日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

屠るための羊と見なされています

2013-04-08 | Weblog
  詩44篇 

  22節「我らはあなたゆえに、絶えることなく 殺される者となり 屠るための羊と見なされています」(新共同訳)

  1~2節「指揮者によって。コラの子の詩。マスキール。神よ、我らはこの耳で聞いています 先祖が我らに語り伝えたことを 先祖の時代、いにしえの日に、あなたが成し遂げられた御業を」。本詩の時代背景は、バビロン捕囚後の近い頃と考えられる。その状況は、民の苦難と辱めの中から、神による解放と勝利を嘆願する内容になっている。ここから国を憂い執り成す祈りの姿勢を学ぶことができる。「先祖が我らに語り伝えたこと」とは、出エジプトの出来事を指し、それは信仰の原点でもあった。過去の出来事を根拠にして現在の苦境からの解放を願うのである。
  4節「先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも 自分の腕の力によって勝利を得たのでもなくあなたの右の御手、あなたの御腕 あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした」。カナンに侵入して嗣業の地を得たのも自分たちでは無く、あなたが、あなたの手、あなたの腕で勝利して得たこと。だから今その勝利を得させて下さいと嘆願する(5節)。立ち向かってくる敵をあなたの名によって踏みつけてください、自分の弓や剣では救われない、彼らを辱めるのは、ただあなただけですという(6~8節)。そうすれば我らは絶えず神を賛美し、感謝をささげる(9節)。
  10節「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず~」。しかし、何故神は我らを見放なされるのですかと問い掛ける。ここでバビロン捕囚という苦境の現実に目を向ける時、住みなれた地から敗走して、辱めと略奪と嘲りの的となり、ののしりの声が降りかかっていると訴える(11~17節)。
  18節「これらのことがすべてふりかかってもなお、我らは決してあなたを忘れることなく、あなたとの契約をむなしいものとせず~」。裏切る(原語=退く)ことをせず、あなたの道(原語=小道)からそれなかった(19節)。神の聖名を忘れて異教の神に向かって手をのべることは無いが、なおあなたはそれを探りだされる(21~22節)。わたし達は屠られるために殺される羊のように見なされている(23節)。神の助けから見放されるような原因があるなら、それを神は明らかになされる筈だというのである。23節は、ローマの信徒への手紙8章36節に引用されている。
  24節「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく、目覚めてください」。「奮い立ってください~」は意訳で直訳目覚め給え、わが主よ、なぜあなたは眠っている」、更に「目覚め給え、突き放ち給うな~」で目覚め給え、と繰り返している。見放さないで下さいという切望である。十字架上の主イエスの祈りに共通している(マタイ福音書27章46節)。詩59篇5~6節にもある。
  キリスト者として、困難のどん底からの叫びを神に向けることが出来るだろうかが問われる詩である。

光とまことを遣わしてください

2013-04-06 | Weblog
 詩43篇 

  3節「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き 聖なる山、あなたのいますところに わたしを伴ってくれるでしょう」(新共同訳)

  1節「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者 よこしまな者から救ってください」。本篇に表題がないこと、42篇と内容的に繰返し部分が共通している点から、二つの詩篇は連続したものとして扱われる。詩の背景は、エルサレム巡礼の行列と音楽を奏でる者が伺われ(4節)、捕囚により異国の地から都エルサレムを待望している。神の慈しみも知らず、欺きとよこしまな異邦の民に囲まれているこの境遇から救い出して下さるようにと切望する。
  2節「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ行き来するのか」。なぜあなたに見放されわたしは顔を暗くし迫害の中歩き回らねばならないのか。
  3節「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き 聖なる山、あなたのいますところに わたしを伴ってくれるでしょう」。あなたの光と真実を御使いのように遣わして、わたしをあなたの聖なる山、あなたの住いに連れて行って下さいと祈る。そうなれば、私は神の祭壇に向かって歓喜し、竪琴をもって感謝します(4節)
  5節「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」。「わたしの魂よ~」。42篇12節と同じで、賛美の中のリフレインである。「なぜうなだれるのか」=自問自答 魂が空になる程に思いを集中する。そして神の御顔を仰いで祈り、「わたしの救いの神よ」と告白する。


思い起こす、喜び歌い感謝をささげる声

2013-04-05 | Weblog
  詩42篇 

  5節「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを」(新共同訳)

  1節「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」。43篇に表題が無いことと、6節、12節と、43篇5節に同じ繰り返しがある処から、この二つは連続した詩とみなされる。
  2節「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」。かつてはエルサレム巡礼の行列を導いた音楽を奏でる者であったが(43篇4節)、今は捕囚によりエルサレムと神殿から追放され、異教徒に苦しめられ激しい嘆きの中にある。干上がった川床で鹿が水を求めて喘ぐように、わたしの魂はあなたを慕い喘いでいるという。
  3節「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか」。エルサレムの神殿に詣でて主を賛美する日を待ち望むわたしには、涙は昼も夜もパンのようであり、お前の神は何処にいるのかと人々の嘲笑が聞こえてくる(4節)。わが上に魂を注ぎ出して私は思い起こす。それは喜びと感謝の声を聞きながら神の家まで祭りを祝う群衆の中を通り過ぎることである(5節)。岩波訳「祭りを祝う群衆の歓呼と讃えの声の中」である。「心を注ぎ出す」は魂が空になる程に思いを集中することである。
  6節「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と」。前述の通り12節、43篇5節で繰り返される。「うなだれるのか」、岩波訳「くずおれる」。「呻くのか」、口語訳「思い乱れるのか」。しかしなお、神の御顔の救いを仰いで、神に感謝する(7節)。
  8節「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」。ヘルモンとミザルの山頂から雪溶けの水が激流となってヨルダン川に注ぐ光景を思い描き、その轟きに神の声を聞き取ろうとしている。大水の轟は苦難を象徴している。昼は激流の中に神の慈しみを読み取り、夜はその轟の中に神への賛美を感じ取って心を注いで祈るのである(9節)。そこに不動の「岩なる神」が見えてくる(10節)。
  詩篇には、神への切なる待望と祈りの信仰が示される。
  ①過去に与えられた神の御業を思い起こす(5節)
  ②命の神を慕い求めて、祈りに心を注ぐ(2~3節)。
  ③そして神を待望する(6、12節)
  ④祈りが応えられたと確信して、神への感謝の賛美を捧げる(43章:4節)。