高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている
そのひとつは高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている。私が購入したのはその第一、二編だが、『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)によれば、これは大正十二年に各定価二円、二十二編が出されたとある。実はこの発行者が他ならぬ近田澄で、甲子出版社の住所は神田区表神保町一番地となっている。この住所は三星社、三陽堂、東光社と同じであるので、甲子出版社もまたこれらの出版社の別名と見なせるだろう。
全集叢書総覧新訂版
また奥付には近田と甲子出版社に加えて、大正十二年八月「版権譲渡」、同十三年五月発行、定価一円八十銭と記され、B6判の判型は同じだとしても、前述の発行年と定価とは異なっている。とすれば、これらは大正十三年版と見なすべきなのだろうか。
編者の高島平三郎は明治、大正期の児童心理学者で、学習院や日本女子大などの教授を歴任しているが、田中英夫が『洛陽堂雑記』で詳細に追跡しているように、洛陽堂の河本亀之助の恩師であり、洛陽堂が明治四十三年創刊の『白樺』の発行所となったのは、学習院に在職し、洛陽堂の顧問的立場にあった高島との関係からだとされている。しかし大正文学史において、著名な出版社の洛陽堂にしても、その隆盛は長く続かず、大正六年に『白樺』の発行から手を引いた頃から苦境に陥り、『白樺』を含めた在庫を古本屋に放出する事態に追いこまれ、同九年に河本は亡くなっている。その後しばらく河本の弟が古本屋を営みながら、洛陽堂を継続させたという。これらのことについては私も「洛陽堂河本亀之助」(「古本屋散策」95、『日本古書通信』)10年2月号所収)で既述している。
以上全文引用
わたしの関連記事・・・・ゴーストライターとして生活費稼ぎに明け暮れた高橋淡水。有名人だった高島平三郎には、『精神修養逸話の泉』シリーズを40歳過ぎですでに沢山の修養書(修養史伝)関係の著書のあった高橋淡水との共著形式にするくらいの度量が欲しかった。高橋淡水1872-1922に関してはこれまで折に触れ紹介してきた通り、沼隈郡松永村出身の史伝小説家(調査中)。
そのひとつは高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている。私が購入したのはその第一、二編だが、『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)によれば、これは大正十二年に各定価二円、二十二編が出されたとある。実はこの発行者が他ならぬ近田澄で、甲子出版社の住所は神田区表神保町一番地となっている。この住所は三星社、三陽堂、東光社と同じであるので、甲子出版社もまたこれらの出版社の別名と見なせるだろう。
全集叢書総覧新訂版
また奥付には近田と甲子出版社に加えて、大正十二年八月「版権譲渡」、同十三年五月発行、定価一円八十銭と記され、B6判の判型は同じだとしても、前述の発行年と定価とは異なっている。とすれば、これらは大正十三年版と見なすべきなのだろうか。
編者の高島平三郎は明治、大正期の児童心理学者で、学習院や日本女子大などの教授を歴任しているが、田中英夫が『洛陽堂雑記』で詳細に追跡しているように、洛陽堂の河本亀之助の恩師であり、洛陽堂が明治四十三年創刊の『白樺』の発行所となったのは、学習院に在職し、洛陽堂の顧問的立場にあった高島との関係からだとされている。しかし大正文学史において、著名な出版社の洛陽堂にしても、その隆盛は長く続かず、大正六年に『白樺』の発行から手を引いた頃から苦境に陥り、『白樺』を含めた在庫を古本屋に放出する事態に追いこまれ、同九年に河本は亡くなっている。その後しばらく河本の弟が古本屋を営みながら、洛陽堂を継続させたという。これらのことについては私も「洛陽堂河本亀之助」(「古本屋散策」95、『日本古書通信』)10年2月号所収)で既述している。
以上全文引用
わたしの関連記事・・・・ゴーストライターとして生活費稼ぎに明け暮れた高橋淡水。有名人だった高島平三郎には、『精神修養逸話の泉』シリーズを40歳過ぎですでに沢山の修養書(修養史伝)関係の著書のあった高橋淡水との共著形式にするくらいの度量が欲しかった。高橋淡水1872-1922に関してはこれまで折に触れ紹介してきた通り、沼隈郡松永村出身の史伝小説家(調査中)。