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松永史談会11月例会のご案内

2024年10月28日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会11月例会のご案内

開催日時 11月29日 午前10-12時
場所    蔵
話題  備中国の国司/備中介だった、延喜期の代表的学者官僚三善清行(842-918)『善家秘記』中の例えば(A)「(買官によって備前小目/しょうさかん=備前国司の下級官吏となっていた)良藤の話」とそれを説話文学化した『今昔物語集』巻16の第17話(B)「備中國賀陽良藤、為狐夫得観音助語」)等を手掛かりにPolitics-Poetics(文化政治論:「元禄赤穂事件」⇔文化詩論:人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』と)の両面及び「三善清行意見封事十二箇条」/『結眼文』/『藤原保則伝』より三善清行(平安中期の漢学者/日本人)の思惟の在り方を探る。

これまでの研究では大曾根章介が(A)/(B)に関してはA=歴史性(記録性)、B=(勧懲教訓の色彩の強い)文芸性という機軸(次元)の中でテクスト解釈してきた(大曾根章介❾、1974)。
これまで松永史談会で言及してきた備中平野の主な史跡↓ 備中国府は893-897年三善清行(御年47-51歳)がそこのトップ(=官長、肩書きは備中介)として勤務したところ。
平安期には「おこ絵」(平安時代以降盛んに行われた滑稽味のある題材を風刺的に描いた戯画→『鳥獣戯画』など)やヲコ(嗚滸=滑稽,馬鹿)表現を動員して人を笑わせ楽しませる文学(柳田国男のいう「嗚滸の文学」、ex.『今昔物語集』)が流行。川口久雄の表現を借りると『将門記』の登場に見られるように、これらの作品群の中からは、中国古典から受容した「古風な儒教主義のモラルにしばられた凝固した人間」やそうした枠内からはみ出すような自由な文学的感性への共鳴/共感が伺えるようだ。『藤原保則伝』では受領階級のこの人物の行政手腕[強権的な住民に過重な負担を強いるやり方:苛政を排して、仁政・義にかなった方策採用→「百姓和ぎ楽しべる(61頁)」形で民心掌握、東北地方の蝦夷反乱を鎮定するには硬軟両様の方法を駆使;「義方をもてし、示すに威信をもてして、わが徳音を幡し、(反乱軍側の)野心を変ぜば尺兵を用いずとも」66頁かれらの平定が可能。以後陸奥権守として民夷雑居を実現し、この地方を田地膏腴に、土産の生ずる、珍貨多端、68頁)なところにした]という形で高く評価。学者官僚三善清行の意識の根底には「官位の階段」という物差しが準備されていて、(当然自分のことを含めて)官人の業績はそれに報いる形でその階段の中で適正に処理されるべきだと考えていた。こういうところに三善清行における思惟の在り方の一端(ある種の「因果応報」観、西欧での「報奨/reward)」や「賞賛/recognition」意識)が顔を覗かせていた訳だ。


【引用参考文献】

矢作武「三善清行の方法 -藤原保則伝考-」、早稲田大学国文学研究巻 50, p. 50-57, 発行日 1973-06-01⇒大曽根章介氏(「街談巷説と才学」、『国文学-解釈と教材研究-』17 (11), 102-109頁、學燈社、1972)等と同様に日中比較文学研究の立場から我が国王朝前期漢文学作品の漢籍に典拠を持つ事例紹介。この種の研究は枚挙にいとまが無いようだが、例えば井黒佳穂子氏は前述の『善家秘記』や『今昔物語集』巻16の第17話(「備中國賀陽良藤、為狐夫得観音助語」)等も漢籍の影響を少なからず受けていると指摘(井黒「『日本霊異記』上巻第二縁と『任氏伝』」、専修国文 (76) 1-20頁、 2005年1月 )。
なお、矢作武「三善清行「詰眼文」考 (上/下)」上:国文学研究 44, p. 92-98, 1971-06-25、下:早稲田大学・国文学研究 45 18-24, 1971-10。
『詰眼文』(心と眼とが擬人化され,心の神と目の神とが問答する対話体の興味深い戯文、ここでは心の神が老衰して低下した視力の眼の神=処世術が劣り貧乏暮らしを強いられた学究型の人間/三善清行自身を詰める、ある程度自嘲じみた諧謔的小話。『本朝文粋』所収詩文自体にもそういう傾向が指摘されているが、本書所収の平安中期の代表的学者官僚の一人藤原明衡の文章などには長年の沈淪した境遇を嘆く暗い色調が強いとされる)の筆者名は善居逸(三善清行の筆名)。
❿延喜14年(914年)醍醐天皇に提出した政治意見書:三善清行意見封事十二箇条(所功『三善清行』、吉川弘文館、人物叢書、平成元年、41-70頁(第四 備中転出)・・「備中介としての経験を踏まえて、崩れつつある律令制の実態を述べ、主に地方政治と官人・学生処遇の改善を求めたが、もはや朝廷に国政改革の意志はなく、意見の大部分は採用されなかった」)→⑫所功『三善清行の遺文集成 』、2018、方丈堂出版(三善清行の略歴、及び所収された本文・訓読及び全体的な要旨)及び所功『三善清行』(155-186)頁が「三善清行意見封事十二箇条」の紹介/解説。後者については山岸徳平 [ほか] 校注『古代政治社會思想』、岩波、59-101頁(藤原保則伝/三善清行 [著] ;大曽根章介校注、及び意見十二箇条 / 三善清行 [著] ; 竹内理三校注)が便利。
これまでの研究では三善を平安中期における改革派官僚という捉え方が希薄。
川口久雄『三善清行の文学と意見封事』、金沢大学法文学部論集. 文学篇巻 5, p. 1-15, 発行日 1958-01-20。川口には大著『平安朝日本漢文学史の研究 上・中・下』三訂版、明治書院など。
平安期の漢文学研究者(大曾根章介・矢作武ら)や比較文学者(川口久雄ら)は『本朝文粋』所載の平安時代の漢文学作品の中にある種の剽窃(ひょうせつ=パクリ)ものを含めて、中国の古典の翻案もの(adapted novel)化した多数の事例を抽出。前掲『古代政治社会思想』中の大曾根章介分担分補注は同氏の最大の関心事であった類似表現の中国書からの発見作業結果中心。
以下、ネット上で「三善清行 論文」を検索し、ヒットした論攷類。
藤原時平の陰謀政治に加担し、菅原道真の左遷の口実を作ったとの説もある三善清行だが、三善清行研究者だった所功の菅原道真考
小林健彦「『今昔物語集』に見る霊鬼 ―学識と道理」、融合 (33) 21-28 2022年3月31日
菅近晋平「〈稲生物怪〉譚の受容と創造」(広島大学大学院二十七年度修士論文)の第一部第二章「〈稲生物怪〉譚の生成」論叢 国語教育学 12 号、2016-07-31 発行


森幸安『寛延3/1750年中古京師内外地図』(歴史考証図)中に記載された平安中期の三善清行邸第2箇所(五条堀川東入、五条天神西隣の「三善清行亭」&所功氏の考証による「岡崎の善法三昧院」)
神護寺領足守庄延寿寺(政所)
神護寺領足守庄延寿寺(政所)遺構‥発掘データは後掲C)「岡山県埋蔵文化財調査報告222、2009、9-46頁」

 なお、近世の国学と系譜的につながった明治の地理歴史研究さながらに読史地図作成を目標におき、口を開けば「自然と人間の関係」という時代遅れの自然主義的お題目を唱え続ける素朴な歴史地理学談義にならないよう心掛けたい。

説話の舞台となった備中国足守郷一帯の環境・歴史局面の参考資料;
A)平安末期(1169年)の京都神護寺領足守庄絵図(荘園発足時の古絵図)
〔裱背押紙〕
  嘉応元年十二月 日
       庄官
       田所
              (臣)
       案主散位賀陽朝□
       下司散位藤原朝臣
      国使
       田所橘朝臣(花押)
       案主散位弓削(花押)
             (朝臣)
       官人散位藤原□□(花押)
      御使
       左弁官史生紀(花押)

B) 足守庄(足守幼稚園)関連遺跡発掘調査報告,1994
C)足守庄関連(延寿寺跡・倉ヶ市遺跡・下土田遺跡)の文化財発掘調査報告2009
D)備中国賀陽郡服部郷における条里坪付(松永史談会作成図)
E)権勢を誇った賀陽吉藤一族の氏寺であったと思われる栢(かや)寺廃寺跡@総社市南溝手、古郡里にあったと推定されている賀夜郡家は吉藤の兄がそこの大領/役所のトップの座を占めていた。条里坪付状況から見た「服部郷図」中の「畠寺」と栢寺廃寺跡との位置関係(松永史談会作成図)
F) 高重進『古代・中世の耕地と集落』、大明堂、1975、213-249頁(初出「中世農村の復原-服部郷図による農業経営の分析-」史学研究73、1959に一部加筆し、「平野部『遺制郷』における中世村落の実態-備中国服部郷の場合-」と改題)・・・備中国服部郷研究の古典
G)前田徹「備中国賀夜郡服部郷の開発」、地方史研究281(49巻5号)、1999、71-90頁。備中国庁膝下での話題だが、前田論文の当否はここでは一端保留。とりあえず筆者指摘の郷図記載の名呼称が室町中期の在庁官人の「吉久」氏という苗字の形で確認できるという点、つまり苗字や小字としての福留・延広等が古代中世における仮名起源らしいということの具体的な手がかりが提示されたこの部分限定で参照(注29)。
H)十二ヶ郷用水の建設者としても地元民から崇められる『平家物語』登場の悲運な武将:妹尾兼康供養塔。ここより東方へ徒歩15-20分程度(1.5キロ)のところに位置する吉備中山の一角に大納言藤原成親(鹿ケ谷の謀議で有木別所に配流となった公卿、途中で暗殺され、そ)の供養塔がある
I)大阪適塾・緒方洪庵生誕地@足守藩士
ネット上にころがっている文献類
段煕麟 (タン・ヒリン)『渡来人の遺跡を歩く 2 (山陽編)』、六興出版、1986 第七章に福山市山南地区の新良貴氏を上げているが、これは明らかな間違い。わたしの理解ではこの家はもともとは毛利氏家臣白木氏で、後年同族神を祀った天王社神主だという意識から苗字の漢字表記を白木→新良貴へ変更しただけのもの。豪族賀陽(かや)氏は朝鮮・加耶国出身の渡来人系氏族。三善氏自身も公卿にまで登り詰めるがその出自は百済系&漢族系渡来人(所功『三善清行』1-3頁)。
②岡山県/広島県などの鉄地名についてはこちら(慎重に吟味が必要な?な情報も含まれているがある程度参考にはなる)。例えば足守村大字上足守の金床山、大井村鍜治屋山・・・。
郷土史家永山卯三郎氏による岡山県の条里遺跡調査報告(昭和3年)についてはこちら
『栢寺廃寺緊急発掘調査報告』、岡山県教育委員会、1979
永山氏作成賀陽郡条里図は正しく『服部郷図』中の条里情報を現地比定(松永史談会作成図)
④その他、備中国賀陽郡足守郷関係@国会図書館の文献類に関してはこちら

新納泉, 久野修義ほか『「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討』、2003-2007年度文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「地理情報システムを用いた歴史的地域景観復元のための技術的検討」研究成果中間報告書 備中国賀陽郡服部郷図の再検討 「備中国賀陽郡服部郷図」の再検討 : 科学研究費補助金特定領域研究研究成果中間報告、2007
歴史・文化局面の参考資料;
関連記事a
関連記事b
関連記事c

メモ)
〇国学者契沖(1640-1701)『万葉代匠記』:実証的学問法を確立した『万葉集』の注釈書。『名所研究』は学習不要。歴史考証法は大学者・契沖の場合は馬屋原重帯(1762- 1836)辺りよりもこじ付け感が少なく説得的。本居宣長・契沖の学問の作法は大家らしく、頭のてっぺんから指先まで手抜きなし⇒『万葉代匠記』巻4に関し、楊静芳、2014東芸大博士論文、151頁脚注。〇本居宣長(1730-1801)全集1(『玉勝間』)、本居宣長全集別巻1(17,8歳時の『都考抜書』・『事彙覚書』、『万葉集』と『源氏物語』関係の答問集、青年期の国書の写し:学習法と学習態度)⇒考証学のスタイル把握

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