷(大井川)
サブタ(大野川)
助磊(江の川)
一文上がり(斐伊川)
の類はなし。
コメント

松永史談会12月例会及び次年度1月例会のご案内

2024年11月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会12月例会のご案内

開催日時 12月20日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵
話題:11月例会に引き続き、今回は次年度市民雑誌投稿論攷の解説➋(文化文政期の松永村地並絵図に描かれた沼隈郡松永村像)・・・Microstoria/ミクロストリア(単なるケーススタディーではなく、史料的細部の精緻な分析を通じて、「小さな場所で大きな問い」を立てようとする類のイタリアのカルロ・ギンズブルクらが提起した歴史研究における一つの野心的試み)第二弾ということになります。

松永史談会 次年度1月例会のご案内
開催日時 1月24日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵

2025年1月例会は次年度市民雑誌投稿論攷の解説❸・・・馬屋原重帯&菅茶山を引き合いに出しつつ彼らのGeographical lore(ここでは江戸時代に流行した前科学的自然観に根差す虚実ない交ぜの地理/歴史研究を指す)の探究を行います。
関連記事


話題:「高島平三郎氏(1865-1946)の人となり」と題して、明治前半期に県内の神村・松永・金見小学校(校長)で教鞭をとり、東京に転居後は我が国の近代的体育教育の基本理念(心と身の鍛錬)の構築と心理学を土台とした青少年教育の普及発展に多大の貢献をした大先生。この後年富士川游(我が国における医学史研究の泰斗)氏らと在京広島県人会の活動旧福山藩出身の学生の育英に尽力をした人物の人物像(足跡を辿る)について解説していく。
福山市神村町須江に立つ高島平三郎先生敬慕碑(丸山鶴吉氏撰文)と勤務校・神村小学校須江分校址(いつも清掃され、きれいだ)。同様な記念碑が金江町観音堂の元金見小学校跡にもある。昭和10年頃の郷土研究が奨励された時代の産物。


高島平三郎・岩谷小波抜きに宮沢賢治の存在もなかったし、高島氏は大正期に三越創業者の日比翁助らとダッグを組んで子供博覧会(子供を商業文化の対象に据える)を企画するなど新しいトレンドを作っていった。高島氏が誠之舎(旧福山藩江戸丸山屋敷/文京区西片、東京大学キャンパス前の一角に作られた旧福山藩出身者用学生寮)舎長になったのもそうだけれとも内務官僚丸山鶴吉氏や東京帝大医科教授だった思想家永井潜の存在を抜きに語ることはできない。

参考サイト:これまでに集めた高島平三郎氏関係の文献資料(2014年までに収集した高島の著書類、現在は収集活動は休止)
ティーンエイジャー時代(明治16-18年)の高島氏の消息に言及
高島平三郎氏の業績を紹介した心理學史関係文献
高島平三郎『体育原理』育英舎、明治37・・画期的な体育学の教科書だと評価。
高島平三郎氏の文筆家としての特徴とその限界。

注)高島平三郎氏は戦時中の軍国主義的膨張政策の政策用語「八紘一宇」を唱えた 田中智学(日蓮宗)と共同行動をとり、また丸山氏は終戦直前の大政翼賛会事務総長をさせられた経緯がある。作家の田辺聖子氏、ノーベル賞学者利根川進氏らは明治期の向都離福型福山出身者の子孫たちだが、前者はこてこての浪速女、後者はほぼ日系アメリカ人である。彼らと違って高島-丸山氏らは郷党意識の旺盛だった向都離福者一世。

永井潜年譜

断種法制定の保守主義者永井潜,当該法制定に理解を示したフェミニスト平塚らいてうと永井とを結びつけた「高島平三郎」。

The Geographical Lore Of The Time Of The Crusades
by John Kirtland Wright、1925.

「穴の海」談:母なる川「芦田川」との共生〜第1回講演会(福山大学・国文学:青木美保さん)・・・・井伏文学を念頭においた講話だが、こういう漫談はダメ!
コメント

松永史談会11月例会のご案内

2024年10月28日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会11月例会のご案内

開催日時 11月29日 午前10-12時
場所    蔵
話題  備中国の国司/備中介だった、延喜期の代表的学者(紀伝道系)官僚三善清行(842-918、九世紀官人文学三大トリオ/菅原道真・紀長谷雄・三善清行の一人)『善家秘記』中の(A)「(買官によって備前小目/しょうさかん=備前国司の下級官吏となっていた)良藤の話」について、それを説話文学化した『今昔物語集』巻16の第17話(B)「備中國賀陽良藤、為狐夫得観音助語」)と「三善清行意見封事十二箇条」(律令政治→摂関政治への移行期に見られた政治の欠陥や社会の矛盾を指摘)/『結眼文』(自嘲じみた諧謔的小話)/『藤原保則伝』(良吏論)との2側面より深く掘り下げていく。(骨子論攷は次年度市民雑誌に投稿済み)

これまでの研究では例えばちょっと古くなるが大曾根章介(大曾根章介❾、1974)の場合、(A)/(B)に関してはA=歴史性(記録性)、B=(勧懲教訓の色彩の強い)文芸性という機軸(次元)の中でテクスト解釈していた。中古文学史研究の専門家に対して言うのも何だが、11月例会では歴史家坂本太郎・所功らと違って、三善清行が生きた時代の紊乱(腐敗)した地方政治の暴露とまでは言わないが、そういう状況を作りだしていた地方豪族に関する一つのエピソード「賀陽良藤狐女と交わる話」という視点の欠落した大曾根のような、浅めの思考には組しない。

これまで松永史談会で言及してきた備中平野の主な史跡↓ 備中国府は893-897年三善清行(御年47-51歳)がそこのトップ(=官長、肩書きは備中介)として勤務したところ。
平安期には「おこ絵」(平安時代以降盛んに行われた滑稽味のある題材を風刺的に描いた戯画→『鳥獣戯画』など)やヲコ(嗚滸=滑稽,馬鹿)表現を動員して人を笑わせ楽しませる文学(柳田国男のいう「嗚滸の文学」、ex.『今昔物語集』)が流行。川口久雄の表現を借りると『将門記』の登場に見られるように、これらの作品群の中からは、中国古典から受容した「古風な儒教主義のモラルにしばられた凝固した人間」やそうした枠内からはみ出すような自由な文学的感性への共鳴/共感が伺えるようだ。『藤原保則伝』では受領階級のこの人物の行政手腕[強権的な住民に過重な負担を強いるやり方:苛政(「酷吏」)を排して、仁政・義にかなった方策採用(『良吏』or「循吏」=法律に従い正しく人を導く役人の行政手法)→「百姓和ぎ楽しべる(61頁)」形で民心掌握、東北地方の蝦夷反乱を鎮定するには硬軟両様の方法を駆使;「義方をもてし、示すに威信をもてして、わが徳音を幡し、(反乱軍側の)野心を変ぜば尺兵を用いずとも」66頁かれらの平定が可能。以後陸奥権守として民夷雑居を実現し、この地方を田地膏腴に、土産の生ずる、珍貨多端、68頁)なところにした]という形で高く評価。自負心の強い学者官僚三善清行の意識の根底には「官位の階段」という物差しが準備されていて、(当然自分のことを含めて)官人の業績はそれに報いる形でその階段の中で適正に処理されるべきだと考えていた。大曾根はこの作品を司馬遷の『晏子伝』に倣ったという意味では敬慕顕彰の発露だとして理解(❾、1974、107頁)しているが、こういうところに三善清行における思惟の在り方の一端が顔を覗かせていた訳だ。苛政×仁政(儒教倫理:王に対しては忠誠、人民に対しては仁恵。菅原道真の立場として王-人民を媒介する賢臣に徹する、王に試される器量としては「用賢(賢者の登用)」が出来るか否か→⓫川口、1959、218頁)
三善清行の赴任地:備中国府、「服部郷図」記載の賀陽郡古郡里が賀陽郡衙の立地場所だという見解もあるが確定的ではない。賀陽良藤が備前少目を退任後居住した「本郷足守」(足守庄一帯)

【引用参考文献】

矢作武「三善清行の方法 -藤原保則伝考-」、早稲田大学国文学研究巻 50, p. 50-57, 発行日 1973-06-01大曽根章介氏(「街談巷説と才学」、『国文学-解釈と教材研究-』17 (11), 102-109頁、學燈社、1972)等と同様に国文学史研究の立場から我が国王朝前期漢文学作品の漢籍に典拠(典故)を持つ事例紹介(この分野の研究が今日まで平安時代の漢文学+国文学の中心的研究課題)。この種の研究は枚挙にいとまが無いようだが、例えば井黒佳穂子氏も当然のこととして、漢籍にルーツを持つ我が国漢文学作品の典拠探しに傾倒した大曾根の見解を受容する形でその痕跡探し(井黒「『日本霊異記』上巻第二縁と『任氏伝』」、専修国文 (76) 1-20頁、 2005年1月 )。矢作・井黒らの研究はそこで止まっている。そこから先の議論をどのように展開するかが問題だが、その辺りの事は研究者の能力次第という現状のようだが、
大曾根流は中国人留学生たちによって引き継がれている。
矢作武「三善清行「詰眼文」考 (上/下)」上:国文学研究 44, p. 92-98, 1971-06-25、下:早稲田大学・国文学研究 45 18-24, 1971-10も同様。
なお、『詰眼文』(心と眼とが擬人化され,心の神と目の神とが問答する対話体の興味深い戯文、ここでは心の神が老衰して低下した視力の眼の神=処世術が劣り貧乏暮らしを強いられた学究型の人間/三善清行自身を詰める、ある程度自嘲じみた諧謔的小話。『本朝文粋』所収詩文自体にもそういう傾向が指摘されているが、本書撰者にして平安中期の代表的学者官僚の一人藤原明衡自身の文章には、『鉄槌伝』のような性を大胆,滑稽に描写した異色の王朝ポルノグラフィーのようなものもあるようだが、彼の詩文には長年の沈淪した境遇を嘆くやや暗いのトーンのものが多いのだとか。

❿延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書:三善清行意見封事十二箇条所功『三善清行』、吉川弘文館、人物叢書、平成元年、41-70頁(第四 備中転出)・・「備中介としての経験を踏まえて、崩れつつある律令制の実態を述べ、主に地方政治と官人・学生処遇の改善を求めたが、もはや朝廷に国政改革の意志はなく、意見の大部分は採用されなかった」)→⑫所功『三善清行の遺文集成 』、2018、方丈堂出版(三善清行の略歴、及び所収された本文・訓読及び全体的な要旨)及び所功『三善清行』(155-186)頁が「三善清行意見封事十二箇条」の紹介/解説。後者については山岸徳平 [ほか] 校注『古代政治社會思想』、岩波、59-101頁(藤原保則伝/三善清行 [著] ;大曽根章介校注、及び意見十二箇条 / 三善清行 [著] ; 竹内理三校注)が便利。

川口久雄『三善清行の文学と意見封事』、金沢大学法文学部論集. 文学篇巻 5, p. 1-15, 発行日 1958-01-20→その後、川口『平安期日本漢文学史の研究・上』、1959、245-270頁に所収
平安期の国文学研究者(大曾根章介・矢作武ら)や漢文学史研究者(川口久雄ら)は『本朝文粋』所載の平安時代の漢文学作品の中にある種の剽窃(ひょうせつ=パクリ)ものを含めて、中国の古典の翻案もの(adapted novel)化した多数の事例を抽出。『古代政治社会思想』中の大曾根章介分担分補注は、前述した大曽根章介(「街談巷説と才学」、『国文学-解釈と教材研究-』17 (11), 102-109頁、學燈社、1972)がそうであったように、同氏の最大の関心事であった類似表現の中国書からの発見作業結果中心。
以下、ネット上で「三善清行 論文」を検索し、ヒットした論攷類。
藤原時平の陰謀政治に加担し、菅原道真の左遷の口実を作ったとの説もある三善清行だが、三善清行研究者だった所功の菅原道真考
小林健彦「『今昔物語集』に見る霊鬼 ―学識と道理」、融合 (33) 21-28 2022年3月31日
菅近晋平「〈稲生物怪〉譚の受容と創造」(広島大学大学院二十七年度修士論文)の第一部第二章「〈稲生物怪〉譚の生成」論叢 国語教育学 12 号、2016-07-31 発行

河野友哉「『藤原保則伝』試論:<批判精神>の獲得とその文学史的意義」、国学院雑誌121-3、2020、29-46頁は三善の「政策提言」文:「三善清行意見封事十二箇条」を<批判精神>の発露だと捉えている

森幸安『寛延3/1750年中古京師内外地図』(歴史考証図)中に記載された平安中期の三善清行邸第2箇所(五条堀川東入、五条天神西隣の「三善清行亭」&所功氏の考証による「岡崎の善法三昧院」)
『北野天神絵巻』近世写本中の三善清行登場のシーン。『絵巻物による日本常民生活絵引』中の当該シーンの説明
神護寺領足守庄延寿寺(政所)
神護寺領足守庄延寿寺(政所)遺構‥発掘データは後掲C)「岡山県埋蔵文化財調査報告222、2009、9-46頁」

 なお、近世の国学と系譜的につながった明治の地理歴史研究さながらに読史地図作成を目標におき、口を開けば「自然と人間の関係」という時代遅れの自然主義的お題目を唱え続ける素朴な歴史地理学談義にならないよう心掛けたい。

説話の舞台となった備中国足守郷一帯の環境・歴史局面の参考資料;
A)平安末期(1169年)の京都神護寺領足守庄絵図(荘園発足時の古絵図)
〔裱背押紙〕
  嘉応元年十二月 日
       庄官
       田所
              (臣)
       案主散位賀陽朝□
       下司散位藤原朝臣
      国使
       田所橘朝臣(花押)
       案主散位弓削(花押)
             (朝臣)
       官人散位藤原□□(花押)
      御使
       左弁官史生紀(花押)

B) 足守庄(足守幼稚園)関連遺跡発掘調査報告,1994
C)足守庄関連(延寿寺跡・倉ヶ市遺跡・下土田遺跡)の文化財発掘調査報告2009
D)備中国賀陽郡服部郷における条里坪付(松永史談会作成図)
E)権勢を誇った賀陽吉藤一族の氏寺であったと思われる栢(かや)寺廃寺跡@総社市南溝手、古郡里にあったと推定されている賀夜郡家は吉藤の兄がそこの大領/役所のトップの座を占めていた。条里坪付状況から見た「服部郷図」中の「畠寺」と栢寺廃寺跡との位置関係(松永史談会作成図)
F) 高重進『古代・中世の耕地と集落』、大明堂、1975、213-249頁(初出「中世農村の復原-服部郷図による農業経営の分析-」史学研究73、1959に一部加筆し、「平野部『遺制郷』における中世村落の実態-備中国服部郷の場合-」と改題)
G)前田徹「備中国賀夜郡服部郷の開発」、地方史研究281(49巻5号)、1999、71-90頁。備中国庁膝下での話題だが、前田論文の当否はここでは一端保留。とりあえず筆者指摘の郷図記載の名呼称が室町中期の在庁官人の「吉久」氏という苗字の形で確認できるという点、つまり苗字や小字としての福留・延広等が古代中世における仮名起源らしいということの具体的な手がかりが提示されたこの部分限定で参照(注29)。
H)十二ヶ郷用水の建設者としても地元民から崇められる『平家物語』登場の悲運な武将:妹尾兼康供養塔。ここより東方へ徒歩15-20分程度(1.5キロ)のところに位置する吉備中山の一角に大納言藤原成親(鹿ケ谷の謀議で有木別所に配流となった公卿、途中で暗殺され、そ)の供養塔がある
I)大阪適塾・緒方洪庵生誕地@足守藩士
ネット上にころがっている文献類
段煕麟 (タン・ヒリン)『渡来人の遺跡を歩く 2 (山陽編)』、六興出版、1986 第七章に福山市山南地区の新良貴氏を上げているが、これは明らかな間違い。わたしの理解ではこの家はもともとは毛利氏家臣白木氏で、後年同族神を祀った天王社神主だという意識から苗字の漢字表記を白木→新良貴へ変更しただけのもの。豪族賀陽(かや)氏は朝鮮・加耶国出身の渡来人系氏族。三善氏自身も公卿にまで登り詰めるがその出自は百済系&漢族系渡来人(所功『三善清行』1-3頁)。
②岡山県/広島県などの鉄地名についてはこちら(慎重に吟味が必要な?な情報も含まれているがある程度参考にはなる)。例えば足守村大字上足守の金床山、大井村鍜治屋山・・・。

郷土史家永山卯三郎氏による岡山県の条里遺跡調査報告(昭和3年)についてはこちら
『栢寺廃寺緊急発掘調査報告』、岡山県教育委員会、1979
永山氏作成賀陽郡条里図は正しく『服部郷図』中の条里情報を現地比定(松永史談会作成図)
④その他、備中国賀陽郡足守郷関係@国会図書館の文献類に関してはこちら

新納泉, 久野修義ほか『「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討』、2003-2007年度文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「地理情報システムを用いた歴史的地域景観復元のための技術的検討」研究成果中間報告書 備中国賀陽郡服部郷図の再検討 「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討 : 科学研究費補助金特定領域研究研究成果中間報告、2007(結論的に言えば類例のチェックが不十分なのか、国衙膝下条里に関する基本的理解に問題あり)
歴史・文化局面の参考資料;
関連記事a
関連記事b
関連記事c

メモ)
〇国学者契沖(1640-1701)『万葉代匠記』:実証的学問法を確立した『万葉集』の注釈書。『名所研究』は学習不要。歴史考証法は大学者・契沖の場合は馬屋原重帯(1762- 1836)辺りよりもこじ付け感が少なく説得的。本居宣長・契沖の学問の作法は相応に古色蒼然としているが、大家らしく、頭のてっぺんから指先まで手抜きなし⇒『万葉代匠記』巻4に関し、楊静芳、2014東芸大博士論文、151頁脚注。〇本居宣長(1730-1801)全集1(『玉勝間』)、本居宣長全集別巻1(17,8歳時の『都考抜書』・『事彙覚書』、『万葉集』と『源氏物語』関係の答問集、青年期の国書の写し:学習法と学習態度)⇒考証学のスタイル把握

物語論
コメント

松永史談会10月例会のご案内

2024年10月01日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会10月例会のご案内

開催日時及び場所:10月25日 午前10-12時。「蔵」二階
話題「沼隈郡今津村式内社高諸神社考-由来記の創作とその時代背景-



「偽史言説(0r fakelore)としての「式内高諸神社」@福山市今津町」(2021-12-07 執筆)を市民雑誌掲載論攷用に更新する。これまでは➊剣大明神については松永潮崎神社(旧松永・剣大明神)同様、本来中世の新庄つるぎ浦(現在の福山市柳津町内)の産土神を勧請したものであること(市民雑誌『尾道文化』41、2023に「毛利氏の『海の御用商人』尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つるぎ浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描-」として掲載済)、➋今津村の剣大明神の境内地はもともとは中世寺院金剛寺(本尊:如意輪観音)及びこれと習合する形で存在した厳島弁財天社地であり、元禄検地以前のある段階(おそらくは毛利輝元~福島正則時代)に金剛寺を廃寺化し、これらを上書きする形で「剣大明神」境内地が前掲の新庄つるぎ浦の産土神を勧請する形で新造されたらしいことを明らかにしてきた(松永史談会2022年5月例会)。❸10月例会では1718年以後備後福山藩内に京都・堀川学派(伊藤仁斎/1627-1705の次男:伊藤梅宇が福山藩儒として着任)流の古学が興隆していたことを念頭に、伊藤梅宇(1683-1745)とは同門の並河誠所(1668-1738)の畿内における式内社号標識建立活動に着目し、そういう江戸時代中期の時代思潮の中で制作された伊藤梅宇撰文「今津剣大明神縁起」(『福山志料』・『沼隈郡誌』)や宮原直倁(1702-1776)『備陽六郡志』所収関連史料の追加検討を試みる
参考文献
関連記事
参考まで
重森三玲(1896-1975)『日本庭園歴覧辞典』、東京堂、1974内の高諸神社の記事(一部石垣用に利用されているが、重森はなんでもない社寺境内の巨石にたいても安直に磐座と断定する傾向がみられる人だが、高諸神社境内を捉えて、「日本有数の巨大な磐境」だと:基本的に牽強付会・こじつけ談義)。
【メモ】『福山志料』は並河誠所の編纂書(『大和志』)を引用/参考文献に入れている。

【メモ】向村九音『創られた由緒-近世大和国諸社と在地神道家-』、‎ 勉誠社(勉誠出版) (2021/6/30)に今出河一友(一七〇〇年前後に大和国諸社の由緒 記を述作した在地の神道家)偽作の『石上布留神宮略抄』の中で「下級神職」田井庄司村公の祖先が云々という文言に言及(はじめに4ページ、35-59頁)。これは「田盛庄司安邦」と類似の話。社寺の建物を増改築するときには藩提出の文書の中に、社寺の由緒を記す必要があり、そういうものがまったく無かった今津剣大明神の場合はいろいろ架空の話を在地神道家などに頼んで創作する必要に迫られていた感じだ。そういう事情の中でここは神道家の間では常套的手法とも言えた「田盛庄司安邦」のいう架空の人名を出現させる措置が採られたと考えるのが妥当だろう。今津剣大明神の神主家の場合はこの人物を白鳳期の人物としていた。

田盛庄司安邦という名称はおそらく剣大明神神主の河本四郎左衛門が上方からやってきた神道家からもらい受けた下級神職(百姓神主)の一種のタイトルだった判る。これを先祖に持ってきたのが田盛庄司安邦61世孫を名乗ることになる、事情を知らない河本四郎左衛門眉旨(むねなが)だった。60代目が自分の親の河本和義(ちかよし)。この時期には田盛庄司安邦60世孫というタイトルは不在なので、万事(偽史言説の発信に関するすべてのこと)は河本四郎左衛門の時代に始まったと考えてよいのだろうと思われる。神社の由緒と神主家系それを同時に創作するというのが在地神道家今出河一友らのやり方だった。
コメント

お墓参り-福山市寺町界隈編-

2024年09月14日 | 断想および雑談
数日後に予定している史料調査の予備作業として福山寺町界隈(洞林寺・賢忠寺大念寺一心寺)で罰が当らぬように掃苔家よろしく謹んでお墓参りをしてきた。


鈴木宜山(すずきぎざん、1772-1834、福山藩儒医、菅茶山らと『福山志料』編纂、著書に『備後府志』)、墓誌の撰文は浪速・篠崎小竹

北条霞亭(夫人・敬さんの墓は菅茶山墓地内)の養嗣子である悔堂(1808-1865)。松永村の高橋西山らと交流。北条悔堂夫人・由嘉さんの墓は神辺・菅茶山墓地にある。北条悔堂は幼名を新助と云い、福山河村玄漢と福山高橋孫右衛門女の間の子。北条悔堂の実母は離縁して松永・機織屋昌吉と再婚し、松永へ。機織屋岩井昌吉の親は機織屋要助(お墓は松永下之町・法林寺墓地に在った、現在今津善正寺本堂裏手、竹原屋高橋家墓地の隣に移設)。

賢忠寺の旧福山藩主水野勝成墓地→場所はこちら

福山藩家老・下宮氏の墓石@大念寺。最古の墓石は寛永・慶安期の五輪塔。天明7年建立の石柱型墓石に阿部三郎右衛門倫幸の名前。




一心寺の無縁墓地内に息子「宮原弥左衞門」墓発見(住職夫人の案内を受けた)。この人物の親:宮原直倁(なおゆき)は『備陽六郡志』編纂者。この無縁墓の一角に宮原直倁(1702-1776)墓もあったが、現在は顕彰会の有志の手で一心寺寺門の右手脇に移動。

「無二直翁倁圓居士」:宮原直倁墓 柱石の高さは58センチ。宮原直倁は高須杉原氏関係文書の紹介、沼隈郡松永村剣大明神及び承天寺/本庄氏そして同郡今津村剣大明神に関かんする文書史料及び伝聞情報の採訪面でなかなかユニークな能力を発揮した。ただし、虚実混淆居士であることは歴史考証家馬屋原重帯と同類。メインは内篇(廻村時に必要な奉行所役人用藩領内諸村情報集成)で、ここを起点として外編が制作されている。この外編は貴重な情報を含んでいるが、惜しいことに言及領域が部分的である。特筆すべき点としては奉行所役人としての知見もちりばめつつ詳細な地理・歴史データを収録した点だ。自筆本の現存初巻末に目次整理した江木鰐水が付記あり。大正7年に『備陽六郡志』を福山・義倉に寄贈した子孫の宮原国雄氏東町=城東地区洞林寺/大念寺境内西側の士長屋敷「中町西側」出身で明治7年生まれの予備陸軍中将(昭和3年段階、「廣島縣士族宮原龜太の弟にして明治七年七月を以て生れ同二十六年家督を相續す同二十九年陸軍士官學校を卒業し陸軍工兵少尉に任じ大正十年陸軍少將に陞進す其間陸軍砲工學校教官鐵道聯隊大隊長工兵第二大隊長陸軍省軍務局課長陸軍技術審査部々員陸軍技術會議々員陸軍砲工學校教官佐世保要塞司令官等を歷補し同十五年陸軍中將に親任陸軍砲工學校長に補せられ昭和二年九月豫備役となる」)


写真らしい一枚を入れておこう(洞林寺・・・この寺は福山城下・寺町建設時に沼隈郡神村から移転)。本日の予備作業所要時間は行き帰り時間を含めて150分だった。



コメント

久々に『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社

2024年09月07日 | 断想および雑談
馬部隆弘さんの対談を掲載していたので、ふと昔懐かし青土社の雑誌をみかけ図書館より借りだして見た。

これまでは高島平三郎『心理漫筆』、開発社、明治31年を通じて沼隈郡神村の鬼火伝説(「ややの火」)を、同様の話題は得能正通編纂『備後叢書』所収の馬屋原重帯編著『西備名区』にも収録されている。この手の話題は相も変わらず面白おかしく庶民の読書空間の中で飛び交っている(。一応断っておくが、この鬼火伝説(「ややの火」)は得能正通が『西備名区』を『備後叢書』編集刊行する段階にわざわざ記載ヵ所を変更し沼隈郡神村・和田屋石井又兵衛+関係の妖怪伝説としてハイライト化している。それを『沼隈郡誌』は踏襲。それに対して、妖怪を迷信として処理した高島の場合はそういう扱い方をしていない)。
嘯雲嶋業調製 万延元(1860)年「備後国名勝巡覧大絵図」記載の妖怪屋敷(『稲生物怪録』)などは江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花(「草迷宮」)、折口信夫が、そして最近では漫画家水木しげるらが作品化。
この大絵図には三原沖に出現するという「タクロウ火」も記載している。今川了俊『道行きぶり』にも鵜飼いの燈火のように見えると言う形で、三原ー本郷辺りの話題として深夜兵士達のもつ松明なのか否かは不明だが、水面に浮かぶ火の言及をしていた。宮原直倁は海辺の村の慣行として「イサリ」(漁り火のイサリヵ:深夜燈火をもって魚・カニを取る)に言及していた。これと関係するかどうかはわからぬが、私の幼少期には明治生まれの老人が行う夜中にカーバイドランプをもって魚取りに行く「風習」(風習ではなく伝統漁法?)が干潟の発達した松永湾岸には残っていた(『福山志料』上巻、巻1風俗に鯛網・イサリの記事、イサリは端午の早朝に神様にお供えするということで干潟の発達した海浜の村々で手火をもって行う漁法、この手火は幾千となく離合集散して動くさまを遠望していると”スコブル壮観”だと)。
わたしがGeosophie研究の一環としてこのところ取り組んでいるのが虚実混淆居士馬屋原重帯の人文学の在り方についてだ。『西備名区』は偽書ではないが、彼が生きた時代特有のドクサを相当に含んでいる。生活世界次元で言えば、馬屋原重帯は平田篤胤-椿井政隆らとは地続きのところに位置づけられると思うが、私の場合は勿論馬屋原に対して馬部隆弘氏が試みたような思想史的背景を視野に入れながらの椿井政隆=偽書・偽文書制作業者論(付随的に並河誠所の式内社考証批判など)や坂田聡氏らに学びつつも、それとは違った位相で捉え直していくことになろう。


これから『偽書の世界-雑誌、ユリイカ2020-12』、青土社を専門分野に関係なくざっと目を通してみるが、執筆者達の学問的境地の違い、学問研究上のセンスや研究の進展度の違いからか中身は玉石混淆だ。この手の雑誌類には昔ほど期待してないが参考になる部分があればラッキーだと思う。


関連ブログ①
関連記事②
偽史言説(非公開)→「創られた由緒」という形では例えば坂田聡 『古文書の伝来と歴史の創造-由緒論から読み解く山国文書の世界』2020
向村九音(サキムラ チカネ )『創られた由緒 : 近世大和国諸社と在地神道家』、勉誠社、2021など。同傾向の研究事例としては近年は枚挙にいとまがない。
【メモ】粗雑な歴史考証結果を一切合切取り込んだ形のと言う面では馬屋原の『西備名区』と共通する教部省編『特選神名牒』
コメント

松永史談会8月/9月例会のご案内-第3報-

2024年08月01日 | 松永史談会関係 告知板
9月例会は9月27日開催 場所・開催時刻は8月例会に準じる。 話題は来年度市民雑誌投稿予定論攷(投稿済み)を念頭に宮原直倁(なおゆき、1702~1776年、『備陽六郡志』内篇に限っていえば、藩領を統計数値的に把握可能な形で過不足なく再構成した宝永8年村明細帳集成(宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』の類本)。研究篇でもある外篇は当時の歴史考証の在り方を反映して『西備名区』に負けず劣らず概ね近世文学風に虚実混交)及び『福山藩風俗問状答書』同様に、外形的には『大明一統志』の体裁や儒教的規範意識を注入しつつ、藩領の地歷的全体像をコンパクトにスケッチすることを心掛けた菅茶山(1748-1827、時代的知の限界を内包した作品でもある『福山志料』の歴史考証の在り方について言及予定)らの古地誌研究らの特徴やその学知的水準について引き続き検討していく。なお、9月例会は本年3月例会:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯(1762-1836)の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)の続編という位置づけのもので、そこを基点とする。これまでも部分的には触れてきた事柄だが①長州藩の「地下上申」・「防長風土注進案」、藝州藩の『芸藩通志』及びその元資料となった各種国郡志下調べ帳、②福山藩士宮原直倁(なおゆき、1702~1776年)が元文末年(1740年頃)より30余年に亘り記した『備陽六郡志』、福山藩の『備後郡村誌』などを射程に入れたGeosophy(インドネシア・フローレス島民の生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知・・・無論、問題は社会人類学領域ではなく、近世国学の流布領域)面からの解説を試みていく。
関連記事➊:松永史談会7月例会村明細帳類の構築主義的吟味
関連記事➋・・・原論的部分(昨今は、個別具体例の例示中心で、自らのよって立つ場の認識論的な地平)の論理化に関しては無自覚な研究者が多い訳だが、そういう中でそれへ向けて一歩踏み出しつつある(未確認)書物史料学者若尾政希さんの論攷
馬屋原重帯『西備名区』については松永史談会令和6年3月例会において論評済み。 【参考文献】
和田英松(1865-1937)『芸備の学者』、東京明治書院、1929。
伊藤梅宇(1683-1745)『見聞談叢』、岩波文庫、1996。1738年 梅宇56歳頃に執筆か。この梅宇の名前は『備陽六郡志』にも何カ所か登場。宮原の古学のセンスは新任の藩儒伊藤梅宇(1718年に来福)らによって磨かれたのかも・・・。『見聞談叢』294話「楠公碑」・・明から亡命した朱舜水(1600-1682)を寛文(1665)5年水戸藩主徳川光圀が自藩に招聘、大日本史編纂や水戸学に影響を与えたとされる。梅宇はこの元禄4(1691)年に建立された本碑の碑文を詳細に紹介し、その撰文が舜水によったと。尊王思想家菅茶山が後年この碑文を漢詩に詠んでいる。なお、伊藤梅宇の墓誌は『福山志料』巻⒒所収。梅宇の兄:伊藤東涯『制度通』は日中の比較政治論書。
浜本鶴賓(1883-1950)『福山藩の文人誌』、児島書店、1988。本書は昭和7-9年度の福山学生会雑誌掲載論攷「弘道館と誠之館」などをまとめて一書としたもの。伊藤梅宇・宮原直倁らの概略を記す。
並河誠所(1668-1738)『五畿内志』1736。並河は伊藤梅宇の父・伊藤仁斎門下。『五畿内志』に関しては白井哲哉『日本地誌編纂史研究』第三章が言及(関連史料の紹介分析に終始)。なお、井上智勝馬部隆弘らによると、古代中国の皇帝の日本での等価物として古代の天皇を措定し、「法」と「制」とが混乱する契機となった保元の乱(1156-1159)以前の古代日本における「制」の中で機能していた式内社の祭祀こそが当時実現されていた我が国の理想社会を復活させるに当たっての必要条件として捉え、並河は研究上の重要課題として式内社の特定作業を推進。こうした動きの中での副産物として彼自身の手による式内社を巡る偽史言説が大量生産された。宮原『備陽六郡志』には式内社に関する言及は不在だが、分郡下岩成村庄屋久五郎家伝来文書の中で、高須杉原氏の「萬暦12(1584)年朝鮮渡海之節船印」(正しくはいわゆる日明貿易船旗)とか山鹿遠忠宛「備後国高洲庄地頭職」補任状写や山鹿孫三郎宛備後国高諸社地頭職補任状写などを発見し、それらを『備陽六郡志』の中で紹介している。
天保10(1839)年「芸備郡要集」(『廿日市町史』史料編Ⅱ、47-103頁) 菅茶山『福山志料』は若き藩主阿部正桓用教科書中の一冊(分類では政治書)であったが、『備陽六郡志』の方は地方書(じかたしょ=地方役人あるいは村役人などによる農民支配のための規範書,総合手引書という性格をもつ文献)としての要件性をどの程度持っているのか、その辺りの吟味が必要(勝矢倫生『福山藩地方書の研究』、清文堂、2015。貴重な成果だが、参考にならず)。

【メモ】菅茶山編『福山藩風俗問状答書』は一見するとよく出来た風俗調査集成だが、ここでは宝永8年村明細帳[この集成版が宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌』、これを要領よく再構成したのが宮原『備陽6郡志』内篇)記載の「六郡山田畑一升積」に記載された藩政村の地理的立地環境の差異(例えば芦田郡藤尾村:山9合・田畑1合に対して沼隈郡山波村:山3合・海6合・田畑1合)、沼隈郡柳津村の場合は明和3年村明細帳に山3合、田畑2合、海5合程]などを活用する形での今日の民俗学が注目するような住民の生業に着目した藩領内の風俗を俯瞰したものではない(ならば菅茶山の編集方針は?物珍しい風習/特化係数の大なものを中心につまみ食い的にピックアップ)。『芸藩通志』の編者:菅杏坪の場合も芸藩の風俗はなべて同じようなものだという感覚で捉えていた。

松永史談会8月例会のご案内

開催日時 8月30日→9月06日 午前10-12
場所 蔵2階
 台風10号の県内上陸が予想されるため8月例会は1週間後の9月06日(金曜日)に順延
話題:続『早熟型の文化人武井節庵(1821-1859)のその後』
次年度の市民雑誌投稿を念頭においた話題提供となる。
【メモ】「武井節庵」で検索すれば松永史談会のこれまでの研究成果(公表版)に辿り着ける。


武井節庵に部分的に言及しかつ松永史談会が除外した観点(日本漢文学)については、 ①参考資料:合山 林太郎( 慶應義塾大学)「集団形成と古典知の継承を視座とする近代日本漢文学の研究―政治家の作品を中心に―」幕末・明治期の漢文学の研究(合山 林太郎)・・・。明治期に入ると急速に旧態依然の典型として衰退の一途を辿る日本漢文学であったが、そういう現実にめもくれず合山は武井節案と交流の在った河野鉄兜(時事に触れたり、亡児を悼むなどの内容を持つ、変化に富んだ遊仙詩を制作)・阪谷朗蘆(西洋文明の流入を感じながらも阪谷の官僚としての世俗的営為と近接する風流文事に言及)の漢詩文学の特質にも言及。 ②参考資料:管説日本漢文學史略~授業用備忘録~(大東文化大学) ❸河野夢吉・武井節庵(ともに松永に滞在経験のある漢詩人)を含め大沼枕山との交友関係については『枕山詩鈔』が参考になるが、そこからもれた情報については以下の文献(第三部「天保十四年大沼枕山詩稿翻刻」合山林太郎編 下写真書 255-292頁)が若干補ってくれる。

コメント

松永史談会から近所の幼稚園への夏の贈り物

2024年07月27日 | 松永史談会関係 告知板
タキイ種苗の「紅まくら」というスイカを今年は本日近所の幼稚園(140人分)へプレゼント。平均14キロ程度のジャンボスイカで総重量はどのくらいになるのか・・・。


令和6年度スイカ収穫期間は7月19日~10月4&10日。最後のスイカはいずれもラグビーボール大(タキイ種苗:秀山種@沖)、少し、旱魃の影響受けていたが、普通に甘かった。この日サツマイモ(紅はるか種、5月1日定植)を試堀(10月12日収穫)。
コメント

松永史談会7月例会のご案内

2024年06月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内

開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所    蔵2階

話題  宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について



松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には野村兼太郎編著『村明細帳の研究』, 昭和二十四年七月, 有斐閣發行とは異なり、中山氏の場合は村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相を懇切丁寧にうきぼりにしたもの(それ自体は有用)。ただ、中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想≠歴史意識が色濃く反映されているという『芸藩通志』は対象=藩領を)どういう切り口で構築(再構成or 再編成)するツールだったのかといった構築主義的な側面からの掘り下げ(=切り返し)、最後の一踏み込みが不足・・・『芸藩通志』中の「革田」の扱い方が賴杏坪の思想の反映だと中山氏は考えているが、彼らに対する差別的扱い方に関しては(五代藩主浅野)吉長公御代記巻22下、享保11年/『新修広島市史・第七巻 資料編2』、200頁の「革田に対する触書」を見れば明らかなように、朱子学的racistであったとしても、賴の場合広島藩の従来方針を単に踏襲しただけ)の在り方や菅茶山『福山志料』(藩主用政治書)を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
【メモ】
参考文献 野村兼太郎編著『村明細帳の研究』、有斐閣、昭和24→見かけ上は千頁を超える厚冊だが、大半は関東地方の村明細帳を翻刻した史料編で本文編は151頁。この方面の研究の古典。
書評:三橋時雄が雑誌「社会経済史」16(1) 1950、141~143頁に書いたもの
野村の視点は村落住民の身分的区別、村の負担、肥料問題、山野入会権の問題、農村人口、農間稼と農間余業、農民の食糧などの諸側面から村落生活の実態や貨幣経済の浸透度合いをチェックする。村明細帳自体は領主側が各村々の貢租その他の公課・村高・家数人口・牛馬数・普請場・米印地などを報告させたもので、農村の負担能力を判定する意図があって、それに対して村々側の答申は「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったと野村は指摘。
村明細帳を近世地誌の一種として捉える有元正雄・中山富広の場合はそういった深読みはなし。中山氏の場合はこれらは領主側からの指示で提出された村の概要報告(村勢調査)であって、今日の市町村要覧のような自発性のある資料との違いを指摘するも「常に負担大にして生産能力はこれに及ばないことを示す」傾向が強かったといった類いの支配者ー被支配者間の「立場性(positonality)の差異」を強調するような視点は不在(これは暫定的記述→慎重な検討予定)。中山氏の場合頼 祺一の学説(『近世後期朱子学派の研究 』、渓水社、1986、237-283頁,本書は600頁のうち論攷部分は前半300頁、残余は賴春水の在阪期書簡の翻刻もの)を受容する形で『芸藩通志』についてやや安直に賴杏坪流朱子学思想に紐付けた説明を行っている。
古文書調査記録40集「宝永8年 差出帳の用語解説 上巻」、福山城博物館友の会、2023.ここでの差出帳理解は有元正雄によるもの。
コメント