詩60篇
6節「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた」(新共同訳)
3節「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください」。表題(1~2節)はサムエル記下8章13~14節、歴代誌上18章21、25章を参考にしたい。「我らを突き放し…散らされた」は直訳「怒って我らを拒否し、打ち破った」。岩波訳「~突き放し、突き破り憤った」である。神の拒否を受け止めながら、なおそこから回復して下さいと懇願する。詩22篇2節が示される。神の怒りは大地を揺り動かす出来事と同じである(4節・民数記16章31~33節、マタイ福音書27章51節see)。
5節「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ、よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」。「辛苦の酒を飲まされた」直訳「よろめき(毒)のぶどう酒を飲ませた」口語訳「よろめかす酒」、岩波訳「悪酔いの酒」である(出エジプト記1章14節)。。バビロン捕囚の憂き目に遭うことだろうか。あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされた(6節)。ここは翻訳の困難なところのようだ。口語訳では「…あなたを恐れる者のために一つの旗を立てられた」となっている。これは「警告」(ネース)を「軍旗、合図」、「真理」を「弓」と変えて読んでいる。戦場を想定するなら口語訳のほうが判りやすい。
7節「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください」。敗戦が神によるものなら、勝利もまた神によらなければならない。そのためには神が応えてくださり、交わりの回復が必要ですと祈る。
8節「神は聖所から宣言された。『わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう』」。古い時代の預言者のことばで、神からの託宣である。「…ユダはわたしの采配=王の杖・笏」(9節)。「モアブはわたしのたらい=奴隷がたらい岩波訳(湯船)、口語訳(足だらい)」で主人の足を洗う。…エドムにわたしの履物を投げ=奴隷がきれいにするためにわたしの履物を投げる(10節)。本来の意味は履物を脱ぐのは、神が国々を征服しその土地を所有するからである(出エジプト3章5節)
11節「包囲された町に、誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか」。再び現実にもどる。神の審判として敗戦という結果につながった歴史は、バビロン捕囚をはじめ、土師記などに繰返し述べられている。
12節「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」。3節と同じ神の拒否。口語訳「われらの軍勢と共に出て行かれません」。神の前に人の助けや力は無力であり、その救いはむなしいもの(13節)、神は我らに力を振るわれるという(14節)。直訳「神がなされる力によってわたし達は敵を踏みつけます」。
非戦論者であるキリスト者には馴染めない報復のことばが多いが、神がわたし達を拒否されるという事柄から「敗戦」の教訓を学び取る必要がある。今日本が15年戦争の代償として受け取った「平和憲法」が有耶無耶にされようとしている。平和の旗を振って行進する人々から軍靴の音が聞こえてくる。
6節「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた」(新共同訳)
3節「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください」。表題(1~2節)はサムエル記下8章13~14節、歴代誌上18章21、25章を参考にしたい。「我らを突き放し…散らされた」は直訳「怒って我らを拒否し、打ち破った」。岩波訳「~突き放し、突き破り憤った」である。神の拒否を受け止めながら、なおそこから回復して下さいと懇願する。詩22篇2節が示される。神の怒りは大地を揺り動かす出来事と同じである(4節・民数記16章31~33節、マタイ福音書27章51節see)。
5節「あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ、よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた」。「辛苦の酒を飲まされた」直訳「よろめき(毒)のぶどう酒を飲ませた」口語訳「よろめかす酒」、岩波訳「悪酔いの酒」である(出エジプト記1章14節)。。バビロン捕囚の憂き目に遭うことだろうか。あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされた(6節)。ここは翻訳の困難なところのようだ。口語訳では「…あなたを恐れる者のために一つの旗を立てられた」となっている。これは「警告」(ネース)を「軍旗、合図」、「真理」を「弓」と変えて読んでいる。戦場を想定するなら口語訳のほうが判りやすい。
7節「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください」。敗戦が神によるものなら、勝利もまた神によらなければならない。そのためには神が応えてくださり、交わりの回復が必要ですと祈る。
8節「神は聖所から宣言された。『わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう』」。古い時代の預言者のことばで、神からの託宣である。「…ユダはわたしの采配=王の杖・笏」(9節)。「モアブはわたしのたらい=奴隷がたらい岩波訳(湯船)、口語訳(足だらい)」で主人の足を洗う。…エドムにわたしの履物を投げ=奴隷がきれいにするためにわたしの履物を投げる(10節)。本来の意味は履物を脱ぐのは、神が国々を征服しその土地を所有するからである(出エジプト3章5節)
11節「包囲された町に、誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか」。再び現実にもどる。神の審判として敗戦という結果につながった歴史は、バビロン捕囚をはじめ、土師記などに繰返し述べられている。
12節「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは我らと共に出陣してくださらないのか」。3節と同じ神の拒否。口語訳「われらの軍勢と共に出て行かれません」。神の前に人の助けや力は無力であり、その救いはむなしいもの(13節)、神は我らに力を振るわれるという(14節)。直訳「神がなされる力によってわたし達は敵を踏みつけます」。
非戦論者であるキリスト者には馴染めない報復のことばが多いが、神がわたし達を拒否されるという事柄から「敗戦」の教訓を学び取る必要がある。今日本が15年戦争の代償として受け取った「平和憲法」が有耶無耶にされようとしている。平和の旗を振って行進する人々から軍靴の音が聞こえてくる。