この言葉を知ったのは、
もう10年くらい前になると思う。
Yahooの知恵袋で見つけたんだった。
骨髄移植だったか、提供を決めかねている人の相談に、
移植を受けた人がアドバイスをしていた。
その人は、運良くドナーが見つかって、
生きることができた人。
けれど、ドナーが見つからない人、
見つかったけれど最終的に断られた人、
そうして亡くなった知り合いがたくさんいたそうで。
そんな中、彼女の主治医が言った。
ヒトは病気で死ぬんじゃない。
寿命で死ぬのです。
と。
私たちは何故か、
老衰するまで生きていられるという前提でいる。
だからその前に病気や事故にあって死ぬと、
奪われた!
もっと生きられるはずだった!
と憤る。
本当にそうなのか?
それが寿命だったのではない、となぜ言い切れるのか?
そんな確信は、実は存在しない。
もっと生きられたはず、というのは幻に過ぎない。
生まれ方と死に方は選べない。
選べるのは、
どう生きるか?だけ。
新型コロナが憎い、という発言を見て、
違和感があるのは私だけじゃなかった。
じゃあ何なら良かったの?
と問うてる人がいて、
老衰以外は認めないって変じゃない?
と言う人もいて、
もし私が新型コロナで死んだら、
悲しんで泣いてもいいけど、
可哀想とは思わないで、と言う人がいて、
そうそうそう。
私もそう思った。
もしも私が新型コロナで死んでも、
それが寿命だったと受け入れてほしい。
それまでの生を堪能したんだと受け止めてほしい。
残された子どもが可哀想じゃない?と訊かれるけれど、
私は心配はしていない。
私が皆に愛されて守られてきたように、
息子も皆に愛されて守られて生きていけると分かっているから。
それに本人が気付くかどうか、だけ。
残念ながら、
それだけは他人がなんとかできる問題じゃないからね。