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北京での日々は??

12月8日について

2013-12-08 22:49:29 | Weblog
こんな記事を見つけた!!

集まった精鋭は競い合うように訓練に励み、約半年後に出撃が決まる。回天初陣は昭和19年11月8日、南洋のウルシー、パラオ方面だった。

出撃が決まると、最後の別れに2、3泊だけ故郷に帰ることが許された。

突然の帰郷に家族は喜び、できる限り好物を食卓に並べ、たくましくなった息子を歓待する。極秘作戦であり、「これから死にます」ともいえない隊員は最期の団欒(だんらん)を心の底から楽しんだ様子が日記に書かれている。

重要な任務で秘密であるから話さないというよりは、家族を悲しませたくないという思いの方が強かったのだろう。

出撃の朝、見送りの仲間に別れを告げ、湾内に停泊している回天を搭載している潜水艦に乗り込む。「出航」の合図とともに、「帽振れ」に送られ、白煙を残し潜水艦が出航。潜水艦内でも回天の隊員は最上級の寝床を与えられた。

残された家族や仲間のために日記や遺書を書く隊員も多かった。

 「お母(かあ)さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。しかしお母さん。考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好だった母さんが死なれるから私が行くのですよ。 

母さん。今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。

だからね。お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です」

回天の特攻隊は終戦までに計1375人が訓練を受け、145人が戦死した。



作家の横山秀夫さんの小説「出口のない海」
未だ未読なり!


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