日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の御言葉を賛美します

2013-04-22 | Weblog
  詩56篇 

  5節「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」(新共同訳)

  2節「神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ」。表題(1節)に「遥かな沈黙の鳩」とあるが、歌の調子の呼び名といわれる。サムエル記上21章10~15節に関わる嘆きの歌。恵みの神に訴える。絶えず戦いを挑む敵はわたしを踏みにじって、陥れようとする。「踏みにじられ」は「押し潰す、踏み付ける」である。そのような時にあなたに依り頼むだけです(3~4節)。
  5節「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」直面している事態からは賛美きるようではないが、神を信頼し、正当な裁定を先取りする時恐れを消し去るのである。賛美は勝利の力である(歴代誌下20章21~22節see)。11~12節にリフレインとして出てくる。「肉にすぎない者」、直訳「肉」(ヴァサル)、神と対比し、絶対的な優位性を告白する。
  6節「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り」2~3節と同じ外敵。彼らは猟師が獲物を狙うように、待ち構えて争いを起こし命を奪おうと後を伺っている(7節)。「後を伺う」直訳「踵(かかと)を見張る」。「足元を見ている」ということである。。しかし彼らが頼るのは偶像に過ぎない(8節)。
  9節「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」。「わたしの嘆き」直訳「わたしの流浪」(ノディ) 岩波訳「わたしの放浪」口語訳「わたしのさすらい」。「~革袋」(ノデーハ)と語呂合わせになっている。新共同訳はこの語呂合わせから「流浪」を「嘆き」と訳して「涙を革袋に入れる」という比喩的解釈をしているのである。これはダビデの放浪生活を指している。「数える」、「蓄える」は苦難の経験が長いことを表す。
  10節「神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」神を呼んで戦う時、神はわたしの味方だと知って、敵は退却することになる。「神はわたしの味方だ」、岩波訳「神は私のものだ」。そこで再び5節と同様に神の御言葉の素晴らしさをほめたたえるのである(11~12節)。もはや人(アダム)はわたしに何をなしえようという。勝利の確信である。これはローマの手紙8章31節、へブライ人への手紙13章6節に引用されている
  14節「あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に、神の御前を歩かせてくださいます」。救いの御業を歌う。ここには三つの救いがある。第1は魂の救い、第2にわたしの足を救い(身体の救い、そして第3は命の光の中に歩かせてくださる(日々=生涯の救い)