詩54篇
9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」(新共同訳)
1~2節「指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」。表題の出来事はサムエル記上23章19節、26章1節にある。詩52篇と同じで人の悪意により身の危険を感じる者の嘆きの歌。
3節「神よ、御名によって私を救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください」。あなたの名によって救い、あなたの力によって裁き、わたしの祈りを聞き耳を傾けて下さいと求める。どこまでも執拗に真剣にすがる姿勢が伺える。誰に対してか。「あなたの名」は、神の属性が「名」に表されている呼び方。つまり神ご自身が力を持って臨むのである。
5節「異邦の者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」。この場合「異邦人」とはジフ人であるが、ジフはユダの山地を指している(ヨシュア記15章55節)。原文は「見知らぬ人々」(リザーム)で、口語訳「高ぶる者」。「暴虐な者」とは暴君を指し、人々に殺意を抱くサウルであろう。命を狙うことは神の存在を否定する行為となり、神の聖意に背くことになる(出エジプト記20章13節see)。
6節「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」。そこで陥れようとする者に災いを報いてくださいと祈る(7節)。悪には悪を返して下さいという意味である。岩波訳「帰れ、かの悪はわが敵対者に」となっている。「彼らを絶やしてください」は、直訳「あなたの真実(アミテハ-)をもって彼らを滅ぼしてください」。報復を主の真実にゆだねることである。
8節「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します」。ここら信仰の確信に変わる。御名に感謝する。なぜなら苦難から主は常に救い出してくださるからである(9節)。御名を呼んだわたし(3節)は、御名に感謝するのである。
9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」。「わたしの目が敵を支配しますように」は解り難い。これは主が苦難の中から救い出されたわたしの目は、敵がどうなのかを見るという期待と確信を表すものである。口語訳「わたしの目に敵の敗北を見させられたからです」。岩波訳「わが目がわが敵どもを見下ろしたからです」。新改訳「私の目が私の敵をながめるようになったからです」とみな違う訳である。
9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」(新共同訳)
1~2節「指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」。表題の出来事はサムエル記上23章19節、26章1節にある。詩52篇と同じで人の悪意により身の危険を感じる者の嘆きの歌。
3節「神よ、御名によって私を救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください」。あなたの名によって救い、あなたの力によって裁き、わたしの祈りを聞き耳を傾けて下さいと求める。どこまでも執拗に真剣にすがる姿勢が伺える。誰に対してか。「あなたの名」は、神の属性が「名」に表されている呼び方。つまり神ご自身が力を持って臨むのである。
5節「異邦の者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」。この場合「異邦人」とはジフ人であるが、ジフはユダの山地を指している(ヨシュア記15章55節)。原文は「見知らぬ人々」(リザーム)で、口語訳「高ぶる者」。「暴虐な者」とは暴君を指し、人々に殺意を抱くサウルであろう。命を狙うことは神の存在を否定する行為となり、神の聖意に背くことになる(出エジプト記20章13節see)。
6節「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」。そこで陥れようとする者に災いを報いてくださいと祈る(7節)。悪には悪を返して下さいという意味である。岩波訳「帰れ、かの悪はわが敵対者に」となっている。「彼らを絶やしてください」は、直訳「あなたの真実(アミテハ-)をもって彼らを滅ぼしてください」。報復を主の真実にゆだねることである。
8節「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します」。ここら信仰の確信に変わる。御名に感謝する。なぜなら苦難から主は常に救い出してくださるからである(9節)。御名を呼んだわたし(3節)は、御名に感謝するのである。
9節「主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように」。「わたしの目が敵を支配しますように」は解り難い。これは主が苦難の中から救い出されたわたしの目は、敵がどうなのかを見るという期待と確信を表すものである。口語訳「わたしの目に敵の敗北を見させられたからです」。岩波訳「わが目がわが敵どもを見下ろしたからです」。新改訳「私の目が私の敵をながめるようになったからです」とみな違う訳である。