日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

死を越えて、わたしたちを導いて行かれる

2013-04-12 | Weblog
 詩48篇 

  15節「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と」(新共同訳)

  2節「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は」。シオンの麗しさの賛歌 内容は46~47篇と一連の詩で神への賛美が歌われる特にエルサレムを神の都として、不落の信仰がアッシリアとの攻防の中で出来上がり、それが後に誤ったエルサレム信仰として形骸化し、正義と公平が失われた信仰に預言者エレミヤは厳しく批判している(エレミヤ7章4節see)。「大いなる主」これを唯一なる神に向けて呼ぶ。歴史の中で働き、歴史を支配する神こそ、誠の大いなる主に、相応しい方である。そして「北の果ての山、シオンの山、力ある王の都」に君臨されるのである(3節)。「北の果て」は異邦の神々の住いであるが、ここでは同一視して主の支配の豊かさを表わす(イザヤ14章13節、エゼキエル38章6節)。
  4節「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される」。46篇で触れたとおり、アシッリア軍襲来を一夜で敗退させた事件(列王記下19章)が考えられている。周辺の王らが「共に進んで来た」(申し合わせて一緒に来て)攻撃をしかけた(5節)。しかしい彼らは恐怖に陥って逃げ去った」(6節)。ここでカイザルの言葉「来た=ヴェニ・見た=ヴィディ・逃げた=ヴィキ」。
  7節「そのとき彼らを捕えたおののきは、産みの苦しみをする女のもだえ」。その恐怖は陣痛の苦しみ(7節)、航行の船舶を破壊する「東風」(8節)と同じである。神の審判が予想されている。
  9節「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た 万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる」。異国の地で住む巡礼者らがエルサレム神殿に詣でて礼拝をささげる。彼は万軍の主の都、神殿にあって思い描くのは神が民と共に結ばれた契約であり、神の慈しみ(ヘセド)であり(10節)、右の御手に溢れている正義(ツェデカー)」であり(11節)、そして華やかに着飾ったユダの乙女ら=ユダの町々の人々が、喜び踊る有様である(12節)。
  13節「シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ」。巡礼者らは、エルサレム神殿で礼拝を捧げ、賛美して帰途につく。家々で迎える者らにその光景を語り伝える。それは「塔の数」であり(13節)、「城壁…城郭」である(14節)。
  15節「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と」。神の都にいます主は「死を越えて」直訳「死の上に」アル・ムット)、わたしたちを永遠に導かれるお方である。
  キリスト者はここで、ヨハネ黙示録21章から復活の主、再臨の主を思い描くことが出来る。