松永史談会12月例会のご案内
開催日時 12月20日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵
話題:11月例会に引き続き、今回は次年度市民雑誌投稿論攷の解説➋(文化文政期の松永村地並絵図に描かれた沼隈郡松永村像)・・・Microstoria/ミクロストリア(単なるケーススタディーではなく、史料的細部の精緻な分析を通じて、「小さな場所で大きな問い」を立てようとする類のイタリアのカルロ・ギンズブルクらが提起した歴史研究における一つの野心的試み)第二弾ということになります。
松永史談会 次年度1月例会のご案内
開催日時 1月24日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵
2025年1月例会は次年度市民雑誌投稿論攷の解説❸・・・馬屋原重帯&菅茶山を引き合いに出しつつ彼らのGeographical lore(ここでは江戸時代に流行した前科学的自然観に根差す虚実ない交ぜの地理/歴史研究を指す)の探究を行います。
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話題:「高島平三郎氏(1865-1946)の人となり」と題して、明治前半期に県内の神村・松永・金見小学校(校長)で教鞭をとり、東京に転居後は我が国の近代的体育教育の基本理念(心と身の鍛錬)の構築と心理学を土台とした青少年教育の普及発展に多大の貢献をした大先生。この後年富士川游(我が国における医学史研究の泰斗)氏らと在京広島県人会の活動や旧福山藩出身の学生の育英に尽力をした人物の人物像(足跡を辿る)について解説していく。
福山市神村町須江に立つ高島平三郎先生敬慕碑(丸山鶴吉氏撰文)と勤務校・神村小学校須江分校址(いつも清掃され、きれいだ)。同様な記念碑が金江町観音堂の元金見小学校跡にもある。昭和10年頃の郷土研究が奨励された時代の産物。

高島平三郎・岩谷小波抜きに宮沢賢治の存在もなかったし、高島氏は大正期に三越創業者の日比翁助らとダッグを組んで子供博覧会(子供を商業文化の対象に据える)を企画するなど新しいトレンドを作っていった。高島氏が誠之舎(旧福山藩江戸丸山屋敷/文京区西片、東京大学キャンパス前の一角に作られた旧福山藩出身者用学生寮)舎長になったのもそうだけれとも内務官僚丸山鶴吉氏や東京帝大医科教授だった思想家永井潜の存在を抜きに語ることはできない。
参考サイト:これまでに集めた高島平三郎氏関係の文献資料(2014年までに収集した高島の著書類、現在は収集活動は休止)
ティーンエイジャー時代(明治16-18年)の高島氏の消息に言及
高島平三郎氏の業績を紹介した心理學史関係文献
高島平三郎『体育原理』育英舎、明治37・・画期的な体育学の教科書だと評価。
高島平三郎氏の文筆家としての特徴とその限界。
注)高島平三郎氏は戦時中の軍国主義的膨張政策の政策用語「八紘一宇」を唱えた 田中智学(日蓮宗)と共同行動をとり、また丸山氏は終戦直前の大政翼賛会事務総長をさせられた経緯がある。作家の田辺聖子氏、ノーベル賞学者利根川進氏らは明治期の向都離福型福山出身者の子孫たちだが、前者はこてこての浪速女、後者はほぼ日系アメリカ人である。彼らと違って高島-丸山氏らは郷党意識の旺盛だった向都離福者一世。
永井潜年譜
断種法制定の保守主義者永井潜,当該法制定に理解を示したフェミニスト平塚らいてうと永井とを結びつけた「高島平三郎」。
The Geographical Lore Of The Time Of The Crusades
by John Kirtland Wright、1925.
「穴の海」談:母なる川「芦田川」との共生〜第1回講演会(福山大学・国文学:青木美保さん)・・・・井伏文学を念頭においた講話だが、こういう漫談はダメ!
開催日時 12月20日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵
話題:11月例会に引き続き、今回は次年度市民雑誌投稿論攷の解説➋(文化文政期の松永村地並絵図に描かれた沼隈郡松永村像)・・・Microstoria/ミクロストリア(単なるケーススタディーではなく、史料的細部の精緻な分析を通じて、「小さな場所で大きな問い」を立てようとする類のイタリアのカルロ・ギンズブルクらが提起した歴史研究における一つの野心的試み)第二弾ということになります。
松永史談会 次年度1月例会のご案内
開催日時 1月24日 金曜日 10-12時
開催場所 蔵
2025年1月例会は次年度市民雑誌投稿論攷の解説❸・・・馬屋原重帯&菅茶山を引き合いに出しつつ彼らのGeographical lore(ここでは江戸時代に流行した前科学的自然観に根差す虚実ない交ぜの地理/歴史研究を指す)の探究を行います。
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話題:「高島平三郎氏(1865-1946)の人となり」と題して、明治前半期に県内の神村・松永・金見小学校(校長)で教鞭をとり、東京に転居後は我が国の近代的体育教育の基本理念(心と身の鍛錬)の構築と心理学を土台とした青少年教育の普及発展に多大の貢献をした大先生。この後年富士川游(我が国における医学史研究の泰斗)氏らと在京広島県人会の活動や旧福山藩出身の学生の育英に尽力をした人物の人物像(足跡を辿る)について解説していく。
福山市神村町須江に立つ高島平三郎先生敬慕碑(丸山鶴吉氏撰文)と勤務校・神村小学校須江分校址(いつも清掃され、きれいだ)。同様な記念碑が金江町観音堂の元金見小学校跡にもある。昭和10年頃の郷土研究が奨励された時代の産物。

高島平三郎・岩谷小波抜きに宮沢賢治の存在もなかったし、高島氏は大正期に三越創業者の日比翁助らとダッグを組んで子供博覧会(子供を商業文化の対象に据える)を企画するなど新しいトレンドを作っていった。高島氏が誠之舎(旧福山藩江戸丸山屋敷/文京区西片、東京大学キャンパス前の一角に作られた旧福山藩出身者用学生寮)舎長になったのもそうだけれとも内務官僚丸山鶴吉氏や東京帝大医科教授だった思想家永井潜の存在を抜きに語ることはできない。
参考サイト:これまでに集めた高島平三郎氏関係の文献資料(2014年までに収集した高島の著書類、現在は収集活動は休止)
ティーンエイジャー時代(明治16-18年)の高島氏の消息に言及
高島平三郎氏の業績を紹介した心理學史関係文献
高島平三郎『体育原理』育英舎、明治37・・画期的な体育学の教科書だと評価。
高島平三郎氏の文筆家としての特徴とその限界。
注)高島平三郎氏は戦時中の軍国主義的膨張政策の政策用語「八紘一宇」を唱えた 田中智学(日蓮宗)と共同行動をとり、また丸山氏は終戦直前の大政翼賛会事務総長をさせられた経緯がある。作家の田辺聖子氏、ノーベル賞学者利根川進氏らは明治期の向都離福型福山出身者の子孫たちだが、前者はこてこての浪速女、後者はほぼ日系アメリカ人である。彼らと違って高島-丸山氏らは郷党意識の旺盛だった向都離福者一世。
永井潜年譜
断種法制定の保守主義者永井潜,当該法制定に理解を示したフェミニスト平塚らいてうと永井とを結びつけた「高島平三郎」。
The Geographical Lore Of The Time Of The Crusades
by John Kirtland Wright、1925.
「穴の海」談:母なる川「芦田川」との共生〜第1回講演会(福山大学・国文学:青木美保さん)・・・・井伏文学を念頭においた講話だが、こういう漫談はダメ!