All Japan

北京での日々は??

郊外へ

2009-01-03 09:38:43 | Weblog
元旦以来晴天の東京です。
昨日2日は気分転換も兼ねて郊外へ。
首都高速から中央高速へと走り始めたのはいいのですが、上り車線のあまりの混雑様に恐れをなし、予定変更、府中のインターで下りて近郊のドライブにしました。
武蔵野の面影をあちこちに残す多磨霊園周辺、いろんな事柄が頭の中を横切っていきます。懐かしい気分、あるいはかつて歩いた、走った場所を通過しつつ一体何を思い出していたんでしょうね?
この辺りに確か「ASIJ」がありました。今でもあるのでしょうか?
週に何回かは忘れましたが、大学の講義が終わると電車を乗り継いで通ったものです。(ASIJ:アメリカンスクールのことです。)
大学生もいれば、社会人もいました。その中で今でも強烈に思い出すのは確か横河電機の方々でしたが(お二人とも慶応の工学部卒)、あれは夏の頃だったのでしょうか?ボーナスが年間12ヶ月あると言う話を聞いて本当にびっくりしたのを思い出します。あとのお一人はサントリーの方で当時府中にあったサントリーの工場でビール開発に取り組んでいた方です。とてもまじめなおとなしいエンジニアだった記憶があります。その後サントリーのビールが世の中で華々しくデビューするわけですが、いつもこの方を思い出します。
先生も素敵な方でした。二世のかたでハワイ出身の小柄な女性でした。Ms Nakamura、残念ながらファーストネームは思い出すことが出来ません。この先生がある時、多摩線のことをここの生徒たちは「BULLET LINE」と呼んでいると聞かされました。まさかその先に多磨霊園があるからとまでは考えていなかったのでしょうね。
でも、同じようにかつて青山周辺を走っていたと都電の停留所名もこのような妙な名前でした。青山一丁目、青山墓地まえ、墓地下、霞町。徐々に霧のように消えていくのですよね。

さて、このクラスからは本当に勇気をもらったと思っています。
後々、就職し、また英国で生活していた時、この時の様々なことがあったから歩み続けることが出来たのだと思っているからです

さて府中は学生時代の4年間を過ごした場所。決して明るい思い出ばかりではなく苦難の日々を過ごした場所でもあります。
「チボー家の人々」を思いだします。あの頃の鈴木君は元気かな
構内に入ろうとしたのですが正門も案内板にあった駐車場のほうも施錠されており、進入不可。仕方なく、正門に駐車し、秘密の入り口から
専門時代の教室がある建物は昔のまま、相変わらずロッカーが乱雑に置かれ扉も何だかそのままの感じ。いっぺんにタイムスリップ。当事の教官たちとすれ違うのではないかとドキドキ。
キャンパスの裏側に広がる農園はきれいに整備されていましたが、かつての演習林は姿もなく、幻を追い求めていました。実景は無くともその姿は鮮明に思い出されます
馬術部の溜まり場もきれいな建物に変わりそのそばを通り抜け教養時代の講義棟を訪ねたのですが、すっかり他の建物に変わっていました。
でも、小さな池とテニスコート、それと教養時代の教官たちがいた建物は何となく残っている様子。遠くでサッカーに興じる声が聞こえてきます。ひと時の思い出。
時計台は昔のまま。背の高い欅の並木の向こうに小さく夕方の西日を浴びてそのままの姿でそびえて?いました
ひと時のセンチメンタルジャーニー


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